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カテゴリー: Japanese

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データでちょっとだけ眺めるミュージック・マガジンの2010年代

ミュージック・マガジン2021年3月号の特集は「[決定版]2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」だった。その内容(なにがランクインしているか?)自体にはそこまで関心がないのだが、ふとよぎるのは「ミューマガって毎年ベストアルバム発表してるよな」ということだ。2010年代のベスト・アルバム企画を集めて眺めてみたらどうなるんだろう、と思ってしばらくバックナンバーを集めていた。そのかんたんなメモ。

ちなみに該当号の購入リンクはこちら(アフィリエイトリンクになっています)。

[決定版]2010年代の邦楽アルバム・ベスト100を撫ぜる

まずは、件の「[決定版]2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」を見ていくことにする。

年ごとの集計結果(作品数、誌面面積)

以下は、100作品をそれぞれの発表年に着目してカウントし、グラフ化したものだ。1つ目は単純に「作品数」を合計したもので、2つ目は「誌面面積」を合計したもの。

「誌面面積」というのはかなり妙な指標だと思われるかもしれない。単純に言うと、誌面に対してその作品がどのくらいの面積を割いて紹介されているかをかんたんに数値化したものだ。最大で6、最小で1となる。これは一作ごとに添えられるレビューの文字数とも相関する。したがって、この数値を用いることで、どの程度のプライオリティでもってその作品が紹介され、位置づけられているかを、あまり細かすぎない程度に、かつ誌面の印象と乖離しないかたちで指標化することができる。「トップ10」というように10刻みにしたり、なんとなく恣意的に「トップ30」みたいな切り取りをするよりは、ランキングの性質に即しているのではないか。

というのをふまえてグラフを見ていく。単純に作品数で言えば最多は2019年(15作)であり、以下2017年(14作)、2018年(13作)と2010年代末の3年間が連なる。一方で誌面面積を見ていくと、2017年が逆転して最大になり、ついで2018年(34)、2019年(30)と続く。いずれにしてもこの3年間に評価された作品が集中していることは間違いなく、見方によっては2017年が(ミューマガ的には)もっとも豊作だった、のかもしれない。

他方、2010年代の初頭はいささか作品数も少なければ誌面面積も小さい。「最近の作品のほうが記憶に残っているからこうなるのでは?」と言いたくなるところだが、2014年は2017~2019年に次いでいる。あるいは2016年が思いのほか後ろの方にいるのも面白い。2011年は2010年代初頭のなかでは頭一つ抜けている。そう考えると、「過去になればなるほど振り返られる作品数が少ない」と単純化できるわけでもなさそうだ。このあたりは「具体的にその年のどんな作品がランクインしているか?」とか見ていくと楽しそうだけれど、際限なくなるのでやめておく。

複数作ランクインしたアーティスト

続いて、100作品中、複数の作品がランクインしたアーティストを見ていく。

坂本慎太郎=3作品:6位『ナマで踊ろう』(2014年、ゼローン)誌面面積:4、11位『できれば愛を』(2016年、ゼローン)誌面面積:4、60位『幻とのつきあい方』(2011年、ゼローン)誌面面積:2

大森靖子=2作品:25位『TOKYO BLACK HOLE』(2016年、エイベックス・トラックス)誌面面積:3、59位『絶対少女』(2013年、ピンク)誌面面積:2

サニーデイ・サービス=2作品:4位『DANCE TO YOU』(2016年、ローズ)誌面面積:5、55位『Popcorn Ballads』(2017年、ローズ)誌面面積:2

tofubeats=2作品:35位『FANTASY CLUB』(2017年、アンボルデ)誌面面積:3、58位『lost decade』(2013年、ワーナー)誌面面積:2

PIZZICATO ONE=2作品:29位『11のとても悲しい歌』(2011年、ユニバーサル)誌面面積:3、38位『わたくしの二十世紀』(2015年、ヴァーヴ)誌面面積:3

cero=2作品:5位『Obscure Ride』(2015年、カクバリズム)誌面面積:5、14位『POLY LIFE MULTI SOUL』(2018年、カクバリズム):誌面面積:4

坂本慎太郎が3作品選出されているほかは、大森靖子、サニーデイ・サービス、tofubeats、PIZZICATO ONE、ceroが2作品選出されている。ここでも誌面面積の指標を持ち出すと、坂本慎太郎の総誌面面積が10であるのに対してceroが9と迫っているのが面白い。誌面面積で順番をつけるならば、坂本(10)・cero(9)・サニーデイ・サービス(7)・PIZZICATO ONE(6)・大森靖子(5)・tofubeats(5)となる。

