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山をみる(あとWIRE「Map Ref. 41°N 93°W」)

少し遠くの業務スーパーまで買い物に行った帰り、自動車を走らせていると、舞鶴山という天童市のランドマーク的な山が進行方向の真正面に見える。ランドマークといっても、さして標高の高くない、盆地の底にぽこっと湧いたような山なのだが、その表面にはいつもすこしめまいを覚える。植生がつくりだすさまざまなテクスチャがぎゅっとひとつの面に凝縮されていて、まるでまわりの風景から浮かび上がるように見える。そのまま吸い込まれてしまうような気がしてくる。

いったん山の中に自分が入ってしまえば、規則性のあるようなないような木々の連なりに奥行きを感じられる。しかしそれが山肌として外側から眺められるときには、表層のうごめくような質感に還元される。はたしてそれが遠いのか、近いのかも判然としない。遠さを示すのはただいま足をつけているこの地面からの連続性と、空気を通して霞んでいく色合いだけだ。うっすらとした方向感覚喪失の陶酔がもたらされる。遠さと近さが入り混じってしまうような空間の感覚は、整然と幾何学的にマッピングされたものとはぜんぜん違うような気がする。

わけいって体験される山ではなくて、視覚的なオブジェクトとしての山は、なにか独特な異物感がある。よく交通の都合で山寺駅を使うことがあるのだが、プラットフォームから見える山の風景にはいつもぞわっとする。あるいは仙台に向かって関山街道経由で車を飛ばすときにも、あたりを囲む山肌の質感にぞくぞくする。

最近は、そんな山が意外と好きなのかもしれないと思いはじめた。ロマン主義的な崇高(フリードリヒの絵画みたいな)の表象とか、あるいは富士山みたいにモニュメンタルな存在ではなくって。以前大分県にしばらく住んでいたとき、特に豊後高田市だったと思うが、山の風景が地元で慣れ親しんだ山となかなか違うのに驚いたものだが、思い返してみると、あれも自分が求める山だったかもしれない。いまとなっては、なかなか行くにも億劫な距離ではあるのだが……。

Wireの「Map Ref. 41°N 93°W」(『154』、1979収録)では、緯度・経度や等高線といった概念を通じて幾何学的に再構築される地図上の自然と、いままさに目の当たりにしている自然とのめくるめく往還が描かれている。最初のヴァースで語り手は(といっても文体はほぼ三人称なのだが)ひとしきり自分が体験している自然に驚異とともに思考をめぐらせるが、コーラスでは我に返る(所有格の一人称、myがだしぬけに登場する)。「思考の流れをさえぎり/経度と緯度の線が/定義して、研ぎ澄ます/わたしの高度を」。なんだか松江泰治の航空写真を思い起こしたり、あるいはその後の歌詞が示唆する墜落事故から、ロバート・スミッソンの仕事を連想したりもする。

カテゴリー: Japanese