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imdkm.com 投稿

Bandcamp Friday 2023年11月購入報告

11月のBandcamp Friday、そこそこ買い物したので備忘録的にメモ。

Salamanda, In Parallel

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韓国・ソウルのアンビエント・デュオ、Salamandaのニューアルバム。前作『ashbalkum』(2022年)が話題になっていたのでご存知の方も多いのでは。先行リリースのひとつ、’make a jam, by myself’というリフレインが印象的な”Homemade Jam”が好きでこりゃいいぜと買おうと思っていた。

Kat7, Motherboard (Deluxe)

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双方ベルリンを拠点とするExile Di BraveとEquiknoxxのメンバーGavsborgのユニット作。”Funk Schön”のフリーキーなリディムがよくてVersionの入ってるデラックス盤を。Gavsborgはなんかすげーリリース多い。要チェック。

Nikki Nair, Breaka, Thys, Extra Playtime

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アトランタのNikki NairによるUKのBreaksとオランダのThysとコラボしたEP。Nikki Nairは割と好きで、まっすぐ全力疾走みたいなビートをやっているときがいちばんぐっとくる(このEPだとBreaksとの”The Zoomies”がそれか)。

Laurel Halo, Atras

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ロサンゼルスのLaurel Haloのニューアルバムは話題になっていたのでいわずものがだけれども構築的な美がものすごい一作。アルバム全体でみたときにCoby Seyの参加するわりとシンプルな(しかし絶妙な音の積み重ねが聴ける)’Belleville’がやはり白眉、シングルで聴いたときもよかったけど厚いレイヤーのつくりだす微妙な陰影が印象的なアルバムのなかにぽっかりと開かれた場所ができるかのような……。あとなによりロスレスでちゃんと聴きたいいうのがありますわね。

Sampha, Lahai

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SNSで話題騒然となったロンドンのSamphaのニューアルバム、エクレクティックなサウンドのきめ細やかさは、こちらもロスレスで聴かなあかんやろうということで。アコースティックなサウンドとエレクトロニックなサウンドの融合、という古くて新しいアジェンダが思わぬ方向から達成された感じというか。ビートにはドラムンベースやジャングルも感じ、サウンドにはポストクラシカルっぽい(というのはつまり、スタジオ芸術としての弦楽、程度のニュアンスだが)、全体としてはR&B、というバランス感がすごい。

TECHNO GAKSULI, JJAM-BBONG

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TECHNO GAKSULI fka DJ SEESAAの3曲入りEP、韓国のカラオケ楽器からインスパイアされつつレイヴィーな楽曲が詰まっている。USB形式でも売っているのだけれどポンチャックとかの音源がUSBで流通しているのをオマージュしたものだという。2曲めの’Middle Age Crisis’、曲名もすごいがすっこんすっこん言うビートの中毒性が高い。。。

ulla, foam

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昨年のリリースで印象的だったアンビエントといったらこれだったなというので記憶にひっかかってたのを購入。フィラデルフィアのulla strausのulla名義でのアルバム。断片化されて漂うグリッチがフェティシズムにならないラインで配置されていく構成の妙がいい(曲の尺が割とタイトなのも)。

Loraine James, Gentle Confrontation

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ロンドンのLoraine Jamesによるアルバム、このひとのキャリアのなかでも最高といっていい気がする。Loraine Jamesのビートはダンス・ミュージック的というよりもちょっとリズム自体がメロディアスに感じるときがあって、多用されるロールやスタッターの使用なんか、最初は違和感あったけどハマるとやみつきになる。ダンス、エレクトロニックの先入観で聴くよりも、マスロックマニアとしての一面なんかを知ったうえで聴くと納得の深い人である。

HITECH, DÉTWAT

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デトロイトのHITECHはセルフタイトルのアルバム(HiTech, 2022)も評価が高かったが、ゲットーテックのビートの力とそこから浮遊するコードとメロディのコントラストの妙がグループのカラーとしてすごい確立されてるなと思う。

Thomas Brinkmann, Max 1 Axel / Bernd

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ベルリンのベテランThomas Brinkmannのヒット曲’Tina (it was never you)’に結実するセッションからのテイクが集められた1999年リリースのEP。単にバリエーションといえばそうなんだろうけどもともと好きな曲だし、実際聴いてみるとあの超かっこいい珍妙なテクスチャの4つ打ちが思う存分味わえて良い。

キッズだったわたしはこれをスペースシャワーTVだかで見て「うひょー」となったわけです(唐突な思い出がたり)。

Surusinghe, ‘Bop,’ ‘Boka’ (from Brake Fruid)

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AD 93からリリースされたメルボルン出身ロンドン拠点のプロデューサーSurusigheのEPから2曲。ちょっとBPM高めでアグレッシヴな曲がすごく好みにハマったので購入。

Dario Zenker, ‘Ear 660 Cruise’ from Reflection

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ドイツはミュンヘン、Ilian TapeのZenker BrothersからDario ZenkerのアルバムReflectionがリリースされておりそれ全体的によさげな感じだったのだが、特に気になった曲をとりあえず。ヒプノティックなグルーヴでぶち上げるでもキマっていくでもなく、ドローンを背景としたドラムとパーカッションの緊張感でもってる感じがすごい好き。

Elisa Bee, ‘Boiling Point’ from Devotion EP

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Uncertain, ‘Bullet’

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Fireground, ‘Spice Up’ from Recreation

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Fireground, ‘Be Wild,’ ‘United,’ from Dreams

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[bandcamp width=100% height=120 album=481518990 size=large bgcol=ffffff linkcol=0687f5 tracklist=false artwork=small track=99229195]

このへんは現行ハードミニマル(いま風の言い方だとハードグルーヴ?)が最近きになってちょくちょく聴いたり買ったりしており、的なやつ。こういうのを聴くとぶち上がると同時に安心を覚える、謎……。

comoufly, ‘(I’ve Been) Lookin 4 U’ (single)

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camouflyわりと好きでリリース集めようかなと思いつつ(フルディスコグラフィー買えばいいのか)とりあえず前ちょっと聴いてきになってたのをあらためて聴き、購入。ベタにこういうのに弱い。

kLap, MLK NERVOSO

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ブラジル・ブラジリアのkLapは、ミナスジェライスのVHOORと並んで個人的にすごい好きなブラジルのプロデューサーで、エクストリーム化する荒々しいファンキと違ってエレクトロニック・ミュージックとしての洗練みたいなのがあってよくチェックしている。といってもkLap(VHOOR)もいわゆるファンキに限らずハウスもやりゃトラップもやりゃアフロビーツもやる万能選手で、ファンキやるとしてもメインストリームな奴ともアンダーグラウンドな奴とも違った味わいがあり。MLK NERVOSOはすごくとっつきやすくもあっておすすめです。