年次ベスト企画も撫ぜる

さらに、「2010年代の邦楽アルバム・ベスト100」を頭の片隅に置きつつミューマガが毎年行っているベストアルバム企画も見ていく。

2010年代ベストには入ったのに年次ベストには入っていない作品

全100作品中、ミュージック・マガジンが毎年行っているジャンル別ベストに掲載されなかったアルバムは52作品。

すべてを列挙するのは難しいが、たとえば9位にランクインした中村佳穂『AINOU』(2018年、アイノウ)は当時のランキングに入っていない。これはけっこう意外だった。ほか、16位一十三十一『CITY DIVE』(2012年、ビルボード)や19位森は生きている『グッド・ナイト』(2014年、Pヴァイン)も同様。以上はトップ20、誌面面積4に相当するものだ。

ほか、気まぐれにピックアップすると、24位星野源『YELLOW DANCER』(2015年、スピードスター)、27位三浦大知『球体』(2018年、ソニック・グルーヴ)あたりが当時のランキングに入っていないのはちょっと意外かもしれない。

年次ベストとディケイドベストでは選盤の方法も基準もまったく違うので比較すること自体がナンセンスだろうけれども、これを出発点に「じゃあ、当時はどういう評価だったのか?」をバックナンバーを拾い読みしてみるのも面白いかもしれない。

ジャンル分けの変遷

年次ベストとディケイドベストでは方法も基準も違う……と言ったけれど、そもそも年次ベストも結構10年で変化している。唯一さまざまなジャンルごとに識者があつまって選盤・順位付けをするというのは変わらないけれども、そのジャンル分けの変遷が結構面白い。

2010年代で大きな変動があったのはまず2012年1月号の「ベスト・アルバム2011」で、ここで新たに「東アジア」の項目が登場している。また、2011年1月号の「ベスト・アルバム2010」では15ジャンル中14番目に位置していた「ラップ/ヒップホップ[日本]」が、「~2011」では16ジャンル中12番目に移動。

続いて2016年1月号の「ベスト・アルバム2015」では「音楽DVD」と「東アジア」の項目がなくなっている。以降、14ジャンルとなる。

2018年1月号の「ベスト・アルバム2017」では「ラップ/ヒップホップ[日本]」が見開き2ページに増量(これまでは1ページ)し、したがって選盤も5枚から10枚に増え、特集中の位置も14ジャンル中7番目に移動。それ以前から同ジャンルを担当していた二木信は「今回からこのジャンルの年間ベストが10枚になった。嬉しい。」(p.35)と率直な感想を述べている。また、「ジャズ」も1ページから見開き2ページに増量したうえ、前年までは全ジャンル中11番目だった位置が8番目に移動している。松尾史朗は「2001年以来、実に久しぶりに10枚選出の復活である。」と選評を書き出し、「来年も5枚に逆戻りしない活況を期待したい。」と締めくくる(p.37)。

2019年1月号の「ベスト・アルバム2018」では、それまで「ハウス/テクノ/ブレイクビーツ」と呼ばれていたジャンルが「エレクトロニック・ミュージック」に改称。その経緯は「~2017」の「ハウス/テクノ/ブレイクビーツ」の選評において言及されている。ムードマンは「世界の潮流を眺めると実はハウスやテクノというくくり自体がもはやポピュラーではなくなりつつある。」と指摘(p.38)。渡辺健吾も「「ハウス/テクノ」がほとんどない! という話になったが、「エレクトロニック」という括りにするのはどうか?」(p.39)と書いている。

だからなんだという話

だからなんだという話ではある。しかしたかだか10年くらいでも並べてみると結構おもしろいもので、もっと時代の範囲を広げてみるとなお面白いだろうし、単なる思いつき以上の意義も見いだせそうだ。以前夏フェスでやってみたジェンダー比率の調査も選盤・選者双方でやろうと思えばできなくもないけれどもちょっと故あって保留としている。あと、ジャンルごとの分類をかませるとか。

ここまでやるとミューマガになんか思い入れがあるのかと思われそうだけれども(何度か書いてもいるし)、「定期的にベスト企画をやっている」「入手が(自分の環境では)容易である」という物理的な条件、そしてなにより「今年に入ったタイミングで2010年代ベストみたいな企画が行われた」というモチベーションがそろっただけのことで、同じような条件が揃うのであれば他の雑誌でもよい。たとえばMUSICAも年ごとの振り返りを毎年やっている(こっちも揃えてあるので、そちらをデータに起こすのもやりたい)。rockin’ onもやってたような。

雑誌というのは(ウェブメディアでもそうだけど)蓄積されるアーカイヴであって、アーカイヴとしての雑誌に目を向けると「この企画はいい、悪い」みたいな判断とはまた別の価値が見いだせる。これをきちんとデータの読み書きできる人がやったら面白いんだろうなと思う。なんかふんわりした終わり方になってしまった。もし関心がある方いたらinfo@imdkm.comまで問い合わせください。

