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カテゴリー: Japanese

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出来事と過程、単数と複数

R-1ぐらんぷり2022での寺田寛明「始まりの歴史」が好きだ。世の中のいろんなものごとに対して、「よく考えてみると奇妙だし、こんな奇妙なものを最初に考案したひとはまったく理解されなかっただろう」というスタンスで想像をふくらませる文字ベースのフリップ芸。身の回りの変なことにツッコむ、あるいはツッコむとまでは言わなくとも「なんか変だよね」と提示する。それ自体はわりとベタなスタイルだろう。けれども「始まりの歴史」は少しねじれていて、ツッコむのはいまを生きる私たちではなくて「始まり」に居合わせた同時代の人びとということになっている。その「始まり」を操作することでナンセンスがうまれている。

たとえばテニスのルールは特に印象的なくだりだが、誰か特定の個人が現在のテニス全体を一度に作り出したという「始まり」を設定することで、テニスというスポーツが持つ「なにこれ?」みたいな細部の異様さを強調されることになる。しかし現在のテニスは誰かがいきなり考案したものというよりも、長い歴史の中で用具やルールが洗練され、ある時期に制度化と産業化が進んだ結果だ。いろんな時代のいろんな人があれこれ試行錯誤してきたものを、あたかもひとつの「発明」のように描くことでうまれるナンセンスが「始まりの歴史」である。

前半はもっぱらそのように、長い複数のプロセスの産物を発明という出来事に置き換えることでネタが駆動していく。後半は少し事情が変わる。そこでは会議というシチュエーションが重要になってくる。いち社員が会議で(ちょっと奇妙なことを)提案するが、真面目に受け止められない(だって変だから)。これは個人による発明を企業組織のなかのプロジェクトに重ね合わせることでナンセンスがうまれている。重要なのは、会議は特定多数による協働の場であるということだ。たとえば回転寿司は、とある経営者がベルトコンベアに着想を得て自ら開発した仕組みが普及したもので、特定の個人による発明だが、それが会議というシチュエーションを通じて協働のプロセスへと還元されている。

だから、「始まりの歴史」には、不特定多数の人々が関わってきたプロセスを単一の発明という出来事に還元することと、単一の発明を組織による協働のなかにあえて位置づけること、ふたつのほとんど正反対の志向が含まれている。ふつーに既存のネタを再編成したネタだからそうなってんだという話だろうけれども、「始まり」をめぐる短絡の心地よさってあるなと思う。最後なげやりになってるのは「なんでこんなの書いてんだろう」って思いながらうまいオチだけはつけたいという気持ちがわいてきて、それもくだらんな、なんかもういろいろどうでもよくなってきた、となったからです。R-1で一番好きだったのは金の国の人のやつでした。なんであれが優勝しなかったんだ。

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アドホックな祈り

正直祈りってどういうことなのかあんまりわからない。祈ったことがないという意味ではない。自分が祈っていると自ら思うときもそれがどんな行為なのか自分ではわからない。これといった信仰の習慣を欠きアドホックに(あるいは気まぐれに)行われる祈りってなんなのか。でもひとがなにかせずにはいられないのになにかすることがかえって悪夢のような現実へとひとを誘い込むようなときに祈りは大事な役割を果たすのかもしれないなと最近思うようになった。

漫画のセリフからとられた「祈るな 祈れば手が塞がる」という警句は「手を動かせ」というメッセージとしてひろく俗っぽく受容されている。けれども「手を塞ぐ」ためにこそ祈りはある。と反転させたときにみえてくるもののほうが重要だと思う。無為に留まることは思いの外難しい。たとえその手になんの頼りもなく立ち尽くすしかないときも。「なにかしなくては」という思いをしずめる。「なにもできない」という無力感に抗う。そのために(つまり無為を受け入れるために)アドホックな祈りがある。

実際にはほんとうの意味で「なにもできない」などということはほとんどない。微力であってもいかに迂遠でもなにかしらできることはある。しかし「なにかしなくては」という切迫感を自分にとっても世界にとっても満たしてくれる「なにか」とそううまく出会うことはない。そんなときに目についた「なにか」が人を踏みつけにする可能性もある。あるいは切迫感に押しつぶされて「なにか」に出会う前に「なにもできない」という無力感にこころをくじかれることもある。

アドホックな祈りは奇跡の到来や超越的なものとの交通を願うスピリチュアルな行為というよりプラクティカルなものだ。無力感にあらがって焦燥感を鎮める先送りの技術。場当たり的に祈ることによって第一に救われるのはほかならぬいま・ここの私だ。だからアドホックな祈りは利己的で孤独なものだ。しかしそんな祈りなしに生きていくことはあまりにも難しい。

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読むことのジレンマ

読むことは難しい。そもそも文章を読み解く行為自体が一定のスキルの必要なものなんだけれど、もっと難しいのはそんな解釈の技法の外にある「どこまでをどのように読むか」の判断だと思う。たとえば、与えられた文章を書かれているままに読むべきか、それとも書かれていない「行間」を読むべきか。「行間」を読むとして、どこまで読み込むのか。最近、ずっともやもやと悩んでいる。

