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imdkm.com 投稿

山形-山口日記(6/7 東京トランジット編 pt.2)

深夜、喉がからからになって目覚める。飲み物と、せっかくなので明日の朝食を探しにコンビニへ向かう。が、コンビニが閉まっている! オフィス街のコンビニは閉まりがち。おれは学んだ。ちょっと歩いたらミニストップがあったので、飲み物とパンとアイス買って宿に戻る。チョコミントのアイスって場合によってはなんか変な風味が出る(妙な香ばしさというか)よな。

リヒター展。まあ「見ておきたい」程度のモチベーションで、「実際みたらまあまあだったわ」みたいなことになるだろうなって思ったんだけど、割と真剣に観てしまった。2時間がっつりかけて、しつこく見ていた。アブストラクトペインティングはなんだかんだ面白い。最初の5枚で40分くらいかけちゃった気がする。

ゲルハルト・リヒター展 (exhibit.jp)

なんも知らんなりに、リヒターがやりたいことというのを延々考えながら見ていると、やはり「イメージ」(と和製英語で言うのがいいもんなのかわからないが)の提示なんだろうなという気がする。写真を絵画に。あるいは絵画を写真に。そうしたメディウムの変換を通じてもなお維持される、物理的な支持体に依存しない質。写真のドキュメンタリー性(インデックス性?)や、絵画のマチエールがそれぞれのジャンルにおいて担保する真正性に対する拒絶。みたいな。そうして抽出された「イメージ」は、たとえば「○○のイメージ」という指示作用から切り離された、ただそこに存在する不気味ななにものかでしかなくなる。徹底的に非人間的なリヒターの自然観はそのまま「イメージ」の世界にも適用される。風景画や静物画の重要性というのは多分そのあたりにあるんだろうなと思う(その意味で、不法占拠された住居を描いた作品の不気味さをタイトルのマジックのように説明するキャプションはちょっとずれていて、そもそも世界は言葉の助けがなければ不気味であり、「イメージ」もまた不気味な世界のひとつである、ということなんじゃなかろか)。

そうした「イメージ」のモデルがガラスであり、あるいはグレーペインティングであり、あるいはカラーチャートなのだろう。それ自体はなにも指示しない空虚として、あるいは中立的で特定の色調を欠いた無としての、「イメージ」。とはいえ、入ってすぐのガラスのインスタレーション?はあまりにも図式的というか、コンセプトを提示しましたみたいに見えてしまうのだが……。

メディウムなりジャンルの固有性、あるいは外部からもたらされるテクストが「イメージ」が「○○のイメージ」たりうることを保証してしまうことに対して、リヒターは深く抵抗しているように思える。《ビルケナウ》の展示が、もととなった写真、連作4枚、連作の写真複製、そしてグレーのミラーで構成されていたことは、「○○のイメージ」の装いをはぎとって「イメージ」へ還元するために必要だったのだろうと思う。単に「○○のイメージ」を覆い隠して不可視にすることだけでは、表象への批判たりえない。単に絵の具で覆い隠せば、それは絵画の文脈のなかでなんらかの正統性が保証されてしまいかねないからだ。不気味な空虚としての「イメージ」へたどり着くには、メディウムのあいだを変換してゆかなければならない。

その意味でオイルオンフォトはやっぱりおもしろい。多くのオイルオンフォトが日付をタイトルに付してそのドキュメンタリー性(いや、あれって撮影の日付ではないのか? まあいいか)やスナップショットの親密さを示唆しながらも、油彩と写真が接触してコンフリクトを起こすことで、「イメージ」が発生する。みたいな? みたいな。

みたいなことを延々考えながら見てたら、2時間経ってたとゆうことでした。コレクション展も一応見た。

パレスサイドビルのカレー屋で昼食を食べたあと、そのまま神保町へ向かう。三浦さんとひさしぶりに会った。いやほんと、2年ぶりとかじゃないか? 下手したらもっとか。何度かZoomで話したり電話したり、TALK LIKE BEATSに出てもらったりとかあったけども。YCAMの石若さんと松丸さんの公演がよかった話をする。

少し遅れて、木下さんとhonninmanがやってくる。昨晩連絡があり、東京来てるならご飯でも、みたいな話になっていたのであった。せっかくだし三浦さんと一緒に会ったらおもしろいのでは? と思って呼んだのだ。4人でいろいろ話した。久しぶりに人とこうやって話したからとても楽しかった。考えてみると、木下さんだけじゃなくてhonninmanも会って話すの初めてで、「うわぁ、リアルhonninmanだ!」となった。いや、ライブは見たことあるんだけど。神保町の喫茶店をハシゴしていろいろとお話。いきなりこんながっつりしたこと話すんだ、みたいな話題も多くて、ひきずられて自分もいろいろ話した気がする。