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こないだデヴィッド・バーンの『アメリカン・ユートピア』を観たぼんやりした話

(スマホの音声入力を編集したものです)

こないだデヴィッドバーンの『アメリカン・ユートピア』見てすごく良くて。その評はいろんなところで語られてますけど 個人的に一番気になったのは編成で。あの、ブラスが一人もいないよねっていうことをちょっと思って。 楽曲の中にはサックスの音色が必要なものなかにはあって、その時にどうしてるかって言うと、キーボードの人がサックスの音出してんですよね。 そこだけなんか「あれっ」と思って。もちろん演奏する楽曲のレパートリーの中に元々ブラスの役割が少なくて、一人ブラスを入れるよりはキーボードの人に代理で弾いてもらった方がいいんじゃないかって言う、そういう判断は分かる。 ただ、そうすると、パーカッションこそいろんなところから持ってきてるけど、いわゆるメロディ楽器っていうのは、実はそんなに多様じゃないんじゃないかみたいなことをちょっと思っちゃって。あれ、インスピレーションの一つって確実にブラスバンドですよね。デヴィッド・バーンは『アメリカン・ユートピア』と同じかたちでコーチェラのステージに立っていて、その年って、いわゆるビーチェラの年でもあるんですよね。ビヨンセがブラスバンドをヘヴィにフィーチャーしたパフォーマンスをしてた、その対比として『アメリカン・ユートピア』を見るのも可能なのかなぁって。 ビヨンセが率いる一大スペクタクルでは、もちろんブラスバンドが出てくるから、様々な管楽器が鳴らされていた。一方でデヴィッド・バーンは基本的にはロックの編成のバンドをひとりひとりの自律したパフォーマーたちのなかに解体して、ああいうパフォーマンスをしていた。だからなんだってわけじゃないんですけど。ブラスの不在で思い出したっていう。

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Into the Night / 夜に駆ける を比べてみる

YOASOBIが代表曲「夜に駆ける」の英語詞バージョン「Into the Night」を発表した。

聴いた人ならわかると思うが(まだなら上の動画をクリック! あとそもそも原曲聴いてない場合は原曲も→YOASOBI「夜に駆ける」 Official Music Video – YouTube)、冒頭からびっくりするような仕上がりだ。趣向を凝らしているというか、それともなんというか、笑ってしまうというか……。単純に言うといわゆる「空耳」がたくさん含まれているのだ。空耳は(空耳アワーの流儀に従うなら)「日本語ではないのにたまたま日本語に聴こえる」だけれど、「Into the Night」は意図的に日本語へがっつり寄せている。

しかし内容としては「音を優先して意味が破綻する」ようなことをうまく避けて、かなり忠実に原詞を英語にうつしかえている。そのバランスがすごいっていうか、よくそんなことやったもんだと思う。ちなみに英語詞バージョンの作詞はKonnie Aoki。

あんまり空耳部分が気になったので英詞と原詞を照らし合わせて、さらに両バージョンを同時再生してなにが一致しているか(自分が聴こえた範囲で)チェックしてみた。英語の専門家でもないし、辞書で発音をチェックしつつ「そうはならんやろ……(なっとるやろがい)」の感じで、耳を信じて……。多少読み書きはできてもそんな喋れないし。あくまで「聴こえた」なので、それなりに経験を積んだ英日話者から見たら「なに言ってんだよ」みたいになるかもしれません。

イントロ(頭サビ)

まず、頭サビのイントロから空耳だ。以下、赤太字は空耳パートで、黒太字は特に行の末尾を中心に音がそれなりに一致しているポイント(ほんとはシラブル/モーラごとに「ここ合ってる!」とか無限に言えそうな気がするけど、行末と、加えて特に気になったところだけ……)。空耳度は特に高く、なにしろ「沈むように」と”Seize a move, you’re on me”は、まず直訳ではないし、意訳とも言い難い。もたらすイメージもかなり違うからだ。むしろ”falling, and we were dissolving”が「沈むように溶けてゆくように」に対応している。原詞に”Seize a move…”と直接対応するパートは見当たらないので、完全に音の一致を優先してつくられているのがわかる。

続くAメロには空耳パートはない(ので図は略)。少なくともそう聴こえない。ただ、行の末尾(およそ小節上のまとまりの最後のアクセント)は日本語の響きとある程度合わせてあって、かならずしも完全に一致していなくても、発音のニュアンスを残してある。

Bメロでは最初の一行がまず”It’s stuck in “tick-and-tocking” mode”と「いつだってチックタックと」で音がかなり近い。空耳だ。しかもここは内容もかなり近い。っていうか”tick-and-tocking”ってもろだし。ただ、”tick-tock”とは言っても”tick-and-tocking”ってそんな言うのかわからない。だからあえてダブルクォーテーションでくくってあるんだろう。進行形にして動名詞化してあるのもふくめて、「チッタッ」と無声音が有声化している日本語の発音と辻褄を合わせるために工夫してある。

