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imdkm.com 投稿

最近のファンキ事情がけっこうイカれてる件

 なるほろファンキやばいことなっとんなーと思ってちょっと掘ったら凄いの一杯あった。気になったのだけまとめておきます。

 一瞬ファンキのトラップ化か、とおもったけどむしろグライムだな。鋭角的かつ謎のパーカッション。

 どんどんどんどん…… というだみ声ループにだみ声MCがのっかって中毒性という点では随一。リズムのパターンは割りと昔流行ったバイレファンキを思わせるのだが、なんと唐突にメトリックモジュレーションがかかってテンポが落ちる。ファンコットにもそういうマナーがあったな。シカゴ・ハウスのプリミティヴさに南米らしいリズムの遊びが加わった感じで良い。

 ぼんぼんぼんぼん…… という(以下略)。この曲のボーカルにかかってるデジタルリバーブというかフリーズ音みたいなエフェクトは他のファンキ曲でも頻出していて流行ってんのかこのプロデューサーが多用しているだけなのかちょっとよくわからん。銃声とローディング音というゲットーマナー丸出し感がたまらない。

 すかすか加減ではこれが物凄いことになってる。必聴。 サブベースがぶんぶん鳴るヴァース部が終わってサビっぽいところに入ると、ベースが鳴るのが2小節に一回、小節頭だけ。ほとんどウッドスティックとボーカルしか鳴ってないぞ。そして当然のようにメトリックモジュレーション。「ファ、ファンキってこんな音楽だったか?!」という感じはEquiknoxxを聴いたときに「ダ、ダンスホールって(以下略)」と思った感じに似ている。


 さっきのは別に一曲変なのがあるって感じじゃなくて、単音のパーカッションループ+2小節に一回頭にキック鳴るだけみたいなのは結構ある。それでも最高にポップな耳あたりなのはMCの存在感ありきというところか、それともリズムそものもに潜在的な人懐こさが宿っているのか。

 すかすかなうえにエモい。これがサウダージというやつだろうか。違うかもしれない。でもこの享楽と切なさがないまぜになった独特のエモさはサウダージっぽい。

 能天気なだけがファンキじゃねえぞ、という例としてはこれも耳にとまった。切ねえ! 切な系ファンキ。

 ちなみにここで挙げた曲はだいたい“Funk Putaria”というラベルがついてて、まあビッチからピンプまでセックスをネタにした曲程度の意味っぽいが、もしかしたらこういう音のスタイルまで指すのかな。ようわからん。YouTube上に曲を配信してる専門チャンネルとかファンキに合わせた振り付けを踊ってアップしてるチャンネルがうなるほどあって、それを順繰り聴いてるだけでとくに掘ってるというほどではないのだが、それでもおもしろいのがザクザク出てくる。

乱立しまくってるんであれだけど、Gêmeas. Com
(上動画のチャンネルです)なんかいかにもブラジリアンビューティみたいな美人姉妹が冗談みたいにエッジーなファンキにのせて踊っていて最高だと思います。いちばんオーセンティックなチャンネルってどこなのかな~。LEGENDA FUNK ORIGINALやその姉妹チャンネル?DETONA FUNKなどが変なファンキいっぱい聞けるところって感じ。

 追伸:

 楽曲はファンキでもなんでもない普通のポップスなのだが、ガキが「マインクラフトの世界ではなんでもできる、家建てたりしようぜ!」みたいなラップをしている(Google翻訳に突っ込んでみた)。これはマジで意味がわからねえ。「妖怪ウォッチ面白い」のお歌~、とかないじゃん。なにこれ。

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ロックンロールとトーン・クラスター(ヴェルヴェッツに関する覚書)