以上です。今回まあまあ散財したので来月もこのペースでやるかはわかりませんがなんか買ったらメモします。

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筋肉の記憶、アマチュアリズム以後のアマチュアリズム(ロラン・バルト「ムシカ・プラクティカ」を読むメモ)

ロラン・バルト『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年

ロラン・バルトはベートーヴェンを通じて「実践としての音楽」について思索した小論「ムシカ・プラクティカ」のなかでまず、「聴く音楽」と「自分で演奏する音楽」を峻別する。そして後者を、「筋肉の音楽」だという。悲しいことに、じつにひつうに、バルトはそうした「自分で演奏する音楽」は、「筋肉の音楽」は、消滅したと書きつける。第一にバルトは、それが有閑階級に属し、続いてブルジョワジーの台頭とともに実質を失い、ついに姿を消したのだ、と社会的に理由付ける。あるいはおそらく現代の読み手にとっていっそうアクチュアルに思えるのは、次のような理由付けであろう。

受動的な、受け身の音楽、大音量の音楽が音楽[強調は原文では傍点。以下同様]となった(コンサートの、フェスティヴァルの、レコードの、ラジオの音楽)。演奏はもはや存在しない。音楽活動はもはや決して手作業的でも、筋肉的でも、捏ねあげるものでもなくなった。[中略]演奏者も変わった。アマチュアという、技術的不完全さよりもスタイルによって定義される役割はもうどこにも見出せない。

(バルト『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年。p.178。以下同様)

職業的(プロフェッショナルな)演奏家によるコンサートや、レコードやラジオを通じて供される、その対象を鑑賞するほかない音楽。そうしたものの台頭によって、「自分で演奏する音楽」はほとんど消え去った。自身がピアノの弾き手でもあったバルトにとってこうした時代の趨勢が苦々しいものであったろうことはその沈痛な文章からもうかがえる。

しかしなにより興味をひくのは、ここでバルトがアマチュアを「技術的不完全さ」ではなく特定の「スタイル」と見なし、「筋肉の音楽」、具体的な身体と結びついた音楽の側に立たせていることだ。

アマチュア的なるものの衰退に対する第三の説明として、バルトは音楽家、音楽作品にも目を向ける。それがまさにベートーヴェンである。

アマチュアはベートーヴェンの音楽を自由にできない。技術的なむずかしさによるよりも、かつてのムシカ・プラクティカのコードが衰退しているからである。

p.181

かつては音楽における単一の要素に対するフェティシズムに結びついていた「模倣の欲動」は、ベートーヴェンにおいては壮大な管弦楽の一群を統率するような全体化を志向しようとする。いわく、「ベートーヴェンを弾こうと欲することは、オーケストラの指揮者として自分を投企することだ[中略]」(同前)。

一方で、そうしたベートーヴェンを完全に具現化することは決して叶わない。そのような全体を体現することができる身体など存在しないのだから。ベートーヴェンには常に、欠如が伴ってしまう。聴き取ることができない欠如が。バルトはベートーヴェンの難聴に象徴的に言及しながら論を進め、一気にユートピア的な「音楽会がもっぱらアトリエとなる」、「音楽行為の全体が残らず[傍点]プラクシスの中に吸収される」ような実践の音楽=ムシカ・プラクティカを夢想する。その夢想に深入りすることはあえて避けるが、肝要であるのは、おそらく次のような一行だろう。

作曲するとは、少なくとも、方向としては、作らせることである。聞かせるのではなく、書かせるのだ。

p.183

音楽を受動的な鑑賞、あるいはお望みなら「消費」と呼んでも良いが、そうした受容に閉じ込めることではなく、むしろポエジーに、つくることのほうへと開くこと。かつてアマチュア的な「筋肉の音楽」に託された契機を、バルトは自身のテクスト論におけるのと同様なやり方で、音楽に再生する方法を夢想するのである。

ここで、ふと連想が及ぶ。若くして注目をあつめるキーボーディストとドラマーのデュオ・DOMi & JD Beckはあるインタビューで、こんなことを言っている。

ドミ:脳から直接Sibelius、Logic、あるいはAbletonに入れて、MIDIを使って作業する。絶対に楽器では書かないことにしているんだ。筋肉の記憶があるから、(楽器を使いながら作曲すると)自分が前に演奏したもの、演奏できるものを演奏しがち。それをしたくないから、自分たちの耳に聴こえてくるものじゃなきゃいけないと思っている。
JD:それが「脳から直接」ってこと。筋肉のことは忘れなきゃいけないんだ。

ドミ&JD・ベック、超絶テクニックの新星が語る「究極の練習法と演奏論」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

ここにはきわめてリテラルな、アマチュアリズム=筋肉へのアンチテーゼがあらわれている。もうひとつ重要なのは、筋肉を迂回するために動員されているのがテクノロジーであるということだろう。絶対に楽器では書かず、楽譜作成ソフトやDAWで書く。筋肉から距離を置くにはうってつけの現代的なテクニックだ(五線譜でオーケストラを操ろうとするのとほとんどパラレルだが)。

ドミ:どの楽器にも一番簡単な演奏の仕方、一番難しい演奏の仕方があって、自分の楽器の限界に合わせてフレーズやソロの演奏も限定してしまう。そこで例えばサックスのように違う楽器の演奏をピアノに置き換えれば、アルペジオだったり、もっと大きなインターバルだったり、ピアノと比較するとやりやすくなる。見た目や本質が違うから。ギターもそう。個人的にはピアノの曲ばかり演奏していても、ピアニストにはなれるけどミュージシャンにはなれないと思ってる。

(同前)

筋肉の記憶に抗おうとするふたりの姿勢は、卓越した演奏家としても注目をあつめる自身の演奏論にも見て取れる。音楽家=ミュージシャンを名乗るには、特定の楽器(たとえばピアノ)と筋肉が膠着してしまうことを避けなければならないのだ。

DOMi & JD Beckの演奏は、じっさい、きわめてスペクタクルである。ステージではたったふたり、相対しながらドラムとキーボードがストイックに演奏される。その骨子はきわめてアンチ・スペクタクルだが、そこから飛び出るテクニカルでありながら音楽的なユーモアと快楽に満ちたサウンドは、聴く(見る)者を思わず息を呑む鑑賞者の位置に置く。

さて、DOMi & JD Beckが反筋肉=アマチュアリズムであり、そのストイシズムが「聴く音楽」としてのふたりの作品と演奏の質に直結していることはたしかである。しかし、そこにムシカ・プラクティカがまるで見出だせないかといえば、少し留保したい。