そして最初のサビ。「騒がしい日々に」が”Saw what got seen hid beneath”となってかなり空耳。意味も直訳ではない(し、楽曲のイメージを汲んだうえでの創作という感じ)。一行開けて「明けない夜に」が”What can “night” for you mean”は空耳度はやや落ちるもののかなり空耳。「ほら」が”hold up”なのは黒太字でもいいのだけれども、サビの後半につないでタメる重要なフレーズであり、かつ意味もそこまで遠くない(「ほら」だとまだ手を掴んでない「君」に呼びかけているみたいだけど、”hold up”だともう掴んでる感じではある)。

頭サビもサビも、ビートが抜けてヴォーカルに耳をひきつけて始まるから(頭サビはまるごとそうだし、サビもアウフタクトの部分がビートなし)、ここで絶対に音を一致させようという狙いがあったのは想像できる。あとは物語を伝えることに重きが置いてありそうだ。

もうひとつサビで面白いのは「いよう」と”in you”で、これは普通に考えるとあんまり音として一致しないんだけど、比べて聴くとかなり似ている。ここはいったんビートにキメが入ったあとでビートが抜け、間奏に勢いづけると同時に声の余韻を出す部分だから、あえて寄せたんじゃないか。実際、ここ以外、たとえばBメロ末尾の”you”はけっこうはっきり「う」の音になっている。

2度めのAメロ(長さはハーフ)はちょっと飛ばして、Cメロ。

ここの「それでもきっと いつかはきっと 僕らはきっと」を”gotta keep on”の畳み掛けで再現しているのが面白い。空耳度はそこまで高くないけど。発音記号で比べたら一致していないだろうけど、日本語の「っ(促音)」がつくるアクセントと英語の強弱アクセントをうまく一致させて、聴いてる感じはかなり近いものにしてあるというか……(知らんけど……)。

Dメロも飛ばして二度目のBメロ。ここで面白いのは「笑った」と”smile”で、「た~あ~あああ~」と最後の母音を伸ばす歌い方と、”smile”の[άɪ]の音を伸ばして最後に無声の”l”に着地する歌い方でなんか帳尻が合っている。

続いて落ちサビ(最後のサビの前でビートが抜けてヴォーカルが前に出てくるところ)。ここは一旦無音が入った上に転調しての落ちサビという「ここでヴォーカルを聴かせなかったらどうする!」みたいなパート。もともとのサビの前半をほぼリピートしている構成ということも手伝って、安定の空耳。

そして、ラストのサビ。落ちサビで下に転調したと思ったら駆け上がって元のキーより高いところに転調するところで、楽曲と物語のクライマックスでもある。畳み掛けるように空耳が連発され(”Calling to life”は空耳と言っていいかやや迷う気もするけど。それを言い出すとだいたい「聴こえるっちゃ聴こえるけど」になっていく……)、このパートの響きがいかに重要だったかが伺える。

というふうに比べていくと、手当たりしだいに空耳というよりは、ある程度「ここが勘所」というポイントで空耳が使われているんじゃないかと思える。第一に、声に注意が向くポイント。第二に、意味よりも感情の伝達を重視するクライマックスのポイント。第三にはそもそも響きが面白いところ(「きっと」の連発とか)。

以上です。特に落ちはないです。

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なんとなくPython入れ直したらSpleeterがうまく動かなくて困ったけどなんとかなった話とおまけ

Pythonをたまーに使っては忘れるのを数年繰り返していたのだけれどちょっとやる気を出してインストールしなおした。Anacondaではなく公式のパッケージをインストールしてVSCodeでコードを書くかたちに。といっても一番の目当ては機械学習によって2ミックスの音声データからステムを抽出するSpleeterの活用だったりする。

にもかかわらず、なにも知らず軽い気持ちでインストールした最新版のPython 3.9ではSpleeterが動かないことが判明。3.8を別途インストールすることに。バージョンの使い分けが思ったよりもかんたんだったので悩むほどでもなかった……。

Pythonの複数バージョンの扱い方(Windowsの場合) | ガンマソフト株式会社

しかし、3.8のほうにSpleeterをインストールしたはいいものの、動作に必要なffmpegのパスが通ってないと言い出すので困ってしまった。これはシステム設定でffmpegのパスを通しただけでは解決されず、pipでffmpegおよびffmpeg-pythonをアンインストール→再インストールを試したらなんかわからんが動いた。動いたらいいんだよ。