「まま」と「行間」だと、なんとなく後者のほうがより高度と思う向きもあるかもしれないが、かならずしもそうではない。「行間」はしばしば罠で、自分もふくめて少なくない人びと(それを定型発達の、と言ってもよいだろうが)は、書かれていないことを勝手に 文章 のなかに読み込んでしまう。そうするべきときもある。「行間」的な読みは、複数の文章をつきあわせた地道で実証的な作業を経なくても、ヒューリスティックにそこそこ妥当な解釈を導くことができる。日常的なコミュニケーションにおいては「行間」的な読みのエンジンのほうが優勢な場合が多く、字義通りであることはむしろイレギュラーとして捉えられがちだ。

そうした「行間」に慣れた人にとっては、与えられた文章をそのまま読むことのほうが、むしろ訓練が必要な特殊技能である場合も多い。書いてあることを、書いてある範囲に限って読み、解釈として再構築する。書かれていないことをみだりに引っ張ってこない。それには忍耐がいる。助詞のひとつも、接続詞のひとつも読み落とさないように読むこと。精読とは、「行間」へ深く潜り込むことではなくて、むしろ文という表面のうえに広がる迷路に身を投じるようなことだ。

しかし、世の中にあふれるテクストの多くが「まま」では正当に読めないようにできているのもまた事実だ。なんなら、「犬笛」などと表現される、ある予断に訴えかける言外のメッセージが埋め込まれたテクストを「まま」受け止めることは、もしかしたら倫理的に不適切かもしれない。一方で、「まま」読むべきテクストの背景を邪推してありもしない「行間」を読み取ることもまた、倫理的な過ちになってしまうかもしれない。「行間」に目を凝らさねばならないときもあれば、「まま」の領域に留まらなければならないときもある。その判断こそがもっとも困難であり、それゆえに避けがたい過ちを生み出し続ける。「行間」への危険な欲望と、「まま」のもたらす盲点のあいだで、最適な落とし所を都度ごとに探り当てるのは至難の業だ。

さしあたっては、「読む・解釈する」以外の方法をとりいれることがこうしたジレンマじみたシチュエーションに介入する方策となるだろう(たとえば、受け手やその集合としての社会に与える効果や、その内部での機能に着目する)。が、依然として、実践的なコミュニケーションの問題として、「まま」と「行間」のはざまの葛藤は、自分を捉えてはなさない。

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天井とTikTokはほぼ同じ

業務スーパーに行って「guillaume super……」と思ったり、コンビニの値下げ商品を漁ったり、天井とTikTokを交互に見たり、Duolingoのレッスンを1つ進めては「きょうのノルマは達成」と自分に言い聞かせたり、でかすぎて手に余る本を解体してKindleで読めるようにしたり、鶏むね肉を電気圧力鍋でごりごりに調理してふぁっふぁの鶏フレークにしたり、浴びるように紅茶を飲んだり、世界の不思議について考えたり、ドライブ・マイ・カーにおける人称、私、自他の境界のぼけや侵犯のようなことが気にかかるのはおそらくもっとも直接的に、自分が自分にひもづいている感覚が薄く、それが苦しいときもあれば多幸感をもたらすこともある、そういうことに関係していて、自分の直感する世界が描かれている、自分がもっとも恐れる(求める)言葉の作用がそこにある、みたいに強迫的に解釈してしまうからかもしれない、確定申告の作業をうっすら進めたり、風呂を掃除したり、ひげをそったり、洗濯し忘れたり、洗濯したことを忘れたり、キョコロヒーを見て赤ん坊のようにけたけたと笑ったり、この離散的な意識、夜にいーってなって外に出るんだけど閉店しかけのスーパーは空っぽだったり、液体絆創膏が好き、箇条書きはすべて幻想、龍角散を丸呑みする。

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私以外私じゃないけど私が私だとは限らない(ドライブ・マイ・カーについて)

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」を見た。いきつけの映画館のスタンプカードを見ると、どうやら劇場で映画を鑑賞したのは昨年10月以来のようだった。それもドキュメンタリーかなにかだったような気がする。3時間ほどの上映時間を耐えきれる気がしない、と思っていたのが、じっさいに見ると体感100分だった。あっという間ってこういうことなんだな。

以下、ネタバレといえばネタバレだと思います。原作とかチェーホフ読んでからなんか書こうかなと思ったけど、やめた。

どういう物語なのかさっぱり予習せず、なんなら予告編も観ていなかったので、道具立てがひとつひとつ明かされていくたびに、へぇ、これはすごいな、と感心していた。登場人物たちがある出来事(あるいは過程)を通じて変化する、ような物語かと思っていたのはまるで違っていた。ある人物が時間の経過や出来事の経験に伴って被る変質よりも印象的なのは、「テキスト」や「声」や「身振り」をめぐって人物たちが重なったりすれ違ったりしていくさまで、誰がその声を所有しているのか、その声は誰に向けられたものなのか……といった主/客の関係が常にスリリングに(ときに時系列を混濁させながら)流動していく。誰もが言葉に憑依されてしまっているかのような不気味さと、だからこそ生じている情動の交通の、暴力と融和がずっと背中合わせに共存している感じがよかった。