なにしろ、もちろんこうした超絶技巧が見る者をいっそう触発する――バルトが思い描くユートピアのように――こともありうるだろうし、ふたりはさまざまな状況(たとえばインターネットを通じた演奏動画の共有)の生み出す現代的な触発のサイクルからまさしく生まれてきた叩き上げの「プロフェッショナル」である。その演奏する姿をミメーシスすることは叶わないとしても、特定の身体をミメーシスすること以上の触発と発明、あるいは拡張が、高度にテクノロジーが浸透した現代の状況によっては生じうる。

実際、DAWのプロジェクトファイルのレベルにおいて、超絶技巧のDOMi & JD Beckと必ずしも楽器の名手ではないプロデューサーたちのあいだに、優劣は存在しうるかどうか。むしろ、脱身体化された、ないし拡張された身体のアマチュアリズムが、「ムシカ・プラクティカ」から50年余り経ったいま存在しうるのではないか。

もっとも、その基盤となるのが、バルトが必ずしも好まなかったであろう、録音技術の隆盛と密接に結びついていることに対しては、かれの同意を得られるとは思えないのであるが……。それでもなお、バルトが夢想したユートピア、「もっぱらアトリエとな」った音楽会にもっとも近いものが、テクノロジーの進展による身体の位置づけのさらなる変化(「声のきめ」でバルトはたしか、レコード以降の歌声を拒絶したのでなかったか。現実は残酷にもそのさきへと進んでいる)にともなって、たとえばコンピューターのなかに、あるいはスマートフォンのなかに、存在していると、言えないだろうか?

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ライターが電子書籍を制作・販売してみた

自主制作したZINE「音楽とテクノロジーをいかに語るか?」の文フリ・通販での完売にいたる顛末についてはすでにブログ記事にまとめたけれど、同時に電子書籍版の準備も進めていた。きょう晴れて販売開始とあいなったので、その準備についても書いてまとめておきたい。

音楽とテクノロジーをいかに語るか?(電子版) – 編集室B(imdkm) – BOOTH

購入ページは↑から。500円でダウンロード販売しています!

PDF版だったらすぐできたけど

先に別の記事で書いたように、今回のZINEはLaTeXで制作し、PDFで入稿していた。なので、単にPCで読む用のPDFファイルならもうすでにあった(実際、このデータをサンプルとして人に送ったこともある)。しかし、どうせ電子版を販売するなら、PDF以外の形式もぜひ試してみたかった。そもそもPDFが文書を頒布するフォーマットとしてあまり好きではない。あれはやはり「紙」を前提としたフォーマットだし。ひらたく言うとPDFにはPDFの良さがあるけれど、固定レイアウトになってしまうのがなんとなく嫌なのだ。

なにより電子書籍はリフロー型っしょ、と思っているから、どうせやるならEPUBをやってみたい。正直どうやってつくるのかまったくわかんないけど。でもそこまで難しいわけでもなさそう(レイアウトやらに凝りだすと、また違うのだが……)。原稿はすでにあるので、ためしにつくってみた。

VS CodeでMarkdownから(Pandoc経由で)EPUBに

具体的な手順としては、LaTeXの原稿を整理して簡素化、Markdownで記述しなおして、Pandoc経由でEPUBに変換した。別にLaTeXから直接EPUB化もできたのだが、微妙に思うような結果にならなかった。一度Markdownに落とし込めば、少なくともテキストを読ませるぶんには十分に機能するEPUBを出力することは造作なくできた。

本当は、図版も最低限まで割愛した簡易版でEPUBを完成させるつもりだったのだけれど、突然思い立ってしまい、EPUBにも冊子版と同等の図版を挿入することにした。これがなかなか厄介で、Markdownで楽勝~と思っていたのが、特にコンテンツガイドの部分でほとんどHTMLをベタ打ちすることになり、最低限の記述で済んだとはいえ、MarkdownとHTMLのちゃんぽんを試行錯誤で組み立てていったのはちょっとかったるかった。でも、ちょっと背伸びしたおかげで勝手はだんだんわかってきた。

もとの冊子が左綴じ・横書きだったこともあり、EPUBでも横書きで済ませた。LaTeXであれEPUBであれ、今後は縦書きでつくってみたい気持ちはあるので、なにか機会があれば挑戦したい(VS Code + Markdown + Pandocという組み合わせ以外のものを試すのもありだ)。まだ電子書籍自作道ははじまったばかりだ!

余談:Kindle Direct Publishingもしてみた

これは完全に余談。過去のブログ記事をコンパイルしたテキストオンリーのシンプルな電子書籍を(上記の要領で)制作して、Kindle Direct Publishingにのせてみている。Amazonで自主制作した電子書籍を販売するためにはどうしたらいいのか、Kindle Unlimitedに登録するには……などのノウハウが欲しかったからだ。結果としては、EPUBを作成したら、KDPのアカウントをつくってぶん投げるだけでOKだった。詳しいやり方はネットにいくらでも転がっているので検索していただくとして……。

指パッチンの鳴らし方――自選ブログアーカイヴ | imdkm | 文学・評論 | Kindleストア | Amazon
実際の電子書籍は↑のリンクから購入ないしKindle Unlimitedでの閲覧ができます。試してみてくれよな!

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ライターがゼロからZINEをつくってみた話

納品された当日のZINE。シンプルなデザイン(といえばきこえはいいが)が光る

「音楽とテクノロジーをいかに語るか?」

2022年度、柳樂光隆さんが講師を務める美学校のライター講座に参加した。そこでの課題がZINEをつくること、だったので、じゃあ自分が関心のある、しかしなかなか仕事にはなりづらい領域について書いてみようかという気になった。そうしてつくった企画書が、のちに「音楽とテクノロジーをいかに語るか」となる、音楽とテクノロジーにまつわるいろいろを考察するというものだった。

当初はインタビューや寄稿をふくめ、もっと凝った企画をしようかと思っていたのだけれど、二転三転してすべての内容を自分で書き下ろす方向に定めた。といっても、内容が大幅に変わったというよりは、主従関係が変わったというべきか。年表もコンテンツガイドも、最初はおまけ、ページの埋草のつもりだったのだ。年表は最初思っていたよりもずっと分量がふくれあがりそうだったし、コンテンツガイドもなんだかんだで30冊ちかく候補があがって、無理して記事らしい体裁をととのえてこれらを切り捨てるよりも、これらをかたちにするほうが先決だろうと思ったのだ。

執筆の方法

コンテンツガイドは基本情報をスプレッドシートにまとめ、そのまま300文字程度のレビューをセルに書き込んで執筆していった。進行の程度が見えやすかったし、のちにブックガイドを3つのテーマにわけて掲載順を決めるときにも行を入れ替えればよかったのでとても便利だった。

