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カテゴリー: Japanese

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sleepyhead『DRIPPING』が予想外にツボに刺さる一作だった

 好著『すべての道はV系へ通ず。』の著者、藤谷千明さんがTwitter「今年の「カッコいいで賞」は完全にこのアルバムだから…(´6ω6)」とおっしゃっていたので聴いてみたらたしかにかっこいい。昨年解散したV系バンドSuGのvo.である武瑠のソロプロジェクトだそう。

DRIPPING

DRIPPING

 ダンスサウンドを結構取り入れている一方で、デジロックみたいに言われちゃうようないなたさもなく、かといってバキバキ最先端いってますみたいにもならずバランスがいい。めっちゃツボにハマる。メロディラインやコード進行のちょっとしたところにV系っぽさが残ってるのがまた味わい深い。自分のようなV系サウンドに慣れていないリスナーにもすんなり聴ける、適度なエグ味というか……。単純に美メロだしエモい(Emo的な意味でも)。

 と、楽曲そのものの良さはもちろん保証済として、サウンドに注目すると、M3「結局」のスタッターやちょっとしたヴォーカルチョップの使い方がささやかながら耳を惹きつける。M6「HOPELESS」のサビ頭で始まった直後のシンセや変拍子グリッチを織り交ぜた間奏も信頼できる感じばりばり。M8「アトノマツリデ」でのスラップベースの使い方やシンセのパターン、ドロップ的な箇所のアレンジはがっつりFuture Bassの影響が出てて気持ちいい。M10「退行的進化」のダブステップを意識したとアレンジも、ばきばきのダブステップではないにせよツボを抑えた感じがある。

 と思ったらこの曲とM11「LAID BACK」はTeddyLoidとの共同プロデュースだそう。でも決してTeddyLoid色に染まりきってはいない印象。TeddyLoidを交えたインタビューを読んでみたら出てくる固有名詞がA$AP mobやケンドリック・ラマーといったラッパーたちからHalseyみたいなシンガー、あとClarkやらFlying Lotusなど。なるほど……。先月リリースされたEP「NIGHTMARE SWAP」ではリード曲にSKY-HIが参加してprod.がTeddyLoid。こちらはもっとTeddyLoid感あり、かっこよい。

 ただ、EP全体聴くと、サウンドがもっとメインストリーム感出てきた一方で、アルバムのちょっとインディっぽい音像も魅力的だったかしら……。アタックが強くて分離がよく、ステレオ感や空間を強調するようなサウンドはほかのポップスと並べても見劣りしない強さがあるんだけど、みんながみんなそれになってもつまらんなーと最近思うので…。

NIGHTMARE SWAP

NIGHTMARE SWAP

 事務所とかレーベルに所属しないで完全に自主でやってるっていうのも凄い。SuGを解散して以降のこのsleepyheadをV系と呼ぶのかはわかんないものの、V系を掘ってみようと思いつつ入りあぐねていたところだったので、ちょっとここからいろいろ調べてみようかなと思った。ふつうの感想文でした。

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ソングとサウンドの往還についてちょっと考える

radiko.jp

 アトロクのポップスサウンドの作り方特集by冨田恵一冨田ラボ)。冨田恵一の落ち着いたわかりやすい喋りと自分のワークフローをある程度一般化して明快に認識している感じ、かつそれをプレゼンする巧みさにやっぱビビる。「(ワンループものが今では当たり前だけど)僕はとにかくコードを展開させる男だったので……」に笑う。結局ワンループでどんな展開を生み出せるかみたいなことに手練れたちが興味を持ってきているのが面白い。ただ『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』はコード進行の話をほぼしない(たしか一箇所だけ我慢できずにしている)でアルバム一枚論じきるという本で、和声ではない方法論を言語化しようという問題意識はあのときからあったんだと思う。

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

 一方で先日ROTH BART BARONのインタビューではサウンド偏重からのソング回帰という話も出てたりしていていろいろ考えた。しかしたとえばソングの強度が高まった故に大胆なサウンドが生まれる、みたいなことをBon IverにせよFrank Oceanにせよ近年のゲームチェンジャーを見て思う。


 最近ずっと頭のなかでループしているBillie Eilish「When party’s over」の簡素だが攻めたアレンジなんかは、「この『ソング』のうえではここまでできる」的なアティチュードを感じたりもする。

