コンテンツへスキップ →

カテゴリー: Japanese

entries written in Japanese

芦屋市立美術博物館『小杉武久 音楽のピクニック』

ashiya-museum.jp

芦屋市立美術博物館『小杉武久 音楽のピクニック』へ。けっして規模の大きい展覧会ではないが、圧倒的な物量の資料展示とコンパクトながら選りすぐられた代表作の展示のバランスがよく、充実した内容だった。

Instagram

ハイレッド・センターの面々を中心とした1960年代のネオ・ダダ、反芸術を出発点とするアーティストの回顧展がここ数年続いていることもあり、間接的に小杉の活動初期の資料を目にする機会は多かった。それゆえ第一章から第二章にかけての資料はわりあいに目になじみのあるものがそこかしこに。その点、やはり、タージ・マハル旅行団以降の資料が興味深い。

1960年代から1970年代にかけては、アヴァンギャルドな若いアーティストたちを週刊誌のような非専門誌、あるいはテレビがとりあげることがしばしばあった。いまや日常語となった「ハプニング」は、マスメディアと前衛アートの蜜月期にあったこの時代が生んだ、稀有な「アート専門用語の流行語化→定着」の例だ。

そういうわけでタージ・マハル旅行団もまた例に漏れず、我が道を行く革命的な若き音楽家たちといったたたずまいで誌面を賑わせていた(「音楽で世界を駆ける怒涛の青春」『平凡パンチ』1971年6月21日号)。あるいは内田裕也かまやつひろしといったロックミュージシャンと肩を並べて出演した日比谷ロックフェスのフライヤーにしても、当時の混沌としたカルチャーが生み出す熱気をつたえてやまない。そうした文脈の副読本としては、黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』を越えるものはないと思うので一読を勧めたい。

肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈

肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈

その後、マース・カニンガム舞踊団の音楽監督を経てサウンド・アーティストとして活動してゆく近年までの流れも、その向こう側に透けて見える時代の変化を含めて見るとなかなか興味深い(芸術祭がちらほら見えてくるな、とか)。

一方、最初期の作品から最新作までを10点展示した第五章は、吹き抜けの空間と回廊を活かした展示構成となっていて、1F中央に設置された《Heterodyne II》が会場全体の空気をゆるやかに支配しているのが印象的だった。AMラジオと発振器が波打つノイズを静かに発する初期の代表作《Mano-dharma, electronic》や、近作の《Illuminated Summer II》といった作品も、照明を抑えた空間に溶け込んでいて見事だった。

ちり、ちり、と断続的なノイズのパルスを発するデバイスを組み合わせるシリーズ作品《Interspersion》が空間にリズムをつくり、陽の光がさしこむ窓辺には、太陽電池で音を発する《Light Music》のシリーズが設置されてざわめく。音を使う作品は空間をつっきって互いに干渉し合ううえ、小杉の作品の音量は比較的小さいから、埋もれてしまったりかえって目立ってしまったり、このように開放的な空間に展開するのは存外に難しいものだと思うのだけれど、的確に配置されていた。

それぞれの作品は、その原理と動作の様子を見ればだいたいのアイデアは把握できてしまうもので、ごくプリミティブな装いをしている。そこから出てくる音も、短波ノイズだったり、シンプルなオシレーターからのパルスだったり、目新しいものではない。にもかかわらず、小杉の作品を前にすると、ゆるやかに変化していくその音の持続であったり、その音の響き方、あるいは余白へと注意が惹きつけられる。それゆえ、鑑賞しようと思えばそれこそいつまででも鑑賞し続けていられる強度がある。

ともすれば、1960年代以降、端的に言えばフルクサスとその同時代人以降のアートの文脈に寄った音楽作品は、根本のアイデアそのものが物象化され、もてはやされるきらいがある(先駆者として、ケージの《4’33″》がどのように通俗的に受容されているかを考えればよい)。しかし、アイデアとその実装、そして演奏(展示)は質的にまったく異なっているのだ、ということを再確認する機会となった。

コメントは受け付けていません

絶対音感のアンビバレンス――宮崎謙一『絶対音感神話 科学で解き明かすほんとうの姿』

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)

 他人のものの見方や聞き方を見たり聞いたりすることはむずかしい、というかできない。まして彼彼女が比較的特殊な認知の枠組みを持っている場合には想像も追いつかない。聾唖者、視覚障害者、色覚異常共感覚などなど、そうした「他者」は枚挙に暇がない。加えて言えば、絶対音感なるものもそのささやかだが確かな例だと言える。ある音の音高を、基準となる他の音なしで聞きわけることができる能力だ。

 絶対音感を持つ人の聴取のありようを考えれば考えるほど、自分の頭の中ははてなだらけになる。彼彼女にとって音楽を聴くとはどういう体験なのか、そうした能力を持たない我々とはどのように違うのか。そんな疑問に、実証的な研究結果をもってどんどん答えてくれるのが、宮崎謙一著『絶対音感神話 科学で解き明かすほんとうの姿』だ。

 本書は、音響心理学的な観点から絶対音感とはなにかを探究していく。果たして絶対音感を通して音を聴くとはどういうことか、興味深い実験結果が次から次へとならんで飽きさせることがない。言ってしまえば淡々と先行研究の吟味と実験の報告が連なっていく地味な構成なのだが、ひとつひとつのトピックにいちいち驚きがあるのだ。

絶対音感は「音楽的」ではない

 本書全体をつらぬく著者の主張はかなり大胆で、驚くべきものだ。いわく、「絶対音感があまり音楽的とはいえない能力」であり、「へたをすると音楽にとって好ましくないように働くことさえある」(p.5)という。絶対音感は音楽を実践するうえで大きなアドバンテージとなる、という予断にまったく反する。けれどもその論理は明快で、音楽において重要なのは音楽を構成するそれぞれの音ごとのパラメーターではなくて、音同士の相対的な関係であるというのが大きな根拠になる。たとえば、旋律を一音一音切り離してしまったら意味がない。旋律は、ひとつらなりの音たち相互の関係性によって成立するのだ。

 楽理的に言っても、旋律・和声・調性といった音楽の基本的な要素を構成する上で、絶対的な音高が問題になることはあまりない、ということを思い起こして欲しい。旋律は移調されたとしてもそれを構成する音同士の音程が維持されている限り同じ旋律として聴くことができる。和声はしばしば度数表記という抽象化を経て、あらゆる調にアダプトできるよう記号化される。調性においてもまた重要なのは、与えられた音列における全音と半音の配列であって、絶対的な音高ではない。

 基準音なしに与えられた音の音高を聞き分ける絶対音感に対して、あらかじめ用意された基準音に対して音高を聞き分ける能力を相対音感と呼ぶ。演奏であれ聴取であれ作曲であれ、実践的に問題になるのは相対音感のほうではないのか、というのが著者の考えだ。

絶対音感相対音感は排他的か?

 しかし、絶対音感相対音感は果たして排他的なのか。絶対音感があるからといって、相対音感がないとは限らないではないか。という疑問を抱く人もいるだろう。その点を検証した第7章では、驚くべき結果が提示される。絶対音感を持つ人々の多くは、そうでない人々に比べて相対音感が十分に発達していない、というのだ。

 印象的なのは、2つの旋律の異同を答える簡単なテストの結果だ。このテストでは、最初にある旋律が提示され、次にその旋律がもう一度提示される。一度目の旋律の調は固定されているが、二度目の旋律の調は三種類。また、一部の音程が変えられている場合もある。調性は度外視し、旋律そのものの異同を聞き分けられるかどうかが問題になる。結果、絶対音感を持つグループは、絶対音感をもたないグループに比べて、移調された旋律の正答率が明らかに低かった。その差は10から15ポイントほどもある(pp.172-176)。無意識のうちに絶対音感を「すぐれた耳を持つ」ことと同義に捉えていると、この結果にはちょっとショックを受ける。