コンテンツガイドのスプレッドシート、こんなんでした。

年表も、スプレッドシートに時系列を気にせずひたすら項目を書き連ね、300から400程度のリストを作成。それにフラグを付けて掲載する項目を厳選したうえ、フィルターやピボットテーブルを駆使して年代順にソートし、原稿にしていった。

ごりごり項目を追加して行って、左端のチェックボックスで掲載の可否をつける。
そのあと、ピボットテーブルでソートし確認。項目量の偏りなどを確かめる。あとは頑張って整形する。

つまり、これはほぼGoogle Spreadsheetで書いたZINEみたいなもんである。一本だけ載せた論考はGoogle Documentsで書いたが(そりゃそうだ)。ごりごりに考証することもせず、一方読みやすさに心を砕くこともせず、かなり素で、リラックスして書いた。のでなんか間違ってたらごめんなさい。

スプレッドシートを駆使した執筆にはある程度手応えがあり、その後の仕事でもやったりしている。あれはいいですよ。

論考に掲載した図版はInkSpaceで作成し出力したもの。これについては『リズムから考えるJ-POP史』と変わらない。しかし実はZINE制作の最後の最後に気まぐれでつくって入れたので、これもしかして伝わってねぇんじゃね? という不安もなくはない。まあ文章自体も伝わってんのかというとわかんないしいいんですけど……。

デザイン

デザインというか誌面も自分でつくった。といっても、Adobe InDesignを購入する余裕もないし、使いこなせる気もしない。多少使ったことのあるLaTeXで組版することに決めた。LuaLaTeX + jlreqで、ちまちま試行錯誤を繰り返しながら表紙もふくめた40ページ。がんばった。

LaTeXの導入などはまあいいドキュメントがネットに転がっているし、いまはTeX Liveのようなすぐれたパッケージもあるのでそこまで難しくはないはず。クラウドで使えるエディタもあるそうなので触ってみたいひとはやってみるといいと思う。たぶん、HTMLのタグ打ちできるなら余裕。自分の場合はVS Codeを主要なエディタとして環境を構築した。ただ、最初にうまく環境構築できるまでに結構ハマってしまった……。こればかりはインターネットの力にたよりきりだった。

VSCodeでLaTeXを書く最低限(←ここ重要)の環境をとにかく楽に構築したかった|D学生

なんでもいいからとにかくVS Codeで動いてくれ! と思ったらこの記事が参考になった。結局これにしたがって全部やりなおした。

ネットだけで使い方を覚えることだってできたとは思うけれど、基本的なところはすぐに見れるリファレンスがあったほうがいいと思って、この分野では定評のある本を手元に置いておいた。とても役に立ちました。

[改訂第8版]LaTeX2ε美文書作成入門

LaTeXはInDesignなんかと違ってWYSIWYGではないしいちいちビルドするのめんどくせーとか思っていたけれど、いったんフォーマットができてしまえば仕事は早かった。年表はちょっと工夫が必要だったけれど、これもめちゃむずいというほどでもなく。LaTeXの書き方を覚えるのでいっぱいいっぱいだったこともあり、デザインを凝れなかったのは残念だった。

印刷

さて、一番問題というか、懸念があったのが印刷だ。格安の印刷会社はInDesignやMS Wordを前提としていることが多く、LaTeXで組んだPDFをきちんと印刷してもらえるのかがいまいちわからなかった。LaTeXで人文系の文章や小説を組版しているらしい人はけっこういて、PDFをつくるだけなら問題ないのだが、肝心の入稿のノウハウとなると情報が限られる。Twitterで検索しても、「ここの印刷会社でいけました」みたいな報告はごくごくわずか。不安しかない。

もっとも、その点は、限られた情報をとりあえずまとめたうえで、Affinty Publisherのような安価なDTPソフトを使っている人の知見を参考にすることで乗り切った。結論としては、PDF/X-1aで出力されておりトンボが適切に配置されたPDFを作成したところ、少なくとも自分の場合、プリントパックでデータ確認は通ったし、問題なく印刷されていた。とはいえ、公式に推奨されているわけではないので、あしからず。

TeXで同人誌を作ってみた。(トンボ) – いものやま。

トンボの付け方は上の記事を参考に。

販売

文学フリマ東京36で頒布しよう、ということは決めていた。出店受付が開始した段階ではまだ完全に完成はしていなかったものの、おそらく出せるだろう(印刷に問題がなければ)という見込みで、いやむしろ締切を設定するつもりで申し込み。同時期に並行してがっつり参加していた「ZINEおかけん」とブースの隣接配置を申請し、当日はそちらの作業も手伝いつつ、こちらの店番も手伝ってもらいつつ……というかたちでやりくりした。

現地に持っていったのは90冊。ちょっと中途半端な数だけれど、これは単に箱に入るだけつめたらそうなったというだけで、特に根拠はない。なんなら、想定していた頒布数は「よくて50冊、おそらく30冊で上々」だった。余ったらどうせ箱に入れ直して送り返せばいいし……と、持ってけるだけ持ってっちゃえと梱包&発送。

フリーペーパーもあったら立ち止まる人が増えてZINEも読んでくれるかも~と思い急遽論考を書いて前々日に家のレーザープリンタで印刷。80部くらい刷ったのかな。100もいってないはず。ちなみにこれもLaTeXで組んだ。

しかし蓋を開けてみればあれよあれよとZINEは売れていき、結局持っていった90部はすべて完売してしまった。これは結構衝撃だった。

開場から二時間半ほど経った14時半の時点で売り切れ。フリーペーパーはそれよりずっとはやくになくなっていた。ありがたい話だが、こんな地味な内容のZINEがあんなに売れるのは、文フリにはなにかいけない魔法がかかっているんじゃないかとやや戦慄してしまう。

通販

東京から自宅に戻ってもろもろ整理がついたタイミングで、BOOTHを使って通販ページをスタートした。すでに素材はあったし、梱包材もある程度揃っていたのでさくっと商品を公開。なんだかあれよあれよという間に売れてしまい、気づけばまる二日で90部売り切れてしまった。クリックポストで淡々と発送作業を行い、無事発送完了(一部、入金待ちあり)。

また、文フリではけてしまったフリーペーパーのPDF版もBOOTHにて無料配布。通販で注文していただいている人には刷ったものを同封していますが……。

ともあれ、これで印刷した冊子はほぼはけた(保存用、あとなにかあったとき用に20部ほど確保してますが)。今後はPDF+EPUB版をちょっと安めに販売する予定なので、よろしくどうぞ。データ自体はできているので、内容の確認と修正が終わったら販売します。6月はじめになるかと思います。よろしくお願いします。

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【告知】文学フリマ東京36出店します(「音楽とテクノロジーをいかに語るか」&「ZINEおかけん」)

