コンテンツへスキップ →

imdkm.com 投稿

ライターが電子書籍を制作・販売してみた

自主制作したZINE「音楽とテクノロジーをいかに語るか?」の文フリ・通販での完売にいたる顛末についてはすでにブログ記事にまとめたけれど、同時に電子書籍版の準備も進めていた。きょう晴れて販売開始とあいなったので、その準備についても書いてまとめておきたい。

音楽とテクノロジーをいかに語るか?(電子版) – 編集室B(imdkm) – BOOTH

購入ページは↑から。500円でダウンロード販売しています!

PDF版だったらすぐできたけど

先に別の記事で書いたように、今回のZINEはLaTeXで制作し、PDFで入稿していた。なので、単にPCで読む用のPDFファイルならもうすでにあった(実際、このデータをサンプルとして人に送ったこともある)。しかし、どうせ電子版を販売するなら、PDF以外の形式もぜひ試してみたかった。そもそもPDFが文書を頒布するフォーマットとしてあまり好きではない。あれはやはり「紙」を前提としたフォーマットだし。ひらたく言うとPDFにはPDFの良さがあるけれど、固定レイアウトになってしまうのがなんとなく嫌なのだ。

なにより電子書籍はリフロー型っしょ、と思っているから、どうせやるならEPUBをやってみたい。正直どうやってつくるのかまったくわかんないけど。でもそこまで難しいわけでもなさそう(レイアウトやらに凝りだすと、また違うのだが……)。原稿はすでにあるので、ためしにつくってみた。

VS CodeでMarkdownから(Pandoc経由で)EPUBに

具体的な手順としては、LaTeXの原稿を整理して簡素化、Markdownで記述しなおして、Pandoc経由でEPUBに変換した。別にLaTeXから直接EPUB化もできたのだが、微妙に思うような結果にならなかった。一度Markdownに落とし込めば、少なくともテキストを読ませるぶんには十分に機能するEPUBを出力することは造作なくできた。

本当は、図版も最低限まで割愛した簡易版でEPUBを完成させるつもりだったのだけれど、突然思い立ってしまい、EPUBにも冊子版と同等の図版を挿入することにした。これがなかなか厄介で、Markdownで楽勝~と思っていたのが、特にコンテンツガイドの部分でほとんどHTMLをベタ打ちすることになり、最低限の記述で済んだとはいえ、MarkdownとHTMLのちゃんぽんを試行錯誤で組み立てていったのはちょっとかったるかった。でも、ちょっと背伸びしたおかげで勝手はだんだんわかってきた。

もとの冊子が左綴じ・横書きだったこともあり、EPUBでも横書きで済ませた。LaTeXであれEPUBであれ、今後は縦書きでつくってみたい気持ちはあるので、なにか機会があれば挑戦したい(VS Code + Markdown + Pandocという組み合わせ以外のものを試すのもありだ)。まだ電子書籍自作道ははじまったばかりだ!

余談:Kindle Direct Publishingもしてみた

これは完全に余談。過去のブログ記事をコンパイルしたテキストオンリーのシンプルな電子書籍を(上記の要領で)制作して、Kindle Direct Publishingにのせてみている。Amazonで自主制作した電子書籍を販売するためにはどうしたらいいのか、Kindle Unlimitedに登録するには……などのノウハウが欲しかったからだ。結果としては、EPUBを作成したら、KDPのアカウントをつくってぶん投げるだけでOKだった。詳しいやり方はネットにいくらでも転がっているので検索していただくとして……。

指パッチンの鳴らし方――自選ブログアーカイヴ | imdkm | 文学・評論 | Kindleストア | Amazon
実際の電子書籍は↑のリンクから購入ないしKindle Unlimitedでの閲覧ができます。試してみてくれよな!

コメントする

ライターがゼロからZINEをつくってみた話

納品された当日のZINE。シンプルなデザイン(といえばきこえはいいが)が光る

「音楽とテクノロジーをいかに語るか?」

2022年度、柳樂光隆さんが講師を務める美学校のライター講座に参加した。そこでの課題がZINEをつくること、だったので、じゃあ自分が関心のある、しかしなかなか仕事にはなりづらい領域について書いてみようかという気になった。そうしてつくった企画書が、のちに「音楽とテクノロジーをいかに語るか」となる、音楽とテクノロジーにまつわるいろいろを考察するというものだった。

当初はインタビューや寄稿をふくめ、もっと凝った企画をしようかと思っていたのだけれど、二転三転してすべての内容を自分で書き下ろす方向に定めた。といっても、内容が大幅に変わったというよりは、主従関係が変わったというべきか。年表もコンテンツガイドも、最初はおまけ、ページの埋草のつもりだったのだ。年表は最初思っていたよりもずっと分量がふくれあがりそうだったし、コンテンツガイドもなんだかんだで30冊ちかく候補があがって、無理して記事らしい体裁をととのえてこれらを切り捨てるよりも、これらをかたちにするほうが先決だろうと思ったのだ。

執筆の方法

コンテンツガイドは基本情報をスプレッドシートにまとめ、そのまま300文字程度のレビューをセルに書き込んで執筆していった。進行の程度が見えやすかったし、のちにブックガイドを3つのテーマにわけて掲載順を決めるときにも行を入れ替えればよかったのでとても便利だった。

コンテンツガイドのスプレッドシート、こんなんでした。

年表も、スプレッドシートに時系列を気にせずひたすら項目を書き連ね、300から400程度のリストを作成。それにフラグを付けて掲載する項目を厳選したうえ、フィルターやピボットテーブルを駆使して年代順にソートし、原稿にしていった。