 単なる差異化や新しさのギミックのためにサウンドがあるわけじゃない。まずソングありき、という考え自体がサウンドの可能性を押し広げている、という面もあるのかもしれない。

 まあ循環的なんですよね。ソングは単にサウンドの抽象化・記号化ではないし、サウンドは(ライヴであれ録音であれ)ソングのリアライズにとどまらない余剰をつねに持っている。というかそもそもソングはなにによって構成されているのか、メロディ、リズム、和声、どれも実は本質と言い切れなくて、実に掴み所がない。まあいろいろと美学的な見解があるとは思いますが。

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言葉において「具体的」とはなにか

www.cinra.net

 ポップスと固有名詞の関係って音楽の消費のサイクルと時代が移り変わるスピード感の関係性の問題なんじゃないかと思う。ヒップホップが具体的なのって構造の問題もあるけど新曲出てくるサイクルが圧倒的に早くて速報性があるからだよね(ヒップホップはBlack CNNだというChuck Dの至言もあることだし)。かつ、いかに時事ネタやトレンドに敏感に反応するかが重要なセンスとなるからこぞって固有名詞がリリックに盛り込まれるようになる。直喩(like~)表現に対してもめちゃ寛容だし。その点については小出さんが言っているように韻を踏むためのテクニカルな戦略としてそうなんだと思うけど。

 対してJ-POPがどんどん抽象的になっているとすれば(より正確にはその仮説がある程度真だとするならば)、猛スピードで移り変わるトレンドに対してJ-POPがおいつけなくなり、時事性を取り入れるよりもある程度の耐用年数を見込める表現のほうが好まれるようになったから、という推測もできると思う。また、そもそもさまざまなクラスタを貫通するような固有名詞の力というものが落ちてきているのもあるんだと思うけど、しかしそれもそれで鶏と卵というか、ポップスが売れなくなってきている――ヒットが「崩壊」している――がゆえに固有名詞のマジックが薄れてしまった、というふうにも言いうる。

 しかしそもそも固有名詞がない=曖昧、というのもなんか違うだろと思う。曖昧なのが悪いわけでもない。固有名詞がレトリックとしてなにかしら効力を発揮する場合と、そうではない場合がある。むしろ固有名詞がないのにきわめて具体的な手触りがある詞というのもあって、最近じっくり詞を検討して思ったけどあいみょんは割とそういうところがあるかなと思う。一方でたとえば椎名林檎、特に初期の固有名詞の使い方はむしろその空虚さを際立たせてる気がする。固有名詞にまみれているのになにも伝わってこないような曖昧な歌だってある。言葉において「具体的」とはなにか、あるいは「即物的」とはなにか。レトリックの問題でもあり時代と文化の関係性の問題でもある。

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中村佳穂『AINOU』、凄まじい作品

 中村佳穂『AINOU』凄まじい作品、歌い方から伺えるビートに対する解釈が円環的じゃなくて、拍を重ねていく感覚と小節を分割していく感覚を自在に行き来しているのが個人的には一番ぐっとくるのだけれど、さらに発声のコントロールのきめ細かさが半端じゃない。非音楽的な声の「震え」をこんなに巧みに使いこなせる人はそうそういないだろう。言ってみれば崎山蒼志さんの唱法とかに近いのかもしれないけど、やっぱグルーヴに対する感覚は圧倒的に際立ってる。音域の広さや声量に還元されない巧さがある。ところどころにグラニュラーというかスタッターみたいなグリッチが挟み込まれるんだけど、1曲目「You may they」でいきなり自分のボーカルをグリッチさせようというその肝の座り方も凄いよ。作品の突き放し方というかさ。

www.cinra.net

中村:とにかく話し合いが大事だと思っていました。たとえば、MockyとかDirty Projectorsを同じように「かっこいい」と思って聴いていても、レミ街の人たちはビートやバランスを、私は歌や流れを聴いてるんですね。根本的に音楽の聴き方が違うのに、でも同じように「寂しい曲だね」って感じる。「それはなぜなんだろう?」ってことに向き合う時間を大事にしました。

中村:[……]バラードとか一部の曲以外は、ビートミュージック的にこういうメロディーがかっこいいっていう、彼らの提案を膨らませたものが基本になっています。今までは、ずっと弾き続けてきたフレーズなりパートなりをトリミングして、かっこいいと思った部分を即興的に膨らませるっていう曲作りだったので、メロディーの尺が先に決まっているのが苦しくて。