屈指の神回ことTALK LIKE BEATS木下百花さん回(あと中編・後編もあります)。

三浦さんは諸事情で途中で帰られたのだけれど、そのあともしばらく3人で話して、最終的には「柴田聡子はマジですごい」ということで落ち着いた。また会いましょう、と誓って解散。

神保町から東京駅まではタクシー。思ったよりちょっとかかったけど問題なし。山形までの新幹線のなか、グロッキーになってしまって、意識が何度か飛んだ。母親が駅まで迎えにきてくれたのだが、「飛行機で福岡まで行って、そこから山口に行くのもアリ」と言われ、ああ、最初から相談しておけば……と思った。まぁ、東京に寄りたかったというのも本音なので、難しいところではあった。

文字通り長い旅だった。往復15時間も新幹線乗ってたよ。はぁ……。

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山形-山口日記(6/4-6 YCAM編)

6/4

朝6時ごろ起きてうすらぼんやりしつつ準備。8時半の新幹線で東京から新山口まで向かう。なんと4時間半! 遠すぎる。遠すぎるが行くしかない。新幹線の車内では、予習として石若さんや松丸さんの参加作やリーダー作を聴いていく。

新山口からYCAMまでは電車とバスを乗り継ぐ。ワンマン列車がオレンジ色のレトロなやつでかっこいい。地元のワンマン列車はもっと味気ない。山口駅からJRバスでYCAMへ。プレス向けの楽屋に通してもらい、先に着いてらしたライターさんと軽く挨拶。大学院のときにお世話になった先輩と同僚だったということで、なんか知っててもらったようだった……ありがたい。

その後、YCAMの渡邉さんにひととおり施設を案内してもらった後、いったん宿泊先のホテルにチェックイン。危うく眠ってしまいそうになるが、思いの外時間はない。あらためてYCAMへ向かう。

ホワイエで開場を待っていると、細田成嗣さんと遭遇。アイラー本(↓リンク)で声をかけてもらってDOMMUNEでトークもしたのだが、直接お会いするのはこれが初めて。初めて!? ちょっとびっくりしたが、たしかに会った記憶はない……。近況報告や今回の公演についてちょいちょい話す。

AA 五十年後のアルバート・アイラー(アフィリンク注意)

公演自体の感想はまた別途記事になるのでここでは書かないが、初回でかなり実験的な試みということもあって、なにが起こっているかを把握するのがまず大変だった。とはいえ石若さんのパフォーマンスも、「エージェント」たちの演奏もおもしろかった。アフタートークも丁寧に今回の試みをときほぐしていた。

その後、渡邉さんらと晩ごはんを食べ、やや遅くに宿に戻る。そのまま寝ればいいものを、なかなか眠れず、変な時間まで起きることに……。

6/5

山口滞在2日目。この日はお昼の公演だったので、時間までホテルでゆっくりしていた。といっても、もっぱら予習である。配られていたハンドアウトを読んで、きのう公演中とったメモを読む。お昼すぎ、YCAMに向かう。

2日目の公演から松丸さんが参加。ざっくり書くと、2日目は結構マジックが起こっていた(初日もだけどね!)。奇跡みたいなことがあるんだな……と息を呑む。

公演後、細田さんも結構評価が高かった様子だった。「即興」としての評価は自分はおいておくが(経験値がなさすぎるので)、しかしこれほど実験的な試みがうまくショーとしてスリルのある展開を見せたというのは、やはりおどろくべきことだ。

時間もわりとあったのでいろいろまわろうかと思ったのだが、大雨で出歩くにも出歩けず、宿に戻ってそのまま。すこし仕事をしたり、やはり予習をしたり。翌日はさらに取材。なのでその準備。

ふと思い立って、7日の東京でひさしぶりに□□□の三浦さんに会おうかなと連絡してみる。午後にお茶することに。

6/6

ホテルをチェックアウトしてから取材まで時間があいてしまうので、YCAMで作業させてもらいつつ待機する。Notionでつくった資料を、PDFでエクスポートして、iPad AirのGoodNotesに読み込む。するとApple Pencilで書き込みもできる。最近なかなか使いどころが難しかったiPadの活用方法が見えてきた。