 他の実験を通してみても、絶対音感を持つ人々のあいだで、相対音感が十分発達していないことは明らかだ。もちろん、絶対音感を持ちながら、すぐれた相対音感を身につけている人もいる。問題は、絶対音感を重視するあまり、相対音感の訓練がおざなりになってしまう傾向があるということだ。本書が提示する結果を見る限り、絶対音感を身につけた人の多くは、相対音感をのばして身につけるよりもなんとしても絶対音感を使うことに固執してしまうようだ。

絶対音感のアンビバレンス

 絶対音感を持ちながら相対音感が発達していないということはつまり、旋律・和声・調性の認識に必要な能力が発達していない、ということだ。これは絶対音感が抱える大きな矛盾と言っていい。なぜか? それには、今日的な意味での絶対音感が成立する条件を考える必要がある。

 絶対音感を持つ人々は、特定の周波数前後の音を対応する音名にあてはめて聞き分けることができる。しかし、音名と周波数の対応関係は恣意的なものであって、A=440Hzという基準音さえもかならずしも絶対的なものではない。現代でさえAの値はオーケストラによって前後6~7Hz程度異なることがあるし、なんなら国際的に制定された基準音が存在しなかった19世紀以前には、調律は地域ごと、演奏ごと、楽器ごとに大幅に変わって当然のものだった。すなわち、19世紀以前には今日的な意味での絶対音感は存在しようがなかったのだ。

 そういうわけで、絶対音感とは、程度問題ではあるにせよ19世紀以降の音楽の合理化・国際化の産物であって、加えて西洋音楽の文脈に強く依存するものだ(なんつったって前提となっているのはドレミと平均律なのだから)。しかしながらその一方で、これまで見てきたように、絶対音感は、適切な教育を受けて相対音感をのばさない限り、近代西洋音楽の最も大きな枠組みである調性概念を身体化する障壁となりうる。

 では、西洋以外に目を向けるとどうなのか、といえば、本書に登場する中国で伝統楽器を専攻する音大生の例が挙げられるだろう。彼らの中には、絶対音感を持つ者が一切いなかった。西洋音楽を専攻する学生では、日本と中国の音大生における絶対音感の保持率には目を見張るものがあるだけに、この対比は興味深い。むしろ、伝統楽器を専攻する学生たちは、すぐれた相対音感を示したそうだ。

 絶対音感という能力の特殊性は、これによってより浮き彫りになるように思われる。近現代の西洋音楽に固有の特殊な能力でありながら、その西洋音楽の枠組みとは相容れない。絶対音感のおかれた立場は奇妙にねじれている。本書は、絶対音感をめぐる神話を相対化し、こうしたねじれを明るみに出す端緒として意義深いように思える。今後、より俯瞰した視点からの大規模な調査を望みたいところだ。

コメントは受け付けていません

ローファイ・ヒップホップはメインストリームに浮上するのか?――joji “In Tongues”

f:id:tortoisetaughtus:20171115184656j:plain

 インターネット発のミーム・ミュージックといえばVaporwaveを挙げる人は多いだろうと思う。が、Vaporwaveが一種のカルト的なステータスをほしいままにしている一方で、地味に勢力を伸ばしてきたミーム・ミュージックがある。ローファイ・ヒップホップだ。ローファイ・ヒップホップ、と言うとざらついたラフな音像のハードコアなヒップホップを想像してしまう人もいるかもしれないが、インターネットでローファイ・ヒップホップといえば、流麗でジャジーなサンプルをヨレたビートに乗せたインスタントなビートのことを指す。インスタントな、というのは決して悪い意味ではなくて、Vaporwaveの美学と通底する反技巧的な「何気なさ」を持った感じ、と言葉を補ったほうがいいかもしれない。


 ローファイ・ヒップホップは、この4,5年くらい、SoundCloudYouTubeを通じて広く流布し、近年ではSpotifyApple Musicといったストリーミングサービスでも聴くことができるようになった。特にYouTubeにはローファイ・ヒップホップに特化したライブストリーミングチャンネルや楽曲配信チャンネルも数多く存在していて、日本産のアニメからサンプリングしたアートワークと共に、底知れぬコアなリスナー層を獲得している。アーティスト名や曲名での日本語の使用や、アニメからのサンプリングといった要素はVaporwave~Future Funkと共振するもので、実際Vaporwave界でいまもっとも重要なアーティストのひとりと言ってよい猫 シ Corp.もローファイ・ヒップホップのアルバムをリリースしている。

 機材面で言えばこのジャンルにおいて多用されるのがRolandサンプラーSP-404SXで、以下のMujo 情のようにSP-404一台でパフォーマンスする様子をYouTubeで配信するビートメイカーも数多い。SP-404は価格も手ごろで扱いやすく、SPシリーズならではの高品質なエフェクトが搭載されている点も人気を呼んでいるのであろうと思う。ポスト・ダブステップ系のバンドがサンプルを鳴らすのに404を使っているのを見ることも多々ある。

 こうしたローファイ・ヒップホップの流れが地下から浮上しつつある、と思う出来事が今月の頭にあった。大阪出身、日豪ハーフのアーティスト、jojiのリリースだ。jojiはもともとFilthy Frankという名前でYouTuberをやっていて、例のHarlem Shakeのミームに一枚噛んでいることでも知られている。ピンクの全身タイツに身を包んだ彼のちょっとお下品なパフォーマンスを眼にしたことがある人も少なくないと思う。

 音楽活動としてはPink Guy名義でマジでとんでもなく下世話なラップを披露するアルバムを今年の頭にリリースしていて、なんかやべー奴という感じだったのだが、一転joji名義ではローファイ・ヒップホップ的な優しく切ないサウンドに乗せて朴訥とした歌声を披露し、失恋をテーマにしたシリアスな内容もあってリスナーを驚かせもした。


 耳馴染みのよいローファイ・ヒップホップ的なサウンドと内省的なリリックで、jojiは正式リリースのないまま話題を呼んでいた。SoundCloudに発表されていた楽曲を集めたブートもYouTubeにアップロード数多くリリースされた。88risingというここ一年でもっとも勢いのあるメディアにフックアップされていたこともあって、ネット上ではすっかりバズを起こしていた。そして、満を持して11月3日、初のEP『In Tongues』がリリースされた。

 EPのタイトルは、意訳するなら「うわごと」みたいな感じだろうか。熱に浮かされてつぶやくかのように綴られる、恋に敗れた男のうわごと。ローファイ・ヒップホップというには洗練されている、というところもないではないが、SP-404一台を操りながら歌うjojiの姿はローファイ・ヒップホップ的な文脈を多分に想起させてやまない。

 しかし、メディアやSNS上のバズに反して、ローファイ・ヒップホップのコミュニティではあいまいな評価が与えられているようだ。もう少し早くリリースされていれば、とか、もっと良いローファイ・ヒップホップのトラックはたくさんある、とか。言わんとすることはわからないではないし、joji本人だってローファイ・ヒップホップだと思ってそこで評価されるためにやっているわけではないだろう。とはいえ、ローファイ・ヒップホップの文脈のうえにひとりのスターが生まれたことはけっこう大事なことなんじゃないかと思ってしまう。

 ローファイ、という冠がつくサウンドといえば、同じくネットミーム的な広がりを見せるローファイ・ハウスというのもあるけれど、その代表選手といってよいDJ Seinfeldも先ごろアルバムをリリースした。変に色気を出さずにローファイハウス一直線のアルバムで結構好感を持った。あるいはニューヨークの韓国系女性シンガーのYaejiもぼんやりとローファイ・ハウスのかおりをまとっているようでもあり、jojiも含めてこうしたアーティストたちがインターネット上の「ローファイ」な文化をネット時代のアンダーグラウンドから浮上させつつあるのは面白い。それがジャンルの終焉の兆しである可能性も十分あるのだが。

 一方、Vaporwaveは相変わらず地下で独自の道を突き進んでいて、陽の光なんか気にもしていないようで、それはそれで頼もしくもある。なんかとりとめなくなっちゃったな。