そのような映画のなかで、終盤のクライマックスと呼べるポイントで「僕は正しく傷つくべきだった」と言って慟哭する家福の姿の無防備さと陳腐さは著しく浮いている、ように思えた。それをけなしているのではなく、むしろ、あの陳腐さこそがこの映画の巧みさの表出なんじゃないかと思う。流れとしては、渡利の問いかけに対するリアクションのように見える……のだが、それまでは成立していたダイアログがここで破綻している。渡利の問いへの答えよりも先に、モノローグがはじまってしまう。それこそが家福という人にこの経験がもたらした決定的な変化なのだ、と言ってしまうこともできるだろうし、そのように捉えれば「陳腐である」というのはあまりに突き放した評価と思われるかもしれない。けれども、唐突に「感情的」になり、「弱さ」を表出させたかのようなこの場面に漂う白々しさは、つづく「ワーニャ伯父さん」の上演のシーケンスがうわがきされることで強められるとともにその意義が腑に落ちてくる。

舞台上、ソーニャがワーニャに語りかける一言一句が、ついさっき見た家福の独白とゆるやかにつながっていく(ように思った、もっかい見たらそうでもないかもしれない)。あの独白でさえも、家福のなかに浸透したチェーホフの、あるいはソーニャの言葉の影にすぎないかもしれない。しかし、渡利がその直前に言うように、演技なのかどうかはどうでもいいし、演技だとしてもその演技にはなんらかの真正さがあり、たとえそれが一貫性を欠いた不審で不自然なものだったとしても、その全体をありのままに受け取ることが、必要なのではないか。「本当の言葉」への回帰ではなく、演じてしまうことまでを含めた全体そのものの受容。

さて、家福が演じるのはもちろんソーニャではなくワーニャ(しかも、もともとは高槻が演じるはずだったワーニャ)でソーニャを演じているのは韓国手話を使うイ・ユナである。しかし、じっさい、多言語演劇という手法の都合上、自分の役だけではなく他の役のテクストも覚え込まねばならず、それがもたらす特殊ななにかこそを追い求めているのだ、というのは劇中での家福自身の言動が伝えるところだ。かつ、韓国手話で演じられるソーニャから二人羽織のようにして相手の身体を借りながら放たれる呼びかけは、「ソーニャからワーニャへと伝えられる」というよりもむしろ、視覚的に言えば、「ソーニャとワーニャが『私たち』として発する」もののように、もっと言えば「ソーニャとワーニャの区別がないまぜになって漂う」言葉のようにも思えてくる。といってもそれは自他の境界がなくなった幸福な統一であるというよりも、浮遊する言葉を前にからっぽの身体へと還元されていくそら恐ろしさにも近い。

同じ韓国手話がフックになったシーンで言えば、夕食に招かれたコーディネーターの家でのシーケンスは、「通訳」を通じて発話の主体、言葉の所有者が不明瞭になることがもたらす危うさを常に漂わせながらぎりぎり成立しているような鋭さがみなぎっていて、統一の裏面にぴったりとはりついた不穏さを感じながら、そのバランスになにか感じ入るところがあった。

いずれも、言葉に対する特異な認識というよりは、むしろ直感的には言葉がひとに働きかけるやり方と非常によく一致しているように思う。私の言葉は私の言葉にとどまることができないし、他人の言葉は容易に私のなかに侵入して支配してしまう。言葉を使っているのか、言葉に憑かれているのか、いま発している言葉が私のものなのか、しかしそうじゃないとしてなんだっていうんだろう。みたいな。言葉がそもそも持つ他者性、ポストモダン的などうこうとかじゃなくて、もっと根本的な身体感覚や直感に属するものとしての。

そもそも、「私の my」という所有格の代名詞は、「私」という揺るぎない主体への所属を意味しているかのよう(それゆえに「drive my car」というフレーズに独特の親密さや信頼のニュアンスが生じる)だが、しかし「私」という言葉は、指示対象をいくらでも変える。発話した主体を指していることもあるだろうし、発話した主体が演じるキャラクターを指していることもあるだろうし、もっとややこしくするならば、私が記した「私はimdkmです」という文章を誰かが読み上げた場合、その文章が指示する「私」とその声を発した主体は一致しない。「私」はいろんな身体、声、主体に憑依して実体をもたない。文脈に依存する代名詞なら当たり前だろ、と思うかもしれないが、その当たり前を貫いた先にあるのは言葉と声の不穏な世界であり、「ドライブ・マイ・カー」はそこに触れている。

