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タグ: book review

書評:宮本直美『ミュージカルの歴史: なぜ突然歌いだすのか』(中公新書、2022年)

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『ミュージカルの歴史: なぜ突然歌いだすのか』。インパクトのある副題だ。登場人物が物語の中で「突然歌いだす」ことはミュージカルに慣れない人が一番面食らうところ(自分もそうだ)で、その問いに答えてくれるのかと思って手にとって読んでみた。本書はコンパクトな新書だが、ヨーロッパにおける音楽劇史を抑えた上で、アメリカでそれがどのようにミュージカルとして成立していったかが丹念に追われる。案外ガチガチの歴史書なのだ。

期待は半分外れていて、半分当たっていた、というべきか。「なぜ突然歌いだすのか」というキャッチーな副題から、初心者向けにおもしろおかしくミュージカルを解説してくれる本かと思ってしまうのだが、そういうライトな読み味を想定すると面食らうかもしれない。一方で、そのように語られるミュージカルの歴史自体がとてもおもしろい。ある時期にはアメリカの音楽ビジネスの要として、流行歌を生み出す一種のメディア(ロックンロールにおけるラジオみたいなもんである)として存在感を放ち、そうした求心力を失って以降――それは同時にミュージカルの制度がエスタブリッシュされたことの証でもあるのだが――どのようにミュージカルが生き残っていったかが語られる。ミュージカルそのものに興味がなくても、20世紀の特にアメリカを主としたポピュラー音楽史を考えるにあたって知っておいたほうがいい知識がたくさん詰まっている。

個人的には、ロックンロール/ロックの登場以降にミュージカルがどのように変化したかを扱う第5章「音楽によるミュージカル革命」はとても興味深い。ロックが音楽にもたらした変革を電気的な音量の増幅、スタジオワークによる音響的洗練、ライヴPAの発達による音楽体験のスペクタクル化といったトピックでまとめたうえで、それがいかにミュージカルと食い合わせが悪かったか、どのようにしてミュージカルはロックと向き合っていったかを語ることで、ロック側からだけでは見えてこなかったポピュラー音楽史の一面が感じられてくる。

ただ、やはり初心者のための一冊としては、たとえば「初心者がチェックすべき定番・名作」みたいなものを知れるガイドとしては使いづらいし、「なぜ突然歌いだすのか」という問いにしても明快な答えをだして「おもしろいでしょう!」みたいに言ってくれるわけでもない。むしろ、この問いについては、ミュージカルがその歴史で常に抱えてきた難題として、つまり答えのない問いとして解説されていると言っていいだろう。それはそれですごく重要な視座なのだけれど答えが知りたい向きには肩透かしかもしれない。やっぱ断言してもらいたいもんね。

ミュージカルの魅力を知る入門としてはまた別のものにあたるとして、おもしろい本であることには変わりがない。おもしろさがちょいニッチということである。「ミュージカルを知る」というよりは「ミュージカルの歴史を知ることで音楽についての知見を深める」みたいな心持ちで読むとすごくおもしろいはず。

以下余談。当の第5章では1960年代後半から1970年代のミュージカルにおける「コンセプト・ミュージカル」なる語の登場が論じられ、それが同時代のロックにおける「コンセプト・アルバム」の確立とゆるやかにつながっていくのだが、このふたつが似ているようで違うのが面白かった。「コンセプト・ミュージカル」が統一的なストーリーを欠いた断片的なミュージカル――つまり統一されたひとかたまりの「作品」概念にそぐわないもの――を表すものである一方で、「コンセプト・アルバム」は交響曲的なスケールの「作品」をポピュラー音楽としてのロックに成立させるための言葉だ。つまり前者は「作品としてのミュージカルの断片化」であり、後者は「作品としてのロックの統合」である。しかしまさにこの「コンセプト」の両義性を通じてこそ、ミュージカルとロックの合流というのが理念的に可能になったとも言える。

そこからさらに連想すると、「コンセプト・ミュージカル」及び「コンセプト・アルバム」の時代とは、ほぼ「コンセプチュアル・アート」の時代でもある。演劇とポピュラー音楽とファインアートという異なる分野で同時期に「コンセプト」なる語が新奇な言葉として流通しだした(いやコンセプチュアル・アートはコンセプチュアル・アートでコンセプト・アートじゃないんだけど。この話はややこしすぎるので割愛)。1960年代にそんなことが英語圏で起こった前提ってなんかあったんすかね?