コメントは受け付けていません

プロデューサーがサンプルパックをリリースする理由:「聴き手」ではなく「作り手」向けのビジネスあれこれ

f:id:tortoisetaughtus:20170908102849j:plain

ヒップホップを中心とする音楽業界では、表に立つラッパーやシンガーといったパフォーマー以上に、プロデューサー(=トラックメイカー)が重要なキーを握ることがしばしばある。しかし、彼らに必ずしも正当な評価が伴っているわけではない。たしかにアメリカで活躍する売れっ子プロデューサーともなればトラックひとつでうん百万ドルなんて話も聞こえてくるけれど、それも一握りの話。あのDiploですらRihannaへの曲のプレゼンにはさんざ神経を使った挙句に「空港レゲエ」呼ばわりされる憂き目にあっている(まあ冗談だろうけど)し、ラッパーに比べてプロデューサーの地位が不当に低い、という問題提起は近年くり返しなされている。

そこで興味深かったのはPigeons & Planesの以下の記事。プロデューサーが自分のシグネチャーサウンドをまとめたサンプルパックを重要な副収入源にしているという話だ。

pigeonsandplanes.com

Chance the RapperやSZAへのトラック提供で知られるCam O’Biは、Bandcamp上で自身のドラムキットを販売している。たとえばSZAの“Doves In The Wind”で使ったサウンドをまとめたキットとか、Nonameの《Telefone》で使ったサウンドをまとめたキットなど、気になるリリースがたくさんある。


Cam O’Biはプロデューサーとしてコンスタントに仕事をこなし、十分な収入も得ている。けれど、食事代やUberを呼ぶ代金くらいのお金をちょっとだけ稼いでみるつもりで、特にプロモーションもしないでリリースしたのだそうだ。すると、数回のフライトを賄える程度のお金が入ってきた。自身も驚くような売れ方だったという。

また、Cam O’BiのようにBandcampをプラットフォームに使うプロデューサーもいれば、自身のウェブサーヴィスBlap Kitsを立ち上げた!llmindのようなプロデューサーもいる。ビジネスの形態はさまざまながら、サンプルパックやドラムキットの販売はプロデューサーにとってあり得る収入源のひとつとして存在感を増しているみたい。そして案の定(というのもなんだが)、トラック提供以外の収入源を模索するプロデューサーたちもまた、今後の活動形態のひとつとして、Paetronのような購読型のクラウドファンディングサーヴィスに関心を寄せているようだ。

caughtacold.hatenablog.com
Paetronについては以前上掲の記事でまとめました。

こうした流れを見て思うのは、「作り手がよりよい環境で制作し、発信できるようにするサーヴィス」が今後の音楽-テック業界の伸びしろなのかな、ということだ。SoundCloudが経営陣を一新し、元VimeoのCEOなどの人材を揃えたのも、資本力で劣るVimeoが、「高品質なストリーミングと多様なオプション」を作り手に提供することでYouTubeと差別化を図り、マネタイズしてきたことに着目してのことだろう。創業者のAlex Ljungが目指した、特定のレコード会社やストリーミングサーヴィスに依存しない、クリエイティヴなコミュニティを育むための環境を模索するための一手としては、納得がいくものだ。翻って、こうしたサンプルパックやドラムキットの販売もまた、同じ文脈で捉えられると思う。少なくともミクロな視点から言えば、コンテンツへの対価という意識は今後どんどんなくなっていき、属人的なパトロネージか、「作り手」に向けたビジネスが発展していくんじゃなかろうか。

ほか、記事にしようかと思いつつタイミングを逸していたけれど、SONYがリミックス曲のクリアランスを手がけるヴェンチャー企業のDubsetとの提携を発表したり、オンラインマスタリングサーヴィスのLANDRがディストリビューションまでワンストップで手がけるサーヴィスを展開し始めたりと、作り手により効率的な作品発表とマーケティングの手段を提供するサーヴィスがどんどん始まっている。SoundCloudもこの流れにうまくのって、持続的なサーヴィスになってくれるといいな。

Roland ローランド コンパクトサンプラー SP-404SX

Roland ローランド コンパクトサンプラー SP-404SX

コメントは受け付けていません

若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(アルテス・パブリッシング、2017)

サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方

サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方

  • 作者: 若尾裕,桑原紗織
  • 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
  • 発売日: 2017/06/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る

 今年の6月に公開された、元KORGの高橋達也氏へのAphex TwinことRichard D Jamesによるインタヴュー(そう、インタヴュアーがAphex Twinなのだ)で熱心に語られた話題のひとつが、KORGシンセサイザーmonologueに搭載されたマイクロ・チューニングのことだった。かんたんに説明すると、マイクロ・チューニングとは、微分音――半音よりも小さな音程――を含む音律をユーザー自ら設定できる機能のことだ。いま僕たちの身の回りにある音楽のほとんどすべては、1オクターヴを12等分した平均律という音律に基いて作曲されている。では、なぜAphex Twinはそこからの逸脱を望むのだろうか。

 若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(アルテス・パブリッシング、2017)に収められたエッセイを紐解くと、それが単なるアーティストの気まぐれや妄執にとどまらない問題の射程をもつことがよくわかると思う。18世紀後半に平均律とほぼ並行して確立した(というか平均律の誕生によってはじめて本格的に可能性が花開いた)、調性の概念や和声法といった技法は、私たちをとりまく音楽をいまだ形式の面から規定し続けている。そればかりではない。調性や和声法の発展を支えたイデオロギーは、むしろより俗化し、強固なものになっているとも言える。本書で用いられていることばで表現するなら、そのイデオロギーとは、《音楽による情動の管理》ということになるだろう。すなわち、メジャー・キーの音楽では楽しくなって、マイナー・キーの音楽では哀しくなる、あるいは、特定のコード進行を聴くとヤバいくらいエモくなる、等々。それは単なるポップ・ミュージックのテイストの問題ではない。このイデオロギーは、現代を生きる私たちにとって、深く身体化されてしまっているのだ。実際、ミューザックの例を出すまでもなく、音楽を通した情動の管理は、日々の暮らしに介入し、私たちの身体や精神のあり方に深く影響を及ぼしている。

 本書において一貫しているのは、前述したようなイデオロギーへの違和感の表明であり、「その後」の音楽のあり方を模索するための思索だ。本書は、近代音楽史からポップ・ミュージック、あるいはサウンド・スケープ論をはじめとする聴覚文化論から音楽療法、そして音楽をめぐるエコ(ロジー/ノミー)システムに至るまで、幅広いテーマを扱う。そのバラエティの豊富さは、臨床音楽学というわりあいに学際的な領域を専門とする若尾ならではの視点によるものだろう。書名にもなっている“サステナブル・ミュージック”とは近年になって応用民族音楽学という新興の分野から提唱され始めた概念だという。そこで問題にされるのは地球環境をめぐる持続性であり、経済的な持続性でもあるのだけれど、それだけにとどまらず、既存のイデオロギーを乗り越えた後に広がる風景を考えるためのキーワードとして、本書の問題意識とよくマッチしている。

 どのエッセイも印象深く、出て来る固有名詞を列挙するだけでも(たとえばThe Shaggsに割かれた一節もある!)その内容の豊かさは保証できるのだが、いかんせんそのすべてを紹介するわけにはいかない。なかでもとりわけ印象的なのは、デレク・ベイリーに捧げられた追悼文だった。全体から見ればささやかな小文かもしれないが、著者のアティチュードがよくあらわれたエッセイであるように思う。

 第3章の4節に収録された「デレク・ベイリー」追悼で取り上げられるのは、フリー・インプロヴィゼーションの追究者としてのストイックな姿勢と、運動ニューロン疾患を発症して以降の彼の足跡だ。デレク・ベイリーは、既存のあらゆるイディオム(音楽的なボキャブラリー)に依存することのない、純粋な即興演奏を目指したギタリストだった。しかし彼は病に侵され、次第に身体の自由が効かなくなる運動ニューロン疾患を発症し、2005年に亡くなった。若尾が注目し、そして賛辞を送るのは、ピックを持つこともままならなくなったベイリーが、ギタリストとして選んだ方法だった。若尾が述べるように、病や障害によって身体の自由を奪われた演奏家が、それを克服してみせるという逸話はけっして少なくない。しかしベイリーは、病を克服して演奏生活に復帰することではなく、病に侵されたその身体にあわせて、新たな奏法を編み出し、実験し、探求し続けることを選んだ。音楽に対して身体をアジャストするのではなく、身体にあわせて新しい音楽をつくりだす。そこには、病を喪失として捉え、芸術を通してその喪ったものを取り戻すといったかたちのナラティヴは存在しない。むしろ、新たな可能性を開くものとして病があるかのようでさえある。