午後から取材。どうなるものかと思ったものの、無事聞きたい話は聞けた……と思う。インタビューだったのだが、インタビュー自体を記事にするわけではないので、どっちかというとヒアリングみたいな感じだろうか。終了即、新山口駅へ。時間の見込みが甘かったのもあって結構ぎりぎり。ホームまでダッシュ! した。ここからまた4時間半、新幹線に揺られる。

東京につくとまあまあの雨。バスで宿に向かう。ゲルハルト・リヒター展を朝イチで見るために竹橋駅の周辺に宿をとっている。ナインアワーズ。オフィス街の夜ってマジで静か。晩飯をコンビニで買って食べる。ぐったりしながらカプセルに入って、寝落ちしてしまう。

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山形-山口日記(6/3 東京トランジット編)

いろいろあってYCAMこと山口情報芸術センターで開催される石若駿「Echoes of unknown egos」をみにいくことになった。しかし山形から山口までがあまりにも遠い! いろいろ検討してみたけどもうよくわからなくなり、時間はかかるが堅実な新幹線での移動となった。

そいで、この日朝8時の新幹線で東京へ向かう。美術館をまわるつもりでお昼にはつく行程にしていたのだが、みたい展示が微妙になく、結局アーティゾン美術館だけになった。

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴崎敏雄×鈴木理策 写真と絵画ーセザンヌより | アーティゾン美術館 (artizon.museum)

アーティゾン美術館では柴田敏雄と鈴木理策の二人展(さらに、ふたりがセレクトした絵画や彫刻作品も展示される)がやっていて、かなり対照的なふたりの作品を比較しながら見てけっこう楽しんだ。風景を平面に還元したうえで、平面上の分割(線、テクスチャの差異、要素の粗密……等々)によって(いわゆるフェノメナルな)空間をつくりだす柴田と、写真の機構的・光学的特性を活かして空間や時間を描き出す鈴木。どちらも「モダン」といいうる作風だが、前者が近代絵画の問題系を引き継いでいる意味でのモダンさ、後者はむしろ写真の媒体固有性への問いを常にふくませているという意味でのモダンさ、みたいな感じだなあと思った。

それは写真の画面のなかでどのような造形的な操作が行われているかにやはり如実にあらわれているし、モチーフの選び方もそうだと思う。たとえば水を扱うときに柴田はその運動を消し去る(露光時間を長くしてぼかしてしまうとか、あるいは運動の痕跡を造形に還元してしまう)ところがあるが、鈴木は波の扱いに特徴的なように、その運動をうまく写真のレイヤー構造(前景、中景、後景)と重ね合わせる。もちろんモネの睡蓮を参照した作品では水面が不動ではあるのだが、それは問題となっているのが「水」ではなく「水面」であることを考えれば、まあわかりやすい(その限りであれはハーフミラーをつかったミラーポートレイトと並べて見れる)。海において波は奥行きの運動を連想させる(浜辺から撮る限りにおいて)。それが写真に封じ込められる、その媒体に固有な空間性のアナロジーになっている。ような気がする。

雪舟の作品をはさんでふたりの作品が展示される最後のパートは、プリントのくろぐろとしたニュアンスを強調する柴田と、印画紙の白さへとぎりぎりまで接近してゆく鈴木の対比がはっきりでていて、おもしろいがそこまでバイナリでよいのだろうかという気にもなった。

Transformationとかも見ましたが……クレーかっけ~とかそういう感じで見てしまった。寝不足だったのと、柴田+鈴木で頭つかいすぎたのもあり……。

じゃっかんぐったりしつつ、アーティゾン美術館めのまえのすき家で昼飯を食べ、適当に時間を潰しながら新橋の宿に向かう。入り口の階段も寝床までの通路もめちゃ狭いドミトリーだったが一泊するだけなら居心地はよかった。晩ごはんを食べにふらっと駅前まで出たほかは、寝床でつぶれていた。

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出来事と過程、単数と複数

R-1ぐらんぷり2022での寺田寛明「始まりの歴史」が好きだ。世の中のいろんなものごとに対して、「よく考えてみると奇妙だし、こんな奇妙なものを最初に考案したひとはまったく理解されなかっただろう」というスタンスで想像をふくらませる文字ベースのフリップ芸。身の回りの変なことにツッコむ、あるいはツッコむとまでは言わなくとも「なんか変だよね」と提示する。それ自体はわりとベタなスタイルだろう。けれども「始まりの歴史」は少しねじれていて、ツッコむのはいまを生きる私たちではなくて「始まり」に居合わせた同時代の人びとということになっている。その「始まり」を操作することでナンセンスがうまれている。