Velvet Underground & Nico-45th Anniversary

 いまさら言うことでもないだろうが、Velvet Underground(以下、ヴェルヴェッツ)の音楽性は混乱していると思う。一方にはダウナーで退廃的な1stがあり、もう一方には作りかけの甘ったるい珠玉のポップスが散りばめられた4thがある。一方にはノイジーでヒステリックな2ndがあり、もう一方には静寂さえもその内に畳み込んだ謎めいた3rdがある。プロデューサーであるウォーホールとの軋轢、あるいはメンバー間の音楽性の違い、などといったバンドそのものの紆余曲折が音にも反映されている、というのはあまりに図式的な、ありきたりな話ではある。

 僕がヴェルヴェッツの偉大さを感じるのはとりわけ上に掲げた“I’m Waiting for My Man”を聴いたときだ。ロックンロールという音楽の持つ形式をとことんまで誇張しきった成果がそこにあるように感じられる。

 ロックンロールの核をなすのは、グルーヴを寸断するカッティング・ギターである(と断言してみる)。軽快な循環的コード進行とエイトビートのリズムは水平的、ないしは回転運動的なグルーヴを常に生み出し続ける。そこに楔を打ち込むかのように、ギターのリフが重なる。たとえばチャック・ベリーがさりげなくリフに組み込むシンコペーションは、水平的なグルーヴの力点を垂直の力で常にずらし、断絶を生み出す。*1その瞬間に生まれるスリルこそがロックンロールなのだと思う。

 ひるがえって“I’m Waiting for My Man”では、ギターやヴォーカルをのぞく各楽器がまったく同じ8分音符のフィギュアを絶え間なく刻むことによって、ロックンロールはトーン・クラスターの連なりへと変容してしまっている。ひずみを全面に押し出したローファイな質感も、本来ならば和声的なはずの響きをノイジーなクラスターに近づけている。もはやそれは水平方向と垂直方向の運動のあいだに生まれる緊張関係を越えていて、クラスターの連なりそのものが前進し続けるかのようだ。

White Light White Heat

 ウォーホールのプロデュースを抜け出した2ndは、そのヒステリックなまでにノイジーな録音もあいまって、「クラスターの連なりとしてのロックンロール」というコンセプトを見事なまでに完遂している。同時代、ないし一世代あとのアート/ミニマル志向のロック(たとえばクラウトロック)が概して、ドローンが持つ豊かな倍音構造とか、反復パターンのつくりだすモアレのなかをサイケデリックにトリップする方向に向かいがちなことを考えると、ヴェルヴェッツのミニマリズムは特異だ。

E2-E4 – 2016 – 35TH ANNIVERSARY EDITION

 ヴェルヴェッツのミニマリズムは反復への陶酔であるとか、プロセスへの没入といったものとは無縁である。それはむしろいまここの連続性を断ち切って、クラスターが響くごとにそのプロセスをやり直す。ロックンロールのスリルがそのグルーヴにではなく、グルーヴの切断のほうへと導かれ、最終的には、徹底的な、しびれるほどの退屈さと化す。不思議なことに、その退屈さは聴くものを熱狂させてやまないのだ。

*1:水平/垂直という比喩はメロディ/和声みたいな対立と等価なものとして広く使われている… ように思うが、とくにここではそれを拡大して、時間軸方向を「水平」、ある時点で鳴る音の連なりを「垂直」として用いている。要するに右方向に進行していくピアノロールを思い浮かべて貰えればいい。チャック・ベリーのギターはその垂直方向に分節を刻み込んでいく。

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思弁的メロドラマ(けなしているわけではない)――テッド・チャン『あなたの人生の物語』について

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 映画の日本公開はまだ少し先だけれど、アカデミー賞ノミニーにも選ばれていたし、そもそもそのタイトルからいろいろと気になっていたので読んでみた。長編を読むのはなかなかしんどい体調が続いており、あわせて買った『虐殺器官』はそれゆえまったく読み進められる気配がないが、こちらはわりとすんなり読めた。

