コンテンツへスキップ →

カテゴリー: Japanese

entries written in Japanese

ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第二版 人間の人間的な利用』鎮目恭夫・池原止戈夫

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

 ノーバート・ウィーナーが1950年にサイバネティクスの概要について一般向けに書いた本で、技術的な話題よりもその思想的意義を説くものになっている。この邦訳は第二版、1954年に執筆されたものが底本だ。19世紀末から20世紀にかけて物理学に起こった大きな方向転換を端緒として、エントロピーという概念を鍵として情報工学や通信理論の発展を論じ、そこから人間の本性までをも考察するに至る。とはいえウィーナーが取り上げているのは比較的素朴な、20世紀なかばに既に充分実現していた技術にとどまっていて、極端な大風呂敷を広げているわけではない。たとえば、通信理論に基いて信号の伝送経路を最適化するように、社会制度もまた情報をどのように流通させるか、すなわちコミュニケーションの通路を良好に保つためにはどうすればよいかという観点から再設計可能である、といった発想には、むしろゼロ年代アーキテクチャ論にも通じる見通しの良さがある。

 興味深いのは、「コミュニケーション・機密・社会政策」と題された第七章で、機密主義に陥りがちな軍事研究が長期的に見て人類全体に有害であると論じている部分だ。要するに、開発した技術はどんどん公開するべきであって、利用を妨げてはならないのだという。本書が書かれたのが第二次大戦後冷戦体制が強化されつつあった1950年であったことを考えると、この主張はいま想像するよりもずっと大胆なものだったのではないだろうか。

繰り返すが、生きているということは、外界からの影響と外界に対する働きかけとの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中でわれわれは過渡的段階にあるにすぎない。いわば世界の有為転変に対して生きているということは、知識とその自由な交換の絶えざる発展の中に参加していることを意味する。多少とも正常な状況の下では、われわれにとっては、そのような適切な知識を確保してゆくことは、ある仮想敵国にそれを持たせないようにすることよりも、はるかに困難であるがはるかに重要なことである。軍事研究所というものの仕組み全体は情報をわれわれ自身が最も有効に使用し発展させることに相反する線に沿っている。(p.128)

 ある研究に軍事研究というレッテルがつけられると、とたんにその成果は部外者から閉ざされてしまう。それだけならまだしも、機密主義が徹底された結果として、別の部門で得られた成果を他の部門で応用するということもできなくなって、いわば「車輪の再発明」をせざるを得なくなることさえある。最近日本でも軍事研究予算が拡大され、大学がその獲得に躍起になるやら抵抗するやらと騒々しいけれど、根本的な問題として、軍事研究という制度がアカデミズムと相反するものである点に留意する必要があるだろう。暗号解読に関するアラン・チューリングの業績が、その内容の機密性ゆえにしばらく一般には知られていなかったことを思い起こすと、看過できない問題ではないだろうか。

 もう一点興味深かったのが、芸術に対する言及だ。第八章は「知識人と科学者との役割」という題が付されていて、その内容はというと、アカデミズムの世界が若い科学者に対して適切なキャリアパスを描けていないことに対する批判になっている。知的好奇心に突き動かされて然るべき若い科学者が、形式的な業績を積むためにルーチンワークのように論文を書いているのは嘆かわしいことだ、と。ただこれは科学にかぎったことではなく、芸術においても同様だとウィーナーは言う。ウィーナーは、なにか新しいことを言うためにではなく、既存の権威を強化したり、あるいは当面の需要をとりあえず満たすためだけに行われるような、おざなりなコミュニケーションには価値を認めない。なぜかといえば、芸術であれ科学であれ、それはエントロピーの増大という自然の傾向に抗って、新しいものを生み出すことを使命としているからだ。

何派であろうと美を独占することはできない。美は、秩序と同様に、現実世界の多くの場所に現れるが、エントロピーの増大の巨大な流れに抗する局地的で一時的な戦いとしてしか現れない。(p.142)

 この一節はどこか、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの最後の著作『哲学とは何か』を思い起こさせる。

