コンテンツへスキップ →

タグ: book review

書評:松本直美『ミュージック・ヒストリオグラフィー どうしてこうなった?音楽の歴史』(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2023)

この記事にはアフィリエイトリンクが含まれます。

Amazon商品ページはこちら

西洋音楽史の本は硬軟さまざま出版されているけれども、本書『ミュージック・ヒストリオグラフィー どうしてこうなった?音楽の歴史』は「そもそも音楽の歴史はどのように編まれ、書かれてきたのか?」にフォーカスすることで、音楽史という分野のおもしろさと奇妙さを紹介するちょっと捻った一冊。なにを取り上げ、なにを割愛するか? といった出来事や人物、作品の取捨選択にとどまらず、音楽史においてさまざまな方法論が試みられ、乗り越えられ、更新され、いまなおダイナミックに変化をしつづけていることが伝わってくる。

扱われるトピックは多彩で、第一部では「肖像画」「伝記」「年表」というキーワードを軸に「どのような動機で、いかにして音楽史は書かれはじめたか」を解説。第二部では音楽史そのものが迎えた変遷や、いわゆる「名曲」群がどのように形成されてきたかを批判的に検証。第三部では音楽史が現代にはいってどのように変化してきたか、そしてどのような変化を目指しているかが語られる。

それぞれ興味深い話が多いけれど、第11・12章でのこれまでの音楽史の批判的乗り越え(音楽史が抱える西洋/東洋、ジェンダー、人種問題に関する課題にどのように向き合っていくか、グローバリゼーション以降の音楽史とは、等々)をめぐる話はやはり興味深いし、クラシックに興味ありません~みたいな人でも示唆を受ける記述は多いだろう。

とりわけ音楽について書く人にとって、「なんのために、どのように」歴史を書くのか、つまり音楽を語る方法をめぐる西洋音楽史の蓄積を知ることは非常に重要だろう。結局、ロック以降の音楽ジャーナリズムと根本的な課題はそこまで変わらんやん。と思ったり。「肖像」や「伝記的逸話」を専門的な記述の代替として音楽を勝ち付ける道具とするとか、まあポップ・ミュージックのジャーナリズムとさほど変わらんな、とか。

一方で、ポップ・ミュージックにおいてしばしば影響関係を示す「ファミリーツリー」が描かれるのを踏まえると、「はじめに」ほかで指摘される、西洋音楽史は「「鎖」として繋がっているかどうかもわからない事例を取り上げつつ、そこから「一貫した一つの物語」を編み出さなければならないという二律背反」を抱えているという点は、地味に重要な気がする。1

そうした共通点と差異を踏まえながら読むのが一番おもしろくて身になるんでなかろうか。と思うけれど、単純に読み物としても面白い。ただ、「親しみやすさ」をつくるためのささいなレトリックがちょっとノイズに感じられたりもして、内容の面白さで押し切ってもぜんぜんいいのに……と少し残念な気持ちにも。

  1. こうした「アーティストや作品を誰々の系譜に位置づける」という発想は、歴史意識を内面化した近代以降の芸術によくあるところがあり、ポップ・ミュージックに固有というよりは、そうした近代的な芸術観の転用みたいな側面が強いのではないかと思っている。ポップはいまだ生き延びる「モダン」なのではないか。 ↩︎
コメントする

書評:アンドリュー・シャルトマン著/樋口武志訳『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』(DU BOOKS、2023年)

この記事にはアフィリエイトリンクが含まれます。

アンドリュー・シャルトマン著/樋口武志訳『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』(DU BOOKS、2023年)

原著はBloomsburyの名物シリーズ《33 1/3》から2015年に刊行されたKoji Kondo’s Super Mario Bros. Soundtrackで、その全訳となる。

数々の「名盤」を一枚ずつ取り上げる《33 1/3》はちょくちょく(その適度な短さとフォーマットのキャッチーさゆえに)翻訳され紹介されてきた。日本への紹介がもっとも成功した例のひとつが、ジム・フジーリによる『ペット・サウンズ』だろう。村上春樹が訳し、新潮文庫入りもしている。ほかにも、近年ではフェイス・A・ペニック著/押野素子訳『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』が2021年に出ているし、カニエ・ウェストのMBDTFとかJディラのDonutsの本が出ていたりする。

《33 1/3》のラインナップを眺めると、「こ、ここにスーパーマリオブラザーズが!?」という気持ちになってくる。じっさい、この本は、このシリーズに8bitのゲーム音楽が含まれることに対する疑念への応答から始まっている。シャルトマンいわく、「私の主張はただひとつ。近藤の「スーパーマリオブラザーズ」の楽曲は、名作アルバムの数々と同じように、知的な分析対象として充分に値するということだ」(p.vi)。それを示すためにこの小さな本は書かれているわけだ。

ニック・ドワイヤーのドキュメンタリーシリーズDiggin’ in the Cartsが公開されたのは2014年。だいたい2010年代なかばから、ビデオゲームのサウンドトラック=ゲーム音楽を「ゲーム」や「音楽」の下位概念というよりもそれ自体を豊かな文化として評価していく言説が増えていく。1日本でもゲーム音楽にフォーカスした書籍が増えていくのがこのくらいのタイミングだと思う。『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命』が書かれたのは、そうした過渡期といえるだろう。