来る5月21日(日)東京流通センターでの文学フリマ東京36にサークル「編集室B」(き-72)として出店します。ZINE「音楽とテクノロジーをいかに語るか」を販売します(『リズムから考えるJ-POP史』も持っていくよ。あとペーパーもつくる予定)。

音楽とテクノロジーにまつわる本やドキュメンタリー25作品を紹介するコンテンツガイド、15ページにわたる年表論考「バッドノウハウはなぜ批評の問題になるのか」を収めた全40ページほどの冊子です。詳しい内容については、特設ページをつくったのでぜひ見てみてください。

また、造形作家・批評家の岡﨑乾二郎ファン有志があつまってつくったZINE「ZINEおかけん」にも寄稿&ちょっと変わった新曲を提供しています。一応ファンジンということにはなるんですが、岡﨑乾二郎愛を語る! とか、資料的価値を重視! とかではなくて、ファンが集まって思い思いのアウトプットを実践してみた、かなりユニークなZINEです。ぜひ見てみてほしいです。

「ZINEおかけん」のサークル番号は「き-71」、編集室Bのお隣です(同じ机)。

「ZINEおかけん」の詳しい内容については、また後日Twitterのアカウントから告知があるかと思います。ぜひ注目してみてくださいね。

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Soundmain Studioを使って1曲つくってみる

Sony Music EntertainmentはSoundmainという音楽制作にかんする総合プラットフォームを運営しており、楽曲制作に使えるサンプルパックのストアやブラウザ上でつかえるDAW・Soundmain Studio、そして音楽制作を中心にさまざまなトピックについて伝えるメディアSoundmain Blogなどが提供されています。

Soundmain Blogには自分もこれまでインタビュー記事やコラム記事を寄稿してきました。また、自分の関わった記事以外にもかなり尖った企画が載っていたりするので、すでにご覧になったことがある方も多いかもしれません。これまでの記事の例は次の通り↓

uami インタビュー iPhone1台で生み出される驚きのサウンド、独自の〈声〉の使い方に迫る – Soundmain

特集「アンビエント+ポップの現在」Part1 Akiyoshi Yasudaインタビュー(森山直太朗「素晴らしい世界」編曲ほか) – Soundmain

Nao’ymtインタビュー 自身を「解放」する、R&Bからアンビエントへの道のりと創作の思考法 – Soundmain

ほかにもいろいろ書いております。

そんなSoundmainが「春の作曲チャレンジキャンペーン」と題して、ブラウザ上で使えるDAWであるSoundmain Studioの無料体験をはじめとしたプログラムを実施しています。有料プランオンリーだった機能が無料のトライアルプランでも試せたり、「Standardプラン」でしか試せなかったAIアシスト機能(音源分離、ボーカル抽出、歌声合成、作曲アシスト)が「Basicプラン」で使えたりします。

音楽制作プラットフォーム Soundmain | 春の作曲チャレンジキャンペーン実施中!

今回、「ぜひ使ってみて欲しい」というお誘いをいただいたので、「ベーシックプラン」に加入して1曲つくってみることにしました(というわけでこの記事はSupported By Soundmainです。あしからず)。

そんなこんなでできあがった楽曲がこちらです。まず聴いてみてください。

Studioの機能から考えて、波形編集を中心にできること……という発想で、ちょっとBurialを意識したダークなフューチャーガラージ風にしてみました(注:Burialは初期に波形編集ソフトでビートメイクしていたことで有名)。歌声は、AIアシスト機能のひとつである歌声合成(AI Vocal)で、Studio内で打ち込んでいます。そして歌メロも、AIアシスト機能のひとつである作曲アシスト(Flow Machines)で生成したメロディを調整してつくりました。もちろんサンプルもすべてSoundmainで販売中のものですから、隅から隅までSoundmain製です。

Soundmain Studioは、主にサンプルファイルのエディットを中心とした機能を提供しているブラウザで動作するDAWです。サンプルの配置、カット&ペースト、タイムストレッチ、ピッチシフトといった基本的な編集に加え、各トラックごとにレベルの調整や、ハイパス/ローパスフィルター、リヴァーブ、EQ、コンプレッサーといったエフェクトで音色を変えることもできます。

画面の下半分がエフェクト。トラックごとに設定できる。

主な使い方としては、サンプルファイルをローカルからアップロードするか、もしくはStudioのブラウザ上からストアでサンプルを購入し、そのままドラッグ・アンド・ドロップで読み込みます。今回は、メインのビートに使うサンプルをザザザッと(Studio経由ではなく)ストアで購入したあと、ローカルにいったん保存。そこから使えそうなものをアップロード……というかたちにしました。せっかく手に入れたサンプルなので、ふだんづかいのDAWでも使いたいですしね。

具体的な作り方ですが……そこまで凝った編集はしていません。しいていえば、ドラムのループは2種類を組み合わせて、フィルインのかわりに数小節ごとに細かいエディットをしています。サンプルパックに入っているループは、同じパターンのキックドラムあり/キックドラムなし(だいたい後者は「Top」とか言われる。ハイハットなどのパーカッションやスネアだけのループですね)のようなバリエーションが入っています。それをつぎはぎしてキックの数を減らしたり増やしたりしているわけです。

ドラムのトラック。切れ目がわかりやすいよう選択しています。最後のほうが細切れになっているのがわかるでしょうか。

そこに、コード感をつくるパッドとそのバリエーション、ベースライン、そしてアクセントの声ネタを重ねてビートにしました。

続いて、メロディづくり。Sony CSL(ソニーコンピュータサイエンス研究所)によるAI作曲プロジェクト・Flow Machinesをもとに実装された作曲アシスト機能で生成します。Flow Machinesという名前はAI作曲の分野では2010年代後半に話題を呼びましたが(ビートルズ風の楽曲ができた! なんて話も。昔ブログの記事にしたことがあります→AIはプリペアド・ピアノの夢を見るか?――人工知能と自動作曲に関する覚書 )、近年は自動作曲からアシストツールという方向性に転換して、実用化が進んでいるようです。

使い方は簡単。ジャンルを選択し、ジャンルごとに用意されているスタイルパレットからイメージに近いスタイルを選択。最後にピアノロールと演奏を実際に聞きながらパラメーターを調節し、素材を生成します。ここではメロディだけ使いましたが、バッキングのコードやベースライン、ドラムのパターンも生成できるようです。MIDIファイルを出力できるので、ここで生成した素材をふだんづかいのDAWに流用することも可能です。

左から、ジャンル選択、スタイルパレット選択、生成画面

直球でR&BとかEDM/Danceといったジャンルを選んでもいいんですが、適度なミスマッチがあったほうが面白そうなので、A.I. Vocal(ジャンル名ということなので、平たく言えばボカロでしょうか)を選択。BPM帯と雰囲気があっているスタイルを選択し、試行錯誤しました。BPMやキーを変更できるのはもちろん、ハーモニーとメロディのマッチ具合、メロの細かさ、複雑さも設定でき、いろんな組み合わせを試すと面白いです。