ようやくSpleeterがちゃんと動いてくれるようになった。ただ、いちいちコマンドを打つのが面倒だからバッチファイルをつくった。Spleeterにはステムをどんな構成で抽出するかによって3つのモードがある。ヴォーカルとバックトラックだけなら2stems、ヴォーカル・ベース・ドラム・その他に分けるなら4stems、ヴォーカル・ベース・ドラム・鍵盤・その他に分けるなら5stems。バッチファイル3種類つくるのもいいけどなんか入力できたらかっこいいな……と、バッチファイルを走らせたときに尋ねることにした。あと、処理が終わったら出力先のフォルダをエクスプローラで表示することに……。

@echo off
rem 変数の用意
set INPUTSTR=
rem Spleeterのモードを入力する
set /P INPUTSTR="which mode do you want? (2stems/4stems/5stems) : "
rem 引数と変数をぐいっとやりつつspleeterを呼ぶ
py -3.8 -m spleeter separate -p spleeter:%INPUTSTR% -o output %1
rem 出力されたフォルダを開く
explorer output\%~n1
pause >nul

適当な名前をつけて.batで保存しておくと、それにmp3ファイルをドラッグ&ドロップするだけでSpleeterで処理できる。(Spleeterのインストール自体は日本語でわかりやすい解説があるからググってください……)

まあSpleeterになんの使いみちがあるかというと、権利関係の都合もあってあんまりこう、大きな声でああだこうだとは言いづらいんだけど、でも面白いですよ。気軽にヴォーカル抽出できるの楽しいし、耳コピに活用する道もあるようだ。

なにとは言わないが、以前Spleeterを使っていろいろしたときの成果物。

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『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』を観た話

(スマホの音声入力を加筆修正したものです)

『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』見てきました。すごい映画で、何がすごいかっていうと、アレサ・フランクリンのパフォーマンスがすごいっていうよりは、まずこの映画がライブパフォーマンスの記録であると同時に制作過程のドキュメンタリーである。そもそもこのパフォーマンス自体が、オーディエンスを前にしたライブパフォーマンスであると同時に録音作品を作るためのセッションでもあり、さらに宗教的な儀式でもある。それがこの映画のユニークなポイントで、頭から最後までずっと凄いパフォーマンスが見れるって言うよりは、ものすごい緊張感が溢れてる時もあるし、アクシデントがあってもユーモラスに場を盛り上げたりとかみたいなやりとりもあるし、「ちょっともう一回テイクやり直させて」みたいなときもあったりして、完璧なパフォーマンスが奇跡的にその90分納められてるとかではなくて。むしろ、アレサ・フランクリンのパフォーマンスのレベルがすごく高いというのは前提ではあるんだけれども、いろんなレイヤー、さっき言ったみたいなドキュメンタリーでありライブでありレコーディングセッションであり宗教的儀式である、そのいろんな要素全部がその噛み合ってドライブする瞬間ってのがあって。それが訪れる時の迫力が一番印象的な映画でした。第1夜の最後の「アメイジング・グレイス」の絶唱であったりとか、第2夜最後の「ネヴァー・グロウ・オールド」であったりとかもそうなんですけど、ある瞬間にみんな極まっちゃってその場で立ち上がっちゃうみたいなのがこの画面越しに伝わってきて。アレサのパフォーマンスが、ある瞬間に、その場や時間が持ってるコンテクストを突き抜けて一つの「作品」になってしまうその瞬間っていうのが見所だったなという風に思いました。

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ブライアン・イーノ「作曲の道具としてのスタジオ」1979/1983

ブライアン・イーノ「作曲の道具としてのスタジオ」1979/1983

ブライアン・イーノの講演・エッセイ、The Studio as a Compositional Tool(1983)の訳。勝手訳なので予告なく削除することがあります。ノン・ミュージシャンーーつまり伝統的な音楽教育を受けてもいなければ、自ら楽器を演奏するのが仕事でもないーーなミュージシャンの存在を可能にした20世紀のテクノロジーの発展について自身の経験をもとに語ったもの。「録音」とはなにか、「多重録音」がもたらしたものとはなにか、が平易に語られる。40年以上前のレクチャーだから最先端のテクノロジーを説明しているわけでもないし、各テクノロジーが出現した正確な年代とか固有名詞を知れるタイプの文章ではないけど、知的好奇心をくすぐられるものではある。

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教室にいなかった人

中学のときに学校に行けなく/行かなくなって、結局全日制の高校にも行かなかった。試験は受けるだけ受けたけど落ちたのだった。それで親がいろいろと調べて通信制の高校に通うことになった。将来が不安すぎてあんまり楽しい生活ではなかったけど毎日教室に向かう必要もなかったし気楽ではあった。多分いまと生活はあまり変わっていない。