ごりごり項目を追加して行って、左端のチェックボックスで掲載の可否をつける。
そのあと、ピボットテーブルでソートし確認。項目量の偏りなどを確かめる。あとは頑張って整形する。

つまり、これはほぼGoogle Spreadsheetで書いたZINEみたいなもんである。一本だけ載せた論考はGoogle Documentsで書いたが(そりゃそうだ)。ごりごりに考証することもせず、一方読みやすさに心を砕くこともせず、かなり素で、リラックスして書いた。のでなんか間違ってたらごめんなさい。

スプレッドシートを駆使した執筆にはある程度手応えがあり、その後の仕事でもやったりしている。あれはいいですよ。

論考に掲載した図版はInkSpaceで作成し出力したもの。これについては『リズムから考えるJ-POP史』と変わらない。しかし実はZINE制作の最後の最後に気まぐれでつくって入れたので、これもしかして伝わってねぇんじゃね? という不安もなくはない。まあ文章自体も伝わってんのかというとわかんないしいいんですけど……。

デザイン

デザインというか誌面も自分でつくった。といっても、Adobe InDesignを購入する余裕もないし、使いこなせる気もしない。多少使ったことのあるLaTeXで組版することに決めた。LuaLaTeX + jlreqで、ちまちま試行錯誤を繰り返しながら表紙もふくめた40ページ。がんばった。

LaTeXの導入などはまあいいドキュメントがネットに転がっているし、いまはTeX Liveのようなすぐれたパッケージもあるのでそこまで難しくはないはず。クラウドで使えるエディタもあるそうなので触ってみたいひとはやってみるといいと思う。たぶん、HTMLのタグ打ちできるなら余裕。自分の場合はVS Codeを主要なエディタとして環境を構築した。ただ、最初にうまく環境構築できるまでに結構ハマってしまった……。こればかりはインターネットの力にたよりきりだった。

VSCodeでLaTeXを書く最低限(←ここ重要)の環境をとにかく楽に構築したかった|D学生

なんでもいいからとにかくVS Codeで動いてくれ! と思ったらこの記事が参考になった。結局これにしたがって全部やりなおした。

ネットだけで使い方を覚えることだってできたとは思うけれど、基本的なところはすぐに見れるリファレンスがあったほうがいいと思って、この分野では定評のある本を手元に置いておいた。とても役に立ちました。

[改訂第8版]LaTeX2ε美文書作成入門

LaTeXはInDesignなんかと違ってWYSIWYGではないしいちいちビルドするのめんどくせーとか思っていたけれど、いったんフォーマットができてしまえば仕事は早かった。年表はちょっと工夫が必要だったけれど、これもめちゃむずいというほどでもなく。LaTeXの書き方を覚えるのでいっぱいいっぱいだったこともあり、デザインを凝れなかったのは残念だった。

印刷

さて、一番問題というか、懸念があったのが印刷だ。格安の印刷会社はInDesignやMS Wordを前提としていることが多く、LaTeXで組んだPDFをきちんと印刷してもらえるのかがいまいちわからなかった。LaTeXで人文系の文章や小説を組版しているらしい人はけっこういて、PDFをつくるだけなら問題ないのだが、肝心の入稿のノウハウとなると情報が限られる。Twitterで検索しても、「ここの印刷会社でいけました」みたいな報告はごくごくわずか。不安しかない。

もっとも、その点は、限られた情報をとりあえずまとめたうえで、Affinty Publisherのような安価なDTPソフトを使っている人の知見を参考にすることで乗り切った。結論としては、PDF/X-1aで出力されておりトンボが適切に配置されたPDFを作成したところ、少なくとも自分の場合、プリントパックでデータ確認は通ったし、問題なく印刷されていた。とはいえ、公式に推奨されているわけではないので、あしからず。

TeXで同人誌を作ってみた。(トンボ) – いものやま。

トンボの付け方は上の記事を参考に。

販売

文学フリマ東京36で頒布しよう、ということは決めていた。出店受付が開始した段階ではまだ完全に完成はしていなかったものの、おそらく出せるだろう(印刷に問題がなければ)という見込みで、いやむしろ締切を設定するつもりで申し込み。同時期に並行してがっつり参加していた「ZINEおかけん」とブースの隣接配置を申請し、当日はそちらの作業も手伝いつつ、こちらの店番も手伝ってもらいつつ……というかたちでやりくりした。

現地に持っていったのは90冊。ちょっと中途半端な数だけれど、これは単に箱に入るだけつめたらそうなったというだけで、特に根拠はない。なんなら、想定していた頒布数は「よくて50冊、おそらく30冊で上々」だった。余ったらどうせ箱に入れ直して送り返せばいいし……と、持ってけるだけ持ってっちゃえと梱包&発送。

フリーペーパーもあったら立ち止まる人が増えてZINEも読んでくれるかも~と思い急遽論考を書いて前々日に家のレーザープリンタで印刷。80部くらい刷ったのかな。100もいってないはず。ちなみにこれもLaTeXで組んだ。

しかし蓋を開けてみればあれよあれよとZINEは売れていき、結局持っていった90部はすべて完売してしまった。これは結構衝撃だった。

開場から二時間半ほど経った14時半の時点で売り切れ。フリーペーパーはそれよりずっとはやくになくなっていた。ありがたい話だが、こんな地味な内容のZINEがあんなに売れるのは、文フリにはなにかいけない魔法がかかっているんじゃないかとやや戦慄してしまう。

通販

東京から自宅に戻ってもろもろ整理がついたタイミングで、BOOTHを使って通販ページをスタートした。すでに素材はあったし、梱包材もある程度揃っていたのでさくっと商品を公開。なんだかあれよあれよという間に売れてしまい、気づけばまる二日で90部売り切れてしまった。クリックポストで淡々と発送作業を行い、無事発送完了(一部、入金待ちあり)。

