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月: 2017年5月

“post-truth”に反対する唯一の手段は。――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(B面)

以下の文は、特に何を言われたわけでもなく、先のレヴューに加えてもう一本レヴューを書いてみようかという思いつきから書いてみたものだ(なのでB面)。したがってよりはっちゃけているというか、僕のファンタジーが炸裂しているように思う。そのあたり、ご容赦いただきたい。

何がリアル/何がリアルじゃないか/そんなこと誰にわかるというか
(Tr.2 SHOPPING MALL)

2016年を覆った絶望にも似た状況にこの一曲は良かれ悪しかれ深く響いた。翌年には、この絶望さえ“post-truth”と名付けられるや否やそれ自体消費の対象となり陳腐化してしまい、挙句の果てには恥も外聞もなく嘘をつき、隙きあらば論敵をフェイク呼ばわりすることが政治そのものであるかのような世界が訪れることになる。たとえば一世紀後の作家たちはこのスラップスティックをもとにどんな荒唐無稽な物語を紡いでくれるだろうか。そんなことを想像するくらいしか救いはない。

そんなとき、tofubeatsがリリースしたのは、いわば「祈り」*1のアルバムだ。それはおそらくは宗教的献身を欠く故に、微妙な陰影をたたえてもいる。しかし2曲のチャント――この構成自体が原初的な「祈り」を思わせる――に導かれ、背中をぽんと押されるように終わるこのアルバムは、不思議にポジティヴな力を聴く者に与えてくれる。《First Album》や《POSITIVE》のようなサーヴィス精神旺盛なキャッチーさはなく、むしろ内省的とさえ言えるこのアルバムだけれど、一枚を聴き通したあとにもたらされるふとした身軽さは、もしかするとこれまでで一番明るく、暖かい印象を人に与えるかもしれない。

まるでそれは、tofubeatsの「祈り」が、僕たちにある種の「救い」*2を与えているかのようだ。

しかしtofubeatsの「祈り」は僕たちリスナーに向けられたものではない。ましてや理解を求めてすらいないのかもしれない。たしかに彼は表現者である以上ある程度の理解を求めてはいるだろう。しかしいまそのプライオリティは格段に低いのではないか。そう思える。たとえばそれは、彼の「祈り」のそのささやかさに見て取れる。彼は誰ともしれない「君」やあるいは自分自身に対しての、小さな、しかしかけがえようのない望みを歌詞のなかに織り込んでゆく。身近な人に喜んで欲しい(Tr.2 SHOPPINGMALL)、だとか、君とうまくいきたい(Tr.8 What You Got)、だとか、ラヴ・ソングにも満たないようなささやかな望み。しかし彼はそれを、僕のこの耳で聞く限りにおいて、心から願い、祈っている。

なに、たったそれだけのこと――そういいきってしまえばそうしてしまえるようなこのささやかな心の動きこそが彼にとっていま表現するに足る切実さを持っているのだろう。このアルバムが僕たちに「救い」にも似た軽みを与えてくれるのは、むしろそうしたささやかさに心を研ぎ澄ますことそのものの大切さを、身を挺して提示してくれているからなのではないだろうか。

単純な動きさえ/きっと何かの感情
(Tr.11 YUUKI)

ふとした単純な動きにさえ、なにかの感情を見出すこと。すなわち――ささいなことをささいなことと片付けずに、真摯に向き合うこと。「祈り」とか「救い」といった言葉のうさんくささにうんざりしてしまった人は、そう読みかえてもらってもさしつかえない。tofubeatsがこのアルバムで「祈り」の身振りを通じて伝えようとしていることとは、まさしく、この「祈り」の質、すなわち些細なものへの真摯さそのものであると僕は思う。

それはまた、“post-truth”と名付けられたいまを生きる僕たちに個人として残されたほとんど唯一とも思えるサヴァイヴの方法だ。factの積み重ねと、そこからtruthを生起させる諸々の手続きがなし崩しになって、なにものも信じがたくなったあとに残されるのは、ただ自分の身の回り、手の届く範囲に起こるさまざまなよしなしごとに対して、真摯であろうとすることくらいだ。それはときに内省となり、虚無感とごっちゃになった激情をも生み出すかもしれない(What You Gotの暴れまわるような“夜から朝までparty/窓開けたらめちゃsunny/何を得たのかわからない/取り出して並べてみたい”というラインのように)。しかしそれであれ、フェイクに身を投じてわけがわからなくなってしまうよりもずいぶんマシだと僕は思う。