 楽曲からはいかにも自然な印象を受けてたんだけど、インタビューを読むと凄い時間をかけて「サウンドメイクにこだわった作品をつくる」って課題に向き合った結果がこれなんだな。ビートに対する解釈が新鮮に聞こえるのは中村さん自身の資質と彼女がビートミュージックに感じた魅力を丹念にすり合わせた結果なのだろうし、それが孤独な作業じゃなくてなによりもコラボレーションの結果だったということが胸を打つ。「次のアルバムはサウンドメイキングを中心に、一緒に話し合いながら作っていきたいです。あなたの人生を一定期間奪うことになってしまいますが、協力していただけませんか?」と人にお願いする勇気というか、そうまでしないとつくれないものがある、そうまでしてつくりたいものがある、という思いってそうそうないし、彼女自身の持てる力と求める音楽像ががっちりと融合していることがはっきりとリスナーに伝わってくる、そんな作品が実際に出来上がってしまった、それが驚異だろう。

 おれは4曲目の「FoolFor日記」がほんとに心掴む名曲やと思います。全曲そうなんだけどさ。ここから折坂悠太に通じる道もある。ビートミュージック、ソウル、フォーク、民謡の土臭さ、全部通過したあとに残る音響の豊かさ、なんも言うことないっす。『平成』と『AINOU』の2018年でした。もうそれでいい。

AINOU

AINOU

平成

平成

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現代低域考(仮)

 最近なにかと話題なのが「低域」である。ここ日本において「音圧戦争」の次のバズワードは間違いなく「低域」だろう(そしておそらく震源地はGotchになるはず)。というとモダンな打ち込みの音楽を連想する人が多いかもしれないけれども、よく引き合いに出されるのはAlabama Shakesだ。こないだサンレコmabanuaが「Alabama Shakesは『トラップかよ!』というくらい低域が鳴ってる」ということを言っていて、実際「Don’t Wanna Fight」とか、トリガーでサブベースを足してるのではないかというくらいキックが下の下まで鳴っている。

 加えて言えば、ベースラインもよく100kHzとかもっともっと上を強調して「鳴り」を演出することがよくあるけれども、「Don’t Wanna Fight」を含めて『Sound & Color』のベースは結構下の帯域をうねうねと動いている。左右の空間を贅沢に使いつつ、サウンドの重心をぐっと押し下げることによって結果的にギターやヴォーカルといった中域にかたまりがちな楽器にも余裕が生まれている印象だ。金物やリヴァーブも含めて無理なく上の帯域が鳴っているので、くぐもっている印象はなく、あくまでウォーム。帯域で言えば上から下まで、定位で言えば左右を十分に活かしたミックスによって、ラウドさと自然な「鳴り」を両立させている。

www.soundonsound.com

 『Sound & Color』のレコーディングについてエンジニアにインタビューした記事で印象的なのは、ポストプロダクションで試されたトリックの数々もさることながら、次のような発言だ。

周波数のスペクトラム全体のなかで全部[のサウンド]がうまくバランスがとれていれば、自然とラウドに感じられるし、サウンドが死んでしまうほどにリミッターをかけなくて済む。だから僕がSound Emporium[録音したスタジオ]でやった数多くの実験というのは[……]結局それぞれの楽器が適切な場所に収まって、おのおの可能な限り大きく鳴るようにすることだったんだ。

 低域はばっさりカットして、中高域にサウンドをつめこむアプローチでは、いわゆる「音圧戦争」で槍玉に上がるようなリミッターのかかりまくったぺったりとした音像になってしまう。かわりに、鳴らせる帯域をくまなく使って、それぞれの楽器が適切な場所を見つけられるようにすること、それが大事なんだ、ということだ。

 もちろん低域の扱いにも言及がある。ダンスミュージックをDAWで作る人ならば馴染みのことだと思うけれど、ベースとキックドラムがかちあわないようにうまくサウンドメイクすることが、いわゆる「太い」サウンドを無理なくつくるためには重要なテクニックになる。低域は特にピッチの感覚が鈍りやすいし、タイトさを失えばすぐにぼやんとした締まりのない音像になる。それゆえ低域の処理には気を使う。それに加えて「なんで生ドラムがこんなに鳴るの?」というキックの鳴りについては、以前も雑誌かSNSか、どこかで話題になったことがあると思うけれど、わざわざ共鳴用のバスドラムを隣にセッティングして、残響だけを録音して使ったんだそうだ。また、キックをリアンプすることもよくあるらしい。