また、文フリではけてしまったフリーペーパーのPDF版もBOOTHにて無料配布。通販で注文していただいている人には刷ったものを同封していますが……。

ともあれ、これで印刷した冊子はほぼはけた(保存用、あとなにかあったとき用に20部ほど確保してますが)。今後はPDF+EPUB版をちょっと安めに販売する予定なので、よろしくどうぞ。データ自体はできているので、内容の確認と修正が終わったら販売します。6月はじめになるかと思います。よろしくお願いします。

コメントする

【告知】文学フリマ東京36出店します(「音楽とテクノロジーをいかに語るか」&「ZINEおかけん」)

来る5月21日(日)東京流通センターでの文学フリマ東京36にサークル「編集室B」(き-72)として出店します。ZINE「音楽とテクノロジーをいかに語るか」を販売します(『リズムから考えるJ-POP史』も持っていくよ。あとペーパーもつくる予定)。

音楽とテクノロジーにまつわる本やドキュメンタリー25作品を紹介するコンテンツガイド、15ページにわたる年表論考「バッドノウハウはなぜ批評の問題になるのか」を収めた全40ページほどの冊子です。詳しい内容については、特設ページをつくったのでぜひ見てみてください。

また、造形作家・批評家の岡﨑乾二郎ファン有志があつまってつくったZINE「ZINEおかけん」にも寄稿&ちょっと変わった新曲を提供しています。一応ファンジンということにはなるんですが、岡﨑乾二郎愛を語る! とか、資料的価値を重視! とかではなくて、ファンが集まって思い思いのアウトプットを実践してみた、かなりユニークなZINEです。ぜひ見てみてほしいです。

「ZINEおかけん」のサークル番号は「き-71」、編集室Bのお隣です(同じ机)。

「ZINEおかけん」の詳しい内容については、また後日Twitterのアカウントから告知があるかと思います。ぜひ注目してみてくださいね。

コメントする

Soundmain Studioを使って1曲つくってみる

Sony Music EntertainmentはSoundmainという音楽制作にかんする総合プラットフォームを運営しており、楽曲制作に使えるサンプルパックのストアやブラウザ上でつかえるDAW・Soundmain Studio、そして音楽制作を中心にさまざまなトピックについて伝えるメディアSoundmain Blogなどが提供されています。

Soundmain Blogには自分もこれまでインタビュー記事やコラム記事を寄稿してきました。また、自分の関わった記事以外にもかなり尖った企画が載っていたりするので、すでにご覧になったことがある方も多いかもしれません。これまでの記事の例は次の通り↓

uami インタビュー iPhone1台で生み出される驚きのサウンド、独自の〈声〉の使い方に迫る – Soundmain

特集「アンビエント+ポップの現在」Part1 Akiyoshi Yasudaインタビュー(森山直太朗「素晴らしい世界」編曲ほか) – Soundmain

Nao’ymtインタビュー 自身を「解放」する、R&Bからアンビエントへの道のりと創作の思考法 – Soundmain

ほかにもいろいろ書いております。

そんなSoundmainが「春の作曲チャレンジキャンペーン」と題して、ブラウザ上で使えるDAWであるSoundmain Studioの無料体験をはじめとしたプログラムを実施しています。有料プランオンリーだった機能が無料のトライアルプランでも試せたり、「Standardプラン」でしか試せなかったAIアシスト機能(音源分離、ボーカル抽出、歌声合成、作曲アシスト)が「Basicプラン」で使えたりします。

音楽制作プラットフォーム Soundmain | 春の作曲チャレンジキャンペーン実施中!

今回、「ぜひ使ってみて欲しい」というお誘いをいただいたので、「ベーシックプラン」に加入して1曲つくってみることにしました(というわけでこの記事はSupported By Soundmainです。あしからず)。

そんなこんなでできあがった楽曲がこちらです。まず聴いてみてください。

Studioの機能から考えて、波形編集を中心にできること……という発想で、ちょっとBurialを意識したダークなフューチャーガラージ風にしてみました(注:Burialは初期に波形編集ソフトでビートメイクしていたことで有名)。歌声は、AIアシスト機能のひとつである歌声合成(AI Vocal)で、Studio内で打ち込んでいます。そして歌メロも、AIアシスト機能のひとつである作曲アシスト(Flow Machines)で生成したメロディを調整してつくりました。もちろんサンプルもすべてSoundmainで販売中のものですから、隅から隅までSoundmain製です。

Soundmain Studioは、主にサンプルファイルのエディットを中心とした機能を提供しているブラウザで動作するDAWです。サンプルの配置、カット&ペースト、タイムストレッチ、ピッチシフトといった基本的な編集に加え、各トラックごとにレベルの調整や、ハイパス/ローパスフィルター、リヴァーブ、EQ、コンプレッサーといったエフェクトで音色を変えることもできます。

画面の下半分がエフェクト。トラックごとに設定できる。

主な使い方としては、サンプルファイルをローカルからアップロードするか、もしくはStudioのブラウザ上からストアでサンプルを購入し、そのままドラッグ・アンド・ドロップで読み込みます。今回は、メインのビートに使うサンプルをザザザッと(Studio経由ではなく)ストアで購入したあと、ローカルにいったん保存。そこから使えそうなものをアップロード……というかたちにしました。せっかく手に入れたサンプルなので、ふだんづかいのDAWでも使いたいですしね。

具体的な作り方ですが……そこまで凝った編集はしていません。しいていえば、ドラムのループは2種類を組み合わせて、フィルインのかわりに数小節ごとに細かいエディットをしています。サンプルパックに入っているループは、同じパターンのキックドラムあり/キックドラムなし(だいたい後者は「Top」とか言われる。ハイハットなどのパーカッションやスネアだけのループですね)のようなバリエーションが入っています。それをつぎはぎしてキックの数を減らしたり増やしたりしているわけです。

