Skip to content →

ソングとサウンドの往還についてちょっと考える

radiko.jp

 アトロクのポップスサウンドの作り方特集by冨田恵一冨田ラボ)。冨田恵一の落ち着いたわかりやすい喋りと自分のワークフローをある程度一般化して明快に認識している感じ、かつそれをプレゼンする巧みさにやっぱビビる。「(ワンループものが今では当たり前だけど)僕はとにかくコードを展開させる男だったので……」に笑う。結局ワンループでどんな展開を生み出せるかみたいなことに手練れたちが興味を持ってきているのが面白い。ただ『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』はコード進行の話をほぼしない(たしか一箇所だけ我慢できずにしている)でアルバム一枚論じきるという本で、和声ではない方法論を言語化しようという問題意識はあのときからあったんだと思う。

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

 一方で先日ROTH BART BARONのインタビューではサウンド偏重からのソング回帰という話も出てたりしていていろいろ考えた。しかしたとえばソングの強度が高まった故に大胆なサウンドが生まれる、みたいなことをBon IverにせよFrank Oceanにせよ近年のゲームチェンジャーを見て思う。


 最近ずっと頭のなかでループしているBillie Eilish「When party’s over」の簡素だが攻めたアレンジなんかは、「この『ソング』のうえではここまでできる」的なアティチュードを感じたりもする。

 単なる差異化や新しさのギミックのためにサウンドがあるわけじゃない。まずソングありき、という考え自体がサウンドの可能性を押し広げている、という面もあるのかもしれない。

 まあ循環的なんですよね。ソングは単にサウンドの抽象化・記号化ではないし、サウンドは(ライヴであれ録音であれ)ソングのリアライズにとどまらない余剰をつねに持っている。というかそもそもソングはなにによって構成されているのか、メロディ、リズム、和声、どれも実は本質と言い切れなくて、実に掴み所がない。まあいろいろと美学的な見解があるとは思いますが。

Published in Japanese