さっさと卒業してしまいたいと思っていたからちょっとタイトに単位をとって3年で出た。けれどふつうは4,5年くらいかけるし、10年くらいかける人だってざらにいる。たまたま環境の手助けもあって(たとえば学費や生活費のためにバイトをしなくてよかった、とか。勤めている人だって少なくないのだ)全日制の高校に通うのと遜色なく進級できたのだが、それがかなり例外的だったのはたしかだ。

中学2年から高校3年相当まで、実質、いわゆる「学校」には通っていなかった、と思う。まあ厳密には保健室に通っていたこともあるし、通信制の高校も立派な学校ではあるんだけど。世間に流通する「学校」のイメージや、当然のように語られる「学校」の姿に馴染みがなさすぎて、自分はそんなところにいなかったよな、と感じるからだ。

覚えているのは真新しいビルのなかにある会議室みたいな教室であり、窓からやたら殺風景な街の風景を見下ろすカフェテリアであり、あるいはNHKの高校講座の録画ビデオが置いてある図書室だった。駆けるような廊下はなかった。もっと言うと、そんなに学校にもいなかった。だいたいブックオフにいた。

しかし世の中には「学校」に関する語りや表象がうんざりするほどあふれている。それがいかに素晴らしかったか、あるいはそれがいかに抑圧的であったか。どっちでもさほど変わらない。「教室にいた人」の話だから。あまりにも「教室」という空間が特権化されすぎてると思う。高校生、特に女子高生という表象の濫用もどうかと思うが、その舞台となる「教室」の強固な存在感にもいやなものを感じる。

まあこれも日本に限ったことではなくて、外国でも同じだろうなと思う。TikTokでうんざりするほど流れてくる学校あるあるネタとか。あるいは「ブックスマート」はかなり楽しんだ映画だったけれど、「学園モノ」が持つ磁場の強烈さに若干うんざりした。あれがアメリカの話だったからまだフィクションとして距離がとれたけど、日本で同じことをされたら(その痛快さをさておいても)クソミソにけなしていたかもしれない。そういう意味で救いだったのは神出鬼没のトリックスター、ジジだった。あのキャラクターはよかった。

「教室にいなかった人」目線の話をもっと知りたいと思う。「学校」や「教室」をめぐる話を好き好んでしているのはだいたい「教室にいた人」だ。そうじゃない人が「学校」や「教室」について語ったらどうなるだろう。「教室」の外にどんな世界がありうるのか、そこに革命があるとか言って扇動するのでも、道を外すぞと脅すのでもなく、地に足ついた話がもっとあっていいよなぁ、とか。すげー単純に、通信制に通っていたという人と会ったときはなんか嬉しかったもんな。

そういえば空気階段が定時制高校を舞台にしたコントをやってるのを見たときはなんかすごいぐっとくるところがあった。鈴木もぐらのキャラクター造形(っていうか喋り方)に「これどうなんだろう」ってちょっとひやっとしたのだが、それがコントの世界の中では笑いの対象になっていないバランスもよかった。

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細馬宏通『うたのしくみ 増補完全版』(2021、ぴあ株式会社)

少し前わけあって昔の「ユリイカ」を開いて、細馬宏通が松本隆の詞とドラミングについて論じている文章(「金属の肺、のびあがる体 松本隆の詞とドラマーの生理」という)を読んだ。目を開かされたのは次のような一節だ。

もちろん、誰もがバディ・リッチのように叩けるわけではない。けれども、どんなドラマーも、ハイハットを叩こうと手を交差させ、あるいはライドに右手を伸ばそうとするとき、歴史上どんなドラマーもしたであろう身構えをなぞることになる。ドラムという伽藍に向かい、その立体的な構造に自分の身を添わせようとするとき、ドラマーの身体はおのずと閉じられ、あるいは開かれ、その身に応じた音が鳴る。あらゆるドラマーは、意識するにせよしないにせよ、ドラム「セット」の配置に残された、過去の演奏の痕跡を、自分の体を通してたどることになる。ドラムを叩くということは、そういうことなのだ。

ユリイカ 2004年9月号 特集*はっぴいえんど 35年目の夏なんです、p.70

ごく当たり前の事実が驚くべき発見をもたらす。そういう感じがここにはある。人間が身体的にとりうる動作のレパートリーはそう多くない。なにか楽器を演奏するために要請される動作のレパートリーとなればなおさらだ。そして、その動作のレパートリーには、ある楽器が現在のかたちに至るまでに積み重ねてきた歴史があらかじめ内在している。ある楽器を弾けるようになる、たとえばエイトビートをクロスハンドで叩けるようになる、ということは、できるようになったこの私にとっては発見であり未知なる未来への一歩だけれども、楽器の側から見ればすでに存在していた過去へ身をあずけるようなことでもある。いまの私が未来へ向けて歩みだすと同時に、過去にも滲み出していく。(注1)