この本が面白いのは、執筆しているのがクラシックを専門とする音楽学者で、ゲームとかエレクトロニクスの専門家というわけではないということだ。

もちろんテクニカルな解説もしっかり抑えてあり、ゲームのサウンドトラックという表現の特性がどのようなユニークさにつながっているかも詳しく解説されている。レコードや楽譜に刻み込まれた静的な「作品」ではなく、プレイヤーとの相互作用によって体験されるサウンドの面白さに着目するゆえに、作中でマリオの動きに添えられる効果音にも分析は及ぶ。そこでジョージ・レイコフの認知言語学の知見を援用していることも、ゲーム音楽の身体性を論じるための道具立ての工夫として興味深い。

しかし、ハードウェア的な制限をふまえたうえで、オーソドックスな楽理分析によって近藤浩治の作家性を浮き彫りにしていくところが本書のおもしろいところのように思う。その点では、ゲーム作曲家のニール・ボールドウィンとの対談が印象的だ。そこでは、「西洋」の技術的トリックを駆使したスタイルと対比されるかたちで、近藤の、クラシカルな対位法やハーモニーの手法に裏付けられた洗練が評価される(pp.50-51)。この対談を通じて、シャルトマンは「スーパーマリオブラザーズ」の音楽に「転用可能性」――特定のハードウェアにとどまらず、さまざまなメディアに転用 transfer されていくポテンシャル――を見出す。

この「転用可能性」は、マリオのBGMがメディアや時代を超えて、視覚的な要素と同じくらいアイコニックに受け入れられていることを考えればかなり重要な指摘に思える。まあ、構造やメロディがしっかりしていると編曲や翻案に対して強いよねっていうくらいの話ではあるのだけれど。

ゲーム音楽は、特に初期のコンピューターゲームやコンシューマーゲームにおいては、使えるチャンネル数や音源の種類が少ない故に「制限の美学」と結び付けられやすいし、またハードウェアの進化がそのまま音楽的な変化と結び付けられやすい。しかし、ゲーム音楽に耳を傾け、それがうまれる現場や、受容される現場をしっかりと検討していくと、そうした「制限」は単にいまの観点から遡及的に押し付けられている限界にすぎないのではないか? という気がしてくる。それは言い過ぎか?

  1. もちろん、それ以前からオーディエンスや作り手はたくさんいたわけだけれど。特に日本のゲーム音楽文化/市場については、OTOTOYで書評を書いた鴫原盛之『ナムコはいかにして世界を変えたのか──ゲーム音楽の誕生』(Pヴァイン、2023年)に詳しいし、田中”hally”治久『チップチューンのすべて All About Chiptune: ゲーム機から生まれた新しい音楽』(誠文堂新光社、2017年)も、ゲーム音楽に密接に関わり、コミュニティ主導で育まれてきた豊かな音楽文化としての「チップチューン」を広い歴史的スコープで語る素晴らしい本。 ↩︎
コメントする

書評:ヤマハ音楽振興会とポプコンについて考えちゃった/萩田光雄『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』リットーミュージック、2018年

この記事にはアフィリエイトリンクを含みます。

Amazon→萩田光雄『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』リットーミュージック、2018年

歌謡曲の時代からJ-POPの時代にいたるまでヒット曲を手掛けてきた編曲家、萩田光雄の自伝+インタビュー&資料等々をまとめた一冊。Kindle Unlimitedにも入っている。名だたるヒット曲の裏側を知ることができるのはもちろん、歌謡曲からJ-POPに至る日本のポップ・ミュージックの姿がどのように形成されてきたかを垣間見ることができる。

おもしろいところはいろいろあるのだけれど、個人的な関心に即していえば、ヤマハ音楽振興会の重要性が萩田光雄や周辺の人びとのキャリア形成のプロセスから見えてくるところだ。日本のポップ・ミュージックをかたちづくった編曲家の多くはヤマハ音楽振興会で学んだり、あるいは仕事をもらったりして腕を磨いてきた。萩田はもちろん、船山基紀や林哲司もヤマハ音楽振興会出身で、ポップスのアレンジのなんたるかはヤマハの仕事で覚えたといっていい。

さまざまなアーティストを輩出してきたポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)だが、その開催にあたっては全国のアマチュアから送られてきた自作曲(しばしば歌詞と歌メロだけ、コードが付されていることもある)を編曲する人材が必要で、萩田光雄はそれに携わることでアレンジを実地で覚えていった。

 この審査用の音源作りでは、私は多くのことを学ばせてもらった。誰かから「こうしてほしい」と言われることもないし、商品ではないので売れるかどうかで評価もされない。気ままに、と言っては申し訳ないが、100%自由にアレンジできたのだ。曲の長さは2コーラスとか決められていたが、テンポは自分の解釈である。イントロももちろん、自分で考えてつけた。今もそうだが、アレンジはキー(調性)とサイズ(長さ)が決まればできるのだ。体当たりではあったが、実践の訓練になったのは間違いないだろう。