無限にバリエーションが生成できるというよりは、パレットで選んだスタイルの細かな差分をつくるといった印象で、むやみやたらに生成して博打を打つ感じではありませんでした。きちんと「どんな雰囲気がほしいか」をイメージしながらジャンルやパレットを選ぶのが大事そうです。

生成したメロディを、StudioのAI Vocal機能で打ち込んでいきます。MIDIを読み込みできるとうれしいんですが、歌詞の入力も含めたエディタの使い心地はまずまずで、不満はありません。

AI Vocalの編集画面(下半分)。ノートごとにひらがな一文字をあてはめて歌わせることができる。

入力したメロディと歌詞はそのままプレビューできます。ブラウザ上で動作しているわりには、スムーズに生成&再生してくれる印象です(もっとも、フレーズが16小節程度と短いこともあるでしょうが)。歌声は、ベタに打ち込んだだけなのにかなり自然です。ブレスも休符に合わせて適度に生成してくれます。発音の細かいニュアンスを詰めるには向きませんが(撥音や拗音、二重母音など)、クセにあわせた歌メロをつくれば気になりませんし、ガイドボーカルやデモには十分すぎるクオリティではないでしょうか。

打ち込んだら、「保存」をクリック(AI Vocalエディタの左上アイコンか、タイムライン上の「保存」ラベル)すると音声にレンダリングされます。一度「うわ、間違って編集中なのにレンダリングしちゃったよ!」と焦ったんですが、レンダーされた波形を右クリックすると再度編集をすることができます。よかった。

せっかくなので、1トラック追加してもうひとつAI Vocalを立ち上げ、末尾のゆったりとした譜割りの部分に一声だけざっくりとハモリを加えて、フィニッシュとしました。

今回使ったサンプルはこんな感じ。UKGarage系のパックからつまみ食い。もっとも、2つくらい使ってないのもあります。

今回はちょうどいいファイルが手元になかったので使えませんでしたが、音源分離やボーカル抽出も含めたAIアシスト機能も使えて、サンプルの購入にも使えるポイントが500ポイント付属(AIアシスト機能の使用にもポイントが必要なので注意)してくるので、ひと月だけでも試しに使ってみると面白いんじゃないでしょうか。500ポイント分サンプルをダウンロードしたら元はとれるでしょう。

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料理と時間、料理の時間

わりと料理をつくるが好きだ。つくるのが一番好きな料理はスクランブルエッグ。頻繁につくるわけじゃないけれど、つくっているととても落ち着くし、楽しい。いわゆる炒り卵ではない。炒り卵はどちらかというと軽快なテンポの料理だと思うが、スクランブルエッグはゆっくりとした料理だ。

ミルクやクリーム、チーズのたぐいは入れずに、溶き卵とバター(マーガリン)だけのシンプルな材料に、ごく弱火で、じっくり、じっくりと火を入れる。小さめのフライパンで、しゃばしゃばの卵液がすこしずつもったりとして、固体に近づいていくのを手と目で感じていく。スクランブルエッグの火入れは繊細で、遅い。人によっては、湯煎で仕上げることもあるくらいだ。

熱によってたんぱく質が変成して固まる。ごくシンプルな化学反応をていねいにコントロールしていくだけで、魔法のような舌触りがうまれる。スクランブルエッグの遅さは、緩慢で冗長であるというよりも、むしろ濃密だ。ちょっと気が散っているとほんのりぼそぼそになってしまうから、へらを鍋底にはわすたびに、いまかいまかとタイミングを見計らわなければならない。火からおろして少し冷めると、それはそれで固さが変わるから、ちょっとだけゆるいかもしれない……くらいに留める。

と、長々と書いてきたが、いつも成功するわけではない。調理のテンポが遅いから焦がして大失敗になることこそないけれども、だいたい固すぎたり、やわらかすぎたり、ポイントを外してしまう。そういうブレもふくめて楽しい。

さっきも書いたけど、スクランブルエッグの調理中に起こっているのは、シンプルな化学反応にすぎない。それを観察し、よきところで手を止める。このことが実は、料理という営みの良さというか、なにか落ち着くところであるような気がする。スクランブルエッグだけではない。メレンゲを立てるのも、パンを焼くのも、鶏肉を蒸すのも同じことだ。時間の経過にしたがって不可逆的に生じていく変化と向き合って、そこに身を浸すのだ。

不可逆的な時間の流れに浸ること。それは五感をつかって感取するようなたぐいの経験とは少し違って、もうすこし抽象的で、しかしかなり直接的な経験だ。ある種の驚異がそこにはある。ベルクソンが一杯の砂糖水を引き合いに出し、宇宙全体に浸透する持続について論じる跳躍と同じような。過ぎ去った時間を惜しむのでもなく、来るべき未来へ想像力を羽ばたかせるのでもなく、生きられた時間=持続そのものにふれる瞬間が料理にはあり、あるいはほかの日常的な営みにもあるのかもしれない。

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言葉の不気味さ

ここ数年、おそらく仕事としてものを書くことが増えてからだと思うけれども、言葉の不気味さに耐えられなくなることがある。ある特定の形象や音の連なりが意味を持ち、その羅列がなんらかの表現になる。それがたまらなく気味悪く、おそろしい。言葉を使うこと自体に支障があるわけではない。むしろ、支障なく使えてしまうこと自体に対する違和感がばけもののように思え、書くにしても、読むにしても、言葉に向き合っていると、ふと自分と言葉のつながりがうまくつかめなくなり、あるときはあまりに遠く、またあるときはあまりに近く感じられ、身震いしてしまう。耳の奥や鼻の奥に言葉がべたりと貼りついて自分の頭や身体をむしばんでいるような感覚にとらわれる。かといって、言葉から逃れた自由な状態を理想として焦がれているわけではない。ちょっとした拍子に、自分と世界の同期がずれて、ステレオトラックの位相がみだれるようにして、そうした不気味さがうかびあがってきて、それがあまりにも恐ろしい。そういうとき、調和を取り戻すために、詩を書いたりする。詩なんか書いてるのかと思われるかもしれないが、最近たまに出している、短い歌モノがそれだ(そのように発表するわけでもなく、思いついた言葉を書きとめ、それをいじくりまわすこともあるが、割と稀だ)。

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一語一語を吟味して、すくなくともそのときの自分にとって意味と響きが過不足なく感じられる状態へ、一文字ずつ積み重ねていくと、同期が取り戻されていく。そうすると不思議と言葉はすっかりよき他人となって、つむぎだした当の自分と関係なく、自立しはじめる(ように感じられる)。とはいえ、いつまた言葉が空虚でグロテスクな顔をむき出しにするのかわからないから、言葉と向き合うことにはうっすらとした影がつきまとう。言葉は自分にとって、便利な道具でもなければ、軽やかにたわむれる対象でもなく、まして実存的ななにかを安心して託せるような存在でもない。少しずつ、様子を伺いながら、うまく同期をたもちながら、付き合っていく、よくわからない、不気味な対象(ここで、「だ」というのか、「なのだ」というのか、あるいはもっと凝った展開をするのか、わからなくなった)。

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ドラムキットという奇妙な楽器とその時代(、つまり現代)[review: Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit. Oxford University Press, 2020.]