同じ著者の『うたのしくみ 増補完全版』にも似たところがある。

本書に収録された文章はどれもとてつもなくミクロなレベルの分析が歴史の広大さに接続されるアクロバットな快感に満ちている。しかしそれが単なる曲芸にならないのは、「うた」というものもまた、そのなかにある歴史が埋め込まれた動作のレパートリーの集積である、という根本的な原則が貫かれているからだ。

たとえば、あるクセのある歌い方が時代や地域を超えてあらわれるとき、つまりたとえばロマンソニーの「トゥナイ…ッタ!」のなかにジェイムス・ブラウンの呼気を含んだ「ゲロッパ!」を聴き取るとき、この一連の微細な身体の運動に、ファンクの歴史が立ち上がってくる。

あるいは、「ロボット」にふくまれる「オ」の母音の連なりに耳を傾けると、「ロボット」をめぐる100年ほどにわたる想像力のありようがめくるめくある一曲に凝縮されてゆく。

2014年に出たオリジナルの『うたのしくみ』を読んだのはちょっと遅かったと思うのだけれどもしこたま衝撃を受けた。特に印象深かったのは「お正月」の分析と「虹の彼方に」の分析で、いまとりかかっている仕事でもしばしばふわっと思い出してしまうほどだ。2021年になって出版された「増補完全版」のほうはというと、これもまた凄まじい。先に上げた3曲の例はどれも「増補完全版」に出てくる。

まえがきによると、増補書き下ろしにはふたつの核となるテーマがあって、ひとつが「複数で歌う」こと、もうひとつが「わたしがわたし以外になって歌う」こと、だという。いきおい、うえで述べたような原則――つまり「うた」という動作に埋め込まれる歴史――がいっそうきわだつ文章がそろっている。そもそも、この原則に立つならば、歌を歌うということは私ならざるなにかの声をこの喉にひっそりとまとわせることなのだし、それゆえ私が私以外になってゆくことでもあるのだから、あらかじめ通底していた主題が顕在化したようにも思える。

こうしたテーマを新たに設けることで、テクノロジーの要素もよりはっきりと浮かび上がっているのが面白い。そのものずばり、「機械と人間のあいだ」という文章も2部構成で収められているのだけれども、ヴォコーダーとかオートチューンとかそういったいかにもなテクノロジーじゃなくて、現代のポップミュージックには欠かせない(多重)録音技術によるサウンドメイクが実は前提とされている。ジョン・レノン「イマジン」やテイラー・スウィフト「私たちは(以下略)」、シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム」の分析では、現代的なプロダクションが生み出す複数の声のあり方(なんならスタジオテクニックに限らずミュージックビデオまでが入ってくる)が描き出される。(注2)

しかし、そこにフォーカスしきってしまうのではなく、譜面に書き留められた「うた」も、レコードに刻み込まれた「うた」も、あるいは誰ともない誰かが口ずさむ「うた」をも連続的に扱っていることによって、あらゆるテクノロジー――書記、録音、編集、変調、合成等々……――を貫通する「うたのしくみ」が浮かび上がってくる。そして、この「しくみ」は常に、ここではないどこか、いまではないいつか、私ではない誰かへの通路なのだ。

注1 それゆえ、身体的な制限によって新しい動作のレパートリーが要請され、自ずと特異な歴史が立ち上がりだす、というような事態も起こりうる。「誤用」のうみだすクリエイティヴィティなんていうのもある。それらはある種の発明(invention)であり、また同時に歴史に対する介入(intervention)でもある。若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(2017年)で論じられるデレク・ベイリーの例はこと興味深いので参照されたい。

注2 そもそも執拗にある声を、声色を論じ続けるということ自体が、録音技術以後だからこそ可能なことではある。また、テクノロジーの要素は『うたのしくみ』オリジナルでもマイクやラジオ、映画といったかたちで登場している。ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」をめぐる分析で触れられる冨田恵一の『ナイトフライ』論がまさしく、『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』(2014年、DU BOOKS)と題されていることも付記しておく。

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「物語」

人がよく「物語」の話をしているのを見かける。さも現代をめぐる最大のプロブレマティックがそこにあるかのように「物語」とどう向き合うべきかを論じている人が多い。でも結局その「物語」がなんなのかはっきりしない。具体的な内容じゃなく、どのような対象を「物語」といってるのかよくわからない。自分が「物語」というときイメージするのは因果関係の連鎖である。フィクションの文脈になじむような言い方をすると「プロット」か。誰が何してどうなった。それがさらに連鎖することで「物語」は進行する。だからそうした因果関係が隠されていたり、破壊されていたりするものを「お、非-物語的だ」と思う。