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ドラムキットという奇妙な楽器とその時代(、つまり現代)[review: Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit. Oxford University Press, 2020.]

すっかり見慣れているけれども、ドラムキットというのは考えてみれば奇妙な楽器だ。バス(キック)ドラム、スネア、タムタム、ハイハット、シンバルといったパーカッションからなるこの楽器は、他の多くの楽器と同様に、奏者の身体と強く結びついた統一された楽器のように思えるけれども、歴史的に見れば雑多な出自をもつ楽器たちの寄せ集めだ。音色の観点から見ても、ひとつひとつのパーカッションはテクスチャも音域も全然違っている。両手両足を駆使して演奏できるようにあしらわれたスタンドやペダルは、その機構的な精妙さ故にかえって不思議な印象を与える。さらにいえば、ドラムキットは不定形だ。ひとによってなにをキットに入れるか、どのように配置するかはだいぶ異なるし、新たなパーカッションの登場によってキットの可能性は拡張しつづけている。

そう思うようになったきっかけはいつごろかあまり覚えていない。ものすご~く辿ってみれば、大学時代に実物のキックペダルやハイハットスタンドにはじめて触れて、「なんでこんな妙なものをつくろうとしたんだろう」と思ったのがその原点だったかもしれない。もしくは。The Velvet Undergroundのモー・タッカーが立ってマレットで演奏していた、みたいな話を聞いて強く印象に刻まれたのもその前後だったか。そんなもとから思っていたことが、ケンドリック・スコットがインタビューで言及していたドラムキットのユニークな歴史に関する発言(Jazz the New Chapter 6(アフィリンク注意)やARBANのインタビューを参照)なんかで意識にのぼるようになった気がする。

さらに、デヴィッド・バーンが「アメリカン・ユートピア」でドラムキットを解体し、マーチングバンドを思わせる編成で自身の手になるロック/ポップミュージックを再構築したのを見聞きしたことで、改めてそんなことを考え出したのはたしかだ。

また、2022年6月にYCAMで行われた石若駿のパフォーマンス公演「Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち」も、そうした関心に没頭させるきっかけになった(わたしによるレポートは以下)。

石若駿とAIの共演が生み出した、“即興演奏を解体&再構築する”特殊な音楽体験 『Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち』を観て|Real Sound|リアルサウンド テック

「Echoes for unknown egos」は「AIとの共演」という側面が特にフィーチャーされたパフォーマンスではあったのだけれど、しかしそれ以上に、「AIがドラムを叩く」ということが逆にドラマーの身体とドラムキットの関係性についてある種批評的な観点をもたらし、また「ドラムの演奏にもとづいてメロディやピッチを生成する」という試みは、リズム楽器としてのドラムから、豊かなテクスチャをまとい、ときにメロディックな響きを生み出す特異な存在としてのドラムへと視点を変えるものでもあった(そしてそれは石若駿にとってドラムという楽器がどのようなものかをあらわすものでもある)。

やはり、ドラムキットというのは奇妙な楽器だ。

Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit, Oxford University Press, 2020.(アフィリンク注意)は、こうしたキットとしてのドラムがいかにして誕生し、普及し、ついには現在のポップ・ミュージックの中心的楽器へと躍り出ていったかが描き出される。ミュージシャンの証言や新聞記事、特許関係の資料、メーカーの広報誌等々を渉猟しながら徐々にドラムキットが姿を表していくのを辿っていくだけでも興味がそそられるものだが、この本をいっそう読み応えあるものにしているのは、そうしたプロセスを単に物理的なオブジェクトのレベルだけではなく、テクノロジーと人間と社会的な通念がうずをまくように相互作用していくプロセス――つまり、まさに社会史――としてさまざまな観点で記述しているからだ。

