ニック・ドワイヤーのドキュメンタリーシリーズDiggin’ in the Cartsが公開されたのは2014年。だいたい2010年代なかばから、ビデオゲームのサウンドトラック=ゲーム音楽を「ゲーム」や「音楽」の下位概念というよりもそれ自体を豊かな文化として評価していく言説が増えていく。1日本でもゲーム音楽にフォーカスした書籍が増えていくのがこのくらいのタイミングだと思う。『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命』が書かれたのは、そうした過渡期といえるだろう。
しかし、ハードウェア的な制限をふまえたうえで、オーソドックスな楽理分析によって近藤浩治の作家性を浮き彫りにしていくところが本書のおもしろいところのように思う。その点では、ゲーム作曲家のニール・ボールドウィンとの対談が印象的だ。そこでは、「西洋」の技術的トリックを駆使したスタイルと対比されるかたちで、近藤の、クラシカルな対位法やハーモニーの手法に裏付けられた洗練が評価される(pp.50-51)。この対談を通じて、シャルトマンは「スーパーマリオブラザーズ」の音楽に「転用可能性」――特定のハードウェアにとどまらず、さまざまなメディアに転用 transfer されていくポテンシャル――を見出す。
デラーのおそらく最も有名な作品は、1980年代サッチャー政権下で起こった炭鉱労働者によるストライキにおける警官隊との衝突を再演 re-enact した《オーグリーヴの戦い The Battle of Orgreave》(2001年)だろう。イギリスには歴史的事件を当時のコスチュームなどに身を包んで再演する催しが文化として根付いていて、その愛好家やコミュニティが存在する(日本でも戦国時代とかの合戦を再現するお祭りとかあるけど、あれが草の根的に愛好家がいるみたいな感じか)。当時ストライキに参加した元炭鉱労働者に加えて、そうした愛好家たちを巻き込みながら、比較的近過去(なにしろ当事者はまだ存命である)をあたかも重大な歴史的事件のごとく再演していく。その様子は資料や記録を交えたインスタレーションや、ドキュメンタリーフィルムとして公開された。
デラーのアプローチは、《オーグリーヴの戦い》のように、イギリスのオーセンティックとされる歴史に近過去や現在をどのように結びつけるか? ということに要約できるように思う。そこにしばしばポップ・カルチャーが参照されるのも特徴的だ。初期の代表作である《世界の歴史 The History of the World》(1997-2004)は「アシッド・ハウス」と「ブラス・バンド」という一見つながりがなさそうなふたつの音楽を、様々な概念や社会・政治的な出来事をブリコラージュしてマッピングし、「実はこのふたつの音楽はつながっているのだ!」と主張するドローイング。ここから発展してデラーは《アシッド・ブラス Acid Brass》(1997-)というプロジェクトを実現させる。
この作品がすごく好きで、ぱっと聴いただけでも面白いし、全然ちがう二つの文脈がぶつかることで、あたかも孤立した、ないしは特定のナラティヴに囚われた文化にまた別の光が当たるのがすごく面白い(その意味では、ウィリアム・モリスとアンディ・ウォーホルを世紀と大西洋をまたいで並置しその類似点を探った《愛さえあれば Love Is Enough》(2015)も面白い。社会主義者と資本主義の権化が似通うとは)。
しかしもっとも印象的なのは、第一次世界大戦のソンムの戦いから100年のメモリアルとして企画された作品《ここにいるからここにいる We’re here because we’re here》(2016)だろう。イギリス中の街なかに、第一次世界大戦の戦士の紛争をした人々が突然あらわれる。かれらは特になにをするでもないが、話しかけたりアプローチした人にはソンムの戦いで戦死した人の名前が刻まれたカードが配られる。パフォーマンスは最終的に、「蛍の光(Auld Lang Syne)」のフシで“We’re here because we’re here…”と合唱して、絶叫して終わる。