 世間でこれらの作品がどういった評価を受けているのかについては寡聞にして知らないけれど、表題作「あなたの人生の物語」に関して言えば、あらかじめ期待したほどには感心しなかった。なるほど、基本的なアイデアは面白い。とくに、ある物理現象は因果論的(AのせいでBが起こる)にも目的論的(Bが起こるためにAが用意される)にも記述できる、という点に着目してみせるあのくだりには興奮した。また、強いサピア=ウォーフ仮説にのっとったような、言語習得に伴って主人公に起こるある決定的変容、というプロットも(その変容の描写も)上手いな、と思う。しかし、ネタバレ全開になるけど、異星人との接触によって地球人とは違う時空間構造のなかを生きるようになる、というアイデアについていえば、カート・ヴォネガットの諸作品におけるトラルファマドール星人のそれを思い起こさずにはいられない。しかも話の落とし所もちょっとそういうところがある。So it goes.というやつだ。あらかじめ未来がすべてわかっていたとしても、もしかしたら異なる未来を歩きうるとしても、世界がそうなっているからには、そうすることをためらわずに選ぼう。それが悲壮なものであれ幸福なものであれわたしはそれを選ぶのだ、と。ニーチェ流の永劫回帰に対する絶対的な肯定というか。ただヴォネガットスラップスティックなユーモアの奔流のなかにこのメッセージを忍ばせるのに対して、チャンはいささかメロドラマめいた叙情性を通じて、露骨に語り手に吐露させてしまう。というとけなしているように聞こえるかもしれない。しかしドラマとしてはかなりよくできている。あらゆる要素が最後のイェスに集約されるために組み立てられていて、その緻密さには舌を巻く。うーん、しかし、ウェルメイドなメロドラマ(というかホームドラマ)のパーツパーツがSF的なギミックに置き換えられている感じがしてなにか食い合わせが悪いように感じる。これを食べづらい材料をおいしく料理した逸品、と思う人もいるかもしれないが、しかし。

 このメロドラマ性とSF的(というか「理系的」)なギミックの組み合わせが持つやな感じが最も押し出されているのは「ゼロで割る」だと思う。19世紀末~20世紀初頭にかけての数学のいち大転換(いわゆる不完全性定理ヒルベルト・プログラムの挫折)の歴史的記述に導かれるように、とある夫婦の終わりが語られる。妻である数学者は、この学問の正当性を根底からゆるがすある証明を発見してしまったのだが、数学にほとんどすべてを献身してきたがゆえに、日常生活を支障をきたすほどに衰弱してしまう。妻の失望があまりにも本質的であるために、夫が妻を支える術はもはやない。それで離婚に至るだろう会話がはじまるところでこの物語は終わるのだが、正直なにを言いたいのかわからない。たしかに自分の信念を支えてきたものを自ら否定してしまうというのは親殺しのようにむごく絶望的なプロットなのだが、彼女はそのような発見をするような天才であるにもかかわらず、その発見を乗り越えるほどの知的好奇心を持ちあわせていないという点でなにかその人物像はいびつであるように思える。それほどまでに彼女の発見が決定的だったということだろうが……。ひとつの学問を殺してしまうような直観を持ちながら、ひとつの学問を自ら殺してしまったことを受け入れきれない、という意味では主人公の苦悩はきわめて人間的ではあるのだが、そうするとこの作品が描いているのは人間の責任能力の限界であって、数学という学問に象徴される知性や理性の限界ではない。そう考えてしまうと、理系的な要素として挿入されるエピソードも通俗的なメロドラマの一種にしか見えなくなるし、結果として物語としてはあまりにもくどすぎるものになる。SF的ギミックがメロドラマに新鮮な息吹を吹き込んでいた(あるいはSF的アイデアにメロドラマとしてのストーリーテリングの完成度を接続した)という点で表題作のほうがずいぶんと完成されている。というか、不完全性定理以後の数学には美が消えてしまったとでも言いたげな作者の覚書にはちょっと辟易させられた。数学は不完全なので全部幻で妄想にすぎない、というのはあまりにもナイーヴなのでは?