 ヤマハには全国に支部があるので、地区ごとに応募がある。恵比寿は財団法人ヤマハ音楽振興会の総本山で、東京の支店は銀座や池袋などにあった。全国の支店ごとに審査があり、支店のグランプリや優秀作品が本選に来るシステムで、私はヤマハ音楽振興会の本部に送られてくる作品を扱っていた。 他にもその仕事をやっている人はいた。あの当時、川村栄二君と一緒だったし、船山基紀君もいたし、林哲司君も出入りしていた。信田かずお君もいたはずだ。あの頃、ポピュラー音楽の専門学校はヤマハだけだったし、私も業界へのとっかかりを見つけるために、ヤマハにたどり着いたんだと思う。

pp.24-25

ほかにも、ジーン・ペイジスタイルのストリングス・アレンジを講師の林雅彦から学んだことが大きな糧になった……等々、こうした証言をまとめていくと日本の(ある時期までの)ポップ・ミュージックのかたちがどう形成されてきたかがよくわかるんだろうな~と思った。

ヤマハ音楽振興会はどうも気になる存在で、特にポプコンまわりのことは調べたいなーと思うのだけれど意外と手頃な資料が見つからない(単行本の一冊でも出てんじゃないかと思ったのだが)。ヤマハの出している「音遊人」という会報でポプコン特集があったらしいとか、ムックが昔でていた(ちなみに今マケプレだとすごいプレミア価格)とか、そのくらい? まあ、いろんな本で取り上げられているから、それらの記述を一箇所にまとめるだけでも面白そうだと思うけど。

ところで、ヤマハの公式サイトでは、ポプコンがこのように紹介されている。いわく、

「音楽の歓びは自分で創り、歌い、そして楽しむことにある」という歌ごころ運動の一環として開催された、アマチュアを対象にしたオリジナル曲発表の祭典です。

ポピュラーソングコンテスト – ヤマハ音楽振興会

ポプコンがはじまったのは1969年、うたごえ運動が盛んだった頃だ。そんなタイミングで「歌ごころ運動」と銘打って、「人々の歌」ではなく「アマチュア=個人による創作」を打ち出すことには、どうも政治的(もしくは脱政治的)なコノテーションを読み込みたくなる。

同時に、1960年代は歌謡曲の世界において専属制度が崩壊しフリーの作り手がつぎつぎ登場した時代であり、そこから1970年代に入るとテレビ局と芸能プロダクションが組んでスターを生み出していく体制が確立されていく。フォークやグループサウンズ、さらにはニューミュージックにつながる動向ももちろん並走している。そこに、レコード会社や芸能プロダクションやマスメディアとは違う、楽器メーカーであるヤマハがどのようにコミットしていったんだろう。というのに割と関心がある。ヤマハのピアノ製造業と音楽教室の関係みたいなのはすでに先行研究が結構あるのだが。ちょっとずつ調べていくけど、なんかいい文献あったら教えてください。

コメントする

書評:ポップ・カルチャーで/の歴史を語りなおすアーティスト、ジェレミー・デラーの活動を網羅した一冊。Jeremy Deller, Art is Magic, London: Cheerio, 2023.

この記事にはアフィリエイトリンクが含まれます。

Amazon→Jeremy Deller, Art is Magic, London: Cheerio, 2023.

イギリスのコンテンポラリー・アートの作家、ジェレミー・デラーの作品集(というかなんというか?)で、本人による自作解説エッセイを豊富な図版と一緒に収めた大型本。デラーは2004年のターナー賞受賞者であり、日本でも結構紹介されている。最近では2021年に岡山県倉敷市にて個展(作品の上映)が行われているし、来年開催される第8回横浜トリエンナーレにも出展が予定されている。

先日ブログで取り上げた山本浩貴『現代美術史――欧米、日本、トランスナショナル』(中公新書、2019)でも、クレア・ビショップの「関係性の美学」批判の流れで紹介されていたりする(そういえば『関係性の美学』の邦訳出るんですってね。10年前、おれの学生時代からずっと邦訳の話があったのが、ついに……)。

本書には主たる作品がおよそ時系列順に網羅されていて、専門家やコラボレーター、親しいアーティストたちとの対談も収録。デラーの着想から実践までをユーモラスに、いきいきと知ることができる。特にデラーは音楽好き、ポップ・カルチャー好きには刺さるアーティストだと思うので、もし知らないという人がいたらチェックしてみてほしい。ここでは本の内容をどうこう言うというよりは、自分の好きなデラーの活動についてつらつら書いて置こうと思う。

デラーのおそらく最も有名な作品は、1980年代サッチャー政権下で起こった炭鉱労働者によるストライキにおける警官隊との衝突を再演 re-enact した《オーグリーヴの戦い The Battle of Orgreave》(2001年)だろう。イギリスには歴史的事件を当時のコスチュームなどに身を包んで再演する催しが文化として根付いていて、その愛好家やコミュニティが存在する(日本でも戦国時代とかの合戦を再現するお祭りとかあるけど、あれが草の根的に愛好家がいるみたいな感じか)。当時ストライキに参加した元炭鉱労働者に加えて、そうした愛好家たちを巻き込みながら、比較的近過去(なにしろ当事者はまだ存命である)をあたかも重大な歴史的事件のごとく再演していく。その様子は資料や記録を交えたインスタレーションや、ドキュメンタリーフィルムとして公開された。

Excerpt: Jeremy Deller & Mike Figgis, The Battle of Orgreave (2001) from Artangel on Vimeo.