思考の定義、あるいは思考の三つの大きな形態、すなわち芸術、科学、哲学の定義とは、つねに、カオスに立ち向かうこと、カオスのうえに或る平面を描くこと、或る平面を描くことである。(『哲学とは何か』財津理訳、河出文庫、p.332)

 もちろんウィーナーが秩序から無秩序へと至るエントロピーの増大という時間的な枠組みに準拠していて、それに対してドゥルーズガタリが相手どるカオスはそうした漸次的な変化も受け入れない絶対的なカオスなのだとは思うけれど、ドゥルーズガタリがウィーナーを知らなかったとは思わないし、なにかアイデアのきっかけにはなったのかもしれない(あるいはルーツが同じか。e.g.熱力学とか)。

哲学とは何か (河出文庫)

哲学とは何か (河出文庫)

コメントは受け付けていません

AIはプリペアド・ピアノの夢を見るか?――人工知能と自動作曲に関する覚書

この曲は、ソニーの研究所が開発したAI、「FlowMachines」を用いて作曲された、「ビートルズ風」のポップソングだ。イントロのコーラスワークやベルの音色はむしろペット・サウンズ期のビーチ・ボーイズではないのか、という気もするけれど、たしかにメロディにはどこかジョンやポールの面影が感じられる。2017年にはこの他にもAIを用いて作曲した楽曲を含むアルバムが発表されるという。なんとまあ、夢のある話ではないか。ただし、「AIがついに作曲を! シンギュラリティ!」と言うのは先走りすぎだろう。このAIがどのようなものかを糸口にしつつ、昨今盛んな人工知能による作曲や演奏について、考えてみたい。

コメントは受け付けていません

Jace Clayton, Pitch Perfect, 2009, frieze.com 和訳

以下は、2009年にFrieze.comに掲載されたJace Claytonによるエッセイ、“Pitch Perfect”の日本語訳です[さらに注、この訳は2016年に以前のブログに掲載したものの再掲です、訳の見直しはしていないのでおそらく問題はおおありです]。勝手訳なので、そう長い間公開しないかもしれないけれど、ご容赦ください。2000年代以降に隆盛を誇り、いまだに広く用いられているオートチューンというエフェクトをめぐるこのエッセイを知る切っ掛けになった、Jace Claytonのプレゼンテーションはこちら。本文中に挿入しているYouTubeの動画は訳者が付け足したものです。

ピッチ・パーフェクト

今日ほとんどすべてのポップ・ソングに使われているソフトウェア、「オートチューン」の功罪

Jace Clayton

この10年で最も重要な音楽機材は、楽器でもなければ物理的なオブジェクトでもない。それはオートチューンと呼ばれ、おおざっぱに言ってすべてのポップ・ソングのうち90%で用いられている。オートチューンはいわゆる「プラグイン」の一種で、他のより大きなオーディオ・ソフトウェアにインサートして使うために特別に設計されたソフトウェアだ。オートチューンは、キーから外れた音をぴったりの音程に直してくれる。当初オートチューンは間違った音をならすためにさりげなく使われていた。(修正というよりも)装飾的なオートチューンの使い方を最初に広く知らしめたのは、Cherの1998年のシングル《Believe》だといってよいだろう。繰り返された整形手術によって突っ張った肌とかその他の副作用が整形それ自体の美学をかたちづくるとしたら、オートチューンについても同じことを考えることができるだろう。《Believe》のいくらかのフレーズがロボティックに変化するのを聞き取れる箇所がある――オートチューンの仕事はまさにそれだ。数年ほどでこの制作秘話(そしてこの高価なソフトウェアの違法コピー)は世界中のスタジオに浸透した。その過程で、声と身体のあいだのつながりが問題化されることとなった。

ヴォーカル至上主義者はオートチューンをひどく嫌う。彼らはオートチューンのロボティックな変調のなかにこんなものを聞き取る。砂糖まみれの物珍しさ、ゴリ押しされたニュアンス、貧相な合成品、「魂(ソウル)」の欠如、天性の歌の才能というものに対する軽蔑、ティーン向けの芝居じみた演技、感情の貧血症、そして/あるいは広範に及ぶ音楽的な衰退といった諸々の複合体を。醜いものだ。アメリカのR&Bシンガー、T-Painのオートチューンの助けを借りた2007年のヒットについて論じた折、音楽評論家のJody Rosenはこんなふうに主張した。「T-Painは、アフリカン・アメリカンによる音楽の、その伝統的な感情主義からの象徴的な切断を代表している。[…]何十年もの間にわたって黒人の大衆による歌を力づけてきた熱烈なメリスマは、合成されたあえぎ声へと均されている」