 いろいろと並べてみたものの、結局『Sound & Color』の制作過程をざっくりとまとめると、おのおののサウンドの質感みたいな要素を除けば、音楽が記録される周波数の帯域‐スペクトラムのなかにどのようにサウンドを配置していくかがキーとなっていることがわかる。というかこれはもう端的に、あらゆる録音芸術のミックスの根本的な命題なのだが。デジタル録音の普及によってこの命題はよりシビアになっていて、それゆえに80年代の技術的な過渡期にはさまざまな試行錯誤があったわけだけれども、そのぶん適切にパズルが組み合わさったときには大きな効果を発揮する――たしか山下達郎も昔のインタビューで、適切に準備さえすれば、デジタル録音はアナログよりもずっといい音でミックスできる、というようなことを言っていた。いま手元にないので出典が出せないけど。まあこのへんはきちんとまとめてZINEにする予定です(いま製作中のZINEとは別)。

 以前もブログで言及したけれども、現在このアプローチがうまい具合にアレンジと噛み合って音楽的にうまく言っているのは、個人的な印象としては、Dirty Projectorsの『Lamp Lit Prose』だ。

 ほか、上から下まできちんと出すことによって「あたたかい、でもきっちりハイファイ」な音像を実現したものとしてはmabanuaの『Blurred』なんかもある。

 米津玄師の「Flamingo」は低域をほとんどオミットした奇妙なサウンドになっている一方で、中低域より上のサウンドはなかなかに密度が濃く、低域の薄さを感じさせない巧みなプロダクションになっていると思う。

 追記:結局なんで「低域」が大事かというと、そこもまたサウンドを配分する(比喩的に言えば)空間的リソースにほかならないからで、ここも有効活用すると全体のアンサンブルがより自然に鳴る、ってことですね。これを書くの忘れてた。

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テレビ、ラジオ、YouTube、Spotify――ミュージシャンとファンのコミュニケーションについて雑感

 米津玄師がYouTubeにひとり語りのラジオを公開。オフィシャルインタビューを自身のウェブサイトで公開するというのもすっかりお馴染みになってきたけれども、自分の声で自分の曲を語る、かつYouTubeで、というのは米津らしいように思う。深く知ってるわけでもないのだけど……。つまり、熱心なファンがたくさんいて(環境的な条件)、しかも自分の言葉をちゃんと聴いてくれるうえなんならすごく直球に受け取ってしまう(ファンの質としての条件)、だからこそなるべくあいだにものを挟まずに言葉を届けたい(ミュージシャンとしての意識)、が重なってないとやろうと思わないし効果もないだろう。

 浜崎あゆみSpotifyとかでアルバムリリース前にファンへのメッセージを配信してて、「そんな使い方あるか?!」ってマジでびっくりしたんだけど、それと似た感触があるな。木村カエラもメッセージ配信してたんだけど、それは30秒とかなのに、あゆは2分とかあるの。数倍。笑 どれだけ熱いれてるんだよ、っていう。まあそういうところ、椎名林檎とかとはすごく対照的で、彼女はマスメディアや公の場への露出のしかたが巧みだし、東京事変のときもアルバムコンセプトをテレビ関連で統一したり、マスメディアに媒介される自意識をのりこなすのがうまいんだろうと思う。あるいは浜崎あゆみaikoに置き換え可能なのかもしれない。

 昔からミュージシャンのなかでテレビを根城にするかラジオを根城にするかみたいな派閥というか傾向ってあったわけだけれど、もはやSNSを前にしてしまえばテレビとラジオの境界線ってあってないようなもので、あらゆるマスメディアはインターネットを中心として液状化しちゃってるからもうそんな派閥わけも無効だよなあ。そのうえでみんながみんな自前のウェブサイトでインタビューとか発信するようになってくると、どういう手段でファンへメッセージを発するかで如実にミュージシャンのスタンスが出てくる感じはするね。あくまでファンとのコミュニケーションという点に限って言えば、テレビ、ラジオ、ウェブとメディアを横断して「公」の領域をうまく使っていく椎名林檎に対して、プラットフォームを通じて直にメッセージを届けようという米津玄師(あるいはいわゆる「98年組」で言うなら浜崎あゆみ)という対はできるのかもね。星野源椎名林檎寄り、とか。