デラーのアプローチは、《オーグリーヴの戦い》のように、イギリスのオーセンティックとされる歴史に近過去や現在をどのように結びつけるか? ということに要約できるように思う。そこにしばしばポップ・カルチャーが参照されるのも特徴的だ。初期の代表作である《世界の歴史 The History of the World》(1997-2004)は「アシッド・ハウス」と「ブラス・バンド」という一見つながりがなさそうなふたつの音楽を、様々な概念や社会・政治的な出来事をブリコラージュしてマッピングし、「実はこのふたつの音楽はつながっているのだ!」と主張するドローイング。ここから発展してデラーは《アシッド・ブラス Acid Brass》(1997-)というプロジェクトを実現させる。

ヘルシンキのブラスバンドによる《アシッド・ブラス》の再演。

この作品がすごく好きで、ぱっと聴いただけでも面白いし、全然ちがう二つの文脈がぶつかることで、あたかも孤立した、ないしは特定のナラティヴに囚われた文化にまた別の光が当たるのがすごく面白い(その意味では、ウィリアム・モリスとアンディ・ウォーホルを世紀と大西洋をまたいで並置しその類似点を探った《愛さえあれば Love Is Enough》(2015)も面白い。社会主義者と資本主義の権化が似通うとは)。

レイヴカルチャー(《アシッド・ブラス》)と炭鉱労働者のストライキ(《オーグリーヴの戦い》)のリンクはデラーのなかで重要なようで、Aレベルで政治学を履修する学生たち(高校生くらい)にセカンド・サマー・オヴ・ラヴの歴史を講義する映像作品《エヴリバディ・イン・ザ・プレイス 不完全なイギリス史 1984-1992 Everybody in the Place, An Incomplete History of Britain 1984-1992》(2019/リンク先で鑑賞可能)ではその関連がより直接に論じられている。学生たちの反応も良い(機材並べて鳴らして遊んでるのうらやましー。こういう授業あったらよかったな。まあ全日制の高校行ってないんであれですが……)。

しかしもっとも印象的なのは、第一次世界大戦のソンムの戦いから100年のメモリアルとして企画された作品《ここにいるからここにいる We’re here because we’re here》(2016)だろう。イギリス中の街なかに、第一次世界大戦の戦士の紛争をした人々が突然あらわれる。かれらは特になにをするでもないが、話しかけたりアプローチした人にはソンムの戦いで戦死した人の名前が刻まれたカードが配られる。パフォーマンスは最終的に、「蛍の光(Auld Lang Syne)」のフシで“We’re here because we’re here…”と合唱して、絶叫して終わる。

ある種のフラッシュ・モブ的な、SNS時代にぴったりの企画である(上掲の公式サイトでは実際、居合わせた人々のSNSへの投稿が記録としてまとめられている)と同時に、静的で局所的なモニュメントとは異なるかたちで失われゆく記憶を伝える試みとしてユニークでもある。

ほかにも、プロレスラーであるエイドリアン・ストリート(惜しくも今年7月に逝去)を題材にしたドキュメンタリー《痛めつける方法は山ほどある So Many Ways to Hurt You》(2010/リンク先で鑑賞可能)、イギー・ポップを写生教室のモデルに招いた《イギー・ポップの写生教室 Iggy Pop Life Class》(2016)など、名前を見るだけでも惹かれる作品やプロジェクトが数多い。もし洋書を扱ってる書店でみかけたらちょっとめくってみてほしい(安い本じゃないからね)。美術館や大学の付属図書館に入ったりもするんじゃないかしら。

(なお、本記事では、作品タイトルの邦題は拙訳、制作年は基本的に公式ウェブサイトや美術館のウェブサイトなどに準じている)

コメントする

書評:カンボジアのシンガー、ロ・セレイソティアの生涯を描くプレイリスト付きグラフィック・ノヴェル Gregory Cahill, Kat Baumann, The Golden Voice: The Ballad of Cambodian Rock’s Lost Queen

この記事はアフィリエイトリンクを含みます。

Amazon → Gregory Cahill, Kat Baumann, The Golden Voice: The Ballad of Cambodian Rock’s Lost Queen

Pitchforkの記事(The 10 Best Music Books of 2023 | Pitchfork)で紹介されていてちょっと興味があって調べたら、日本でもKindle版が買えて、Kindle Unlimitedでも読める。