「私の車」、しかしその車を所有する「私」はいったい誰でありうるのだろう。などと思いながら見届けた最後のシーケンスは、ほんのりと混乱を残しながら、浮遊する「私」という代名詞のつかみどころない存在をいっそう強調していたように思う。

(ちなみに、ジェスチャーの観点から見ても誰かと誰かが一致し、重なりつつ離れる、そうした印象的なシーンがいくつかあったようにも思うが、まあ、めんどくさいので、書かない。)

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意味の単位(7)

前も書いた気がするが、知らんまに親がソーダストリーム(家で炭酸水がつくれるやつ)を買っていた(というかたぶんおれが実家戻る前にはあってたのを最近ひっぱりだしてきた?)ので、思い出したように使ってレモネードやらクラフトコーラもどきを嗜んでいたのだけれども、ひょんなことから希釈して飲むフルーツ酢を炭酸水で割るのに目覚めた。お酢はいい。すっぱいものは元気がでる。元気がでるといえば、チャイもよく飲むのだが、シナモン・カルダモン・クローブにくわえて生姜をがんがんきかせて赤唐辛子と胡椒をいれるとぽかぽかしてよい。飲み味も刺激的。

YouTubeで「錦鯉のM-1最終決戦ネタで渡辺が見せた最高のスカシ」みたいな10秒くらいの動画がサジェストされてきて驚いた。「このネタがいい」のではなく、「このネタのこの部分がすごい」というのをピックアップしてシェアする(まあ違法ですが)。それは「いいとこどり」のようでも、ディテイルにたいするフェティシズム(記録された映像であるがゆえに演芸であってもまたフェティッシュたりうる)のようでもある、あるいは「倍速視聴」的なイージーで手っ取り早い消費と断じるものもあるだろうけれども、一方でこの10秒は錦鯉(の渡辺)の芸風全体をひとことで要約するような雄弁さもある。いちがいにこれを断片化した消費と言いうるのかどうか、むしろすごい批評なんじゃないか、などと思う。注目スべきは、断片化されたコンテンツのほうではなく、それがどのようなコンテンツ間のネットワークやコンテクストを前提としているかであって、TikTokのヴァイラルヒットやミームなんかもそのような観点が不可欠になる。

かわE(曲はSerph feat. ずん)

宇多田ヒカル『BADモード』のリリースにあわせて配信されたスタジオライブを見た。素晴らしい内容で、正直音源ではあんまりのれなかった部分も興味深くひきこまれた。宇多田ヒカルがうたうときに放つ身体性、リズムのとりかた、みたいなのはやっぱり独特で、ビビッドに演奏に反応して音源とはやや違う譜割り(3連系が16ビートに寄っていたり、そこがゆるやかにつながっていたり)になったり、かと思えば演奏に対してなんでそう点を置いていけるのか微妙にわからないところもあったり、おもしろい。

altopaloの名盤『farawayfromeveryoneyouknow』がデラックスバージョンに。「party song」のIan Chang Remixが素晴らしく、ほかのリミックスもよいのだが、未発表のオリジナル「what (we) are」が特に良い。というかやっぱりこのアルバムは素晴らしい。2020年代を占うつもりで音楽を聴いている人というのはどうやら世の中にたくさんいるらしいがそれがあるとしたらaltopaloのこれだよおれにとっては。

ふとした拍子にサジェストされたシリーズ、QX3でごりごり打ち込みする現在の浅倉大介……。すごいけど多分こういうのを今でも職人的にできる人けっこういるんだろうな。ここまでの人は多くはないだろうけど、身体がおぼえてて、みたいな。

8年前にKassa Overallの身に起こった出来事とは……? タイトルが気になってみはじめたら話のはじめが「夢をみて……」だったので「な~んだ、夢の話か」と思ってたら、「いや、待って、だめだめ……」と胃が痛くなった。「でもかえってすっきりしたよ」っていうの、肝がすわっている。

ちょっとDIYしたくてホームセンターに行ったら、ワンバイフォーやツーバイフォーのSPF材が以前の1.5~2倍くらいにまで値上がりしていて驚く。多分木材不足がもっとひどかったときはもっと高かったのだろう(状況が改善したわけでもなさそうなので、これから値上がりが続くのだろうか)。木材でなにかする予定を変更して、全ねじをつかうプランBに。

こうなった。なんかもっとやりようあるやろとおもいつつ…… ただこれ照明吊ったりカメラ吊ったりもできるからな。

はい。

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意味の単位(6)

先日Twitterでシンゲリの話が出てて、Nyege Nyege Tapesのコンピ2枚で知ってるくらいではあるのだが、そういえば去年だったかNTSがシンゲリのショートドキュメンタリをつくってたな、あれに出てくるDJソフトが謎だったんだよな、とつぶやいてみたらあっさり解決。Virtual DJだった。UIがちょっと違うので現在もある機能なのかわからないが、12トラックくらいのループサンプラーが搭載されていて、それにネタを次々読み込んでがんがんかぶせていくスタイルで制作されているようだった。いや、それが制作のすべてではないだろうけれども、上掲の『Sounds of Pamoja』などでもわかるように、アップテンポでカオティックな音楽性の割に一曲一曲が長く、そういうのってDAWでいちから打ち込んでかたちにしていくにはしんどいスタイルだし、MCが結構重要っぽいので、Virtual DJで半即興的にネタをかぶせてMCが煽って……というライブ感がまず先にありそう。