 まあ、しょうもない与太話ですが。

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小沢健二『Eclectic』再考(一瞬だけ)

realsound.jp

Eclectic

Eclectic

 そういえば小沢健二の『Eclectic』とかとんと聴いてないと思いApple Musicで視聴。あー、今になって(リテラシーが上がって)聴くとたしかにこれは面白いアルバムだ。結局オザケンはこういう「ビート」の方向には進まなかったわけだけどceroまで連なるような日本流のネオソウルの流れを用意したんだと思うと偉大だ。

 ネオソウル的なグルーヴ(ここではざっくり『Voodoo』とか、J DillaThe Roots、Questloveらへんの流れを想定する)はサンプラーがもたらしたループミュージックの再身体化というふうにひとまずまとめることができると思うんだけど、『Eclectic』はそうした身体性への志向(演奏において、聴取においても)をいっぺん捨てておいて、リズムの構造を解体してコンポジションすることに重きを置いたのだ、というふうに思える。3 1/2小節単位(14拍)で進行する「あらし」や3小節単位で進行する「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」に見られる、ダンスミュージック一般の定型を崩すような楽曲構成にそれは明らかではないだろうか。また、バックビートを強調するのではなく、むしろパーカッションの絡み合いやそれによって暗示されるクラーベによってグルーヴを支配するビートの作り方(「∞(infinity)」とか「bassline」、「甘い旋律」に明確だ)は、実は『文化系のためのヒップホップ入門2』で提示されているような「南部化」、もしくはもっとマクロな観点でいうならば、「ラテン化」を先取りしているようでもある。

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

 菊地成孔が『Eclectic』について、「[…]このご時世に[…]こんな弾力の無い、要するに昔の歌謡曲みたいな緩いトラック作れる方がよっぽど稀少的才能」(『歌舞伎町のミッドナイトフットボール小学館文庫版、p.73)と言っているけれども、ヒップホップやR&Bのトラックとして見た場合には、不可欠のグルーヴが欠けているというのは事実だろうと思う。それは本人の適性もあるだろうし、そもそも狙いが違ったのかもしれない。一方で上の引用に菊地が続けて言う次のような指摘はかなり興味深い。

[…]野口五郎のNY期~フュージョン期とか、郷ひろみのNY期とか、松崎しげるとか元ラッツの鈴木雅之とかまで含めて、要するに「日本のAOR」「歌謡AOR」っていう物が過去にはあって、久保田利伸以降のNY入った音楽は田島貴男まで含めて総てそれの代替品、もしくは到達点に見えつつも実は別物だという事で、それの本流の方の系譜を小沢健二は現在一人で継いでいるとも言える。(pp.73-74)

 読む人によっては揶揄のように思えるかもしれないが、10年代というディケイドをかけてシティポップ再評価の波に価値観をまるごと書き換えられた僕のような人間には、ものすごくまっすぐに的を射た指摘であるように思える。

 いま「シティポップ」のレッテルのもとで受容されている音楽とここで言及されている「歌謡AOR」には細いが深い溝があるのかもしれないけれど、少なくともそういう布置において見た場合、小沢健二がビートの実験に勤しみながら日本流のAORを(無意識に?)引き継いだ『Eclectic』がいまになって重みを持っているのは自然な流れだろう。「流動体について」のリリースから本格化した日本での活動再開以降は『Eclectic』期を忘れたかのようにギターを鳴らしてポップスを歌いあげているオザケンだけれども、たとえば「フクロウの声が聞こえる」のカップリングである「シナモン(都市と家庭)」の打ち込みベースのファンキーなビートにその面影は浮かんでいる。

フクロウの声が聞こえる(完全生産限定盤)

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現代のイメージ一般におけるアスペクト比の問題に関するノート

 小鉄さんのツイートに関して多少思うところがあって、いま動画を表示するもっとも一般的な媒体ってタブレットスマホだと思うんですよね。で、iPhoneとかPixelを見てもらえばわかるように、スマホにおいてはたとえばテレビにおいてはあったような、統一されたアスペクト比の規格が存在しないわけです。モデルがかわるごとにアス比が変わるのもザラだし、なんなら最近はスクリーンに切り欠き、いわゆるノッチまである。また、スマホタブレットのみならずPCについても同様で、ディスプレイ自体のアスペクト比が多様化しているのに加えて、ディスプレイの大画面化に従って、スクリーン上で表示される動画の仕様と物理的なディスプレイの形態が一致する必然性は格段に下がっている。たとえば今年、YouTubeが動画の再生画面をアスペクト比に従って変形させるように仕様を変更した(レターボックスの廃止)んですけど、それってまさに、フレームの形態とイメージの仕様が一致する必然性がなくなったことの象徴なんだと思います。いままでは、スクリーンのなかに物理的なディスプレイに範をとった擬似スクリーンをわざわざつくってたんですよ。そんなんいらなくね? という。シアターモードとかフルスクリーンだとレターボックス的なのつきますけどね。

