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筋肉の記憶、アマチュアリズム以後のアマチュアリズム(ロラン・バルト「ムシカ・プラクティカ」を読むメモ)

ロラン・バルト『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年

ロラン・バルトはベートーヴェンを通じて「実践としての音楽」について思索した小論「ムシカ・プラクティカ」のなかでまず、「聴く音楽」と「自分で演奏する音楽」を峻別する。そして後者を、「筋肉の音楽」だという。悲しいことに、じつにひつうに、バルトはそうした「自分で演奏する音楽」は、「筋肉の音楽」は、消滅したと書きつける。第一にバルトは、それが有閑階級に属し、続いてブルジョワジーの台頭とともに実質を失い、ついに姿を消したのだ、と社会的に理由付ける。あるいはおそらく現代の読み手にとっていっそうアクチュアルに思えるのは、次のような理由付けであろう。

受動的な、受け身の音楽、大音量の音楽が音楽[強調は原文では傍点。以下同様]となった(コンサートの、フェスティヴァルの、レコードの、ラジオの音楽)。演奏はもはや存在しない。音楽活動はもはや決して手作業的でも、筋肉的でも、捏ねあげるものでもなくなった。[中略]演奏者も変わった。アマチュアという、技術的不完全さよりもスタイルによって定義される役割はもうどこにも見出せない。

(バルト『第三の意味 映像と演劇と音楽と』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年。p.178。以下同様)

職業的(プロフェッショナルな)演奏家によるコンサートや、レコードやラジオを通じて供される、その対象を鑑賞するほかない音楽。そうしたものの台頭によって、「自分で演奏する音楽」はほとんど消え去った。自身がピアノの弾き手でもあったバルトにとってこうした時代の趨勢が苦々しいものであったろうことはその沈痛な文章からもうかがえる。

しかしなにより興味をひくのは、ここでバルトがアマチュアを「技術的不完全さ」ではなく特定の「スタイル」と見なし、「筋肉の音楽」、具体的な身体と結びついた音楽の側に立たせていることだ。

アマチュア的なるものの衰退に対する第三の説明として、バルトは音楽家、音楽作品にも目を向ける。それがまさにベートーヴェンである。

アマチュアはベートーヴェンの音楽を自由にできない。技術的なむずかしさによるよりも、かつてのムシカ・プラクティカのコードが衰退しているからである。

p.181

かつては音楽における単一の要素に対するフェティシズムに結びついていた「模倣の欲動」は、ベートーヴェンにおいては壮大な管弦楽の一群を統率するような全体化を志向しようとする。いわく、「ベートーヴェンを弾こうと欲することは、オーケストラの指揮者として自分を投企することだ[中略]」(同前)。

一方で、そうしたベートーヴェンを完全に具現化することは決して叶わない。そのような全体を体現することができる身体など存在しないのだから。ベートーヴェンには常に、欠如が伴ってしまう。聴き取ることができない欠如が。バルトはベートーヴェンの難聴に象徴的に言及しながら論を進め、一気にユートピア的な「音楽会がもっぱらアトリエとなる」、「音楽行為の全体が残らず[傍点]プラクシスの中に吸収される」ような実践の音楽=ムシカ・プラクティカを夢想する。その夢想に深入りすることはあえて避けるが、肝要であるのは、おそらく次のような一行だろう。

作曲するとは、少なくとも、方向としては、作らせることである。聞かせるのではなく、書かせるのだ。

p.183

音楽を受動的な鑑賞、あるいはお望みなら「消費」と呼んでも良いが、そうした受容に閉じ込めることではなく、むしろポエジーに、つくることのほうへと開くこと。かつてアマチュア的な「筋肉の音楽」に託された契機を、バルトは自身のテクスト論におけるのと同様なやり方で、音楽に再生する方法を夢想するのである。