こういうことですね。やってることはシンプルだけれどこれの扱いを習得するのはシンゲリを構造的に理解して打ち込むより難しいのでは? という気もする。

揺らぎのリミックス企画に参加。マスタリングはまさかのゴッチさん。ほかのみなさんが盛り付けまでこだわった洗練されたリミックスを提供するなか、なんかおれだけ手づかみでサラダチキン食べさせるみたいな感じでちょいはずい。自分がいうのも何様ですがさすが力作ぞろいなのでぜひ通して聴いてみてください。あとジャケがめちゃいい(前のリミキシーズもはんぱなくジャケがいい)。

岩波ホール閉館の知らせに接して語られるさまざまな思い出に漂う「文化」のかおりに辟易する。

「ラヴィット!」で相席スタート山添が「ラヴィット実は収録だった」とカマして、まあそのボケ自体はそこまででもないのだが、川島のツッコミや共演者のブーイングをものともせず「だってまだ12月じゃないですか」と平然とした顔で続けてたのがすごくて、もうずっとそのことが頭から離れない。

ヒコロヒーのナイスダブルピース

長谷川白紙の歌詞を読む会 第2回が開催された。今回は初回のときのようなキマり(TALK LIKE BEATS参照)はなかったのだが、「うーんうーん」とうなりながらああでもないこうでもないとぐずぐずやるのはやはりよかった。しかし最終的に出席者から超弩級のボムが投下され、こうなった↓

日記を編集し直して(日記としての体裁は必ずしもとらずに)ZINEにしようか、と考えている。PDFで配布……販売かもしれないが。

中村佳穂「さよならクレール」、そうか~という感じで、特にハマらず。「アイミル」もそうなんだけど。すごいことやってるかどうかと好きになれるかどうかは全然関係ないのよね。なんというか、「どんどんすごいことになってきてるけど、別にその方向のすごさには面白みを感じない」と思うようなことが、ここ最近ずっと続いている。多くの人はそっちの方向のすごさに率直に圧倒され好ましく思っているようなのが虚しい。なんなんだろうか。

ここ数日、お昼~夕方に「うお~もう駄目だ~」となっていたのだが、ためらわずに昼寝するようにしたらなんとかなってきた。毎度そう首尾よく眠れるとは限らないけれども、あったかくして加重ブランケットにくるまって好きなことを考えつづける。すると、いつのまにか気を失っていたり、あるいはしんどさがやわらいだりしている。

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意味の単位(5)

Kindle Paperwhiteの英和辞書、形容詞の副詞化したのなんかをひくと元の形容詞を参照みたいに表示される(historicallyをひくと「→historical」みたいな)んだけど、それは見ればわかるのだが……となる。せめてジャンプできてほしい、できるのか? 英英をつかえばよいという説もある。

ナラ・シネフロ、UKジャズの謎多き新鋭が語る「音楽を奏でるのは瞑想的なこと」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

おもしろいインタビューだった。全曲のデモができあがって聴き返して「どの曲も全く違うサウンドだったことに驚いた」って微妙に他人事感というか、制作プロセスがいかにspontaneousでマジカルだったかがじゃっかん滲んでいるというか。

「Space 5」のときは、正真正銘のトランス状態だったと思う。いい感じだって思いながら、モジュールでサウンドを幾つか作ったのを覚えている。気づいたら別世界に行っていて、私じゃない別の何かが残りを書き上げていた。あっという間の出来事だった。この時もまた完成したらそのまま寝て、翌日か翌週に聴き返してみたら「これ、私が書いたの?」と信じられなかった(笑)。素の状態だったら「Space 5」みたいな曲はできなかったんじゃないかな。自意識が全くない状態が生んだ曲だと思う。

ナラ・シネフロ、UKジャズの謎多き新鋭が語る「音楽を奏でるのは瞑想的なこと」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

このくだりもよい。「Space 5」と「Space 6」は特に好きだ(6のほうが実は好き)。おれも瞑想しようかな……。でもその時間寝たいな……。

オタク女子が、4人で暮らしてみたら。

コミックブーストで藤谷千明さんの同名エッセイが漫画化。「夜泣きのくだりも漫画になるのかな……?(それともけっこう構成変わるかな)」と思っていたら、第一話からがっつり夜泣きのエピソードだった。一コマめの「私は藤谷千明 フリーライターとして働いている」で「漫画のオープニングだ……!」とびっくりした。原作になったエッセイ本(アフィリンク注意)は内容もそうなのだけれど文章の温度感(なんだろ、インターネットユーモア的なものとの距離感?)がよく、実践的でもあるだろう(わたしは実家で家族と暮らしているので……)しおすすめです。なんでかKindleで頻繁にセールやポイント還元キャンペーンの対象になる。