 ベイリーのエピソードは、外部から押し付けられた近代的な音楽のボキャブラリーから自分自身を解放することの意義を、考えさせてくれる。そのストイックさは、病との付き合い方さえも変えてしまう。本書で若尾はしばしばフーコーの中後期の著作から借りた「生政治」(大雑把にいえば、人間の生や身体の領域にまで及ぶ権力形態)という概念を用いるが、演奏家としてのベイリーの選択は、生政治的な権力を乗り越えた個のあり方を示そうとした、後期フーコーの問題意識に通底するようにも思える。病に侵されたベイリーにおいては、新たな生の様式を発明することと、新たな音楽を産み出すことがほとんどイコールで結ばれるのだ。

 翻ってAphex Twinとマイクロ・チューニングに目を向けなおしてみると、平均律から脱して自分の音律をつくりだすことも、《音楽による情動の管理》というイデオロギーに対する抵抗のひとつのかたちと言えなくもない。とりわけ、Aphex Twinのように、ダンスミュージックという身体性の強い音楽においてそれを実践することは、単なるギミック以上のものを意味するように思える。とりわけSyro以降の諸作の、過剰なセンチメンタリズムから離れて、音と自在に戯れてみせるかのような音色やメロディラインに特にそれを感じる(あるいはAFX名義だともともとそんな感じではあったのだけれど)。

 ちなみに、ごく個人的な意味でこの本から得た最大の収穫は、アンフォルメルのキーパーソンであり、アール・ブリュットの名付け親であるJean Dubuffetがテープ音楽を手がけていたことを知れたという点にある。実際にその作品を聴いてみると、アンフォルメル期のDubuffetの絵画をそのまま音楽化したみたいな曲もあって、非常に面白かった。その音楽は徹底的にローファイで、緻密にプロセスされたミュジック・コンクレートやケージなんかのコラージュ的なテープ作品なんかとは違う、愛らしさがある。自身の展覧会にあわせて発表されたテープ作品《Music pour Coucou Bazar》はApple Music / iTunes StoreSpotify上でも聴くことができる。

ちなみに先日monologue買っちゃったんですが、めっちゃ良いシンセです。ステップシーケンサーがよくできてて、さくさくっとかなりアシッドっぽい音が出せます。まだ使いこなせてないけど! また今度記事書きます。

Carpal Tunnel

Carpal Tunnel

Coucou Bazar

Coucou Bazar

コメントは受け付けていません

「インターネットの王様は継続的なコンテンツだ」――密かに帝国を築くアーティストたちと、Jack Conteの起業家精神に学ぶ

f:id:tortoisetaughtus:20170714191638j:plain
記事後半で取り上げるPomplamoose。見目麗しいNataly Dawnと髭面のナイスガイJack Conteの二人組。

caughtacold.hatenablog.com

 昨日のエントリ(上掲)に引き続いて、インターネットと音楽の込み入った関係について。昨日のエントリでは、SoundCloudの経営危機に見る「音楽をシェアする」サーヴィスの難しさと、クロスメディア・プラットフォーム化する人気YouTubeチャンネルについて書いた。おおざっぱにまとめれば、作り手と聴き手のあいだを仲立ちするサーヴィスやメディアの現状というのが昨日のテーマだった。ひるがえって今度は、個人単位でインディペンデントに活動するアーティストたちや、彼らを応援する人々の視点に切り替えてみる。

地道でコンスタントな活動こそが評価される、インターネットのファンダム

playatuner.com

 playatunerというメディアに昨日付けでこんな記事が掲載されていた。昨日の記事を書いていた段階では知らなかったけれど、まさしく今日書こうと思っていた内容とシンクロするものだった。

世の中には「気がついたら水面下でめっちゃ売れていた」というアーティストが存在するのだ。自分でほぼ全ての作業をやり、少数で動き、徐々にネットでファンを獲得していく。一般世間が気がついた頃にはもう追いつけないレベルのファンベースを築いているのだ。

 バズを起こすでもなく、アーティストやレーベルからフックアップされて脚光を浴びるでもなく、「気がつけば売れていた」アーティスト。その正体は、巧みなメディア戦略をよしとするよりも、YouTubeSoundCloudを通してコンスタントに楽曲やミックステープ、アルバムをリリースしたり、あるいはライヴを定期的に欠かさず行うことで、自分の音楽をただ地道に人々に届けることに励んだアーティストだと言って良いだろう。たとえば冒頭で取り上げられているBlackbear。彼はSpotifyでの再生回数やマーチャンダイズでの売上を相当稼ぎ、大きなファンダムを築いているというが、メディア上で目立ってバズっているわけでもないそうだ。

彼の特徴としては、やはり自分の寝室で曲を作り、ミックスやマスタリングも自分でやっていたということだ。ビルボードチャートにて1年間もチャートインし、ゴールド認定された「idfc」は、まさに彼のベッドルームで制作されたものであった。「自分が1人で家で作った曲がこんなに聞かれてるのは凄いことだよ」と語っており、驚いたことにMVなどもほぼ出していない。

 プロモーション活動のYouTube一極化という話題を昨日のエントリで取り上げられたけれど、MVのような主要な動画コンテンツもなく、インディペンデントなアーティストが着々とキャリアを積み上げてきたというのは驚嘆に値する。もちろんその伏線として著名アーティストとの共作などもあったとはいえ、いかにメディア露出を増やし、SNSでバズるかというようなプロモーションとは一線を画している。その次に取り上げられているRussのストーリーも凄い。

彼はレーベルの手助けがない状態で、11個のアルバムをリリースし、サウンドクラウドで毎週1曲を公開し続けた努力家である。さらにライブも欠かさずに、50人しかいなかった客が2年間の間に数千人規模まで増えた。

 同記事では、とにかくコンスタントにリリースすること、他のアーティストによるリミックスやファンによるシェアに寛大であることがこうした成功の秘訣ではないかと示唆している。個人的に付け加えれば、こうした活動が可能になるのも、昨日言及した「音楽の流通経路の多様性」が確保されているからにほかならないと思う。それゆえSoundCloudの危機はなおさら憂鬱を呼ぶのだけれど。「一人で全部やる」スタイルのアーティストはどんどん増えていくだろうし、あるいは地縁的な繋がりによる互助的なコレクティヴがより重要になるだろう。Odd Future周辺から派生したアーティストたちのつながりや、Chance the Rapperというスターを産み、Nico SegalやJamira Woods、Nonameといった注目アーティストを発信するシカゴのシーンはその象徴と言える(その意味でNonameはちょっと同記事の趣旨からは外れるようにも思うがどうだろう)。

Scum Fuck Flowerboy

Scum Fuck Flowerboy

Odd Futureと言えばTyler, the Creatorの新譜出ますね。楽しみ

 しかし、地道で継続的な活動が成功の秘訣と言われても、現実には「生活」という大きな壁が立ちはだかっているわけで、並大抵の努力ではこうした成功は手に入れられないだろう。YouTubeの広告収入で生活できるようになるなんていうことはもっと狭き門だ。また、聴き手の側からしても、YouTubeSpotifyといったサーヴィスを通しては直接アーティストを支援することができないというネックがある(僕がBandcampで音源を買うのを好むのは、アーティストによりダイレクトにその支援が届くからだ。望むなら、価格を上乗せだってできるし)。継続して活動を続けたい作り手と、そんな彼らをサポートしたい聴き手をインターネット上でつなぐ場があれば……。

 と、煩悶しながらYouTubeを見ていると、まさにそうした場を提供するサーヴィスを、多くのYouTuberが利用していることに気づく。「継続型クラウドファンディング」とでも言うべきそのサーヴィスの名はPatreon。前々から面白いサーヴィスだなーと思っていたのだけど、この間改めて調べてみて、共同創業者の名にびっくりしてしまった。