たとえばテニスのルールは特に印象的なくだりだが、誰か特定の個人が現在のテニス全体を一度に作り出したという「始まり」を設定することで、テニスというスポーツが持つ「なにこれ?」みたいな細部の異様さを強調されることになる。しかし現在のテニスは誰かがいきなり考案したものというよりも、長い歴史の中で用具やルールが洗練され、ある時期に制度化と産業化が進んだ結果だ。いろんな時代のいろんな人があれこれ試行錯誤してきたものを、あたかもひとつの「発明」のように描くことでうまれるナンセンスが「始まりの歴史」である。

前半はもっぱらそのように、長い複数のプロセスの産物を発明という出来事に置き換えることでネタが駆動していく。後半は少し事情が変わる。そこでは会議というシチュエーションが重要になってくる。いち社員が会議で(ちょっと奇妙なことを)提案するが、真面目に受け止められない(だって変だから)。これは個人による発明を企業組織のなかのプロジェクトに重ね合わせることでナンセンスがうまれている。重要なのは、会議は特定多数による協働の場であるということだ。たとえば回転寿司は、とある経営者がベルトコンベアに着想を得て自ら開発した仕組みが普及したもので、特定の個人による発明だが、それが会議というシチュエーションを通じて協働のプロセスへと還元されている。

だから、「始まりの歴史」には、不特定多数の人々が関わってきたプロセスを単一の発明という出来事に還元することと、単一の発明を組織による協働のなかにあえて位置づけること、ふたつのほとんど正反対の志向が含まれている。ふつーに既存のネタを再編成したネタだからそうなってんだという話だろうけれども、「始まり」をめぐる短絡の心地よさってあるなと思う。最後なげやりになってるのは「なんでこんなの書いてんだろう」って思いながらうまいオチだけはつけたいという気持ちがわいてきて、それもくだらんな、なんかもういろいろどうでもよくなってきた、となったからです。R-1で一番好きだったのは金の国の人のやつでした。なんであれが優勝しなかったんだ。

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アドホックな祈り

正直祈りってどういうことなのかあんまりわからない。祈ったことがないという意味ではない。自分が祈っていると自ら思うときもそれがどんな行為なのか自分ではわからない。これといった信仰の習慣を欠きアドホックに(あるいは気まぐれに)行われる祈りってなんなのか。でもひとがなにかせずにはいられないのになにかすることがかえって悪夢のような現実へとひとを誘い込むようなときに祈りは大事な役割を果たすのかもしれないなと最近思うようになった。

漫画のセリフからとられた「祈るな 祈れば手が塞がる」という警句は「手を動かせ」というメッセージとしてひろく俗っぽく受容されている。けれども「手を塞ぐ」ためにこそ祈りはある。と反転させたときにみえてくるもののほうが重要だと思う。無為に留まることは思いの外難しい。たとえその手になんの頼りもなく立ち尽くすしかないときも。「なにかしなくては」という思いをしずめる。「なにもできない」という無力感に抗う。そのために(つまり無為を受け入れるために)アドホックな祈りがある。

実際にはほんとうの意味で「なにもできない」などということはほとんどない。微力であってもいかに迂遠でもなにかしらできることはある。しかし「なにかしなくては」という切迫感を自分にとっても世界にとっても満たしてくれる「なにか」とそううまく出会うことはない。そんなときに目についた「なにか」が人を踏みつけにする可能性もある。あるいは切迫感に押しつぶされて「なにか」に出会う前に「なにもできない」という無力感にこころをくじかれることもある。

アドホックな祈りは奇跡の到来や超越的なものとの交通を願うスピリチュアルな行為というよりプラクティカルなものだ。無力感にあらがって焦燥感を鎮める先送りの技術。場当たり的に祈ることによって第一に救われるのはほかならぬいま・ここの私だ。だからアドホックな祈りは利己的で孤独なものだ。しかしそんな祈りなしに生きていくことはあまりにも難しい。

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読むことのジレンマ

読むことは難しい。そもそも文章を読み解く行為自体が一定のスキルの必要なものなんだけれど、もっと難しいのはそんな解釈の技法の外にある「どこまでをどのように読むか」の判断だと思う。たとえば、与えられた文章を書かれているままに読むべきか、それとも書かれていない「行間」を読むべきか。「行間」を読むとして、どこまで読み込むのか。最近、ずっともやもやと悩んでいる。