ドラムのトラック。切れ目がわかりやすいよう選択しています。最後のほうが細切れになっているのがわかるでしょうか。

そこに、コード感をつくるパッドとそのバリエーション、ベースライン、そしてアクセントの声ネタを重ねてビートにしました。

続いて、メロディづくり。Sony CSL(ソニーコンピュータサイエンス研究所)によるAI作曲プロジェクト・Flow Machinesをもとに実装された作曲アシスト機能で生成します。Flow Machinesという名前はAI作曲の分野では2010年代後半に話題を呼びましたが(ビートルズ風の楽曲ができた! なんて話も。昔ブログの記事にしたことがあります→AIはプリペアド・ピアノの夢を見るか?――人工知能と自動作曲に関する覚書 )、近年は自動作曲からアシストツールという方向性に転換して、実用化が進んでいるようです。

使い方は簡単。ジャンルを選択し、ジャンルごとに用意されているスタイルパレットからイメージに近いスタイルを選択。最後にピアノロールと演奏を実際に聞きながらパラメーターを調節し、素材を生成します。ここではメロディだけ使いましたが、バッキングのコードやベースライン、ドラムのパターンも生成できるようです。MIDIファイルを出力できるので、ここで生成した素材をふだんづかいのDAWに流用することも可能です。

左から、ジャンル選択、スタイルパレット選択、生成画面

直球でR&BとかEDM/Danceといったジャンルを選んでもいいんですが、適度なミスマッチがあったほうが面白そうなので、A.I. Vocal(ジャンル名ということなので、平たく言えばボカロでしょうか)を選択。BPM帯と雰囲気があっているスタイルを選択し、試行錯誤しました。BPMやキーを変更できるのはもちろん、ハーモニーとメロディのマッチ具合、メロの細かさ、複雑さも設定でき、いろんな組み合わせを試すと面白いです。

無限にバリエーションが生成できるというよりは、パレットで選んだスタイルの細かな差分をつくるといった印象で、むやみやたらに生成して博打を打つ感じではありませんでした。きちんと「どんな雰囲気がほしいか」をイメージしながらジャンルやパレットを選ぶのが大事そうです。

生成したメロディを、StudioのAI Vocal機能で打ち込んでいきます。MIDIを読み込みできるとうれしいんですが、歌詞の入力も含めたエディタの使い心地はまずまずで、不満はありません。

AI Vocalの編集画面(下半分)。ノートごとにひらがな一文字をあてはめて歌わせることができる。

入力したメロディと歌詞はそのままプレビューできます。ブラウザ上で動作しているわりには、スムーズに生成&再生してくれる印象です(もっとも、フレーズが16小節程度と短いこともあるでしょうが)。歌声は、ベタに打ち込んだだけなのにかなり自然です。ブレスも休符に合わせて適度に生成してくれます。発音の細かいニュアンスを詰めるには向きませんが(撥音や拗音、二重母音など)、クセにあわせた歌メロをつくれば気になりませんし、ガイドボーカルやデモには十分すぎるクオリティではないでしょうか。

打ち込んだら、「保存」をクリック(AI Vocalエディタの左上アイコンか、タイムライン上の「保存」ラベル)すると音声にレンダリングされます。一度「うわ、間違って編集中なのにレンダリングしちゃったよ!」と焦ったんですが、レンダーされた波形を右クリックすると再度編集をすることができます。よかった。

せっかくなので、1トラック追加してもうひとつAI Vocalを立ち上げ、末尾のゆったりとした譜割りの部分に一声だけざっくりとハモリを加えて、フィニッシュとしました。

今回使ったサンプルはこんな感じ。UKGarage系のパックからつまみ食い。もっとも、2つくらい使ってないのもあります。

今回はちょうどいいファイルが手元になかったので使えませんでしたが、音源分離やボーカル抽出も含めたAIアシスト機能も使えて、サンプルの購入にも使えるポイントが500ポイント付属(AIアシスト機能の使用にもポイントが必要なので注意)してくるので、ひと月だけでも試しに使ってみると面白いんじゃないでしょうか。500ポイント分サンプルをダウンロードしたら元はとれるでしょう。

コメントする

料理と時間、料理の時間

わりと料理をつくるが好きだ。つくるのが一番好きな料理はスクランブルエッグ。頻繁につくるわけじゃないけれど、つくっているととても落ち着くし、楽しい。いわゆる炒り卵ではない。炒り卵はどちらかというと軽快なテンポの料理だと思うが、スクランブルエッグはゆっくりとした料理だ。

ミルクやクリーム、チーズのたぐいは入れずに、溶き卵とバター(マーガリン)だけのシンプルな材料に、ごく弱火で、じっくり、じっくりと火を入れる。小さめのフライパンで、しゃばしゃばの卵液がすこしずつもったりとして、固体に近づいていくのを手と目で感じていく。スクランブルエッグの火入れは繊細で、遅い。人によっては、湯煎で仕上げることもあるくらいだ。

熱によってたんぱく質が変成して固まる。ごくシンプルな化学反応をていねいにコントロールしていくだけで、魔法のような舌触りがうまれる。スクランブルエッグの遅さは、緩慢で冗長であるというよりも、むしろ濃密だ。ちょっと気が散っているとほんのりぼそぼそになってしまうから、へらを鍋底にはわすたびに、いまかいまかとタイミングを見計らわなければならない。火からおろして少し冷めると、それはそれで固さが変わるから、ちょっとだけゆるいかもしれない……くらいに留める。