 そういうわけで、スマートフォン以降、あるいは大型ディスプレイ以降の動画において、カットごとのアスペクト比が違うのはある種当然の流れ、現在の映像にたいする人びとの感覚の反映なんだと思います。一方ではライブ演出なんかではLEDディスプレイによってかなり自由な形態のスクリーンを大規模に実装することが可能にもなっていて、動画というかイメージ一般におけるフレームの不定形さはイマジナリーな領域(コンピュータースクリーン上の無限に広い平面)においてもリアルな領域(巨大サイネージ、LEDディスプレイ)においても進行しているわけで、面白いですよね。

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「SHOPPINGMALL」再考――vaporwaveの「美学aesthetic」を複数化する

FANTASY CLUB

FANTASY CLUB

 tofubeatsの前作『FANTASY CLUB』に収録された「SHOPPINGMALL」は、先駆けてYouTubeで公開されるなり2016年話題のトラックとなった。メジャーデビュー以降、ヒップホップあがりのダンス・ミュージックのプロデューサーとして、J-POPにいかにして食い込むかに腐心してきたように見える彼が、その集大成といえる盛りだくさんのコラボレーションに彩られた『POSITIVE』を経て、唐突につきつけた鋭い言葉。ショッピングモールを背景に「最近好きなアルバムはあるかい?」と問いかけるこの曲は、彼の持ち味である批評精神を改めて知らしめた。

 またそれは、tofubeatsを語る上で無視することができないインターネット・カルチャーの文脈を強く意識させるものだった――とりわけ、vaporwaveと呼ばれるミーム・ミュージックの文脈を。しばしば本人も語ることだが、vaporwaveの記念碑的作品であるMacintosh Plus『Floral Shoppe』のリリースにほんの少し先駆けて、彼はポップスをスクリューして過剰なエフェクトを施したダウンテンポ主体のEP『スローモーション(ひみつの)』をリリースしている。

 このシンクロニシティが予見していたように、tofubeatsはvaporwaveに一時期深い共感を覚え、Macintosh Plusの同作より「リサ・フランク420/現代のコンピュー」をしばしばフロアを「清め」るためにかけたりもしていた。

 vaporwaveにおいてショッピングモールは特権的なアイコンの位置を占めている。その象徴性はたとえば猫 シ Corp.によって広められたMall Softなるコンセプチュアルな派生ジャンルを生み出した。ショッピングモールはローカルな特色を貫通してしまうその空間的な均質性から、ポップカルチャーにおいてヴァナキュラーなものが消失した高度資本主義社会の象徴として描かれてきた。その文脈をひきついだうえで、インターネットというこれもまた均質的で空間性の消失した空間――すでにこの時点で自己撞着が起こってしまっているのだが、われわれにとってインターネットはあいかわらず「空間」のメタファーで語られる――に対するフェティッシュとなかば混同されるかたちで、vaporwaveの文脈のなかに取り入れられていった。

 しかしvaporwaveにおけるショッピングモールは徹底的に空虚であり、しばしば「廃墟」のイメージに重ね合わされる。スクリューとチョップによる徹底的な文脈の破壊、チープな音色による意図的な凡庸さ。文脈と差異化のゲームから降りて、無意味な操作、凡庸なテクスチャそのものに浴するvaporwaveの美学にとってモールは最適の舞台であると同時に、そのモールでさえすでに機能不全に陥っているという徹底的なシニシズムの徴候をも示す「空間」なのだ。

 vaporwaveの方法論的な始祖として位置づけられるDaniel Lopatin(Oneohtrix Point Never)の『Chuck Person’s Eccojams Vol.1』(2010年)はすでに、ポップソングの断片を楽曲構造を無視した恣意的なループとエコーによって音響に還元し、ポップ・ミュージックを成立させる音響空間(=録音芸術にまつわる言説においてしばしば空間的なメタファーが飛び交うことに留意したい)そのものを現出させた。その抽象的な音響空間はポップ・ミュージックの周縁/限界を示す「廃墟」であり、その「廃墟」に具体的なアイコンと批評的な象徴性を付与したものがモール・ミュージックとしてのvaporwaveである、とひとまずはまとめることができるだろう。