すっかり見慣れているけれども、ドラムキットというのは考えてみれば奇妙な楽器だ。バス(キック)ドラム、スネア、タムタム、ハイハット、シンバルといったパーカッションからなるこの楽器は、他の多くの楽器と同様に、奏者の身体と強く結びついた統一された楽器のように思えるけれども、歴史的に見れば雑多な出自をもつ楽器たちの寄せ集めだ。音色の観点から見ても、ひとつひとつのパーカッションはテクスチャも音域も全然違っている。両手両足を駆使して演奏できるようにあしらわれたスタンドやペダルは、その機構的な精妙さ故にかえって不思議な印象を与える。さらにいえば、ドラムキットは不定形だ。ひとによってなにをキットに入れるか、どのように配置するかはだいぶ異なるし、新たなパーカッションの登場によってキットの可能性は拡張しつづけている。

そう思うようになったきっかけはいつごろかあまり覚えていない。ものすご~く辿ってみれば、大学時代に実物のキックペダルやハイハットスタンドにはじめて触れて、「なんでこんな妙なものをつくろうとしたんだろう」と思ったのがその原点だったかもしれない。もしくは。The Velvet Undergroundのモー・タッカーが立ってマレットで演奏していた、みたいな話を聞いて強く印象に刻まれたのもその前後だったか。そんなもとから思っていたことが、ケンドリック・スコットがインタビューで言及していたドラムキットのユニークな歴史に関する発言(Jazz the New Chapter 6(アフィリンク注意)やARBANのインタビューを参照)なんかで意識にのぼるようになった気がする。

さらに、デヴィッド・バーンが「アメリカン・ユートピア」でドラムキットを解体し、マーチングバンドを思わせる編成で自身の手になるロック/ポップミュージックを再構築したのを見聞きしたことで、改めてそんなことを考え出したのはたしかだ。

また、2022年6月にYCAMで行われた石若駿のパフォーマンス公演「Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち」も、そうした関心に没頭させるきっかけになった(わたしによるレポートは以下)。

石若駿とAIの共演が生み出した、“即興演奏を解体&再構築する”特殊な音楽体験 『Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち』を観て|Real Sound|リアルサウンド テック

「Echoes for unknown egos」は「AIとの共演」という側面が特にフィーチャーされたパフォーマンスではあったのだけれど、しかしそれ以上に、「AIがドラムを叩く」ということが逆にドラマーの身体とドラムキットの関係性についてある種批評的な観点をもたらし、また「ドラムの演奏にもとづいてメロディやピッチを生成する」という試みは、リズム楽器としてのドラムから、豊かなテクスチャをまとい、ときにメロディックな響きを生み出す特異な存在としてのドラムへと視点を変えるものでもあった(そしてそれは石若駿にとってドラムという楽器がどのようなものかをあらわすものでもある)。

やはり、ドラムキットというのは奇妙な楽器だ。

Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit, Oxford University Press, 2020.(アフィリンク注意)は、こうしたキットとしてのドラムがいかにして誕生し、普及し、ついには現在のポップ・ミュージックの中心的楽器へと躍り出ていったかが描き出される。ミュージシャンの証言や新聞記事、特許関係の資料、メーカーの広報誌等々を渉猟しながら徐々にドラムキットが姿を表していくのを辿っていくだけでも興味がそそられるものだが、この本をいっそう読み応えあるものにしているのは、そうしたプロセスを単に物理的なオブジェクトのレベルだけではなく、テクノロジーと人間と社会的な通念がうずをまくように相互作用していくプロセス――つまり、まさに社会史――としてさまざまな観点で記述しているからだ。

第一章で詳述されるように、そもそもドラムキット(当初はトラップといわれ、現在でもこの用法は残っている)が発明されるにいたったきっかけ自体が、ひとりでいくつもの楽器を効率よく演奏し、運搬し、音楽的労働市場で競争力を強めるためのある種の戦略だった。パーカッションに何人も雇うよりも、ひとりでその全部をまかなえる人をひとり雇ったほうが効率がいい。そんなニーズを先読みしつつ、ドラマーたちは自分で楽器を改良して、ときにはペダルをつかったビーターのような発明も自ら行ってきた。

こうしたドラムキットの歴史記述において強調されるのは、本書をつらぬくひとつの問題意識である、「愚かなドラマー」という差別的な偏見だ。ドラマーはしばしばメロディやハーモニーを担う楽器と比較して劣位におかれることが歴史的に多く、しばしば愚鈍で知性に欠く人びととしてジョークの対象となってきた。本書で描き出されるドラムキットの歴史は、それ自体、西洋音楽のヒエラルキーの下層に位置づけられたパーカッションの周縁性や、人種的ステレオタイプから生じたこうした偏見に抗うものとして肉付けされている。とりわけ、ラグタイムの流行からジャズの誕生あたりまでを追い、(楽音に対する)騒音としてのドラムスとクラシックの新たな関係にも言及する第二章「やかましいドラマー達、ラグタイム、ジャズ、そしてアヴァンギャルド」はその点で興味深いし、大戦間のジャズの受容を背景に世界的な影響力を放ちだすドラムキットの発展を描く第三章「勉強家のドラマーたち、ドラムキットを売り出す、規格化、そして名声」もおもしろい。

とはいえ、もちろん楽器と社会の話にかぎらず、音楽の姿をもドラムが変えていった(あるいは、音楽にあわせてドラムも変わっていった)ことを具体的な例を豊富に提示しながら論じているところも面白い。

その醍醐味にあふれているのが第四章の「創造的なドラマーたち、芸術的技巧、名人芸、そして時間を演奏すること」で、リズムをキープする役割がキックからシンバルへ移行することで、キックやスネアによるポリリズミックで複雑なドラミングが発展し、ドラマーによる表現の可能性が広がったビバップの時代を追った同章「ビバップとドラムキットのメロディ」や、あるいはR&Bやロックンロールの誕生へとつながるバックビートの発生を描いた「バックビートの隆盛」は読み物としてもおもしろい。特に後者では、三連のスウィング・フィールからストレートなエイトビートへの移行を描くなかで、「先んじてストレートなフィーリングが登場していた音楽、ありましたよね。そう、ラテンですよ……」とばかりに(さすがにこんな書き方はしていません)ティト・プエンテの話が出てくるあたりが見事だった。ちなみに第四章はリンゴ・スターの革新性をこれでもかと詳述した節があってそれもおもしろい。章のタイトルが示す通り、これらの議論はそのまま、ドラムにおけるクリエイティヴィティとはなにか? という問いへの応答となっていることを添えておこう。