と、長々と書いてきたが、いつも成功するわけではない。調理のテンポが遅いから焦がして大失敗になることこそないけれども、だいたい固すぎたり、やわらかすぎたり、ポイントを外してしまう。そういうブレもふくめて楽しい。

さっきも書いたけど、スクランブルエッグの調理中に起こっているのは、シンプルな化学反応にすぎない。それを観察し、よきところで手を止める。このことが実は、料理という営みの良さというか、なにか落ち着くところであるような気がする。スクランブルエッグだけではない。メレンゲを立てるのも、パンを焼くのも、鶏肉を蒸すのも同じことだ。時間の経過にしたがって不可逆的に生じていく変化と向き合って、そこに身を浸すのだ。

不可逆的な時間の流れに浸ること。それは五感をつかって感取するようなたぐいの経験とは少し違って、もうすこし抽象的で、しかしかなり直接的な経験だ。ある種の驚異がそこにはある。ベルクソンが一杯の砂糖水を引き合いに出し、宇宙全体に浸透する持続について論じる跳躍と同じような。過ぎ去った時間を惜しむのでもなく、来るべき未来へ想像力を羽ばたかせるのでもなく、生きられた時間=持続そのものにふれる瞬間が料理にはあり、あるいはほかの日常的な営みにもあるのかもしれない。

コメントする

言葉の不気味さ

ここ数年、おそらく仕事としてものを書くことが増えてからだと思うけれども、言葉の不気味さに耐えられなくなることがある。ある特定の形象や音の連なりが意味を持ち、その羅列がなんらかの表現になる。それがたまらなく気味悪く、おそろしい。言葉を使うこと自体に支障があるわけではない。むしろ、支障なく使えてしまうこと自体に対する違和感がばけもののように思え、書くにしても、読むにしても、言葉に向き合っていると、ふと自分と言葉のつながりがうまくつかめなくなり、あるときはあまりに遠く、またあるときはあまりに近く感じられ、身震いしてしまう。耳の奥や鼻の奥に言葉がべたりと貼りついて自分の頭や身体をむしばんでいるような感覚にとらわれる。かといって、言葉から逃れた自由な状態を理想として焦がれているわけではない。ちょっとした拍子に、自分と世界の同期がずれて、ステレオトラックの位相がみだれるようにして、そうした不気味さがうかびあがってきて、それがあまりにも恐ろしい。そういうとき、調和を取り戻すために、詩を書いたりする。詩なんか書いてるのかと思われるかもしれないが、最近たまに出している、短い歌モノがそれだ(そのように発表するわけでもなく、思いついた言葉を書きとめ、それをいじくりまわすこともあるが、割と稀だ)。

一語一語を吟味して、すくなくともそのときの自分にとって意味と響きが過不足なく感じられる状態へ、一文字ずつ積み重ねていくと、同期が取り戻されていく。そうすると不思議と言葉はすっかりよき他人となって、つむぎだした当の自分と関係なく、自立しはじめる(ように感じられる)。とはいえ、いつまた言葉が空虚でグロテスクな顔をむき出しにするのかわからないから、言葉と向き合うことにはうっすらとした影がつきまとう。言葉は自分にとって、便利な道具でもなければ、軽やかにたわむれる対象でもなく、まして実存的ななにかを安心して託せるような存在でもない。少しずつ、様子を伺いながら、うまく同期をたもちながら、付き合っていく、よくわからない、不気味な対象(ここで、「だ」というのか、「なのだ」というのか、あるいはもっと凝った展開をするのか、わからなくなった)。

コメントする

ドラムキットという奇妙な楽器とその時代(、つまり現代)[review: Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit. Oxford University Press, 2020.]

すっかり見慣れているけれども、ドラムキットというのは考えてみれば奇妙な楽器だ。バス(キック)ドラム、スネア、タムタム、ハイハット、シンバルといったパーカッションからなるこの楽器は、他の多くの楽器と同様に、奏者の身体と強く結びついた統一された楽器のように思えるけれども、歴史的に見れば雑多な出自をもつ楽器たちの寄せ集めだ。音色の観点から見ても、ひとつひとつのパーカッションはテクスチャも音域も全然違っている。両手両足を駆使して演奏できるようにあしらわれたスタンドやペダルは、その機構的な精妙さ故にかえって不思議な印象を与える。さらにいえば、ドラムキットは不定形だ。ひとによってなにをキットに入れるか、どのように配置するかはだいぶ異なるし、新たなパーカッションの登場によってキットの可能性は拡張しつづけている。

そう思うようになったきっかけはいつごろかあまり覚えていない。ものすご~く辿ってみれば、大学時代に実物のキックペダルやハイハットスタンドにはじめて触れて、「なんでこんな妙なものをつくろうとしたんだろう」と思ったのがその原点だったかもしれない。もしくは。The Velvet Undergroundのモー・タッカーが立ってマレットで演奏していた、みたいな話を聞いて強く印象に刻まれたのもその前後だったか。そんなもとから思っていたことが、ケンドリック・スコットがインタビューで言及していたドラムキットのユニークな歴史に関する発言(Jazz the New Chapter 6(アフィリンク注意)やARBANのインタビューを参照)なんかで意識にのぼるようになった気がする。

さらに、デヴィッド・バーンが「アメリカン・ユートピア」でドラムキットを解体し、マーチングバンドを思わせる編成で自身の手になるロック/ポップミュージックを再構築したのを見聞きしたことで、改めてそんなことを考え出したのはたしかだ。

また、2022年6月にYCAMで行われた石若駿のパフォーマンス公演「Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち」も、そうした関心に没頭させるきっかけになった(わたしによるレポートは以下)。