つまり、tofubeatsがこのアルバムを通じて僕たちに与える「救い」は――そんなものが本当にあるとすれば、だが――その「祈り」から透けて見えるアティチュード、スタイルそのものなのである。たしかに彼はちょっと不安定で、知りたいことや知りたくないことに囲まれ、ショッピングモールを彷徨するひとりの人間にすぎないかもしれない。しかし彼の、些末な事象へ見せる真摯さ、それこそが数少ない今まさに信じうる正しさなのではないか。

「戰争に反對する唯一の手段は」と吉田健一は書く。「各自の生活を美しくして、それに執着することである。」と。実を言うと、この有名な文句に僕はどうも納得がいかなかった。エッセイをまるごと読んでみても腑に落ちなかった。美しさなどという怪しげな概念を平和への賭け金にしてしまうとは。しかし、tofubeatsのこのアルバムを聞いた僕は思わずこうひとりごちてしまった。――“post-truth”に反対する唯一の手段は。その手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである、と。大胆にパラフレーズさせてもらえば、ここでいう「美しくする」とは「ささいな細部まで気を配る」ことの謂であり、「それに執着する」ことだけが、あわよくばフェイクの世界へ足を掬おうと待ち構える世界へ抵抗する手段なのだ。

《FANTASY CLUB》でのtofubeatsの「祈り」は、その実践である。

*1:あくまでカッコつきの、特殊な意味での(あるいはなんの含みもない)「祈り」だ。後述

*2:これもまた大仰に思えるかもしれないが、後述する

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青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(A面)

以下の文は、tofubeatsからちょっとした小文を依頼されて書いた、《FANTASY CLUB》のレビューである*1。諸々のインタヴューやレヴューが出回る前に書いたものであること(奇遇にも脱稿はWIRED日本版編集長・若林恵氏によるライナーノーツと同日――4月19日である)、本文中に登場する音源等はオリジナルの原稿には存在せず、当ブログに投稿するにあたり挿入したものであることをおことわりしておく。(なお、B面はこちら

はじめに:掛け値なしの最高傑作

少し思い入れの入った変則的なレビューになりそうだから、最初に通り一遍のことは書いてしまおう。

tofubeatsのキャリア4作目、メジャー3作目のアルバムにして、最高傑作が届けられた。これまでになく内省的ではあるが、それゆえtofubeatsというアーティストのあらゆる意味で信頼に足るパーソナリティがむき出しになっている。また、内省的でいながら、バラエティに富んだビートの数々。

YouTube上で発表されて以来、2016年のベスト・ソングに挙げられることも多かった“SHOPPINGMALL”(Tr.2)に対して、KANDYTOWNからYOUNG JUJUをフィーチャーした切なくスロウな“LONELY NIGHTS”(Tr.3)はそのナイトライフ・ヴァージョンとも言える仕上がりだ。もともとは神戸市のU30 CITY KOBEに提供されていた“THIS CITY”(Tr.10)のド直球なメロディアス・テクノも、アルバムいちの長尺をまったく感じさせない。“YUUKI”(Tr.11)や先行シングルの“BABY”(Tr.12)といったバラードも、ポップ・ソングとして普遍的な輝きを放っていると言っていいだろう。アルバムとしてのトーンはジャケットが見せるようにやわらかな水彩画のようにふわりと統一されていて、一曲一曲の粒の揃い方にソングライターとしての成熟をたしかに感じる一枚だ。

しかし、僕にとってなにより印象的なのは、tofubeats自身のヴォーカルだ。アルバムごとに多彩なゲストを迎えてきたtofubeatsが、本作に限ってはとにかく自ら歌っている。その歌声を聴きながら僕はいくらか思うことがあった。少し長くなるが、思うところを書いてみようと思う。

神の不在に歌われる歌は

tofubeatsの歌はいつもどこか不器用だと思う。上手いとか下手という話ではなくて、なにか奇妙なためらいを湛えた歌声だ。もはやトレードマークとなった照れ隠しのオートチューンがそれに拍車をかけている。

中学生の時分から野山をかきわけるようにキャリアを積み重ねてくるなかで、いちプロデューサーとして人前に出ないことを選んだってよかったはずだったが、おそらくどこかのタイミングで彼は自分で歌うことを引き受けた。自分が歌わなければ誰も歌ってくれない歌があること、自分があげなければ誰にも聞かれない声があることに気付いたから、だろう。そこのところをあえて背負って立っている重みがtofubeatsの歌声にはある。そして実際、《Fantasy Club》はそうした歌や声に満ちていて、このために彼は歌っていたのかと深く得心するのだ。

たとえばカニエ・ウェストが内省の果てに宗教的啓示に打たれたかのようにゴスペルに回帰したように、僕たち日本人にも神がいればよかったのに、と思うことがある。神なき世界で歌われるべき歌とは。とりわけ、なんにもたしかに信じられないようなこのご時世に歌われるべき歌とは。