現代(ざっくりといえばロック以降)のドラマーたちがおかれた状況に迫る第五章「働くドラマーたち、音楽的労働、ロールプレイ、そして著作権」も興味深い論点が多いが、ドラムマシーンやマルチトラックレコーディングなど、新しいテクノロジーとドラムキットがどのような関係を結ぶかを論じた最終章は自分の関心にも近く、おそらくいま音楽をつくっているような人には刺さる内容だとおもう。ここで一気にJディラからクエストラヴくらいまで話はぶっこまれるし、DAWを駆使したドラムトラックの構築に関する話は今日的な音楽における演奏の真正性についていろいろと考えさせられる(特に、その例がメタリカのようなメタルバンドからとられているのは興味深い。本文でも指摘されているが、超絶技巧と現代的な編集技術がコインの裏表のようになっているのだ)。

百数十年に及ぶドラムキットの歴史を追った本書が提示するのは、第一にドラムキットという楽器の重要性とそのユニークな歴史であり、そしていまだ根強くのこる西洋音楽のヒエラルキーに対する問いかけだ。しかし、結論で著者が言及しているように、そもそも楽器に注目してこのような歴史をつむぐということ自体が、様式や地域といった慣習的な境界をまたいだ歴史の可能性をひらくということもまた重要だと思う。それはかならずしもユートピア的なものではなく、痛々しい歴史や文化的侵略といった側面にも向き合わざるをえないものだが、というかむしろそれゆえにその重要性は高いのかもしれない。

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Regina Spektor – Loveology

ひさしく、情報をおうのが億劫になっていて、YouTubeの「後で見る」プレイリストは大量の動画であふれている。たまにやる気が出るとそれを消化することになる。それで、たまたま、きょうRegina SpektorのTiny Desk Concertを見た。

アップライトのピアノ一台と自分の声だけ、というシンプルなセットで、いかにもTiny Deskというパフォーマンスだ。そのなかの一曲、「Loveology」というのがいたく気に入った。この曲は6月に出た新譜『Home, before and after』に収録されていて、リードシングルにもなっている。

「ああ、どうしようもないヒューマニストだ、あなたは oh, an incurable humanist, you are」という皮肉っぽくもやさしい呼びかけではじまるこの曲は、「あなた you」と語り手の親密な関係を歌っているかのよう(映画に行こう、そしたらなんでもない歌をハミングしてあげよう)だけれども、ブリッジで唐突に「席について、みんな。教科書の42ページを開いて Sit down, class, open up your textbooks to page 42」と調子がかわる。

教室で、教科書を開いてなにを学ぶのだろう、と思っていると、歌はこんな調子でつづく。

ヤマアラシ学、鹿学 Porcupine-ology, antler-ology
車学、バス学、列車学、飛行機学 Car-ology, bus-ology, train-ology, plane-ology
ママ学、パパ学、あなた学、わたし学 Mama-ology, papa-ology, you-ology, me-ology
愛学、キス学、このまま学、お願い学 Love-ology, kiss-ology, stay-ology, please-ology

なんてことない名詞や動詞が、~logyの接尾辞で「論」とか「学」を装いはじめる。まあ、よくある言葉遊びだ。それに、日本語にまんまうつしたときの間抜けさはちょっと見逃してもらうこととして……。しかしここで、ヤマアラシとか鹿とか列車とか飛行機とか、スケールもぜんぜん違うアトランダムな単語が連なることで、「学」を装うことのナンセンスさが強調されているのに注意したい。だっていきなり「愛学 Love-ology」とかうかつに言い出したら、なにか含蓄のある持論が展開されるものかと思ってしまうだろう。愛もまた、そこらにあふれる存在や行為と並列に扱われる。と同時に、「学」のよそおいは、具体的で特別な「あなた/わたし」の関係性というしめっぽさを離れて、そこに一種の一般化された体系がひそむことを想起させる。

とはいえ、一般名詞で整えられていた単語の品詞は、ママ・パパを経て、あなたあたりからあやしくなっていく。それは(代)名詞ととりうるかもしれないけれど、目的格かもしれないし(you, me)、あるいは動詞や副詞かもしれない(love, kiss, stay, please)。特に、「学」の装いをはずした”love, kiss, stay, please”という4つの単語は、親密さを(なんなら具体的な場面を)想起させずにはおれない。

「勉強しましょう Let’s study」という呼び掛けにつづいて、「愛学、愛学、ごめんなさい学、許して学 Love-ology, love-ology, I’m sorry-ology, forgive me-ology」と列挙される「学」を装う言葉たちには、思わず痛みを覚える。しかし、「学」を装ったこれらの言葉は、こうした痛みが、それなりに長く生きていれば程度の大小はあれど経験するであろう「あるある」のなかにつつみこまれてしまっていること、を示唆する。

だから「勉強」しなくてはいけないのだ。これは「勉強」することができるはずなのだ。ヤマアラシについて調べたり、車のことを論じたりするように。そう言い聞かせているかのようだ。

しかし、どんなに「学」の装いのなかにおしこめようとしても、言葉は(あるいは歌は)余計なものをどうしてもにじませてしまう。かくして、「学」を装う教室の言葉は、教室の外、あるは授業の前におかれた言葉と混じり合いだし(”oh, an incurable humanist, you are”)、そして誰かへの呼びかけでも、教室のまねごともやめた、むき出しの姿をあらわしはじめる。

ごめんなさい、許して、ごめんなさい学 I'm sorry, forgive me, I'm sorry-ology
許して、ごめんなさい、許して学 Forgive me, I'm sorry, forgive me-ology
許して、許して、許して学 Forgive me, forgive me, forgive me-ology

「学ぶことができるはず」という楽観的でヒューマニスティックな信念と、いかにも人間的な脆弱さのあいだを揺れ動いているかのようだ。forgive me と ology に引き裂かれる二重性を思うと、I も you も実はおなじひとりの人間なんじゃないかという気がしてくる。「どうしようもなくヒューマニスト」な「あなた」は、つまるところ、forgive me と ology のあいだに立ち尽くす「わたし」その人であって、独白、一人芝居のかたちをとった、痛みと向き合い抱きしめるための歌なんじゃないか。そういうふうに考えると腑に落ちるので、自分のなかではそういうことにしておく。

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