人気YouTuberからアーティスト、そして起業家へ:Jack Conte(Pomplamooseメンバー / Patreon創業者)に学ぶ

www.patreon.com

 前項でも言及したように、Patreonが提供するのは一種のクラウドファンディングだ。しかし、Kickstarterのような既存のクラウドファンディングがプロジェクトベースで投資を募るのとはちょっとわけが違う。Patreonはクリエイターの活動に対して、作品単位か、ないしは毎月一定額ずつ支援していくという投資スタイルをとっている。クリエイターはその見返りに、支援額に応じたエクスクルーシヴなコンテンツを提供したりする。利用しているクリエイターの幅はとっても広い。DIY1のYouTuberからASMR系2のYouTuber、ゲーム実況者、イラストレーター、ソフトポルノやフェティッシュ動画の作り手などなど。2013年に立ち上がったこのサーヴィスは順調に業績を伸ばしているらしく、現在の利用者は5万人以上のクリエイター、そして月当り100万人のパトロン(出資者)を数えるまでに成長している。

 創業者は、Jack ConteとSam Yamの二人。え? Jack Conteって…… と思って調べたら。やはりあのJack Conteだった。“VideoSongs”というユニークでポップなオーディオヴィジュアル作品をリリースして知名度を挙げた人気音楽ユニット、Pomplamooseの片割れだ。彼らの熱心なファンならばもしかしてとっくに常識というか、周知の事実だったのかもしれないけれど、恥ずかしながら割に長いことPomplamooseの活動をフォローしていたにもかかわらず、彼がPatreonの創業者だということは知らなかった。いや、もっぱらNatalyの活動ばっか追ってたせいという説もあるけど…… とにかく驚いた。

 PomplamooseがつくるVideoSongsとは、レコーディングの様子を収めたフッテージを組み合わせて、一切の吹き替えやあてぶりなしで一曲を仕立て上げる、とってもスマートかつユニークな作品たちだ。ポップ・ミュージックの名曲をこの上なくキュートなアレンジで聴かせ、魅せる彼らのプロジェクトはいつ見ても本当に面白い。チャンネルにアップロードされている作品は残らずチェックした方がいい。ついでにJack ConteNataly Dawnおのおののチャンネルもチェックすべし。彼らこそまさに、魅力的なコンテンツを継続的に提供しつづけることで着実にファン層を拡げていったアーティストの先駆けだ。

比較的近年の作品で、Wham!のカヴァー。Natalyの魅力が全面に押し出されていて「ああ! ナタリー!」となる(?)

Edith PiafのLa Vie En Roseをカヴァーした比較的初期のVideoSongs。まだ編集がせわしく、ちゃかぽこしているのが楽しい。

Pomplamoose Live

Pomplamoose Live

ツアーも何度かやっていて、ライヴ・アルバムも出してます。

 そんな活動をしてきたJack ConteがPatreonを立ち上げるに至ったのも納得できる。たとえば、2014年のインタヴューで彼はインディペンデントなミュージシャンをこんなふうに激励している。

レコードレーベルにビジネス面を任せてしまわない限り、もうただのミュージシャンでいるだけでは済まなくなっているんです。成功するミュージシャンは起業家です――みんなめちゃくちゃ働いて、9時5時なんて気にしない。彼ら動画の撮影から編集までを学んで自分たちのヴィデオをつくってしまうし、音楽制作ソフトの勉強をして自分たちだけでレコードをつくる。
(中略)
いますぐ始めましょう。どうすればいいか読んで勉強するのはやめて、実際にやってみることです。曲を録音して、発表して、フィードバックを貰う。それを100回以上繰り返すんですよ。3

 そして、2013年、Patreon立ち上げ当時のインタヴューではこうも言っている。

インターネットの王様はコンテンツじゃありません。[…]継続的なコンテンツです。けれど、Kickstarterのようなモデルは継続的なコンテンツには向きません。また、YouTubeからの広告収入はなかなかですが、ある種のコンテンツに注がれる仕事や熱意の量に相応しい価値がつけられているようには思えません」4

 アーティストとしての立場から言えば、とにかくインターネットを使って作品をコンスタントに発表して、自分たちでなんでもやれるようになる必要がある。けれど、ビジネス面から言えば、そうしてかけたコストに見合うだけの報酬を得るのはなかなか難しい。そのギャップを埋めるため、アーティストの継続的な活動を気軽に支援できるPatreonを立ち上げた、というわけだ。

 当初はコンテンツが発表される度に投げ銭のように支援する形式を採用していたPatreonだが、いまは毎月ごとのサブスクリプションのように支援するという形式も併せて採用している。クリエイターは月ごとに自分の制作するコンテンツに割くことができる資金を確保でき、投資額に応じた投資者へのオプションを提供する必要もあるので、コンスタントな活動に対するモチベーションも上がることになる。

DIY系YouTuberの大御所、Jimmy DiRestaもPatreon利用者。ちなみにDiRestaのYouTube上のメーカーズコミュニティに対する影響力は凄い。“DiResta inspired”で検索してみるべし

 これはなかなかよくできたエコサイクルだと思う。なにより、ソーシャルメディア上のバズやメディアへの露出を気にすることなくクリエイターは活動に専念できるし、受け手も1ドルから気軽にクリエイターを支援できる――そのうえ、エクスクルーシヴなコンテンツも手に入れられる。また、インターネット全体から見ても、プロジェクト単位で打ち上がっては散っていく花火のような単発のコンテンツや、瞬間風速だけ気にしているようなクリック・バイトまがいの使い捨てコンテンツではなく、地道な活動による「継続的なコンテンツ」が増えていくのは好ましいことだ。その意味で、「インターネットの王様は継続的なコンテンツだ」というのは単にビジネスで勝つためのモットーではない。インターネットが育む文化そのものを継続的で息の長いものにするために不可欠な理念なのだ。

 管見の限り、国内には類似のサーヴィスが見られないように思う(ドワンゴのブロマガが近いといえば近いか)。プロジェクト支援型でもなく、散発的なカンパ型でもないようなクラウドファンディングにはちょっとした可能性を感じるのだけど…… どうだろうか。少なくとも、V█LUなんかよりもよっぽど現実的な需要があると思う。

enty.jp

 日本にもふつうにありましたわいな、クリエイター支援型クラウドファンディング! イラストレーターが目立つけど、広いジャンルの人に使われてるといいなー、ちょっと調べてみよう。(7月16日追記)

おわりに

 以上、散漫ながら、SoundCloudの危機をきっかけとして、インターネットと音楽の複雑な関係性について、その現状をつらつらとまとめてみた。これといった提言はないけれど、むしろ2つの記事で紹介してきた個々の事例に、みなさんなりの可能性を感じてくれれば、と思う。現場(a.k.a.ベッドルーム)からは以上です。


  1. YouTubeDIYというとライフハック系のチャンネルも多いが、ここではガチの木工や鉄工、手仕事系のチャンネルを指す(って、個人の趣味だけど)。エクストリームDIYチャンネルとしてあらゆるチャンネルから一線を画すPrimitive Technologyもそこに含まれる。

  2. ASMR系というのは端的にいうと「音フェチ動画」のことで、その正式名称はAutonomous Sensory Meridian Responseだとかなんとか。この微妙にもっともらしい名前がもたらす胡散臭さも含めていい感じのヴァイブスを発しているジャンル。ロールプレイものも多くて、しばしばセクシャルな含みもあったりする(そのへんは邪道だと言う人もいそうだけど)。

  3. A Chat With Jack Conte, Musician And Entrepreneur | TechCrunch(拙訳、強調は原文に従った)

  4. Jack Conte’s Patreon: Anyone Can Be a Patron of the Arts | Billboard(拙訳、こちらの強調は筆者による)

コメントは受け付けていません

ミレニアル世代は優れた(ネット・)サーファーなのか?:うんざりするような若者論へ、『蒸気波要点ガイド』を添えて

gqjapan.jp

 ほんの数百字の短い記事だが、もう、なにもかも、まるっきりうんざりする記事だ。「過去が縦軸から横軸になった時代」だの、「どんな音楽にも分け隔てなくアクセス」だの、「広大なアーカイブの海を巧みに泳げる」だの……そしてとどめにはこうだ。

そしてもしかしたら、マンチェスターの中学生がフジロックのサチモスの動画で音楽に目覚めるかもしれない。エキサイティングな時代になった!