「まま」と「行間」だと、なんとなく後者のほうがより高度と思う向きもあるかもしれないが、かならずしもそうではない。「行間」はしばしば罠で、自分もふくめて少なくない人びと(それを定型発達の、と言ってもよいだろうが)は、書かれていないことを勝手に 文章 のなかに読み込んでしまう。そうするべきときもある。「行間」的な読みは、複数の文章をつきあわせた地道で実証的な作業を経なくても、ヒューリスティックにそこそこ妥当な解釈を導くことができる。日常的なコミュニケーションにおいては「行間」的な読みのエンジンのほうが優勢な場合が多く、字義通りであることはむしろイレギュラーとして捉えられがちだ。

そうした「行間」に慣れた人にとっては、与えられた文章をそのまま読むことのほうが、むしろ訓練が必要な特殊技能である場合も多い。書いてあることを、書いてある範囲に限って読み、解釈として再構築する。書かれていないことをみだりに引っ張ってこない。それには忍耐がいる。助詞のひとつも、接続詞のひとつも読み落とさないように読むこと。精読とは、「行間」へ深く潜り込むことではなくて、むしろ文という表面のうえに広がる迷路に身を投じるようなことだ。

しかし、世の中にあふれるテクストの多くが「まま」では正当に読めないようにできているのもまた事実だ。なんなら、「犬笛」などと表現される、ある予断に訴えかける言外のメッセージが埋め込まれたテクストを「まま」受け止めることは、もしかしたら倫理的に不適切かもしれない。一方で、「まま」読むべきテクストの背景を邪推してありもしない「行間」を読み取ることもまた、倫理的な過ちになってしまうかもしれない。「行間」に目を凝らさねばならないときもあれば、「まま」の領域に留まらなければならないときもある。その判断こそがもっとも困難であり、それゆえに避けがたい過ちを生み出し続ける。「行間」への危険な欲望と、「まま」のもたらす盲点のあいだで、最適な落とし所を都度ごとに探り当てるのは至難の業だ。

さしあたっては、「読む・解釈する」以外の方法をとりいれることがこうしたジレンマじみたシチュエーションに介入する方策となるだろう(たとえば、受け手やその集合としての社会に与える効果や、その内部での機能に着目する)。が、依然として、実践的なコミュニケーションの問題として、「まま」と「行間」のはざまの葛藤は、自分を捉えてはなさない。

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天井とTikTokはほぼ同じ

業務スーパーに行って「guillaume super……」と思ったり、コンビニの値下げ商品を漁ったり、天井とTikTokを交互に見たり、Duolingoのレッスンを1つ進めては「きょうのノルマは達成」と自分に言い聞かせたり、でかすぎて手に余る本を解体してKindleで読めるようにしたり、鶏むね肉を電気圧力鍋でごりごりに調理してふぁっふぁの鶏フレークにしたり、浴びるように紅茶を飲んだり、世界の不思議について考えたり、ドライブ・マイ・カーにおける人称、私、自他の境界のぼけや侵犯のようなことが気にかかるのはおそらくもっとも直接的に、自分が自分にひもづいている感覚が薄く、それが苦しいときもあれば多幸感をもたらすこともある、そういうことに関係していて、自分の直感する世界が描かれている、自分がもっとも恐れる(求める)言葉の作用がそこにある、みたいに強迫的に解釈してしまうからかもしれない、確定申告の作業をうっすら進めたり、風呂を掃除したり、ひげをそったり、洗濯し忘れたり、洗濯したことを忘れたり、キョコロヒーを見て赤ん坊のようにけたけたと笑ったり、この離散的な意識、夜にいーってなって外に出るんだけど閉店しかけのスーパーは空っぽだったり、液体絆創膏が好き、箇条書きはすべて幻想、龍角散を丸呑みする。

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私以外私じゃないけど私が私だとは限らない(ドライブ・マイ・カーについて)

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」を見た。いきつけの映画館のスタンプカードを見ると、どうやら劇場で映画を鑑賞したのは昨年10月以来のようだった。それもドキュメンタリーかなにかだったような気がする。3時間ほどの上映時間を耐えきれる気がしない、と思っていたのが、じっさいに見ると体感100分だった。あっという間ってこういうことなんだな。