カンボジアのシンガー、ロ・セレイソティアの生涯を描いたグラフィックノベルで、47曲におよぶサウンドトラックがあわせて公開されている。読んでるといいタイミングで「何曲目を再生/停止」みたいな指示がでるのでそれにあわせるかたち。カンボジア・バタンバンの農村から、その歌声に目を留められて首都プノンペンに招かれて、国営ラジオのシンガーとしてキャリアを重ねるが、冷戦下の東南アジアの不安定な政情に翻弄され、ついにはクメール・ルージュ体制下で命を落とす。

このグラフィックノベルで描かれる1960年代末から70年代後半にかけてのキャリアは目覚ましいもので、プライベートも激動している。嫉妬深い最初の夫、子供も生れた二番目の夫ともすれ違い、挙げ句権力者の介入で別れるはめに(当然、権力をかさに関係を強要される)。同時に、母親と娘の愛憎・葛藤から和解へ、という筋もある。とはいえ、いずれも脚色が強いようだ(そもそも記録が乏しいのだから仕方がない)。末尾にはフィクション/ファクトの対照表もついている(そしてそこにもサウンドトラックがついている)。

ロ・セレイソティアのキャリアと人生も激動なら、サウンドトラックから聴こえてくるサウンドも、演奏の面でも録音の面でも目覚ましく変化を遂げている。

カンボジアの音楽といえば、『カンボジアの失われたロックンロール』というドキュメンタリーが以前話題になっていた。これは日本では(正規には)いま見る手段がない。配信はリージョンブロックがあって見れない。見たいんだけどな(正規に)。その点で本書は英語ですがKindle Unlimited入ってるという方はサントラ流しつつ読んでみてはいかがか。

背景情報を調べようとしたら、意外とカンボジアの音楽に関する日本語のWikipedia項目が充実していることに気づいた。たとえば、ロ・セレイソティアの項目もある(出典の不足があるが……)し、カンボジアのロックをコンパイルしたコンピレーションについての項目は英語版からの翻訳であろう、その功罪までくわしく書いてある。

カンボジアン・ロックス – Wikipedia

しかしまあ、ロシアのウクライナ侵攻や、ハマスの攻撃に対する反撃という名目ではじまったイスラエルのガザ侵攻(そして虐殺)、そしてそれらにとどまらない世界各国での人道に反する犯罪的な行為を思うと、ここで描かれていることを冷戦下の悲劇としておくことはできないのだろうなと思う。陰鬱な気持ちになる。

コメントする

書評:新潟県立近代美術館・国立国際美術館・東京都現代美術館 編『Viva Video! 久保田成子』(河出書房新社、2021年)

本記事はアフィリエイトリンクを含みます。

Amazon → 新潟県立近代美術館・国立国際美術館・東京都現代美術館 編『Viva Video! 久保田成子』(河出書房新社、2021年)

書評っていうか、読んだメモ。東京都現代美術館で2021年末(2022年頭だったかも?)に見た「Viva Video! 久保田成子」展は当時すごく刺激をうけた良い展示だったのだが、展覧会カタログを買わずじまいだった。ふと思い出して、購入。

まず都現美での展示の記憶をたどると、フルクサスのメンバーであり、ヴィデオ・アートの先駆者であった久保田成子の仕事を、豊富な資料と充実した作品群で多面的に紹介してみせる、バイタリティあふれるものだった。大きな空間にずばん! と並ぶヴィデオ彫刻が、図版をみて想像するよりも、あるいはグループ展の一角で見るよりも数段素晴らしかったのが印象深い。あまり「実物見ないとだめだよ」みたいなこと言わないことにしているのだが、こればかりは「マジであれを体験してほしかった」と思う。

フルクサスのメンバーとしてハイレッド・センターとフルクサスの交流を(パンフレットの編集を通じて)仲介したり、ジョナス・メカスのアンソロジー・フィルム・アーカイヴスのヴィデオ・プログラムのキュレーターを努めたり、挙げていけばきりがないが、作品以外の部分でもかなり重要なキーパーソンだったことがうかがえるのもよかった。このあたりの資料展示は現地で存分に見切れたわけではなかったので、図録であらためてその足跡を確認できた。

一方、手元で作品や資料、テクストをじっくり見られるようになって改めて感じたのは、久保田成子自身の言葉のすごみだった。めちゃくちゃインスパイアされるを言うし書いている。

なかでも頭にこびりついていたのは、《三つの山》(1976-79)に添えられたテクストのつぎのような一節だった。

「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるから」ではない。それは植民地主義/帝国主義的な考え方だ。そうではなくて、知覚し、見るためだ。

『Viva Video! 久保田成子』p.81

これにはマジで衝撃を受けた。なんでかはわからないが。何年かごしにこのテクストに出会い直して、やはりすごくいいことを言っていると思う。ジョージ・マロリーにこんなツッコミをするのはヤバい。かっこよすぎる。これに続いて、「山々はほとんど理解不可能なまでのマッスとヴォリュームを持つセッティングの中で、知覚上複雑な視覚の嵐を提供してくれる。」とも書いている。たしかにそうだ。山はヤバい。