 このライターはどこまで本気でこれを書いているのだろうか。言っておくけど僕は「そんなことはありえない」と言いたいわけじゃない。「そんなことはあまりにもありふれている」からこそ、このライターの正気を疑うのだ。90年代にインターネットの夜明けを目撃した人々が抱いた過剰なオプティミズムがいま突然冷凍睡眠から目覚めたみたいな、そんなアナクロニズムにまみれた文章だ。これとそっくりそのまま同じ文章が00年前後のカルチャー誌に載っていても僕はまったく不思議に思わない(当時はYouTubeのようなインターネット上の動画インフラはまだ成立していない、という客観的事実を除けば)。

 あらゆるものごとがフラット化していくらでも自由にアクセス可能となり、既存のヒエラルキーを打ち破る。このような「革命的」で「斬新な」スローガンは、実のところ掃いて集めたらもうひとつお月さまができるくらい吐き散らかされてきた。「ジャンルを横断する」? おお結構。「No Walls Between Music」? まさに真理だ(というかこれは信仰のようなもので、僕は死んでも否定したくはない)。けれどもそれはこのライターが讃えるような「ミレニアル世代」――ざっくりと言えば、日本でいうゆとり世代以降――の持つ独自の精神などではない。このスローガンの起源はお望みならグーテンベルクの時代に、あるいは百科全書派の時代に、または産業革命の時代に、さらには電気の時代、電子の時代、ネットワークの時代に、それぞれ求めることができるだろう。しかしそんな大風呂敷を拡げなくとも、少なくともインターネット以降の感覚で言っても、「エキサイティングな時代」などとうの昔にベッドルームにやってきていたはずだ。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

 ライター曰く「広大なアーカイブの海を巧みに泳げるのがミレニアル世代の特徴」だそうだ。しかし、ミレニアル世代はそんな全能感からは程遠いところにいると思う。むしろ彼/彼女らの大部分は、狭く喧しいSNSのエコー・チェンバーに閉じ込められ、かろうじてSNS上のフィードにサムズ・アップすることによってのみ安息を得ているのではないか。僕の言うことがあまりにもペシミスティックでディストピア的だと感じられるなら、「アーカイヴの海」を自由に泳ぎ回る若者たちなんていう表現も、それと同じくらいオプティミスティックでユートピア的なおとぎ話にすぎない。

 インターネットに伝わるいにしえの言い回しに、「ネット・サーフィン」というのがある。インターネット上のウェブサイトをリンクからリンクへ気ままに辿ってゆく優雅な時間つぶしのことだ。もはやこの言葉が使われなくなって十年は経つだろう。インターネットに触れるインターフェイスは、コンピューターのスクリーンからスマートフォンのタッチパネルに変化した。また、ブログの隆盛以来、そうしたインターフェイスを通して覗くウェブサイトも、静的に構築されたコンテンツから、絶え間なく更新されるSNSのフィードへと変化した。もはや僕たちはどこへ導かれるかもわからないネットワーク上をサーフするスリルを忘れ、終わることのないタイムラインをぼんやりと眺めることに慣れてしまっているのかもしれない。

 果たしてミレニアル世代に広大なネットワークの海をサーフする筋力は残っているのだろうか? あるいは、そのネットワークはサーフするに値する「いい波」を僕たちに提供してくれるのだろうか? たしかに、TwitterInstagram、Snapchatを操りながらタイムライン上の情報を華麗に編集し、我が物とするたくましさを人々はまだ失ってはいないし、この技巧はまさに情報をブリコラージュし生活を構築する「日常的実践 Art de Faire(ミシェル・ド・セルトー)」の現代版だと言える。しかしそれはSNS以前の人々がインターネットの向こう側に幻視した、あらゆるヒエラルキーの消失した「アーカイヴの海」を舞台とはしていない。わざわざ古めかしい海の上へと漕ぎ出す人々なんて、今更いるのだろうか?

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)

 Suchmosがそれだ、と言いたいひとはたくさんいるだろう。それをわざわざ否定したいとも思わない。しかし運良くきょう届いたばかりの佐藤秀彦・編(?)『蒸気波要点ガイド』をめくっていると、「ジャズとロックのクロスオーバー」ごときが霞んで消えてしまうほどの広大な「海」がこのZINEのなかに封じ込められているように思えてならない。いつ途絶えるともしれないVaporwaveというジャンルの命脈は、ミレニアル世代が喪失した「すべてがフラットな情報の海」という輝かしいユートピアへの羨望と、そのユートピアの不可能性を笑い飛ばすようなシニシズムとによって支えられている。僕を含めたミレニアル世代は「波」を、そしてその母たる「海」を再発明しなければならない。Vaporwaveはその名が奇しくも示している通り、インターネット上にふたたびもたらされたひとつの「波」であって、その母はまさにインターネット上に漂う情報の断片たちの織りなす「海」だ――ただし、その海は豊穣とは無縁の空虚とほとんど変わらない。

 ともあれ、Vaporwaveに限らず、SNS時代以降に真面目に文化をつくることを考えるのならば、失われた海に思い切ってダイヴする勇気か、海そのものを再発明する大胆さか、そのいずれかが必要なのではないかと思う。まあ、そのどちらを選ばずとも、気がつけば文化は自然に育まれるものではあるのだけれど。

コメントは受け付けていません

レコーディング・エンジニアが詩人になるとき――『Re/P』1971年11・12月号から

www.americanradiohistory.com

 上に掲げたリンクは、Recording Engineer / Producer(略称・Re/P)といって、1970年から92年にかけて発行されたレコーディング技術に関するアメリカの雑誌をアーカイヴしたものだ。ほんの数冊をのぞいてほぼ全てがPDF化されており、歴史的資料として非常に興味深い。めぼしい記事はないかと目次を眺めていると、奇妙なコンテンツを見つけた。1971年11・12月号の目次にはこうある。

Poem: “THE ENGINEER” 14 Claude Hill

 詩って…… 詩が載るの? レコーディングエンジニアが読む雑誌に? Re/Pの提供する記事はきわめて専門的で、しばしば電気工学の知識が必要な記事もある。実際、以下のように、「エンジニア・オブ・ジ・イヤー」とか「位相と単独のマイクロフォンについて」とか「ソリッド・ステイト・スウィッチングについて」みたいなコンテンツが並ぶ中、唐突に現れる「ポエム」はちょっと異様だ。

https://gyazo.com/150672e879f30a3627a46d246c8f2e0b
目次ページ(部分)。上から二番目の項目に「ポエム」が見える。

 果たしてこの「ポエム」はどのようなものなのか。ポエムという名の技術的ノウハウがなにかあるのか、それともエンジニアという職業をめぐる考察を主としたエッセイだったりして。と思って誌面をめくってみたところ、

f:id:tortoisetaughtus:20170630001257j:plain

 ガチのやつやんか。ページのおおよそ半分を占める、ABABで韻を踏んだ四行連詩。ちょっと拡大してみよう。

https://gyazo.com/6dc613b443680350d21d3ab36a2aae33

 全体が伝えようとする「エンジニア像」は明快だ――すなわち、クリエイターとしてのエンジニア。エンジニアは巧みにコンソールを操り、音の連なりのなかからベストなテイクやフレーズを取り出す。彼の手にかかれば、「ふつうの人々」だって「スター」になれる。それも後世の人々にあなたの類まれな才能を伝えるという使命を背負ってのこと。しかし最後はちょっとしたオチがつく。あまりにエンジニアの手腕が行き届いているせいで、「これ、どうやってライヴでやんの?」とバンドから質問されるハメになるのだ。