以下、ネタバレといえばネタバレだと思います。原作とかチェーホフ読んでからなんか書こうかなと思ったけど、やめた。

どういう物語なのかさっぱり予習せず、なんなら予告編も観ていなかったので、道具立てがひとつひとつ明かされていくたびに、へぇ、これはすごいな、と感心していた。登場人物たちがある出来事(あるいは過程)を通じて変化する、ような物語かと思っていたのはまるで違っていた。ある人物が時間の経過や出来事の経験に伴って被る変質よりも印象的なのは、「テキスト」や「声」や「身振り」をめぐって人物たちが重なったりすれ違ったりしていくさまで、誰がその声を所有しているのか、その声は誰に向けられたものなのか……といった主/客の関係が常にスリリングに(ときに時系列を混濁させながら)流動していく。誰もが言葉に憑依されてしまっているかのような不気味さと、だからこそ生じている情動の交通の、暴力と融和がずっと背中合わせに共存している感じがよかった。

そのような映画のなかで、終盤のクライマックスと呼べるポイントで「僕は正しく傷つくべきだった」と言って慟哭する家福の姿の無防備さと陳腐さは著しく浮いている、ように思えた。それをけなしているのではなく、むしろ、あの陳腐さこそがこの映画の巧みさの表出なんじゃないかと思う。流れとしては、渡利の問いかけに対するリアクションのように見える……のだが、それまでは成立していたダイアログがここで破綻している。渡利の問いへの答えよりも先に、モノローグがはじまってしまう。それこそが家福という人にこの経験がもたらした決定的な変化なのだ、と言ってしまうこともできるだろうし、そのように捉えれば「陳腐である」というのはあまりに突き放した評価と思われるかもしれない。けれども、唐突に「感情的」になり、「弱さ」を表出させたかのようなこの場面に漂う白々しさは、つづく「ワーニャ伯父さん」の上演のシーケンスがうわがきされることで強められるとともにその意義が腑に落ちてくる。

舞台上、ソーニャがワーニャに語りかける一言一句が、ついさっき見た家福の独白とゆるやかにつながっていく(ように思った、もっかい見たらそうでもないかもしれない)。あの独白でさえも、家福のなかに浸透したチェーホフの、あるいはソーニャの言葉の影にすぎないかもしれない。しかし、渡利がその直前に言うように、演技なのかどうかはどうでもいいし、演技だとしてもその演技にはなんらかの真正さがあり、たとえそれが一貫性を欠いた不審で不自然なものだったとしても、その全体をありのままに受け取ることが、必要なのではないか。「本当の言葉」への回帰ではなく、演じてしまうことまでを含めた全体そのものの受容。

さて、家福が演じるのはもちろんソーニャではなくワーニャ(しかも、もともとは高槻が演じるはずだったワーニャ)でソーニャを演じているのは韓国手話を使うイ・ユナである。しかし、じっさい、多言語演劇という手法の都合上、自分の役だけではなく他の役のテクストも覚え込まねばならず、それがもたらす特殊ななにかこそを追い求めているのだ、というのは劇中での家福自身の言動が伝えるところだ。かつ、韓国手話で演じられるソーニャから二人羽織のようにして相手の身体を借りながら放たれる呼びかけは、「ソーニャからワーニャへと伝えられる」というよりもむしろ、視覚的に言えば、「ソーニャとワーニャが『私たち』として発する」もののように、もっと言えば「ソーニャとワーニャの区別がないまぜになって漂う」言葉のようにも思えてくる。といってもそれは自他の境界がなくなった幸福な統一であるというよりも、浮遊する言葉を前にからっぽの身体へと還元されていくそら恐ろしさにも近い。

同じ韓国手話がフックになったシーンで言えば、夕食に招かれたコーディネーターの家でのシーケンスは、「通訳」を通じて発話の主体、言葉の所有者が不明瞭になることがもたらす危うさを常に漂わせながらぎりぎり成立しているような鋭さがみなぎっていて、統一の裏面にぴったりとはりついた不穏さを感じながら、そのバランスになにか感じ入るところがあった。

いずれも、言葉に対する特異な認識というよりは、むしろ直感的には言葉がひとに働きかけるやり方と非常によく一致しているように思う。私の言葉は私の言葉にとどまることができないし、他人の言葉は容易に私のなかに侵入して支配してしまう。言葉を使っているのか、言葉に憑かれているのか、いま発している言葉が私のものなのか、しかしそうじゃないとしてなんだっていうんだろう。みたいな。言葉がそもそも持つ他者性、ポストモダン的などうこうとかじゃなくて、もっと根本的な身体感覚や直感に属するものとしての。

