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書評:村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書、2023)

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アートは難しい(3日ぶり2度目)。ただでさえ難しいのに、同時にフェミニズムの話まで同時にするのか。と思われるかもしれない。でも村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社新書、2023)はアートとフェミニズム両方の難しさを、変に妥協せずに噛み砕いて解説して、アートとフェミニズムの両方が持っているはずの「みんなのもの」への志向を開いていこうとする本だ。

「みんなのもの」という言葉自体は易しく見えるけれども、実際になにかを「みんなのもの」をすることは困難だ。たとえば、第2章の話を必要な範囲でまとめるとこういう感じになる。誰かの好き嫌いや個人的な印象・感動にとどまっていては「みんなのもの」たりえない。誰か特定の個人のものから、「みんな」に開かれたものにするために、(特に近代的な意味での)アートは美術館とか批評みたいな制度を必要とするし、作品は単に感じるだけではなく、読み解くべき対象として存在することになる。けれども、その制度が洗練されることで、かえってアートは人を寄せ付けない閉鎖的なものになってしまったし、そもそも制度自体にも見過ごせない歪みやバイアスが存在している。

「アートを楽しむのに知識はいるのかどうか」みたいな話はよくあるけれども、そもそもなぜアートは「知識」を必要としたのか、その役割と限界はどこにあるのか。そんなことを地に足ついて地道に解説する人は多くない。いわゆる制度論的なアートの理解を「みんなのもの」というキーワードから(そこから生じた逆説的な現状までをふくめて)導いているといえる。

そして、属人的な判断を避けて「みんなのもの」たろうとしたアートの制度が持つ限界に対するアプローチとして、第2章ではフェミニズムが中心に据えられる。ここでもまた「みんなのもの」がキーワードになっていて、帯にも登場するベル・フックスの『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』(堀田碧訳、エトセトラブックス、2020年。原書は2000年)のフェミニズム観が軸になっている。アートの話と対比的に図式化すると、第一章でいう「みんな」は誰かの好みに振り回されない普遍性や公共性(アートの制度がもともと目指したもの)の話だった一方で、第二章でいう「みんな」は差異を尊重しつつ連帯を目指すような反差別の話につながっていく。

アートを「読む」心構えと、その道具としてのフェミニズムを携えたうえで、第3章と第4章ではそれぞれ、美術史をフェミニズムで批判的に読み直し、アートにおけるフェミニズム的な実践を読み解いていく。ここは読んでいて改めて「いやアートワールドもこの世界もしんどっ」となるパートであり、平易な語り口だけにそのエグさはなお深い。それゆえに、フェミニズムを通じて「読む」ことの重要性が浮き彫りになってもいるし、アートでフェミニズムを実践することの意義も感じられると思う。

余談。第4章にはパフォーマンスを主体としたアナ・メンディエタが取り上げられている。その作品がフェミニズムの視点から紹介・読解されているのはもちろん、夫であったカール・アンドレがメンディエタを殺害したのではないかという疑惑についても触れられている。この本を読んだのが、DIC川村記念美術館でカール・アンドレ展が来年3月より開催されることが発表されてもやもやしていたタイミングだったこともあって、やっぱりメンディエタの紹介のほうが大事なのでは……などと思ったのであった。カール・アンドレ展のタイミングでアナ・メンディエタ作品や関連ドキュメンタリーのスクリーニングとかないのかな。

カテゴリー: Japanese