石若駿とAIの共演が生み出した、“即興演奏を解体&再構築する”特殊な音楽体験 『Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち』を観て|Real Sound|リアルサウンド テック

「Echoes for unknown egos」は「AIとの共演」という側面が特にフィーチャーされたパフォーマンスではあったのだけれど、しかしそれ以上に、「AIがドラムを叩く」ということが逆にドラマーの身体とドラムキットの関係性についてある種批評的な観点をもたらし、また「ドラムの演奏にもとづいてメロディやピッチを生成する」という試みは、リズム楽器としてのドラムから、豊かなテクスチャをまとい、ときにメロディックな響きを生み出す特異な存在としてのドラムへと視点を変えるものでもあった(そしてそれは石若駿にとってドラムという楽器がどのようなものかをあらわすものでもある)。

やはり、ドラムキットというのは奇妙な楽器だ。

Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit, Oxford University Press, 2020.(アフィリンク注意)は、こうしたキットとしてのドラムがいかにして誕生し、普及し、ついには現在のポップ・ミュージックの中心的楽器へと躍り出ていったかが描き出される。ミュージシャンの証言や新聞記事、特許関係の資料、メーカーの広報誌等々を渉猟しながら徐々にドラムキットが姿を表していくのを辿っていくだけでも興味がそそられるものだが、この本をいっそう読み応えあるものにしているのは、そうしたプロセスを単に物理的なオブジェクトのレベルだけではなく、テクノロジーと人間と社会的な通念がうずをまくように相互作用していくプロセス――つまり、まさに社会史――としてさまざまな観点で記述しているからだ。

第一章で詳述されるように、そもそもドラムキット(当初はトラップといわれ、現在でもこの用法は残っている)が発明されるにいたったきっかけ自体が、ひとりでいくつもの楽器を効率よく演奏し、運搬し、音楽的労働市場で競争力を強めるためのある種の戦略だった。パーカッションに何人も雇うよりも、ひとりでその全部をまかなえる人をひとり雇ったほうが効率がいい。そんなニーズを先読みしつつ、ドラマーたちは自分で楽器を改良して、ときにはペダルをつかったビーターのような発明も自ら行ってきた。

こうしたドラムキットの歴史記述において強調されるのは、本書をつらぬくひとつの問題意識である、「愚かなドラマー」という差別的な偏見だ。ドラマーはしばしばメロディやハーモニーを担う楽器と比較して劣位におかれることが歴史的に多く、しばしば愚鈍で知性に欠く人びととしてジョークの対象となってきた。本書で描き出されるドラムキットの歴史は、それ自体、西洋音楽のヒエラルキーの下層に位置づけられたパーカッションの周縁性や、人種的ステレオタイプから生じたこうした偏見に抗うものとして肉付けされている。とりわけ、ラグタイムの流行からジャズの誕生あたりまでを追い、(楽音に対する)騒音としてのドラムスとクラシックの新たな関係にも言及する第二章「やかましいドラマー達、ラグタイム、ジャズ、そしてアヴァンギャルド」はその点で興味深いし、大戦間のジャズの受容を背景に世界的な影響力を放ちだすドラムキットの発展を描く第三章「勉強家のドラマーたち、ドラムキットを売り出す、規格化、そして名声」もおもしろい。

とはいえ、もちろん楽器と社会の話にかぎらず、音楽の姿をもドラムが変えていった(あるいは、音楽にあわせてドラムも変わっていった)ことを具体的な例を豊富に提示しながら論じているところも面白い。

その醍醐味にあふれているのが第四章の「創造的なドラマーたち、芸術的技巧、名人芸、そして時間を演奏すること」で、リズムをキープする役割がキックからシンバルへ移行することで、キックやスネアによるポリリズミックで複雑なドラミングが発展し、ドラマーによる表現の可能性が広がったビバップの時代を追った同章「ビバップとドラムキットのメロディ」や、あるいはR&Bやロックンロールの誕生へとつながるバックビートの発生を描いた「バックビートの隆盛」は読み物としてもおもしろい。特に後者では、三連のスウィング・フィールからストレートなエイトビートへの移行を描くなかで、「先んじてストレートなフィーリングが登場していた音楽、ありましたよね。そう、ラテンですよ……」とばかりに(さすがにこんな書き方はしていません)ティト・プエンテの話が出てくるあたりが見事だった。ちなみに第四章はリンゴ・スターの革新性をこれでもかと詳述した節があってそれもおもしろい。章のタイトルが示す通り、これらの議論はそのまま、ドラムにおけるクリエイティヴィティとはなにか? という問いへの応答となっていることを添えておこう。

現代(ざっくりといえばロック以降)のドラマーたちがおかれた状況に迫る第五章「働くドラマーたち、音楽的労働、ロールプレイ、そして著作権」も興味深い論点が多いが、ドラムマシーンやマルチトラックレコーディングなど、新しいテクノロジーとドラムキットがどのような関係を結ぶかを論じた最終章は自分の関心にも近く、おそらくいま音楽をつくっているような人には刺さる内容だとおもう。ここで一気にJディラからクエストラヴくらいまで話はぶっこまれるし、DAWを駆使したドラムトラックの構築に関する話は今日的な音楽における演奏の真正性についていろいろと考えさせられる(特に、その例がメタリカのようなメタルバンドからとられているのは興味深い。本文でも指摘されているが、超絶技巧と現代的な編集技術がコインの裏表のようになっているのだ)。