 1940年代後半に第2次大戦が終わると、軍用に開発されていた磁気テープへの録音技術はただちに民生化されることになる。しかし、その主な活躍の場ははじめラジオ業界で、とりわけテープならば音質の劣化も最小限に編集が可能であることが強みになった。その後音楽録音にももちろん活用されるようになるが、1960年代に入ると、いわゆる多重録音の急速な進歩1にともなって、たとえばビートルズジョージ・マーティンのようなアーティスト+エンジニア兼アレンジャーがその可能性を広げていくことになる。しかるに、1971年という年はちょうど、ロックも含めたポピュラー・ミュージックにおけるエンジニアの存在感が増していくただなかにあった。楽器としてのスタジオ、そしてアーティストとしてのエンジニアが切り開く可能性はまだまだ未知ではあったかもしれないが、その変化に思わず筆を執ってしまったのだろうと思う。

 最後に、拙訳ながらこの作品、《エンジニア》を味わってもらいたい。そこには確かな腕の職人としてのプライドが、クリエイターとしての自負へと変わりつつあるさまがありありと映し出されている。

エンジニア

クロード・ヒル
ナッシュヴィル、グレイザーサウンドスタジオ、チーフ・エンジニア
 
エンジニア、顕れしその姿は
    過去も未来も誤ることがあってはならぬ
「テイク」を、あるいはたった一小節を
    絶え間ない唸りから得ることにかけては
 
光り輝く灯りやノブを操り
    彼は奇跡を起こす
彼の機知によって、スターたちへと
    この「ふつうのひとびと」は変身するのだ
 
私はあなたのすべての声に共鳴し2
    そしてのこりを「オーバーダブ」する
記録するのだ、あらゆる未来の人々のため
    あなたに恵まれたその才能を
 
私は瑕どもを「EQ」で始末してやる
    ぜんぶのジャイヴがかたづくと、
私は座ってあなたにこう尋ねられるはめになる
    「これどうやってライヴでやりゃいいのさ?」

レコーディング・スタジオとその設備、空間に着目しながら、1970年代を中心とした名盤に秘められたマジックを紐解いていく名著。音源とともに読み進めると、まさしくレコードの向こうに「スタジオの音」が鳴り響いていることに気づかされる。本記事で取り上げたような、スタジオ・ワークによるクリエイションの可能性が模索されていた時期の記録としても。


  1. 4トラックのレコーダーが普及したのは1950年代末、そこからトラック数は8トラック、16トラックと増え、1970年代には24トラックが標準となった。

  2. ここはもちろん「エコーをかける」と原文にはある。が、詩だもんなあ。と思ってやめた。

コメントは受け付けていません

“post-truth”に反対する唯一の手段は。――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(B面)

以下の文は、特に何を言われたわけでもなく、先のレヴューに加えてもう一本レヴューを書いてみようかという思いつきから書いてみたものだ(なのでB面)。したがってよりはっちゃけているというか、僕のファンタジーが炸裂しているように思う。そのあたり、ご容赦いただきたい。

何がリアル/何がリアルじゃないか/そんなこと誰にわかるというか
(Tr.2 SHOPPING MALL)

2016年を覆った絶望にも似た状況にこの一曲は良かれ悪しかれ深く響いた。翌年には、この絶望さえ“post-truth”と名付けられるや否やそれ自体消費の対象となり陳腐化してしまい、挙句の果てには恥も外聞もなく嘘をつき、隙きあらば論敵をフェイク呼ばわりすることが政治そのものであるかのような世界が訪れることになる。たとえば一世紀後の作家たちはこのスラップスティックをもとにどんな荒唐無稽な物語を紡いでくれるだろうか。そんなことを想像するくらいしか救いはない。

そんなとき、tofubeatsがリリースしたのは、いわば「祈り」*1のアルバムだ。それはおそらくは宗教的献身を欠く故に、微妙な陰影をたたえてもいる。しかし2曲のチャント――この構成自体が原初的な「祈り」を思わせる――に導かれ、背中をぽんと押されるように終わるこのアルバムは、不思議にポジティヴな力を聴く者に与えてくれる。《First Album》や《POSITIVE》のようなサーヴィス精神旺盛なキャッチーさはなく、むしろ内省的とさえ言えるこのアルバムだけれど、一枚を聴き通したあとにもたらされるふとした身軽さは、もしかするとこれまでで一番明るく、暖かい印象を人に与えるかもしれない。

まるでそれは、tofubeatsの「祈り」が、僕たちにある種の「救い」*2を与えているかのようだ。

しかしtofubeatsの「祈り」は僕たちリスナーに向けられたものではない。ましてや理解を求めてすらいないのかもしれない。たしかに彼は表現者である以上ある程度の理解を求めてはいるだろう。しかしいまそのプライオリティは格段に低いのではないか。そう思える。たとえばそれは、彼の「祈り」のそのささやかさに見て取れる。彼は誰ともしれない「君」やあるいは自分自身に対しての、小さな、しかしかけがえようのない望みを歌詞のなかに織り込んでゆく。身近な人に喜んで欲しい(Tr.2 SHOPPINGMALL)、だとか、君とうまくいきたい(Tr.8 What You Got)、だとか、ラヴ・ソングにも満たないようなささやかな望み。しかし彼はそれを、僕のこの耳で聞く限りにおいて、心から願い、祈っている。

なに、たったそれだけのこと――そういいきってしまえばそうしてしまえるようなこのささやかな心の動きこそが彼にとっていま表現するに足る切実さを持っているのだろう。このアルバムが僕たちに「救い」にも似た軽みを与えてくれるのは、むしろそうしたささやかさに心を研ぎ澄ますことそのものの大切さを、身を挺して提示してくれているからなのではないだろうか。

単純な動きさえ/きっと何かの感情
(Tr.11 YUUKI)

ふとした単純な動きにさえ、なにかの感情を見出すこと。すなわち――ささいなことをささいなことと片付けずに、真摯に向き合うこと。「祈り」とか「救い」といった言葉のうさんくささにうんざりしてしまった人は、そう読みかえてもらってもさしつかえない。tofubeatsがこのアルバムで「祈り」の身振りを通じて伝えようとしていることとは、まさしく、この「祈り」の質、すなわち些細なものへの真摯さそのものであると僕は思う。

それはまた、“post-truth”と名付けられたいまを生きる僕たちに個人として残されたほとんど唯一とも思えるサヴァイヴの方法だ。factの積み重ねと、そこからtruthを生起させる諸々の手続きがなし崩しになって、なにものも信じがたくなったあとに残されるのは、ただ自分の身の回り、手の届く範囲に起こるさまざまなよしなしごとに対して、真摯であろうとすることくらいだ。それはときに内省となり、虚無感とごっちゃになった激情をも生み出すかもしれない(What You Gotの暴れまわるような“夜から朝までparty/窓開けたらめちゃsunny/何を得たのかわからない/取り出して並べてみたい”というラインのように)。しかしそれであれ、フェイクに身を投じてわけがわからなくなってしまうよりもずいぶんマシだと僕は思う。

つまり、tofubeatsがこのアルバムを通じて僕たちに与える「救い」は――そんなものが本当にあるとすれば、だが――その「祈り」から透けて見えるアティチュード、スタイルそのものなのである。たしかに彼はちょっと不安定で、知りたいことや知りたくないことに囲まれ、ショッピングモールを彷徨するひとりの人間にすぎないかもしれない。しかし彼の、些末な事象へ見せる真摯さ、それこそが数少ない今まさに信じうる正しさなのではないか。

「戰争に反對する唯一の手段は」と吉田健一は書く。「各自の生活を美しくして、それに執着することである。」と。実を言うと、この有名な文句に僕はどうも納得がいかなかった。エッセイをまるごと読んでみても腑に落ちなかった。美しさなどという怪しげな概念を平和への賭け金にしてしまうとは。しかし、tofubeatsのこのアルバムを聞いた僕は思わずこうひとりごちてしまった。――“post-truth”に反対する唯一の手段は。その手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである、と。大胆にパラフレーズさせてもらえば、ここでいう「美しくする」とは「ささいな細部まで気を配る」ことの謂であり、「それに執着する」ことだけが、あわよくばフェイクの世界へ足を掬おうと待ち構える世界へ抵抗する手段なのだ。

