Lil Wayneのようなパフォーマーたちは、オートチューンを通じて非-音楽的な声の音――あえぎ、ラップ、笑い声――さえも送り届けるが、広く模倣されているT-Painのスタイルは、注意深く歌われたコーラスをくどく飾り立てるところに特徴がある。それによって、まさにサイバネティックな光沢のためにコーラスはより目立つようになるのだ。Rosenはそこに断絶と喪失を聴き、そして真実、オートチューンはソウルフルに歌うとはどういうことかを再定義し、私たちが明白な達人技(ヴァーチュオシティ)を使うことをできなくしてしまう。そのうえこのプラグインは、魂(ソウル)や技術の場としての声を脱自然化しながら、才能というものを別の場所へとおしやる。オートチューンを効果的に使うためには、そのデジタル・アルゴリズムと協力しなくてはいけない。「ロボットっぽい声にしてほしい」と頼んでくるヴォーカリストたちについて冗談を言ったあと、モロッコ人プロデューサーのWaryはこんなことを言った。「ときどき、凄い歌手だけどオートチューンの使い方をわかっていない人というのがいてね、その音といったらひどいものだよ」伝統的な歌の才能はオートチューンの世界ではそう使い物にならない。重要なのはテクノロジーとの戦いでもなければ、テクノロジーへの愛好とも違う、愛想の良い共存みたいなもの、すなわちギブ・アンド・テイクの奇妙で新しいダンスなのだ。
《Baako》はこころをかきみだす。美学化された泣き声はもはやどんなふつうの感情にも対応しない。オートチューン以前には、メロディアスな叫びというものを私たちは知らなかった。《Baako》は、オートチューンの多様な使用法――そして多様な歴史――を際立たせるものだ。パリ郊外のホーム・スタジオでウェイリーはこう説明してくれた。2000年にアルジェリアのChaba Djenetがリリースしたシングルによって、オートチューンはアラブ世界のなかで大流行した。2000年代の初頭以来、北アフリカのベルベル人によるポップス・アルバムのなかで、タマージク語のヴォーカルに完全にシンセ化したオートチューンがかかっていないようなものを見つけるほうが難しいのだ、と(こうした録音物において女性の声がヴァイオリンのように響いているのには驚かされる)。再びマンハッタンに戻ると、Ruskinは「2001年ごろから、男性アイドルグループの仕事にともなって、オートチューンを定番のエフェクトとして捉えるようになった」。Kanye Westは最新作の《808s and Heardbreak》(2008年)で、自らの声をオートチューン(とディストーション)に浸しきった。その特異な使用法において、ウェストのオートチューンは彼の肥大したエゴを鎮めて、自らの悲嘆の物語をより共感できるものへと変えている。