百数十年に及ぶドラムキットの歴史を追った本書が提示するのは、第一にドラムキットという楽器の重要性とそのユニークな歴史であり、そしていまだ根強くのこる西洋音楽のヒエラルキーに対する問いかけだ。しかし、結論で著者が言及しているように、そもそも楽器に注目してこのような歴史をつむぐということ自体が、様式や地域といった慣習的な境界をまたいだ歴史の可能性をひらくということもまた重要だと思う。それはかならずしもユートピア的なものではなく、痛々しい歴史や文化的侵略といった側面にも向き合わざるをえないものだが、というかむしろそれゆえにその重要性は高いのかもしれない。

コメントする

Regina Spektor – Loveology

ひさしく、情報をおうのが億劫になっていて、YouTubeの「後で見る」プレイリストは大量の動画であふれている。たまにやる気が出るとそれを消化することになる。それで、たまたま、きょうRegina SpektorのTiny Desk Concertを見た。

アップライトのピアノ一台と自分の声だけ、というシンプルなセットで、いかにもTiny Deskというパフォーマンスだ。そのなかの一曲、「Loveology」というのがいたく気に入った。この曲は6月に出た新譜『Home, before and after』に収録されていて、リードシングルにもなっている。

「ああ、どうしようもないヒューマニストだ、あなたは oh, an incurable humanist, you are」という皮肉っぽくもやさしい呼びかけではじまるこの曲は、「あなた you」と語り手の親密な関係を歌っているかのよう(映画に行こう、そしたらなんでもない歌をハミングしてあげよう)だけれども、ブリッジで唐突に「席について、みんな。教科書の42ページを開いて Sit down, class, open up your textbooks to page 42」と調子がかわる。

教室で、教科書を開いてなにを学ぶのだろう、と思っていると、歌はこんな調子でつづく。

ヤマアラシ学、鹿学 Porcupine-ology, antler-ology
車学、バス学、列車学、飛行機学 Car-ology, bus-ology, train-ology, plane-ology
ママ学、パパ学、あなた学、わたし学 Mama-ology, papa-ology, you-ology, me-ology
愛学、キス学、このまま学、お願い学 Love-ology, kiss-ology, stay-ology, please-ology

なんてことない名詞や動詞が、~logyの接尾辞で「論」とか「学」を装いはじめる。まあ、よくある言葉遊びだ。それに、日本語にまんまうつしたときの間抜けさはちょっと見逃してもらうこととして……。しかしここで、ヤマアラシとか鹿とか列車とか飛行機とか、スケールもぜんぜん違うアトランダムな単語が連なることで、「学」を装うことのナンセンスさが強調されているのに注意したい。だっていきなり「愛学 Love-ology」とかうかつに言い出したら、なにか含蓄のある持論が展開されるものかと思ってしまうだろう。愛もまた、そこらにあふれる存在や行為と並列に扱われる。と同時に、「学」のよそおいは、具体的で特別な「あなた/わたし」の関係性というしめっぽさを離れて、そこに一種の一般化された体系がひそむことを想起させる。

とはいえ、一般名詞で整えられていた単語の品詞は、ママ・パパを経て、あなたあたりからあやしくなっていく。それは(代)名詞ととりうるかもしれないけれど、目的格かもしれないし(you, me)、あるいは動詞や副詞かもしれない(love, kiss, stay, please)。特に、「学」の装いをはずした”love, kiss, stay, please”という4つの単語は、親密さを(なんなら具体的な場面を)想起させずにはおれない。

「勉強しましょう Let’s study」という呼び掛けにつづいて、「愛学、愛学、ごめんなさい学、許して学 Love-ology, love-ology, I’m sorry-ology, forgive me-ology」と列挙される「学」を装う言葉たちには、思わず痛みを覚える。しかし、「学」を装ったこれらの言葉は、こうした痛みが、それなりに長く生きていれば程度の大小はあれど経験するであろう「あるある」のなかにつつみこまれてしまっていること、を示唆する。

だから「勉強」しなくてはいけないのだ。これは「勉強」することができるはずなのだ。ヤマアラシについて調べたり、車のことを論じたりするように。そう言い聞かせているかのようだ。

しかし、どんなに「学」の装いのなかにおしこめようとしても、言葉は(あるいは歌は)余計なものをどうしてもにじませてしまう。かくして、「学」を装う教室の言葉は、教室の外、あるは授業の前におかれた言葉と混じり合いだし(”oh, an incurable humanist, you are”)、そして誰かへの呼びかけでも、教室のまねごともやめた、むき出しの姿をあらわしはじめる。

ごめんなさい、許して、ごめんなさい学 I'm sorry, forgive me, I'm sorry-ology
許して、ごめんなさい、許して学 Forgive me, I'm sorry, forgive me-ology
許して、許して、許して学 Forgive me, forgive me, forgive me-ology

「学ぶことができるはず」という楽観的でヒューマニスティックな信念と、いかにも人間的な脆弱さのあいだを揺れ動いているかのようだ。forgive me と ology に引き裂かれる二重性を思うと、I も you も実はおなじひとりの人間なんじゃないかという気がしてくる。「どうしようもなくヒューマニスト」な「あなた」は、つまるところ、forgive me と ology のあいだに立ち尽くす「わたし」その人であって、独白、一人芝居のかたちをとった、痛みと向き合い抱きしめるための歌なんじゃないか。そういうふうに考えると腑に落ちるので、自分のなかではそういうことにしておく。

コメントする

「現代音楽」の世界を物見遊山(藤倉大『どうしてこうなっちゃったか』を読む)

藤倉大『どうしてこうなっちゃったか』幻冬舎、2022年(アフィリンク注意)

作曲家、藤倉大の自伝エッセイ『どうしてこうなっちゃったか』を読んだ。名前は聞いたことあるけど作品を知ってるわけでもない。でも、なんとなくポチった。サブスクで藤倉大の作品を流しながら読んでみる(なんかこう書くとシャバいな)。すると、これがめっぽう面白かった。