第一章で詳述されるように、そもそもドラムキット(当初はトラップといわれ、現在でもこの用法は残っている)が発明されるにいたったきっかけ自体が、ひとりでいくつもの楽器を効率よく演奏し、運搬し、音楽的労働市場で競争力を強めるためのある種の戦略だった。パーカッションに何人も雇うよりも、ひとりでその全部をまかなえる人をひとり雇ったほうが効率がいい。そんなニーズを先読みしつつ、ドラマーたちは自分で楽器を改良して、ときにはペダルをつかったビーターのような発明も自ら行ってきた。

こうしたドラムキットの歴史記述において強調されるのは、本書をつらぬくひとつの問題意識である、「愚かなドラマー」という差別的な偏見だ。ドラマーはしばしばメロディやハーモニーを担う楽器と比較して劣位におかれることが歴史的に多く、しばしば愚鈍で知性に欠く人びととしてジョークの対象となってきた。本書で描き出されるドラムキットの歴史は、それ自体、西洋音楽のヒエラルキーの下層に位置づけられたパーカッションの周縁性や、人種的ステレオタイプから生じたこうした偏見に抗うものとして肉付けされている。とりわけ、ラグタイムの流行からジャズの誕生あたりまでを追い、(楽音に対する)騒音としてのドラムスとクラシックの新たな関係にも言及する第二章「やかましいドラマー達、ラグタイム、ジャズ、そしてアヴァンギャルド」はその点で興味深いし、大戦間のジャズの受容を背景に世界的な影響力を放ちだすドラムキットの発展を描く第三章「勉強家のドラマーたち、ドラムキットを売り出す、規格化、そして名声」もおもしろい。

とはいえ、もちろん楽器と社会の話にかぎらず、音楽の姿をもドラムが変えていった(あるいは、音楽にあわせてドラムも変わっていった)ことを具体的な例を豊富に提示しながら論じているところも面白い。

その醍醐味にあふれているのが第四章の「創造的なドラマーたち、芸術的技巧、名人芸、そして時間を演奏すること」で、リズムをキープする役割がキックからシンバルへ移行することで、キックやスネアによるポリリズミックで複雑なドラミングが発展し、ドラマーによる表現の可能性が広がったビバップの時代を追った同章「ビバップとドラムキットのメロディ」や、あるいはR&Bやロックンロールの誕生へとつながるバックビートの発生を描いた「バックビートの隆盛」は読み物としてもおもしろい。特に後者では、三連のスウィング・フィールからストレートなエイトビートへの移行を描くなかで、「先んじてストレートなフィーリングが登場していた音楽、ありましたよね。そう、ラテンですよ……」とばかりに(さすがにこんな書き方はしていません)ティト・プエンテの話が出てくるあたりが見事だった。ちなみに第四章はリンゴ・スターの革新性をこれでもかと詳述した節があってそれもおもしろい。章のタイトルが示す通り、これらの議論はそのまま、ドラムにおけるクリエイティヴィティとはなにか? という問いへの応答となっていることを添えておこう。

現代(ざっくりといえばロック以降)のドラマーたちがおかれた状況に迫る第五章「働くドラマーたち、音楽的労働、ロールプレイ、そして著作権」も興味深い論点が多いが、ドラムマシーンやマルチトラックレコーディングなど、新しいテクノロジーとドラムキットがどのような関係を結ぶかを論じた最終章は自分の関心にも近く、おそらくいま音楽をつくっているような人には刺さる内容だとおもう。ここで一気にJディラからクエストラヴくらいまで話はぶっこまれるし、DAWを駆使したドラムトラックの構築に関する話は今日的な音楽における演奏の真正性についていろいろと考えさせられる(特に、その例がメタリカのようなメタルバンドからとられているのは興味深い。本文でも指摘されているが、超絶技巧と現代的な編集技術がコインの裏表のようになっているのだ)。