 とはいえ、「ポップスの音響空間=均質的なショッピングモール」のなかでその無意味さや触覚そのものと戯れるという美学は次第に当初のラディカルさを失い、文脈を際限なく拡張しながら、ノスタルジーの境域へと近づいていってしまった。それはvaporwaveの再ポップ化とでも言うべき現象であって、2010年代も末になってこの音楽にふたたび脚光があたりつつあるいま、むしろvaporwaveとは特定の時代を想起させる記号や肌触りの集積と大雑把に定義したほうがよくなったのかもしれない。あらゆるカルチャーの彼岸と思えた「廃墟」は実はまったく廃墟などではなく、未だ機能する――というか過剰なまでに機能し、われわれの生活をとりかこむ――現実の空間そのものであったことが明るみに出たわけだ。

gamelifehack.hatenablog.com

 しかし、だからといって初期vaporwaveのシニシズムとぎりぎりの批評精神を復興させよう、というのもまた単なるノスタルジーに過ぎないだろう。モダニズム進歩主義や歴史的アヴァンギャルドの反骨精神をそのまま反復することはできない。それはすでに1960年代のネオ・ダダが試みて、断念したことだ。むしろネオ・ダダはその後のポストモダンの展開への結節点として、モダンにそもそも内在していた「不純さ」(おおざっぱにいって、フリード的な意味での、あるいはケージ的な意味での「演劇性」)を抽出し、換骨奪胎したものと言えるだろう。むしろわれわれが習うべきはネオ・ダダ的なスタンスであり、vaporwaveのシニシズムに内在していた別個の可能性を再び開かせる方向へと、意図するにせよ意図せざるにせよ向かうほかないものと思われる。

 ふたたび「SHOPPINGMALL」に戻ってみる。結論直前まで一気にすっ飛ばすと、この曲は、vaporwave的な無意味との戯れ、時代を象徴する感性に一度距離を置きながら、現実のショッピングモールに足を踏み入れる曲だと言える。地方に住まう人びとにとってはあまりにも自明なことだが、ショッピングモールは思想的な遊戯の舞台である以前に、われわれの生活を支える文化的インフラである。ファスト・ファッション、ファスト・フード、シネマ・コンプレックス、中途半端な品揃えの新刊書店、あるいは「ヴィレッジ・ヴァンガード」。それらが都市生活者からどれほど批判され、嘲笑されようとも、殺風景なロードサイドにかろうじて文化をもたらす一大拠点なのである。

 ポップ・ミュージックと「わたし」との関係を自問自答するtofubeatsの煩悶は、ほかでもないショッピングモールを歩き回るなかで発される。だだっぴろい空間の各所で鳴り響く無意味なオートチューンとか、流行りのバンドのヒットソングに満たされた空間のなかで孤独に歩くなかで問われるのは、自分がほんとうに求めているものはなにか、といういささかナイーヴな問題だ。このショッピングモールに自分がほんとうに求めるものがある気はしない。しかし、まさしくここにおいて、自分は文化を実践していかなければならない。

 つまり、この問いはtofubeatsの端的に実存的な問題であると同時に、「この空虚さのうえに文化は可能か」という彼のプロデューサーとしての実践――ビジネスを続けられるか、ではなく、ビジネスにモチベーションを注ぎ続けられるか――に関わる問題でもある。そしてまた、リスナーにとっても、「それでもなお音楽を信じられるか」、ないし、「信じ続けられているか」というアクチュアルな問いとして響くのである。

 机上の空論じみた「廃墟としてのショッピングモール」を、われわれの文化的な生活を支える実在の「ショッピングモール」に引き戻す。vaporwaveのシニシズムを、我がこととして再び捉え直す。単にそこに限界を、終焉を重ね見て事足れりとするのではなく、ここからはじまるなにかはありうるのかと問う。「SHOPPINGMALL」とはそのような曲であるし、『FANTASY CLUB』はその果実でもある。神という絶対的な対象を欠く「祈り」に包まれた『FANTASY CLUB』については筆者の以下の記事を参照されたい。