困ったらとりあえず開きがちなSpotifyの「This Is~」。身構えて再生してみると思ったよりもキャッチーで、色調に富むのに鮮やか、みたいなバランスがすごい。

なにが面白いかと言えば、まず第一に異世界転生とかのチート主人公かなんかかよと思うような藤倉の存在感もさることながら、出てくる人物の片っ端からキャラの濃いこと。また、現代音楽という多くの人にはあまり馴染みのない世界がどう動いているのか、ひとりの作曲家の視点から見えてくることも面白い。ざっくばらんな語り口と「マジかよ」というエピソードに導かれて読み進めると、作曲家ってどういうふうに食ってんの? みたいな下世話な関心も満たされるし、かと思えば、作品1本を書き上げ実演するのにどんな苦労とよろこびがあるかもリアルに描かれて、そのまっとうさに胸打たれる。

なにより、いち作曲家としてなにを試みようとしていたか、自分がこの音楽――たとえばオーケストラによるアンサンブル、たとえばオペラ、たとえばライヴ・エレクトロニクス――にどんな魅力を感じているかを書き付ける筆致が良い。第十五章で、オーケストレーション(オーケストラで鳴らすために作品を練り上げる、まあポップスの領域で言うところの「アレンジ」というか)の面白さを、具体的な例を並べて簡潔に説明したうえで、「少ない数の楽器から多彩な音の花を咲かせるのが、オーケストレーションの醍醐味だと僕は思う。」と一言まとめるあたりは、「うわ、これパクろう」とか思ったりする(ちゃんと出典を明記して引用しましょう。今回はKindleで読んでいるうえ、なぜか位置番号がうまく参照できない。あしからず)。

さらに、坂本龍一やデヴィッド・シルヴィアンといったアーティストとの交流のエピソードからは、録音芸術としてのクラシックという、馴染み深い一方でいささかややこしい領域のあり方にも思いが及ぶ。いま音楽というと録音された商品を指すことが多い。それが巨大な資本の投下されたプロジェクトであれ、ベッドルームからえいやっと放たれた音声ファイルであれ、のっかっている土俵は根本的には同じだ。同じであるがゆえに、さまざまな〈力〉の多寡がそのまま格差としてプレイヤーにのしかかってくるわけだが……。そこに、いわば畑違いの作曲家が乗り込んでゆくことの意味について考えざるをえない。とか言い出すとじゃあ現代音楽ってのも結局さぁみたいなことにもなるけどまあそこまで踏み込まない(そのあたりのやだみや辛さを感じるエピソードもそこかしこにあるのである種誠実なエッセイだ)。

まあ、オーケストレーションにせよ録音芸術としてのクラシックにせよ、ほんの数段落言及されるくらいの話なんだけど、起伏の激しいエピソードのなかにあるそういう細部にこそ含蓄の多いエッセイだ。軽く読めるしおすすめしたい。

コメントする

山をみる(あとWIRE「Map Ref. 41°N 93°W」)

少し遠くの業務スーパーまで買い物に行った帰り、自動車を走らせていると、舞鶴山という天童市のランドマーク的な山が進行方向の真正面に見える。ランドマークといっても、さして標高の高くない、盆地の底にぽこっと湧いたような山なのだが、その表面にはいつもすこしめまいを覚える。植生がつくりだすさまざまなテクスチャがぎゅっとひとつの面に凝縮されていて、まるでまわりの風景から浮かび上がるように見える。そのまま吸い込まれてしまうような気がしてくる。

いったん山の中に自分が入ってしまえば、規則性のあるようなないような木々の連なりに奥行きを感じられる。しかしそれが山肌として外側から眺められるときには、表層のうごめくような質感に還元される。はたしてそれが遠いのか、近いのかも判然としない。遠さを示すのはただいま足をつけているこの地面からの連続性と、空気を通して霞んでいく色合いだけだ。うっすらとした方向感覚喪失の陶酔がもたらされる。遠さと近さが入り混じってしまうような空間の感覚は、整然と幾何学的にマッピングされたものとはぜんぜん違うような気がする。

わけいって体験される山ではなくて、視覚的なオブジェクトとしての山は、なにか独特な異物感がある。よく交通の都合で山寺駅を使うことがあるのだが、プラットフォームから見える山の風景にはいつもぞわっとする。あるいは仙台に向かって関山街道経由で車を飛ばすときにも、あたりを囲む山肌の質感にぞくぞくする。

最近は、そんな山が意外と好きなのかもしれないと思いはじめた。ロマン主義的な崇高(フリードリヒの絵画みたいな)の表象とか、あるいは富士山みたいにモニュメンタルな存在ではなくって。以前大分県にしばらく住んでいたとき、特に豊後高田市だったと思うが、山の風景が地元で慣れ親しんだ山となかなか違うのに驚いたものだが、思い返してみると、あれも自分が求める山だったかもしれない。いまとなっては、なかなか行くにも億劫な距離ではあるのだが……。

Wireの「Map Ref. 41°N 93°W」(『154』、1979収録)では、緯度・経度や等高線といった概念を通じて幾何学的に再構築される地図上の自然と、いままさに目の当たりにしている自然とのめくるめく往還が描かれている。最初のヴァースで語り手は(といっても文体はほぼ三人称なのだが)ひとしきり自分が体験している自然に驚異とともに思考をめぐらせるが、コーラスでは我に返る(所有格の一人称、myがだしぬけに登場する)。「思考の流れをさえぎり/経度と緯度の線が/定義して、研ぎ澄ます/わたしの高度を」。なんだか松江泰治の航空写真を思い起こしたり、あるいはその後の歌詞が示唆する墜落事故から、ロバート・スミッソンの仕事を連想したりもする。
コメントする