《FANTASY CLUB》でのtofubeatsの「祈り」は、その実践である。

*1:あくまでカッコつきの、特殊な意味での(あるいはなんの含みもない)「祈り」だ。後述

*2:これもまた大仰に思えるかもしれないが、後述する

コメントは受け付けていません

青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(A面)

以下の文は、tofubeatsからちょっとした小文を依頼されて書いた、《FANTASY CLUB》のレビューである*1。諸々のインタヴューやレヴューが出回る前に書いたものであること(奇遇にも脱稿はWIRED日本版編集長・若林恵氏によるライナーノーツと同日――4月19日である)、本文中に登場する音源等はオリジナルの原稿には存在せず、当ブログに投稿するにあたり挿入したものであることをおことわりしておく。(なお、B面はこちら

はじめに:掛け値なしの最高傑作

少し思い入れの入った変則的なレビューになりそうだから、最初に通り一遍のことは書いてしまおう。

tofubeatsのキャリア4作目、メジャー3作目のアルバムにして、最高傑作が届けられた。これまでになく内省的ではあるが、それゆえtofubeatsというアーティストのあらゆる意味で信頼に足るパーソナリティがむき出しになっている。また、内省的でいながら、バラエティに富んだビートの数々。

YouTube上で発表されて以来、2016年のベスト・ソングに挙げられることも多かった“SHOPPINGMALL”(Tr.2)に対して、KANDYTOWNからYOUNG JUJUをフィーチャーした切なくスロウな“LONELY NIGHTS”(Tr.3)はそのナイトライフ・ヴァージョンとも言える仕上がりだ。もともとは神戸市のU30 CITY KOBEに提供されていた“THIS CITY”(Tr.10)のド直球なメロディアス・テクノも、アルバムいちの長尺をまったく感じさせない。“YUUKI”(Tr.11)や先行シングルの“BABY”(Tr.12)といったバラードも、ポップ・ソングとして普遍的な輝きを放っていると言っていいだろう。アルバムとしてのトーンはジャケットが見せるようにやわらかな水彩画のようにふわりと統一されていて、一曲一曲の粒の揃い方にソングライターとしての成熟をたしかに感じる一枚だ。

しかし、僕にとってなにより印象的なのは、tofubeats自身のヴォーカルだ。アルバムごとに多彩なゲストを迎えてきたtofubeatsが、本作に限ってはとにかく自ら歌っている。その歌声を聴きながら僕はいくらか思うことがあった。少し長くなるが、思うところを書いてみようと思う。

神の不在に歌われる歌は

tofubeatsの歌はいつもどこか不器用だと思う。上手いとか下手という話ではなくて、なにか奇妙なためらいを湛えた歌声だ。もはやトレードマークとなった照れ隠しのオートチューンがそれに拍車をかけている。

中学生の時分から野山をかきわけるようにキャリアを積み重ねてくるなかで、いちプロデューサーとして人前に出ないことを選んだってよかったはずだったが、おそらくどこかのタイミングで彼は自分で歌うことを引き受けた。自分が歌わなければ誰も歌ってくれない歌があること、自分があげなければ誰にも聞かれない声があることに気付いたから、だろう。そこのところをあえて背負って立っている重みがtofubeatsの歌声にはある。そして実際、《Fantasy Club》はそうした歌や声に満ちていて、このために彼は歌っていたのかと深く得心するのだ。

たとえばカニエ・ウェストが内省の果てに宗教的啓示に打たれたかのようにゴスペルに回帰したように、僕たち日本人にも神がいればよかったのに、と思うことがある。神なき世界で歌われるべき歌とは。とりわけ、なんにもたしかに信じられないようなこのご時世に歌われるべき歌とは。

FANTASY CLUB/入れたら良いな/信じたいことは/信じにくいから
でも反対には/行けないしなって/音鳴らしたりした/FANTASY CLUB
(Tr.13 “CHANT #2”)

そんな歌とは、こんな歌だ。そう思わずつぶやいてしまうような、秀逸な詞だ。なにかを「信じる」ということに誠実であろうとすればするほど「信じたいこと」はどんどん「信じにく」くなる。しかし「信じない」を選ぶわけにもいかない。そんなときなかば無造作に鳴らされる音が積み重なって、積み重なって、そこからこのアルバムは編み上げられた。そんな想像をする。

また、「入れたら良いな」と歌われる“FANTASY CLUB”(Tr.6)の正体はどうだろう。夢のような、しかしどこか不安定で儚いパッドの音色は。信じたいはずの夢の世界さえ不確かで――あるいはこのように茫漠とした危うさを抱えてこそファンタジーであり、夢であるということだろうか。どうやらFANTASY CLUBに入ることが叶ったところで、同じような彷徨を繰り返す羽目になりそうだ。なにかを信じることさえ躊躇われるこの世界と、さして変わらない。

tofubeatsの歌声に宿っているためらいの音色は、そのまま彼の見せようとする世界のありさまでもある。なんと身も蓋もなく、誠実な歌声だろうか。

青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて

歌声。そういえば、アルバム中屈指のダンス・チューンである“WHAT YOU GOT”(Tr.8)は、tofubeatsらしい多幸感を覚えさせてくれる一方で、曲中盤で聞かれる「ちょっと不安定」な感情が暴れだすかのような荒々しいヴォーカルはまるで初期衝動丸出しのパンクだ。

新しい音たくさん浴びたいまだまだ 不完全/君と踊りたいしうまくいきたい/他のこととか別にいいよ
(Tr.8 “WHAT YOU GOT”)

クラブ・ミュージックの美学のひとつがその匿名性にあるとすれば、誰であれ分け隔てなく注がれる普遍的な愛ではなく個人的なラヴ・ソングが感情もむき出しに歌われるのは、ある種の反則的な「青臭さ」にカウントできるかもしれない。これもtofubeatsの「らしさ」のひとつだろうし、彼が醸し出すポップネスの源泉でもある。

けれども、もはやtofubeatsにとってかつてのようなハイスクールはその面影さえない。かわりにあるのはショッピングモールだ。そんな彼がこのアルバムで描く生活は、どこかごつごつ、ざらざらとしている。かつてそれを人はリアルと言ったろうが、いまや適切な言葉はどこかに消えてしまった。

これ以上もう気づかないでいい/君は
君は いい/君は 気づかないでいい
(Tr.1 “CHANT #1”)

イントロとアウトロを飾るチャントは一種の祈りの歌であると同時に、呪いの言葉でもある。もう「君」は余計なことに気づかないでいい! しかし恐らくtofubeatsはその言葉が「君」に届かないことにもう気づいている。逆に「君」は律儀にもtofubeatsの言葉を反復し、ひとつひとつの気づきをスティグマとして背負っていくだろう。あるいは、笑顔の裏に涙を隠す「君」(Tr.12 “BABY”)はとっくにいろんなことに気づいてしまっているだろう。

tofubeatsというかつてのアンファンテリブルはすっかり大人になり、イノセンスをみずからふたたび手にすることはかなわなくなった。彼にとって、それを喪失と成長の物語として語り直すには――我が子を得たチャンス・ザ・ラッパーが“Same Drugs”でしたようには――まだ迷いが多すぎるのかもしれないし、そもそも彼は自分の人生をそのように物語としてアウトプットすることそのものに関心がないのかもしれない。イノセンスから遠く離れて彼は、ただ逡巡すること、それを彼なりの誠実さとしてアウトプットすることを選ぶ。

踏み込んだ道の途中/きっと何かの感情/歩き出すその勇気/持っているだけできっと/大丈夫
(Tr.11 “YUUKI”)

美しい喪失の物語など必要ではない。ただ歩き出す勇気さえ持っていれば大丈夫。内省的なトーンのなかでぽかりと開けた明るみのようなこの一節を強調するかのように、このアルバムはドアを開けて歩き出して終わるのだ(というのは我田引水にすぎるだろうか?)。あっけないほど平穏な鐘の音や汽笛の音は、聞き手の僕らにもまた歩き出すことを促す。「きっと大丈夫」と囁きながら。

*1:なんでお前が、という質問には、僕は答えようがない。ただ古い友人だということ以外には。

コメントは受け付けていません