この山に対するこだわりと造詣の深さ is 何と思っていたが、図録におさめられているインタビューによると、学生時代に日本アルプスを全制覇したくらいガチの登山好きだったらしい。

わたし山登りしてたんです。だから山登り好きなの。学生だった〔ころ〕、日本アルプス全制覇したのよ。それからアメリカに行って、ロッキー山脈に行って、ワイオミング〔州〕イエローストーン〔国立公園〕の〔グランド〕ティトンとか、大スケールの山に。

同上、p.164

こういう人が「知覚し、見るため」に山に登るのだと言い切ること、大事だなと思う。なんか山の話になっちゃった。

こうなると、自伝本『私の愛、ナムジュン・パイク』も読まなあかんなとなってくるね。

コメントする

書評:村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書、2023)

本記事はアフィリエイトリンクを含みます。

アートは難しい(3日ぶり2度目)。ただでさえ難しいのに、同時にフェミニズムの話まで同時にするのか。と思われるかもしれない。でも村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書、2023)はアートとフェミニズム両方の難しさを、変に妥協せずに噛み砕いて解説して、アートとフェミニズムの両方が持っているはずの「みんなのもの」への志向を開いていこうとする本だ。

「みんなのもの」という言葉自体は易しく見えるけれども、実際になにかを「みんなのもの」をすることは困難だ。たとえば、第2章の話を必要な範囲でまとめるとこういう感じになる。誰かの好き嫌いや個人的な印象・感動にとどまっていては「みんなのもの」たりえない。誰か特定の個人のものから、「みんな」に開かれたものにするために、(特に近代的な意味での)アートは美術館とか批評みたいな制度を必要とするし、作品は単に感じるだけではなく、読み解くべき対象として存在することになる。けれども、その制度が洗練されることで、かえってアートは人を寄せ付けない閉鎖的なものになってしまったし、そもそも制度自体にも見過ごせない歪みやバイアスが存在している。

「アートを楽しむのに知識はいるのかどうか」みたいな話はよくあるけれども、そもそもなぜアートは「知識」を必要としたのか、その役割と限界はどこにあるのか。そんなことを地に足ついて地道に解説する人は多くない。いわゆる制度論的なアートの理解を「みんなのもの」というキーワードから(そこから生じた逆説的な現状までをふくめて)導いているといえる。

そして、属人的な判断を避けて「みんなのもの」たろうとしたアートの制度が持つ限界に対するアプローチとして、第2章ではフェミニズムが中心に据えられる。ここでもまた「みんなのもの」がキーワードになっていて、帯にも登場するベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』(堀田碧訳、エトセトラブックス、2020年。原書は2000年)のフェミニズム観が軸になっている。アートの話と対比的に図式化すると、第一章でいう「みんな」は誰かの好みに振り回されない普遍性や公共性(アートの制度がもともと目指したもの)の話だった一方で、第二章でいう「みんな」は差異を尊重しつつ連帯を目指すような反差別の話につながっていく。

アートを「読む」心構えと、その道具としてのフェミニズムを携えたうえで、第3章と第4章ではそれぞれ、美術史をフェミニズムで批判的に読み直し、アートにおけるフェミニズム的な実践を読み解いていく。ここは読んでいて改めて「いやアートワールドもこの世界もしんどっ」となるパートであり、平易な語り口だけにそのエグさはなお深い。それゆえに、フェミニズムを通じて「読む」ことの重要性が浮き彫りになってもいるし、アートでフェミニズムを実践することの意義も感じられると思う。

余談。第4章にはパフォーマンスを主体としたアナ・メンディエタが取り上げられている。その作品がフェミニズムの視点から紹介・読解されているのはもちろん、夫であったカール・アンドレがメンディエタを殺害したのではないかという疑惑についても触れられている。この本を読んだのが、DIC川村記念美術館でカール・アンドレ展が来年3月より開催されることが発表されてもやもやしていたタイミングだったこともあって、やっぱりメンディエタの紹介のほうが大事なのでは……などと思ったのであった。カール・アンドレ展のタイミングでアナ・メンディエタ作品や関連ドキュメンタリーのスクリーニングとかないのかな。

コメントする

書評:山本浩貴『現代美術史――欧米、日本、トランスナショナル』(中公新書、2019)

本記事はアフィリエイトリンクを含みます。

現代美術はむずかしい。その通史を描き出すことはなおむずかしい。絵画や彫刻といった分野ごとに区切って記述しようとしても、そもそもそうした分野に当てはまらない、分類を拒むような作品やアーティストがたくさんある。表現の内容も形式もそれが依って立つ場も拡張が著しいからだ。

その点で『現代美術史――欧米、日本、トランスナショナル』の方法は明快だ。現代美術という独立した領域があるとしてその内在的な「発展」を見ていくのではなく、「芸術と社会」の関係史を通じて現代美術の歴史を記述していく。序章で「前史」として取り上げられるのは、アーツ・アンド・クラフツ、民芸、ダダ、マヴォ。表現の発展史とは切り口がまったくことなることが、この「前史」のチョイスからもわかるだろう。このテーマを貫いたおかげで、あまりまとまった紹介や総括のなかった、しかしきわめてアクチュアルなトピックが集中的にまとめられることになる。