FANTASY CLUB/入れたら良いな/信じたいことは/信じにくいから
でも反対には/行けないしなって/音鳴らしたりした/FANTASY CLUB
(Tr.13 “CHANT #2”)

そんな歌とは、こんな歌だ。そう思わずつぶやいてしまうような、秀逸な詞だ。なにかを「信じる」ということに誠実であろうとすればするほど「信じたいこと」はどんどん「信じにく」くなる。しかし「信じない」を選ぶわけにもいかない。そんなときなかば無造作に鳴らされる音が積み重なって、積み重なって、そこからこのアルバムは編み上げられた。そんな想像をする。

また、「入れたら良いな」と歌われる“FANTASY CLUB”(Tr.6)の正体はどうだろう。夢のような、しかしどこか不安定で儚いパッドの音色は。信じたいはずの夢の世界さえ不確かで――あるいはこのように茫漠とした危うさを抱えてこそファンタジーであり、夢であるということだろうか。どうやらFANTASY CLUBに入ることが叶ったところで、同じような彷徨を繰り返す羽目になりそうだ。なにかを信じることさえ躊躇われるこの世界と、さして変わらない。

tofubeatsの歌声に宿っているためらいの音色は、そのまま彼の見せようとする世界のありさまでもある。なんと身も蓋もなく、誠実な歌声だろうか。

青春を脱ぎ捨てて、イノセンスから遠く離れて

歌声。そういえば、アルバム中屈指のダンス・チューンである“WHAT YOU GOT”(Tr.8)は、tofubeatsらしい多幸感を覚えさせてくれる一方で、曲中盤で聞かれる「ちょっと不安定」な感情が暴れだすかのような荒々しいヴォーカルはまるで初期衝動丸出しのパンクだ。

新しい音たくさん浴びたいまだまだ 不完全/君と踊りたいしうまくいきたい/他のこととか別にいいよ
(Tr.8 “WHAT YOU GOT”)

クラブ・ミュージックの美学のひとつがその匿名性にあるとすれば、誰であれ分け隔てなく注がれる普遍的な愛ではなく個人的なラヴ・ソングが感情もむき出しに歌われるのは、ある種の反則的な「青臭さ」にカウントできるかもしれない。これもtofubeatsの「らしさ」のひとつだろうし、彼が醸し出すポップネスの源泉でもある。

けれども、もはやtofubeatsにとってかつてのようなハイスクールはその面影さえない。かわりにあるのはショッピングモールだ。そんな彼がこのアルバムで描く生活は、どこかごつごつ、ざらざらとしている。かつてそれを人はリアルと言ったろうが、いまや適切な言葉はどこかに消えてしまった。

これ以上もう気づかないでいい/君は
君は いい/君は 気づかないでいい
(Tr.1 “CHANT #1”)

イントロとアウトロを飾るチャントは一種の祈りの歌であると同時に、呪いの言葉でもある。もう「君」は余計なことに気づかないでいい! しかし恐らくtofubeatsはその言葉が「君」に届かないことにもう気づいている。逆に「君」は律儀にもtofubeatsの言葉を反復し、ひとつひとつの気づきをスティグマとして背負っていくだろう。あるいは、笑顔の裏に涙を隠す「君」(Tr.12 “BABY”)はとっくにいろんなことに気づいてしまっているだろう。

tofubeatsというかつてのアンファンテリブルはすっかり大人になり、イノセンスをみずからふたたび手にすることはかなわなくなった。彼にとって、それを喪失と成長の物語として語り直すには――我が子を得たチャンス・ザ・ラッパーが“Same Drugs”でしたようには――まだ迷いが多すぎるのかもしれないし、そもそも彼は自分の人生をそのように物語としてアウトプットすることそのものに関心がないのかもしれない。イノセンスから遠く離れて彼は、ただ逡巡すること、それを彼なりの誠実さとしてアウトプットすることを選ぶ。

踏み込んだ道の途中/きっと何かの感情/歩き出すその勇気/持っているだけできっと/大丈夫
(Tr.11 “YUUKI”)

美しい喪失の物語など必要ではない。ただ歩き出す勇気さえ持っていれば大丈夫。内省的なトーンのなかでぽかりと開けた明るみのようなこの一節を強調するかのように、このアルバムはドアを開けて歩き出して終わるのだ(というのは我田引水にすぎるだろうか?)。あっけないほど平穏な鐘の音や汽笛の音は、聞き手の僕らにもまた歩き出すことを促す。「きっと大丈夫」と囁きながら。

*1:なんでお前が、という質問には、僕は答えようがない。ただ古い友人だということ以外には。

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