百数十年に及ぶドラムキットの歴史を追った本書が提示するのは、第一にドラムキットという楽器の重要性とそのユニークな歴史であり、そしていまだ根強くのこる西洋音楽のヒエラルキーに対する問いかけだ。しかし、結論で著者が言及しているように、そもそも楽器に注目してこのような歴史をつむぐということ自体が、様式や地域といった慣習的な境界をまたいだ歴史の可能性をひらくということもまた重要だと思う。それはかならずしもユートピア的なものではなく、痛々しい歴史や文化的侵略といった側面にも向き合わざるをえないものだが、というかむしろそれゆえにその重要性は高いのかもしれない。

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「現代音楽」の世界を物見遊山(藤倉大『どうしてこうなっちゃったか』を読む)

藤倉大『どうしてこうなっちゃったか』幻冬舎、2022年(アフィリンク注意)

作曲家、藤倉大の自伝エッセイ『どうしてこうなっちゃったか』を読んだ。名前は聞いたことあるけど作品を知ってるわけでもない。でも、なんとなくポチった。サブスクで藤倉大の作品を流しながら読んでみる(なんかこう書くとシャバいな)。すると、これがめっぽう面白かった。

困ったらとりあえず開きがちなSpotifyの「This Is~」。身構えて再生してみると思ったよりもキャッチーで、色調に富むのに鮮やか、みたいなバランスがすごい。

なにが面白いかと言えば、まず第一に異世界転生とかのチート主人公かなんかかよと思うような藤倉の存在感もさることながら、出てくる人物の片っ端からキャラの濃いこと。また、現代音楽という多くの人にはあまり馴染みのない世界がどう動いているのか、ひとりの作曲家の視点から見えてくることも面白い。ざっくばらんな語り口と「マジかよ」というエピソードに導かれて読み進めると、作曲家ってどういうふうに食ってんの? みたいな下世話な関心も満たされるし、かと思えば、作品1本を書き上げ実演するのにどんな苦労とよろこびがあるかもリアルに描かれて、そのまっとうさに胸打たれる。

なにより、いち作曲家としてなにを試みようとしていたか、自分がこの音楽――たとえばオーケストラによるアンサンブル、たとえばオペラ、たとえばライヴ・エレクトロニクス――にどんな魅力を感じているかを書き付ける筆致が良い。第十五章で、オーケストレーション(オーケストラで鳴らすために作品を練り上げる、まあポップスの領域で言うところの「アレンジ」というか)の面白さを、具体的な例を並べて簡潔に説明したうえで、「少ない数の楽器から多彩な音の花を咲かせるのが、オーケストレーションの醍醐味だと僕は思う。」と一言まとめるあたりは、「うわ、これパクろう」とか思ったりする(ちゃんと出典を明記して引用しましょう。今回はKindleで読んでいるうえ、なぜか位置番号がうまく参照できない。あしからず)。

さらに、坂本龍一やデヴィッド・シルヴィアンといったアーティストとの交流のエピソードからは、録音芸術としてのクラシックという、馴染み深い一方でいささかややこしい領域のあり方にも思いが及ぶ。いま音楽というと録音された商品を指すことが多い。それが巨大な資本の投下されたプロジェクトであれ、ベッドルームからえいやっと放たれた音声ファイルであれ、のっかっている土俵は根本的には同じだ。同じであるがゆえに、さまざまな〈力〉の多寡がそのまま格差としてプレイヤーにのしかかってくるわけだが……。そこに、いわば畑違いの作曲家が乗り込んでゆくことの意味について考えざるをえない。とか言い出すとじゃあ現代音楽ってのも結局さぁみたいなことにもなるけどまあそこまで踏み込まない(そのあたりのやだみや辛さを感じるエピソードもそこかしこにあるのである種誠実なエッセイだ)。

まあ、オーケストレーションにせよ録音芸術としてのクラシックにせよ、ほんの数段落言及されるくらいの話なんだけど、起伏の激しいエピソードのなかにあるそういう細部にこそ含蓄の多いエッセイだ。軽く読めるしおすすめしたい。

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