Jace Clayton『Uproot』(アフィリンク注意)を一部再読したのだが、やっぱり面白いことが書いてある本だなーと思う一方で、意外と記述が荒い(固有名詞のスペルミスとか、シンセをドラムマシンと書いてたりとか)かも、とか思った。これをたとえば大石始・吉本秀純両氏の『GLOCAL BEATS』(アフィリンク注意)とあわせて読むとおもしろいというか、大石さんや吉本さんの解説付きで邦訳されたらおもしろいのにな。なにしろ2016年の本なので、状況はそこからめまぐるしく変わっているのだが、むしろ2000年代~2010年代前半の時代の記録として興味深いし、あと北アフリカや中東アジアにおける音楽、とくに現代的テクノロジーの受容については類書そんなないのではないか、やはり。

Electronic Beats TVのBlind Testシリーズはだいたい面白いのだが、地味に解答者がほぼ全部男女半々で組んであるのがいいなと思う。そんなこと考えなくてもなってて当然といえばそうなんだけどね。あと、前も書いたトラックが放つ記名性っていうのが如実に感じられるシリーズでもあるよね。「ダンス・ミュージックの匿名性」というもののややこしさのかたちというか。Vitalicの個人的ビッグチューン「Poney pt.1」の反応が鈍いのが意外なようでなるほどというか。

Duolingoはじめました。

ふと思い立って図書館に行ったら休館日で、「うわぁ、無駄足」と思って動揺しながらとんぼ返りしたところ、なんでか道を間違ってしまって、圧雪凍結しためちゃくちゃ狭い住宅街の道をスリップにおびえながら進み、どうやらここをまっすぐいけばいいらしい、という十字路が工事中! でぐーるぐーるしつづけてもうおれは疲れた。なんもする気が起きない。

フジワラFMなのに後半ほぼ林さんと住さんの雑談(藤原さんはほぼ背景)になってて笑ってしまった。

SixTONES、2ndアルバム『CITY』が大差でチャート首位 ピースフルな雰囲気も随所に、生活との近しい距離感 – Real Sound|リアルサウンド

SixTONESのセカンド・アルバム『CITY』(アフィリンク注意)がすごくよかった。ジャニーズ系グループのアルバムは、ジャンルレスな楽曲を揃えてふんだんにファンサービスも含めた結果としてある種総花的に思えてしまうところがあるのだけれども、一日の中の時間帯で区切ってまとめる、といういい塩梅のコンセプトをつくることでアルバムとしてすんなり聴けるものになっている。改めて聞くと『1ST』(アフィリンク注意)って耳がきんきんするしやたら重々しい曲が多いのね。別に悪いとは思わないけど、『CITY』の(パフォーマンスまでふくめた)やらかくこなれた感じのほうが好ましい。

AKAI MPK mini playがなんか手狭に感じられたためALESIS Q49(アフィリンク注意)をひっぱりだして清掃、つないで弾いてみる。別にキーボードは弾けないんだけど、2オクターブだと思った積み方できないことがたまにある(ベース+4和音とか)。のでやはり鍵盤の数はおおいにこしたことはない……。ただでかい。デスクをでかくしたから置くのは余裕なんだけど。KORG microKEYの49鍵欲しい気がする。

DDJ-400出してきて遊んでいた(ハウスとかつないできゃっきゃしていた)ら飲んでいたミロを床にぶちまけてしまった……。気を取り直してたわむれにiPad AirにDDJ-400つなぐやつも試してみたら、紆余曲折ありつつなんとかなった。なぜかピッチフェーダーが逆(ふつうは↑遅く/↓速くになるのだが、↑速く/↓遅くになっていた)で、設定を探して直したり。一応オフィシャルに?対応しているソフトなのになんでフェーダーの設定がデフォルトだと逆なんだ。

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意味の単位(4)

マクドナルドのポテトが販売されたりされなかったり状態が続いているが、冷凍ポテトを家で調理すれば爆安で大量にポテトを食べられる。あんまりマクドのニュースを見るのでポテト食べたくなり業務スーパーに買いに行ったら、わざわざコーナーがつくられて「某ファストフード店のポテトSサイズが○○個つくれる!」とポップまでがっつり掲げられていて笑った。1kg買ってきた。

帰りに某人気グループの新譜を探しに八文字屋に向かったものの在庫なし。まあわかっていたことではある。初週は店頭にふらっと行っても買えるんだけど、翌週にはもう在庫なくて取り寄せになる。八文字屋も、イオンモール天童の未来堂書店も在庫は全部はけているとの話で、結局Amazon、しかもお急ぎ便に頼ることになる(仕事の都合で、すぐに必要)。売り場面積も限られているし人気グループだと初週でがっつり仕入れてがっつり売り切るみたいになるんだろう。しかしこれがもし都市部だったら二週目にどこのCDショップ行っても売り切れてるみたいなことあるだろうか。あんのかなあ。いまどきCDも売れてねえからなぁ。

