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「保守」が「maintenance」でなにが悪いのか、あるいはなぜ彼らは無知を悪びれないか

 最近Twitterで「保守」を「maintenance」のことだと言った反リベラル派の某氏が話題になっている。Twitter上のリベラル勢は、いわく、こうした例こそ安倍政権支持者の知的レベルの低さを示しているのだといってはばからない。まあ実際、反リベラルの、いわゆる「ネトウヨ」がとんちきな英語を使ってリベラルから失笑を買うという風景はわりとよく見かけて、最近だと「アダルトマン将軍」という名フレーズが生まれたのも記憶に新しい。

 とはいえ、こうした嘲笑はけっして、当の反リベラルの人びとには届かない。第一にそれは知をふりかざして相手を見下す、断絶の所作であるから。そして第二には、これがきょう書いておきたいことなのだが、反リベラルの人びとは「正しい知識」などというものの存在を信じていないからだ。

 これは一見奇妙な意見に思えるかも知れない。世の中にあふれる「ふつうの日本人」たちは、彼らの思う「真実」を世界に広めることを自らの使命として任じ、「真実」を歪めるリベラルや左派を苛烈に攻撃してきた。自分たちこそが「真実」の擁護者であるかのように振る舞っているにもかかわらず、正しさなる概念を信じていないとは、どういうことか。

 答えは、反リベラルの保守論客がしばしば持ち出す「歴史戦」なることばのなかに見出すことができる。彼らが「歴史戦」というときに前提としているのは、歴史的真実とはアカデミズムやジャーナリズムの手続きによって慎重に究明されるものではなく、言説上のヘゲモニー争いに勝利した者が一方的に決定できるものだ、という考え方だ。彼らにとっては、自分たちが「真実」の側に立てていないのは、史学的な根拠の欠如のためにではなく、ひとえに左派やリベラルといった反日勢力が言説のうえでヘゲモニーを握っており、自分たちの言い分が握りつぶされているためだ、というわけだ。

 歴史的な事実をいかに確定するかという問題を単なるヘゲモニー争いと見なすこうした反リベラルや保守のものの見方は、「歴史戦」の範疇を超えてあらゆる分野に一般化されているとぼくは思う。なぜ彼らが学ぶことを放棄するかといえば、自分たちがヘゲモニーを握りさえすれば、彼らの言うこと、思うことをすべて「真実」として位置づけることが可能だと信じているからだ。そして、いま現在アカデミズムやジャーナリズムにおいて事実とみなされていることがらは、自分たちに反対する勢力が自らの権威を通じて構築したものであると考え、その土俵に上がること自体を拒否するのだ。

 したがって、いくら彼らの無知を嘲笑しようが、彼らはなんともない。彼らが覇権をにぎったあかつきに、「保守」は「maintenance」を指すと、「ふつうの日本人」は「General Adult Man」と訳すと、閣議決定すればいいだけなのだ。――彼らが安倍政権を支持してやまないのは、(経済政策というひとまずの理由をさしおくとしたら)まさに彼らの信じる世界のあり様をデモンストレーションしているからだろう。

 こうした理屈に対抗するためには、抽象的な言い方になるけれど、知を「権威」としてふりかざすのではなく、知を知たらしめる「制度」のあり方に気を配り、それを正しく運用することが必要だと思う。これは、リベラル/反リベラルという対立に限った話ではない。たとえば科学/疑似科学の対立においても同様ではないだろうか。史料やデータを提示して「論破」するのではなく、そもそも彼らの世界認識が歪んでいること、自分たちがよってたつ世界=制度のあり様を適切にプレゼンテーションすること、それくらいしか僕には思いつかない。しかしこうした世界認識そのものの断絶をどのように乗り越えうるのか、心もとないことは確かだ。

Published in Japanese