Lil Wayneのようなパフォーマーたちは、オートチューンを通じて非-音楽的な声の音――あえぎ、ラップ、笑い声――さえも送り届けるが、広く模倣されているT-Painのスタイルは、注意深く歌われたコーラスをくどく飾り立てるところに特徴がある。それによって、まさにサイバネティックな光沢のためにコーラスはより目立つようになるのだ。Rosenはそこに断絶と喪失を聴き、そして真実、オートチューンはソウルフルに歌うとはどういうことかを再定義し、私たちが明白な達人技(ヴァーチュオシティ)を使うことをできなくしてしまう。そのうえこのプラグインは、魂(ソウル)や技術の場としての声を脱自然化しながら、才能というものを別の場所へとおしやる。オートチューンを効果的に使うためには、そのデジタル・アルゴリズムと協力しなくてはいけない。「ロボットっぽい声にしてほしい」と頼んでくるヴォーカリストたちについて冗談を言ったあと、モロッコ人プロデューサーのWaryはこんなことを言った。「ときどき、凄い歌手だけどオートチューンの使い方をわかっていない人というのがいてね、その音といったらひどいものだよ」伝統的な歌の才能はオートチューンの世界ではそう使い物にならない。重要なのはテクノロジーとの戦いでもなければ、テクノロジーへの愛好とも違う、愛想の良い共存みたいなもの、すなわちギブ・アンド・テイクの奇妙で新しいダンスなのだ。

Rosenが言う、オートチューンがすべてを台無しにする前に「黒人の大衆による歌を力づけてきた」ような「熱烈なメリスマ」に光を当てる例は、T-PainのR&Bだけに限らない。メリスマは、マグレブの音楽にも、より広くとは言わないまでも、同じくらい広くみられるものだ。オートチューンが北アフリカで信じられないほどの成功を収めている理由はこれだ。現代のライー(raï)やベルベル人の音楽はオートチューンを心から受け入れている。という理由はまさしく、グリッサンドがヴォーカル・パフォーマンスの中心部分だからだ(音のまわりを飛び交うような声を持っていないと、良いシンガーだとは言えないのだ)。オートチューンを通すと、スライドしていく音程ははっとさせる響きを持つ。奇妙な電気的な歌声が、喉を震わせるグリッサンドのなかにはまりこむ。人間らしいニュアンスとデジタルな修正との拮抗が聞き取られるようになり、劇的なものになる。まったく字義通りに、これこそ声と機械が互いに変調しあっているサウンドなのだ――これは、T-Painがこの技術を「コンピューターを真似る」ために使っているという、Rosenの結論からはかけはなれたものだ。

リヴァーブやエコーといった伝統的なエフェクトと違って、オートチューンはヒューマン・エラーや音程の機微に能動的に反応する。それは平坦化したり均したりするのではない。まして普遍化するものでもないのだ。マンハッタンのハイエンドなレコーディングスタジオであるチャン・キングでチーフ・エンジニアを務めるAli Ruskinはこう説明する。「本当に(キーに)ぴったりに歌うなら、エフェクトの強烈さは薄まるんだ」このソフトウェアは間違った音を正しくするためによく働くのだから、正しい音程の音は相対的に自然に聴こえるのだ。けれども、優れた歌い手が音をスライドさせると、ソフトウェアは混乱してしまう。相互作用は複雑になる。

