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書評:山本浩貴『現代美術史――欧米、日本、トランスナショナル』(中公新書、2019)

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現代美術はむずかしい。その通史を描き出すことはなおむずかしい。絵画や彫刻といった分野ごとに区切って記述しようとしても、そもそもそうした分野に当てはまらない、分類を拒むような作品やアーティストがたくさんある。表現の内容も形式もそれが依って立つ場も拡張が著しいからだ。

その点で『現代美術史――欧米、日本、トランスナショナル』の方法は明快だ。現代美術という独立した領域があるとしてその内在的な「発展」を見ていくのではなく、「芸術と社会」の関係史を通じて現代美術の歴史を記述していく。序章で「前史」として取り上げられるのは、アーツ・アンド・クラフツ、民芸、ダダ、マヴォ。表現の発展史とは切り口がまったくことなることが、この「前史」のチョイスからもわかるだろう。このテーマを貫いたおかげで、あまりまとまった紹介や総括のなかった、しかしきわめてアクチュアルなトピックが集中的にまとめられることになる。

たとえば第一部の欧米編に含まれる第二章は、リレーショナル・アート、ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)、コミュニティ・アートを取り上げているが、理論(言説)面ではニコラ・ブリオーの「関係性の美学」やその応答としてのクレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」ないし『人工地獄』の紹介はもちろん、それらと比較するとあまり紹介が進んでいない印象のある(これは自分が追いつけてないだけかも)グラント・ケスターの仕事も紹介されている。そしてなによりそれ以上に作品や実践の例が豊富に言及されている。第二部の日本編では、第四章でその同時代の動向としての(ある種ドメスティックな)「アート・プロジェクト」の流れが取り上げられ、SEAと関連付けつつ日本の現代美術における政治性が吟味されている。

しかし、本書でもっとも注目すべきは「欧米」や「日本」といった語りのフレームを乗り越えようとする「トランスナショナル」な視点で現代美術史を編もうとする第三部だろう。国民国家を前提とした「ナショナル・ヒストリー」の限界を突き崩すために、第五章では「ナショナル・ヒストリー」という「正史」から排除されたイギリスのブラック・アートの戦後史が紹介され、ポスト植民地主義的な問題と接続される。そのうえで、第六章では、東アジアにおける植民地主義の問題――つまり日本の植民地支配とその影響――を反映した現代美術の動向がまとめられる。

社会と関係するアート、あるいは政治的なアート。そのポテンシャルを実践と言説の双方から論じた本書が、まさにそのポテンシャルの負の側面に向き合って閉じることは示唆的だ。終章のタイトルは「美術と戦争」。アートは脱植民地主義、脱帝国主義の実践に貢献するのみならず、むしろ戦争協力によって植民地主義や帝国主義にも「貢献」していた。こと日本の政治性忌避の風潮に対して「社会的たれ、政治的たれ」と呼びかける声は少なくないが、しかし社会的であることや政治的であることの帰結が戦争協力や植民地主義イデオロギーの(再)生産になってしまうような事態は容易に想像がつくし、歴史がそれを裏付けもしている。そうした隘路に陥らないためにも、「トランスナショナル」の視座は重要になるだろう。

もともと自分はハプニングやフルクサス、シチュアシオニストあたりの活動に関心があったので、そうした流れを包括するような現代美術史が新書で読めるのはいい時代だなぁと素朴に思ったり。また、ハマスによる攻撃へのリアクションというかたちをとったイスラエルによるガザ侵攻が国際的な非難を集めているなか、「パレスチナ支持」と「反ユダヤ主義」をめぐるアート・ワールドの軋轢(いま振り返ればドクメンタの反ユダヤ主義騒動は完全にそのあらわれだったのだが)が、アートフォーラムに掲載されたオープンレターの顛末のようにスキャンダラスに表面化している状況にも、思いを馳せてしまうのであった。

カテゴリー: Japanese