たとえば第一部の欧米編に含まれる第二章は、リレーショナル・アート、ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)、コミュニティ・アートを取り上げているが、理論(言説)面ではニコラ・ブリオーの「関係性の美学」やその応答としてのクレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」ないし『人工地獄』の紹介はもちろん、それらと比較するとあまり紹介が進んでいない印象のある(これは自分が追いつけてないだけかも)グラント・ケスターの仕事も紹介されている。そしてなによりそれ以上に作品や実践の例が豊富に言及されている。第二部の日本編では、第四章でその同時代の動向としての(ある種ドメスティックな)「アート・プロジェクト」の流れが取り上げられ、SEAと関連付けつつ日本の現代美術における政治性が吟味されている。

しかし、本書でもっとも注目すべきは「欧米」や「日本」といった語りのフレームを乗り越えようとする「トランスナショナル」な視点で現代美術史を編もうとする第三部だろう。国民国家を前提とした「ナショナル・ヒストリー」の限界を突き崩すために、第五章では「ナショナル・ヒストリー」という「正史」から排除されたイギリスのブラック・アートの戦後史が紹介され、ポスト植民地主義的な問題と接続される。そのうえで、第六章では、東アジアにおける植民地主義の問題――つまり日本の植民地支配とその影響――を反映した現代美術の動向がまとめられる。

社会と関係するアート、あるいは政治的なアート。そのポテンシャルを実践と言説の双方から論じた本書が、まさにそのポテンシャルの負の側面に向き合って閉じることは示唆的だ。終章のタイトルは「美術と戦争」。アートは脱植民地主義、脱帝国主義の実践に貢献するのみならず、むしろ戦争協力によって植民地主義や帝国主義にも「貢献」していた。こと日本の政治性忌避の風潮に対して「社会的たれ、政治的たれ」と呼びかける声は少なくないが、しかし社会的であることや政治的であることの帰結が戦争協力や植民地主義イデオロギーの(再)生産になってしまうような事態は容易に想像がつくし、歴史がそれを裏付けもしている。そうした隘路に陥らないためにも、「トランスナショナル」の視座は重要になるだろう。

もともと自分はハプニングやフルクサス、シチュアシオニストあたりの活動に関心があったので、そうした流れを包括するような現代美術史が新書で読めるのはいい時代だなぁと素朴に思ったり。また、ハマスによる攻撃へのリアクションというかたちをとったイスラエルによるガザ侵攻が国際的な非難を集めているなか、「パレスチナ支持」と「反ユダヤ主義」をめぐるアート・ワールドの軋轢(いま振り返ればドクメンタの反ユダヤ主義騒動は完全にそのあらわれだったのだが)が、アートフォーラムに掲載されたオープンレターの顛末のようにスキャンダラスに表面化している状況にも、思いを馳せてしまうのであった。

コメントする

書評:Saku Yanagawa『スタンダップコメディ入門 「笑い」で読み解くアメリカ文化史』(フィルムアート社、2023年)

本記事はアフィリエイトリンクを含みます。

Saku Yanagawa『スタンダップコメディ入門 「笑い」で読み解くアメリカ文化史』(フィルムアート社、2023年)を読んだ。発売当初に縁あって献本いただいていて、そんで読んでからもちょっと時間が経っているのだが感想を書いておく。

Saku Yanagawaは日本から単身アメリカに渡ってスタンダップコメディアンとしてのキャリアを築いている人物で、日本ではフジロックなどのMCをつとめたり、アトロクなんかのラジオ番組に出演しているのを通じて知っている人も多いかもしれない。

フジロックMCのSaku Yanagawaとは何者か「世界を変える30歳以下の30人」に選ばれた男のいま | 週刊女性PRIME (jprime.jp)

また阪大出身という縁でラッパーのMoment Joonとも交流があり、楽曲に客演もしている(『Passport & Garcon』収録の「KIMUCHI DE BINTA (feat. Yanagawa Saku)」)。

「わかる人にだけわかる」日本のお笑いは差別を助長するのか―アメリカで奮闘するスタンダップコメディアンと移民ラッパーの邂逅|日刊サイゾー

しかしそもそも日本に住む人のあいだでは、「そもそもそのスタンダップコメディっていうのはなんなんだ」という人のほうがずっと多いだろう。自分だってそうだ。この本はまさにそうした人たちにむけて、スタンダップコメディとはなにか、スタンダップコメディアンであるとはどういうことかをリアルな実体験を交えながら丁寧かつシビアに説明したうえで、スタンダップコメディの歴史をわかりやすく解説していく。

本書の副題には「アメリカ文化史」と掲げられているが、まさにスタンダップコメディの歴史とその精神をたどることでアメリカ文化の一側面を切り取ろうという野心のある一冊で、ヴォードヴィルからNetflixをはじめとした現代のメディア環境におけるスタンダップコメディの現在までを貫くアメリカ芸能史を描きつつ、そこに文化――アートや音楽みたいな創作というよりは、共同体のなかに共有される理念、の意味で――を読み取ろうとする。