あるツイートが曲解されているのを嘆いた小説家が「学校で小説を読ませる時間を削ってはいけない」みたいなことを言ってるの見て、その意味のわからなさに笑ってしまった(多分そういう冗談だろうけど)。小説に親しむとこういう意味不明な短絡をする人になってしまうのなら小説を禁止したほうがいいかもしれない(これは確実に冗談です。まあ、これが冗談だなんて、わざわざ言われなくたって、小説をたくさんお読みになる「読解力」の高い皆様にはすぐおわかりになるでしょうから心配ないでしょうけど)。

J-WAVE+FM802 HOLIDAY SPECIAL KYOTO GEIJUTSU DAIGAKU presents WHAT’S ART

京都芸術大学が成人の日にJ-WAVEとFM802で9時間特番やっていたというので、その妙な羽振りの良さというかバブリーな感じに「らしさ」を覚えた。

東北芸術工科大学でいい具合の求人でも出ないかな……などとうっすら考える。瓜生山学園のよしみで親近感がちょっとある(?)。普通自動車免許なら持っています……。

TwitterというテキストベースのSNSに特有の問題なのかもしれないが、ツイートに対しての「読解力」を問題にされることになにか違和感がある。ツイートする側も受け取る側もそれを「読解」されるべきテクストとは考えてないんじゃないのか。ツイートの「誤読」が問題になるときに問われているのは書く側読む側の文章力なり読解力ではなく、むしろコミュニケーションが成立しているかどうかのほうなのだが、いちど問題が生じるとあたかも「読解力」の問題、表現の問題であるかのような取り違えが起こってしまう。すると、「読解力」をめぐる議論が起こってきて……徒労じゃない? とんちんかんな方向へと話が向かっていく。その結果として「小説を読め」みたいなつまらない冗談を言う人も出てくる。なんだかな。

しかし「読む」(あるいは「聞く」)という行為は、一方では「書かれていることだけ」を受け取りつつ、にも関わらず「書かれていること以上」に達さなければならない、という奇妙な二律背反をしばしば抱える。「書かれていること以上」に達することをもって「読解力が高い」みたいに言う向きもあるように思うが、実践的には「書かれていることだけ」にとどまる練習こそが重要だと思う。

星のドラゴンクエスト presents 日向坂46 佐々木美玲のホイミーぱん | TOKYO FM | 2022/01/14/金 19:30-19:55

今週のホイミーぱん、観葉植物と卵のくだりがマジでヤバくてよかった。ホイミーぱんはいいラジオです。こさかな復帰したら終わってしまうん? それはそれで寂しい~

TALK LIKE BEATS最新回はわたしの年間ベスト。ほんとにいろいろピックアップしたなかからよりすぐった結果こんなんになりました。Mudd the Student「Field Trip」とかKAI「Peaches」なんかも挙げてよかった(前者は話はしたのだが思う所あり配信からはカット)。あと「サブスクなしコーナー」に半熟卵っちのDoja Cat “Kiss Me More”カバーとかいれたらよかったかも。その場のノリで決めたんで……。

2021年は挫折の1年だった。2022年はなんとかできるかな。ゆっくりやるよ。なにごとも。ごめんね。

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意味の単位(3)

TikTokを割とよく見てるほうなので、みんなTikTok結構やってるもんだと思いがちなのだが、世の中の人はそもそもアプリも入れていないことも多いということをたまに思い知らされる。

土・日・月と体調が芳しくなくてずっと寝ていた。月曜日は胃腸の調子を整えようと一日断食に挑戦。しかしあえなく夕方に限界を迎え爆食。なんじゃらほい。でも「お昼は食べない」くらいのノリでぜんぜんいいような気がする。あとオートミール食に徐々に復帰。

世の中、おじさんコンテンツ(おじさんのための、ではなく、おじさんを愛でる)は存外多く、メンバーが年齢を重ねてからの水曜どうでしょうとかがおそらく先鞭で、ほかにも音楽やらお笑いやらで仲良しなおじさんたちを愛でたり、おじさんのおじさん性を愛でるような眼差しというのはけっこう見受けられる(眼差しを見る、ってなんか変な表現だけど)。錦鯉のM-1優勝もまあそういう感じというか。おじさんコンテンツなぁ。好きだけど。サクマ&ピースとか名おじさんコンテンツじゃなかったですか。ホモソ的なわいわいを愛でる、の延長線上にあるのか、それともほかのなにかがあるのか、あんまりわからない。ほかならぬ自らがおじさん化していくなかで……。

こないだなんとなくヤフオクを見ていたらYAMAHA RM1xの新品未開封、デッドストックが出品されていてびっくりした。RM1xはグルーヴボックスとして結構人気が高くて何度か買おうか挑戦したことがあったけれどタイミングがあわずに無理だった。あれ、もう何年前の機材だ。ぎり90年代に発売されていたはず。欲しいなぁ。ちなみに当該オークションは終わってました。いくらで落札されたんだろうな。