でも人が「物語」と言ってるときって必ずしもそうした因果関係を意味していないように思う。むしろそうした因果関係を見出すための認知の枠組みが「物語」と言われているようなときが多いんじゃないか。たとえば「世の中はおしなべてあちらがわとこちらがわの闘争である」というような枠組みを持つ人は「あいつはあちらがわの人間だから、こういう報いを受けるのは当然である」みたいな「物語」=因果関係をひねりだす。それが実情とあっているかどうか、真に因果たりうるかに関わらず。言ってみればそれは「設定」であって「舞台」であり、「物語」はそこから演繹された説明に過ぎない。

自分の関心はそういう粗雑なつかい方をされる「物語」のほうではなく、「物語」の素材になる「設定」や「舞台」のほうだ。さらに言えば、そうした「設定」や「舞台」から一定の「物語」を取り出させるレトリック、文体も。そっちのほうが「物語」なんていう単に事後的に説明の便宜のために持ち出されるものよりもよほど問題として実際的だと思う。

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「退屈な革命」とNEUTRINOについて

「退屈な革命」という3曲入りのEPをリリースした。毎年ひとつはなんかしらリリースしようと思っているのでそのタイミングかと思い。

内容について。あまりやっていなかった4つ打ちで、しかもうち2曲は歌が入っている。最近わけあってNEUTRINOというフリーの歌声シンセサイザーを使いだしていたのをなにか活用したいと思っていたのだった。

NEUTRINOは高品質な歌声を合成できるものの、たとえばボカロみたいに専用のエディタがあるわけじゃない。とっつきづらそうに思っていたのだけれども、蓋を開けてみればそうでもなかった。自分の使い慣れたMuseScoreを活用すればよかったからだ。

MuseScoreはフリーの楽譜作成ソフトで、基本的に自分がこれまで書き物の図版にしてきた五線譜やリズム譜はぜんぶこれでつくってきた。このソフトで歌詞の入った歌メロの譜面をつくり、musicXML形式にエクスポート。それをNEUTRINOに投げると、まるで人が歌ったようなヴォーカルが合成される(ただー、という効果音)。

くわしいつかい方は以下の記事なんか読むとよいと思う。歌声を出力するまでだったらだいたいそれでわかる。

つよすぎるAIシンガーAIきりたんの基本的な使い方。【無料】|赤坂まさか|note

最初につくったのはこれだ。

ちなみにデフォルトで同梱されている東北きりたんのライブラリを使っている。茜屋日海夏さんのデータが元になってるんだって。マジかよ。東北イタコは木戸衣吹さん。わお。東北出身だからね(茜屋さんは秋田、木戸さんは青森。山形いないの?

声質等々を鑑みて、「退屈な革命」で使っているのはめろうというNEUTRINOオリジナルのライブラリだ。歌い上げるよりはさらっと歌ってくれるニュアンスがよい。かつ、商用・非商用問わず利用は自由。報告義務もない(Bandcampのリリースページには明記した。すごいので)。

もともと歌メロはシンセリードをぴろぴろ弾きながら考えていたのだけれども、実際言葉をのせてみると歌っぽい歌にならず、ヴォーカリーズっぽく聴こえてしまってしばらく悩んだ。こういう4つ打ちにのっかってて、言葉を詰め込むんじゃなくて母音をうまく伸ばしたような……と思って、XTALさんのA Leap feat. Achico(名曲である)をちょっとリファレンスにした。

鍵盤で弾いた単音リードは鍵盤で弾いた単音リードっぽくなる! あたり前田の…… なのでループさせつつドゥビドゥバるらるら歌ってピッチ感と譜割りのあてをつけ、打ち込んだ。

DAW(Studio One 4)で打ち込んだシーケンスをMIDIにエクスポートして、MuseScoreにインポートする。するとキーやアウフタクトを判別して五線譜に起こしてくれるので、あとは歌詞を打ち込んで、さらにmusicXMLファイルにエクスポート。NEUTRINOに投げる。

その結果、こう(↑)なった。実際には調声支援ツールで諸々調整してるんだけど、まあmusicXMLを投げるとほぼこのくらいのは出てきます。

NEUTRINO、譜例みたいな感覚で「実際に歌っている声」が使えたら楽しいのでは? と思っている。表現力という意味では不足でも、例えばリズムやピッチを外すことは基本ないので、安直に打ち込んでは歌ってもらうといいのではないかと。思ってるだけでその成果を世に出すことがあるかはあんまわかんなけど。

ちなみに「男声のライブラリがないな~」と思っていたらナクモ(NAKUMO)という男声ライブラリが発表されていた。うーんこれは使ってみたいかもしれない。

歌ものはこれからいろいろつくると思います。昔つくった歌ものをつくりなおすのをやりたい。自分で歌ってるのがはずかしい(いや、歌詞もはずかしい……)がサンクラにおいてある。上手くないのに自分でつくったメロというか譜割りがちょっとむずくて歌えてないんだよ。

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