caughtacold.hatenablog.com

caughtacold.hatenablog.com

 加えて、JEVAの「イオン」、あるいは田我流のその名も「vaporwave」といった話題曲もまた、同様の文脈から語られうるだろう。


 自明視されているショッピングモール像やvaporwaveの美学=aestheticを、日本のローカルな文脈からふたたび照らし直す。われわれの足場がほかならぬこの空虚さやもどかしさにあることを明るみに出しつつ、そこから始まる文化の可能性を示唆する。こうした戦略は、単にaestheticの「誤解」あるいは「曲解」と言われるかもしれない。本来は現実世界から隔絶された仮想空間で展開された文化を現実にそのまま移植することの是非は問われるだろうし、「vaporwaveはそういうもんじゃない」という反発も生まれるかもしれない。けれども、自分はあえてこれらをaestheticの批判的な反復であり、有意義であると擁護したい。

 そもそもvaporwaveをめぐる言論は、もとから多い方ではないうえに、過剰に欧米中心的、あるいはアメリカ中心的すぎるきらいがある(たとえば過去のこの書評を参照のこと。Vaporwaveは誰のものか、と思ってしまった――Grafton Tanner, "Babbling Corpse: Vaporwave And The Commodification Of Ghosts," Zero Books, 2016. – ただの風邪。)。vaporwaveのつくり手はグローバルに分散しており、その文脈も拡散しているはずである。われわれはショッピングモールをアメリカ人のようには見ない。「廃墟としてのショッピングモール」は日本でも冗談ではなくなってきているものの、アメリカの比ではないだろうし、向こうではよりアクチュアルな感覚としてこの「廃墟」は受け止められている可能性はある。それを、インターネットの均質性、非‐場所性だけを担保に「グローバルに共有された時代の感性」などとくくることは可能なのか。もちろんそうした国境を超えた共感、シンクロニシティは起こりうるし、まさしくtofubeatsとvaporwaveの共振はそうした現象だったわけだけれども、改めて「われわれは同じものをみているか」と問い直す必要があるのではないか。

 あるいは、アジアにおけるvaporwave的表象の受容は、なかばオリエンタリズムの視線を感じるアジア外のものとは異なる文脈のうえにあるのではないか。たとえばそれは中国にとってはノスタルジーというよりもバブル期の日本という具体的な繁栄の象徴として自らに重ね合わせうるものかもしれないし、韓国にとってはプレK-POP期であり現在に通じる韓国大衆音楽が形成されつつあった80年代という文化的原点への回帰といいうるかもしれない――少し時代は異なるけれど、たとえばIUによる大衆歌謡のカヴァー(「어젯밤 이야기(昨日の夜の話)」など)にそうした香りをかぎとることも可能だろう。

 グローバルに浸透したvaporwaveを、そのアメリカ中心的な言説布置から改めてローカルな、アクチュアルな問題に接続しなおす。そのうえで、vaporwaveの操作の美学(チョップ、スクリュー、カットアップ)に立ち返り、「ここからなにが生まれるか」を、無意味の戯れとしてではなく、文化の未来の問題として考える。tofubeats「SHOPPINGMALL」はその契機であった、とここでは結論づけたい。

 ちなみに、vaporwaveの操作の美学がもともとヒップホップの文脈から生じたもの(チョップド&スクリュードはヒップホップのミックステープで用いられた手法が一般化したものだ)であることを考慮すると、vaporwave的な美学の批判的継承の受け皿としてヒップホップのミュージシャンが浮上しているのはきわめて興味深いし、的を射ている。田我流「vaporwave」はもちろん、Future Funk的なアニメの引用や80’sノスタルジー、映像加工をふんだんに用いたDJ CHARI & DJ TATSUKI「ビッチと会う feat. Weny Dacillo, Pablo Blasta & JP THE WAVY」も例として挙げておくべきか。

 最後に、まもなくリリースが控えるtofubeatsの新譜『RUN』のいくつかの部分に、この論が触発されていることを告白しておく。「操作の美学」の向こうでわれわれを待つえもいわれぬ「何か」の姿が『RUN』で描かれ、そして語られる――あくまで個人的な見方だけれど――ことを予告して本論を閉じる。

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【動画】宇多田ヒカル「誓い」のリズム解釈とフロウ

 自作動画です。しこしこつくってました。以前とりあげた宇多田ヒカル「誓い」の譜割りについて、基本的なリズムの(おれの)解釈とおもしろいと思ったポイントに絞って解説しています。コンテントIDにひっかかってないけど、こういう使い方ならいいのかな?

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