そういう意味で個人的にぐっときたのは、大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社、2011年)で提示される「擬装」のアメリカ文化論を批判的に継承しているところだ。アメリカの芸能史は、文化的・社会的他者を装う行為、ないし装おうとする欲望で駆動してきた、というのが超ざっくりとした同書の中心的なテーゼ。『スタンダップコメディ入門』は擬装・擬態の演芸としてのミンストレル・ショーからはじまり、百年単位の芸能・文化史を論じた上で、「いま」のスタンダップコメディ(アン)がおかれた状況についてこんなふうにコメントしている。

きっと、誰かに「擬態」しなければいけない時代は終わった。多様性が認められる世の中は、マイノリティであることが「弱み」にもなりえない。今、われわれスタンダップコメディアンは、私たち自身として舞台に経ち、自らの視点を述べることのできる時代を生きている。そしてそれは言い換えれば、どんな人種でも、どんな国籍でも、そしてどんな体型でも、自分自身として語ることが求められている時代なのである。

『スタンダップコメディ入門 「笑い」で読み解くアメリカ文化史』p.275

少なくともスタンダップコメディにおいては、他者を装うこと――そこには自らの人種的ステレオタイプさえも含まれる――が芸として説得力を持つ状況ではなくなってしまった。だからこそ、「自分自身として」ステージに立つことが求められる。これは、ミンストレル・ショーから脈々と続く、問題含みでアンビバレントで、しかしだからこそパワーを持つに至った「擬装」のアメリカ文化という見立てを乗り越えようとする現代的な見立てのひとつと言えよう。

この言葉は(というかこれが登場する第4章全体に言えることだが)単にいろんな事件や作品を見て「時代は変わりましたね」とまとめるのとは違う説得力がある。ステージに立ってジョークを放ち、観客の反応を一身に受け止めるなかで「なにを笑いにすべきか」ということを深く考え抜いたからこその言葉だからだ。そのあたりは、熱っぽく愛のあふれるYanagawaの筆致もふくめて実際に読んで体感してほしい。

しかしなにより、音楽であれ映画であれドラマであれ、アメリカのエンタメを楽しむにあたって知っておきたい社会的背景や重要人物について豊富な知識が詰まっているというのが本書の美点だろう。やはり「「笑い」で読み解くアメリカ文化史」という副題は伊達ではない。

コメントする

書評:近田春夫『グループサウンズ』文春新書、2023年

本記事はアフィリエイトリンクを含みます。

近田春夫はこれまで自伝『調子悪くて当たり前 近田春夫自伝』(リトル・モア、2021年)や『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』(文春新書、2021年)などでライターの下井草秀とタッグを組んできたが今作『グループサウンズ』も同様。書き下ろしというよりは語りおろしで、下井草が聞き手となる近田のグループサウンズ論パートが主となり、『筒美京平』本よろしく当事者・関係者へのインタビューも収められる。

グループサウンズをカルト的な目線やリバイバル文脈を外してリアルタイム世代でハマった人間がじっくり語り直す、というコンセプト自体が功を奏しているのはもちろんのこと、ロックと歌謡(後にはヒップホップやトランスにも手を出すが)を横断してどちらにも軸足を置かない絶妙なスタンスの近田だからこそ、グループサウンズのアンビバレントな立ち位置がうまく描き出されているように思う。グループサウンズはいわば日本におけるロック黎明期のひとつの挫折であると同時に、その後の歌謡曲、さらにはJ-POPの礎ともなった面が強いと思うのだが、その両面をどちらにも相応の思い入れをこめて語られている。

トークのなかでたびたび飛び出す近田の持論(ビートルズの影響を過大に見積もりすぎ、とか)はその鋭さや重要さに比してトークらしく軽やかに処理される。いくつかのテーゼを背骨にしてケレン味のある物語に仕立ててもよさそうなものだが、あくまで「証言」としてひとつひとつのバンドを語っていくという構成は本書のとっつきやすさであり、美点でもある。

とはいえ、ビートルズとグループサウンズを結びつける定説に対する批判、具体的にはそもそもグループサウンズの土台をつくったエレキブームとビートルズの音楽性は食い合わせが悪いとか(p.16。頁指定はKindle版の情報に準拠するので紙と齟齬があるかもしれない)、むしろアニマルズが重要なんだとか(「GSに影響を与えた洋楽のバンドとしては、ビートルズよりも、むしろアニマルズの方が存在感は大きいと思うんだ。」p.40)いう話は、そこに思いっきりフォーカスして深堀りもしてもらいたいというのが人情であろう。瞳みのる&エディ藩との鼎談でも、当事者の証言として瞳が「ステージで映えるのは、ローリング・ストーンズの曲なんですよ。ビートルズは、意外に盛り上がらない」(p.146)と言っているのも、作曲家や編曲家ではなくあくまでバンドマンであったグループサウンズの当事者の実感が伺い知れて面白い。

資料的価値が高く、その一方でカジュアルに読める対話形式の本ということもあり、広くおすすめしたいところだ。

コメントする