オートチューンなしでは風変わりに聴こえるようなヴォーカル・ラインが、いまやお馴染みの効果を生み出すのに必要になってきた。オートチューンは人間と機械によるデュエットに似たなにかを促進している。Ruskinは数えきれないほどのメジャーなヴォーカリストたちとレコーディングしてきたが、そこには最も売れているラッパー、Lil Wayneも含まれている。Ruskinによれば、「すべてのポップミュージックのうち99%は、オートチューンで修正されている」という。けれども、アーティストたちが大胆にこのプラグインの使用を前景化する際には、彼らは歌うと同時に加工されている自分の声も同時に聴くことになる。Lil Wayneはオートチューンを通したままでレコーディングする――処理されていないヴァージョンのヴォーカルは存在しないのだ。パワフルなコンピューターのおかげで、レコーディング・セッションのあとであらゆる種類のエフェクトをヴォーカルに試してみることができるような時代に、直接オートチューンをとおしてレコーディングするということは、オートチューンに完全に身を捧げるということだ。もはや、「裸の(naked)」オリジナル・ヴァージョンは存在しない。これは、サイボーグ的な受容だ。『サイボーグ・マニフェスト』(1991年)に、Donna Harawayは、「器官と機械との関係は国境紛争と化した」と記している。オートチューンの創造的な援用は、彼女の「境界を曖昧にする快楽と、境界を構築する責任のための議論」と完全に一致するものだ。

数カ月前、私はコート・ジボワールからの曲を耳にした。12分間にわたるChampion DJの《Baako》は、オートチューンを通した赤ちゃんの泣き声を中心としてつくられている。オートチューンは赤ちゃんの苦悶をうす気味の悪い音楽へと屈折させる。耳ではいいなと思う。けれどもこころではそう確信できないのだ。

https://youtu.be/i20acgIPcoU

《Baako》はこころをかきみだす。美学化された泣き声はもはやどんなふつうの感情にも対応しない。オートチューン以前には、メロディアスな叫びというものを私たちは知らなかった。《Baako》は、オートチューンの多様な使用法――そして多様な歴史――を際立たせるものだ。パリ郊外のホーム・スタジオでウェイリーはこう説明してくれた。2000年にアルジェリアのChaba Djenetがリリースしたシングルによって、オートチューンはアラブ世界のなかで大流行した。2000年代の初頭以来、北アフリカのベルベル人によるポップス・アルバムのなかで、タマージク語のヴォーカルに完全にシンセ化したオートチューンがかかっていないようなものを見つけるほうが難しいのだ、と(こうした録音物において女性の声がヴァイオリンのように響いているのには驚かされる)。再びマンハッタンに戻ると、Ruskinは「2001年ごろから、男性アイドルグループの仕事にともなって、オートチューンを定番のエフェクトとして捉えるようになった」。Kanye Westは最新作の《808s and Heardbreak》(2008年)で、自らの声をオートチューン(とディストーション)に浸しきった。その特異な使用法において、ウェストのオートチューンは彼の肥大したエゴを鎮めて、自らの悲嘆の物語をより共感できるものへと変えている。

アメリカからメキシコ、ジャマイカ、アフリカ、さらに向こうへ――オートチューンの使用法は、シーンごとに、またアーティストごとに異なるアプローチをともなって、ばらばらに散らばっていった(ただし、最もサウンド的に過激なのはモロッコのベルベル人によるもののままだ)。オートチューンはこれまでとは違う声の機械に対する関係を作り出す。コンピューターに対する新奇な、あるいはいくらかふざけた模倣的な反応というよりは、オートチューンはデジタルとの親密な関係のための現代的な戦略なのだ。正確に言えば、オートチューンはとても人間味を帯びてきている。オートチューンは、電子機器と個人とのあいだのデュエットとして作用する。つまり、テクノロジーとの調和だ。この発展は、齢60代のポップ・スターをきっかけに爆発し、まるで野火のようにジャンルを、言語を、そして地域を越えて広がった。私たちは電子機器で飽和した世界に生きていて、そしてこうした状況に歌声を与える方法を見つけつつあるのだ。T-Painとオートチューンの制作会社アンタレスは、現在オートチューンを携帯電話で使えるようにしようとしている。この親密さ――いや、これは侵略なのだろうか?――は深まっていく。

Jace Claytonは、ブルックリン在住の著作家でミュージシャン。彼のオンライン上の著作はwww.negrophonic.comで読むことができる。

コメントは受け付けていません