ここで、ふと連想が及ぶ。若くして注目をあつめるキーボーディストとドラマーのデュオ・DOMi & JD Beckはあるインタビューで、こんなことを言っている。

ドミ:脳から直接Sibelius、Logic、あるいはAbletonに入れて、MIDIを使って作業する。絶対に楽器では書かないことにしているんだ。筋肉の記憶があるから、(楽器を使いながら作曲すると)自分が前に演奏したもの、演奏できるものを演奏しがち。それをしたくないから、自分たちの耳に聴こえてくるものじゃなきゃいけないと思っている。
JD:それが「脳から直接」ってこと。筋肉のことは忘れなきゃいけないんだ。

ドミ&JD・ベック、超絶テクニックの新星が語る「究極の練習法と演奏論」 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

ここにはきわめてリテラルな、アマチュアリズム=筋肉へのアンチテーゼがあらわれている。もうひとつ重要なのは、筋肉を迂回するために動員されているのがテクノロジーであるということだろう。絶対に楽器では書かず、楽譜作成ソフトやDAWで書く。筋肉から距離を置くにはうってつけの現代的なテクニックだ(五線譜でオーケストラを操ろうとするのとほとんどパラレルだが)。

ドミ:どの楽器にも一番簡単な演奏の仕方、一番難しい演奏の仕方があって、自分の楽器の限界に合わせてフレーズやソロの演奏も限定してしまう。そこで例えばサックスのように違う楽器の演奏をピアノに置き換えれば、アルペジオだったり、もっと大きなインターバルだったり、ピアノと比較するとやりやすくなる。見た目や本質が違うから。ギターもそう。個人的にはピアノの曲ばかり演奏していても、ピアニストにはなれるけどミュージシャンにはなれないと思ってる。

(同前)

筋肉の記憶に抗おうとするふたりの姿勢は、卓越した演奏家としても注目をあつめる自身の演奏論にも見て取れる。音楽家=ミュージシャンを名乗るには、特定の楽器(たとえばピアノ)と筋肉が膠着してしまうことを避けなければならないのだ。

DOMi & JD Beckの演奏は、じっさい、きわめてスペクタクルである。ステージではたったふたり、相対しながらドラムとキーボードがストイックに演奏される。その骨子はきわめてアンチ・スペクタクルだが、そこから飛び出るテクニカルでありながら音楽的なユーモアと快楽に満ちたサウンドは、聴く(見る)者を思わず息を呑む鑑賞者の位置に置く。

さて、DOMi & JD Beckが反筋肉=アマチュアリズムであり、そのストイシズムが「聴く音楽」としてのふたりの作品と演奏の質に直結していることはたしかである。しかし、そこにムシカ・プラクティカがまるで見出だせないかといえば、少し留保したい。

なにしろ、もちろんこうした超絶技巧が見る者をいっそう触発する――バルトが思い描くユートピアのように――こともありうるだろうし、ふたりはさまざまな状況(たとえばインターネットを通じた演奏動画の共有)の生み出す現代的な触発のサイクルからまさしく生まれてきた叩き上げの「プロフェッショナル」である。その演奏する姿をミメーシスすることは叶わないとしても、特定の身体をミメーシスすること以上の触発と発明、あるいは拡張が、高度にテクノロジーが浸透した現代の状況によっては生じうる。

実際、DAWのプロジェクトファイルのレベルにおいて、超絶技巧のDOMi & JD Beckと必ずしも楽器の名手ではないプロデューサーたちのあいだに、優劣は存在しうるかどうか。むしろ、脱身体化された、ないし拡張された身体のアマチュアリズムが、「ムシカ・プラクティカ」から50年余り経ったいま存在しうるのではないか。

もっとも、その基盤となるのが、バルトが必ずしも好まなかったであろう、録音技術の隆盛と密接に結びついていることに対しては、かれの同意を得られるとは思えないのであるが……。それでもなお、バルトが夢想したユートピア、「もっぱらアトリエとな」った音楽会にもっとも近いものが、テクノロジーの進展による身体の位置づけのさらなる変化(「声のきめ」でバルトはたしか、レコード以降の歌声を拒絶したのでなかったか。現実は残酷にもそのさきへと進んでいる)にともなって、たとえばコンピューターのなかに、あるいはスマートフォンのなかに、存在していると、言えないだろうか?

カテゴリー: Japanese