そもそも、「私の my」という所有格の代名詞は、「私」という揺るぎない主体への所属を意味しているかのよう(それゆえに「drive my car」というフレーズに独特の親密さや信頼のニュアンスが生じる)だが、しかし「私」という言葉は、指示対象をいくらでも変える。発話した主体を指していることもあるだろうし、発話した主体が演じるキャラクターを指していることもあるだろうし、もっとややこしくするならば、私が記した「私はimdkmです」という文章を誰かが読み上げた場合、その文章が指示する「私」とその声を発した主体は一致しない。「私」はいろんな身体、声、主体に憑依して実体をもたない。文脈に依存する代名詞なら当たり前だろ、と思うかもしれないが、その当たり前を貫いた先にあるのは言葉と声の不穏な世界であり、「ドライブ・マイ・カー」はそこに触れている。

「私の車」、しかしその車を所有する「私」はいったい誰でありうるのだろう。などと思いながら見届けた最後のシーケンスは、ほんのりと混乱を残しながら、浮遊する「私」という代名詞のつかみどころない存在をいっそう強調していたように思う。

(ちなみに、ジェスチャーの観点から見ても誰かと誰かが一致し、重なりつつ離れる、そうした印象的なシーンがいくつかあったようにも思うが、まあ、めんどくさいので、書かない。)

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意味の単位(7)

前も書いた気がするが、知らんまに親がソーダストリーム(家で炭酸水がつくれるやつ)を買っていた(というかたぶんおれが実家戻る前にはあってたのを最近ひっぱりだしてきた?)ので、思い出したように使ってレモネードやらクラフトコーラもどきを嗜んでいたのだけれども、ひょんなことから希釈して飲むフルーツ酢を炭酸水で割るのに目覚めた。お酢はいい。すっぱいものは元気がでる。元気がでるといえば、チャイもよく飲むのだが、シナモン・カルダモン・クローブにくわえて生姜をがんがんきかせて赤唐辛子と胡椒をいれるとぽかぽかしてよい。飲み味も刺激的。

YouTubeで「錦鯉のM-1最終決戦ネタで渡辺が見せた最高のスカシ」みたいな10秒くらいの動画がサジェストされてきて驚いた。「このネタがいい」のではなく、「このネタのこの部分がすごい」というのをピックアップしてシェアする(まあ違法ですが)。それは「いいとこどり」のようでも、ディテイルにたいするフェティシズム(記録された映像であるがゆえに演芸であってもまたフェティッシュたりうる)のようでもある、あるいは「倍速視聴」的なイージーで手っ取り早い消費と断じるものもあるだろうけれども、一方でこの10秒は錦鯉(の渡辺)の芸風全体をひとことで要約するような雄弁さもある。いちがいにこれを断片化した消費と言いうるのかどうか、むしろすごい批評なんじゃないか、などと思う。注目スべきは、断片化されたコンテンツのほうではなく、それがどのようなコンテンツ間のネットワークやコンテクストを前提としているかであって、TikTokのヴァイラルヒットやミームなんかもそのような観点が不可欠になる。

かわE(曲はSerph feat. ずん)

宇多田ヒカル『BADモード』のリリースにあわせて配信されたスタジオライブを見た。素晴らしい内容で、正直音源ではあんまりのれなかった部分も興味深くひきこまれた。宇多田ヒカルがうたうときに放つ身体性、リズムのとりかた、みたいなのはやっぱり独特で、ビビッドに演奏に反応して音源とはやや違う譜割り(3連系が16ビートに寄っていたり、そこがゆるやかにつながっていたり)になったり、かと思えば演奏に対してなんでそう点を置いていけるのか微妙にわからないところもあったり、おもしろい。

altopaloの名盤『farawayfromeveryoneyouknow』がデラックスバージョンに。「party song」のIan Chang Remixが素晴らしく、ほかのリミックスもよいのだが、未発表のオリジナル「what (we) are」が特に良い。というかやっぱりこのアルバムは素晴らしい。2020年代を占うつもりで音楽を聴いている人というのはどうやら世の中にたくさんいるらしいがそれがあるとしたらaltopaloのこれだよおれにとっては。