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす│第10回│理論的なだけでは「公正」たりえない│朱喜哲 | [Edit-us] (editus.jp)

「物語」という概念というか領域が出てくるところで「うおぉ……」となった。ここでいう「物語」は小説みたいな文芸の特定の形式をさすものではなく、論理的でパブリックな言葉(対話のための、説得のための……と言い換えてもいいかもしれない)ではない言葉を総称するようなもので、さまざまな表現や発話がふくまれる。そうした限りでの「物語」の可能性については疑いようがないと思う一方で、しかし「物語」と世間で言われているものは……このへんはなんかいろいろアンビバレントな思いがたくさんあってなんともいえない。

かまいたちの濱家が身長187cmあるっていうのやばいよな、好き過ぎる。

ブラック・ナード・カルチャー:それは現実逃避(escape)ではない | elabo (elabo-mag.com)

マンガとかアニメの話(つまり日本産コンテンツの受容、とかそういう)にするとわかりづらくなるところ、「ナード」の含意の変化とアメリカのブラックコミュニティとの関係性を抑えることでそのクリティカルな面がわかる、みたいな感じだ。これはもしかしたらシティポップにも似たような分析が必要なのかもしれない(コンテンツの側を分析しようとしがちだが…という)。本文で紹介されているJordan Calhoun, Piccolo Is Black: A Memoir of Race, Religion, and Pop Culture (English Edition), Lit Riot Press, 2022.は気になる(アフィリンク注意)。

国内メーカーが出している3分早ゆでのスパゲッティがすげぇまずくて、輸入モノのやっすいパスタのほうが美味いってどういうことだよ、と思った。茹で方が悪いのか。でもある程度適当に茹でたってそれなりの味になるもんじゃない? パスタなんか……。

最近、毎日のようになにかしらをつくろっている気がする。ボタンホールを直したり、枕のジッパーを補強したり、アイマスクのひもをつけなおしたり等々……。とはいえ単に布をくっつけるだけならばコニシのボンド 裁ほう上手(アフィリンク注意)で事足りる。それでは強度がこころもとないというときにちょちょっと手縫いをする。ほんとはミシンを使いたいんだけど、ミシンをわざわざ引っ張り出してきて準備して……というのもだるい。裁ほう上手はいいです。なんならアイロンつかわんでもいける。

ダンス・ミュージックのプロデューサーの匿名性というのは、いわゆるポップスター(ロックの、ヒップホップの……でもいいが)の名の売れ方、顔の売れ方とはまた違う記憶のされかたがあるという話であって、素性を明かさない覆面プロデューサーであっても作品には明確にその作家性が刻まれているのだから、むしろ作品の記名性が際立つ分野であるような気もする。またダンス・ミュージックの機能性というのもある程度慎重に考えないといけなくて、ポップ・ミュージックも多くは一定の機能に対して最適化された音楽――それはかならずしもオーディエンスに与える影響に限らず、ポップの「名声」をめぐるエコシステムへの最適化も含まれる――なのだし、ロックだって多かれ少なかれ機能性やルールを持つものだ。「名声」や「記名性」が形成されるプロセスの差異として捉えるべきところをプレイヤーのアティチュードやジャンルの本質に還元するのはまあややこしいことではなかろうか。

ようやっと聴きました。みんなが歌ってるのが良い(馬鹿の感想)。最高です。

Apple Music、やっぱり決定的にiTunesでの使い勝手が悪く、「探す」と「ライブラリを管理する」のフローが分断されているのが非常に不満。そもそも検索もISDN時代のネットみたいに遅いし精度もおかしい。アプリも地味に使いにくい(類似する作品の自動再生とか、Spotifyなら設定で完全にオフにできるのに、Apple Musicはいちいち再生画面で停止するしかないみたいだし)。ローカルのライブラリに干渉してくるのも腹が立つ。こういうサービスの設計の仕方してるからU2のアルバムをプレゼントですっつって勝手に配信して批判されたりするんだなって思う。ユーザーがまもりたい領域に勝手に干渉してもなんとも思わないというか。

The Race to Save Hip-Hop’s Lost Eras | Pitchfork

ヒップホップ黎明期のマテリアルを保全しアーカイヴとしていくにはどうしたらよいか、というのを、アメリカの現状といま生じている困難をまとめて伝える記事。それじたいも興味深いがLaurent Fintoni, Bedroom Beats & B-Sides: Instrumental Hip Hop & Electronic Music at the Turn of the Century (English Edition). Velocity Press, 2020.(アフィリンク注意)がおもしろそうでKindle版をぽちった。冒頭の数パラグラフをたらたら読んでいるだけだが、匿名的なプロデューサーたちがポップのメインストリームに顔をだしはじめる――さきに書いたダンス・ミュージックのプロデューサーをめぐる匿名性と記名性等々の話に通じる――この20年ほどの変化について言及があり、これは読む価値あるかもしれない。ちなみに著者は2008年ごろ日本に住んでたらしい。

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