ふとした拍子にサジェストされたシリーズ、QX3でごりごり打ち込みする現在の浅倉大介……。すごいけど多分こういうのを今でも職人的にできる人けっこういるんだろうな。ここまでの人は多くはないだろうけど、身体がおぼえてて、みたいな。

8年前にKassa Overallの身に起こった出来事とは……? タイトルが気になってみはじめたら話のはじめが「夢をみて……」だったので「な~んだ、夢の話か」と思ってたら、「いや、待って、だめだめ……」と胃が痛くなった。「でもかえってすっきりしたよ」っていうの、肝がすわっている。

ちょっとDIYしたくてホームセンターに行ったら、ワンバイフォーやツーバイフォーのSPF材が以前の1.5~2倍くらいにまで値上がりしていて驚く。多分木材不足がもっとひどかったときはもっと高かったのだろう(状況が改善したわけでもなさそうなので、これから値上がりが続くのだろうか)。木材でなにかする予定を変更して、全ねじをつかうプランBに。

こうなった。なんかもっとやりようあるやろとおもいつつ…… ただこれ照明吊ったりカメラ吊ったりもできるからな。

はい。

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意味の単位(6)

先日Twitterでシンゲリの話が出てて、Nyege Nyege Tapesのコンピ2枚で知ってるくらいではあるのだが、そういえば去年だったかNTSがシンゲリのショートドキュメンタリをつくってたな、あれに出てくるDJソフトが謎だったんだよな、とつぶやいてみたらあっさり解決。Virtual DJだった。UIがちょっと違うので現在もある機能なのかわからないが、12トラックくらいのループサンプラーが搭載されていて、それにネタを次々読み込んでがんがんかぶせていくスタイルで制作されているようだった。いや、それが制作のすべてではないだろうけれども、上掲の『Sounds of Pamoja』などでもわかるように、アップテンポでカオティックな音楽性の割に一曲一曲が長く、そういうのってDAWでいちから打ち込んでかたちにしていくにはしんどいスタイルだし、MCが結構重要っぽいので、Virtual DJで半即興的にネタをかぶせてMCが煽って……というライブ感がまず先にありそう。

こういうことですね。やってることはシンプルだけれどこれの扱いを習得するのはシンゲリを構造的に理解して打ち込むより難しいのでは? という気もする。

揺らぎのリミックス企画に参加。マスタリングはまさかのゴッチさん。ほかのみなさんが盛り付けまでこだわった洗練されたリミックスを提供するなか、なんかおれだけ手づかみでサラダチキン食べさせるみたいな感じでちょいはずい。自分がいうのも何様ですがさすが力作ぞろいなのでぜひ通して聴いてみてください。あとジャケがめちゃいい(前のリミキシーズもはんぱなくジャケがいい)。

岩波ホール閉館の知らせに接して語られるさまざまな思い出に漂う「文化」のかおりに辟易する。

「ラヴィット!」で相席スタート山添が「ラヴィット実は収録だった」とカマして、まあそのボケ自体はそこまででもないのだが、川島のツッコミや共演者のブーイングをものともせず「だってまだ12月じゃないですか」と平然とした顔で続けてたのがすごくて、もうずっとそのことが頭から離れない。

ヒコロヒーのナイスダブルピース

長谷川白紙の歌詞を読む会 第2回が開催された。今回は初回のときのようなキマり(TALK LIKE BEATS参照)はなかったのだが、「うーんうーん」とうなりながらああでもないこうでもないとぐずぐずやるのはやはりよかった。しかし最終的に出席者から超弩級のボムが投下され、こうなった↓

日記を編集し直して(日記としての体裁は必ずしもとらずに)ZINEにしようか、と考えている。PDFで配布……販売かもしれないが。

中村佳穂「さよならクレール」、そうか~という感じで、特にハマらず。「アイミル」もそうなんだけど。すごいことやってるかどうかと好きになれるかどうかは全然関係ないのよね。なんというか、「どんどんすごいことになってきてるけど、別にその方向のすごさには面白みを感じない」と思うようなことが、ここ最近ずっと続いている。多くの人はそっちの方向のすごさに率直に圧倒され好ましく思っているようなのが虚しい。なんなんだろうか。

ここ数日、お昼~夕方に「うお~もう駄目だ~」となっていたのだが、ためらわずに昼寝するようにしたらなんとかなってきた。毎度そう首尾よく眠れるとは限らないけれども、あったかくして加重ブランケットにくるまって好きなことを考えつづける。すると、いつのまにか気を失っていたり、あるいはしんどさがやわらいだりしている。

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