 と、これら2作品をこんなふうに評してしまうとテッド・チャンが嫌いであるかのように思われそうだが、ものすごく好きな作品もある。たとえば「理解」は、脳のリミッターを外した中二病患者がぐんぐん能力を拡大していって、「全盛期のイチロー」も真っ青なスーパーマン化してゆく、ほとんどスラップスティックな描写が炸裂している。“Understand”という原題が使われるタイミングも見事。しかしこれを説明的に訳してしまうとインパクトが薄れそうだから、訳者の人は困ったろうなあ、と思う*1。20分くらいのショートフィルムにして撮ってほしい。また、「七十二文字」の遺伝子工学錬金術をかけあわせたような科学の世界はぞわぞわ、わくわくする。なにがなにのアナロジーで、どういう意図がこめられていて… などということを考え始めると止まらないのだが、現実世界に変に結び付けず、主人公は彼の世界のなかで選ぶべき独創的な技術を生み出そうと歩み出して終わるのがまたいい。「バビロンの塔」のファンタジー描写もたまらない。オチはとってつけたようなところがあり、「ゼロで割る」と相通ずるやだみが感じられるけれど、描写は圧倒的だ。「地獄とは神の不在なり」も天使の降臨が日常茶飯事となった世界で繰り広げられるひとつの群像劇という設定がすごく面白かった。神学的にどうこうはわからないが、聖書で描かれるような奇跡がほんとにしょっちゅう起こってたらどんなことが起こるのか、という思考実験が、よく物語に生かされている。「顔の美醜について」も、かわいらしいじゃないですか。こんな作品ばっかりだったらアレだけど。NHKでドラマ化してほしいね。

 とまあ作品集のなかでも「これはいい!」というのと「これはどうなの?」というのが入り混じっている、というのが率直な感想だ。本人もある程度意識しているだろうが、文学ではなく科学を手にしたボルヘスとでもいうべき想像力とファンタジックな情景描写は、これは凄いものだ。スーパーマン描写というのも、ある意味「記憶の人、フネス」を彷彿とさせるところもなきにしもあらず。しかしボルヘスがするような後味の悪い、薄気味悪い読後感を残すようなことがあまりないのが不満で、それは上で述べたようにこの人にはウェルメイドなドラマを書く才能があまりにも大きすぎるということに尽きるのではなかろうか。知らんけど。

*1:主人公に対峙するライバルは、主人公とのバトルで一言“Understand”と発する。すると主人公は、ライバルが巧みに自分の記憶のなかに埋め込んでいった伏線の意味をすべて「理解」し、そのために敗北してしまう。ここの一言は命令形で訳するのがもっとも文脈にそっているのではないかと思うのだが、原文にきちんとあたったわけではないので寝言です。

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ヴェイパーウェイヴのアイロニー、その裂け目――猫 シ Corp《NEWS AT 11》(2016)からひもとく

 ヴェイパーウェイヴが2017年現在いまだ死なず、むしろ根強い人気を誇っているという事実は、実のところなかなか信じがたいところがある。メディアがつくりあげるハイプを露悪的にパロディ化した、よくあるインターネット・ミームだと思っていたのに。僕はけして熱心なウォッチャーというわけではないが、ふと思い立ってチェックしてみると、いまだにコンスタントに新譜が登場していて、あろうことかある種の洗練さえ感じさせる出来の作品にしばしば出くわしてしまう。方法論的に言って、ヴェイパーウェイヴは出現した段階ですでに完成されていたと思う。だからこそ長続きする音楽ジャンルになるとは思えなかったわけだけれど、意外にもその美学(しばしば全角英数字ないしスペース入りの半角英数字で“Aestetic”と綴られる)は広く拡散・浸透し、多彩なサブジャンルを生み出すことにもなった。とはいえ、この記事ではその歴史とか全貌とか現在をどうこう言いたいわけではない。ひとつの作品を出発点に、少し考えてみたいことがあるのだ。

もくじ

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「誰でもミュージシャンになれる」

 身体のジェスチャを通じて音楽を演奏できる、KAGURAというシステムが発売になるらしい。自分は使ってみたいとは思わないにせよ、おもしろい試みではある。使い方次第ではステージ上のパフォーマンスがよりいっそう派手になるだろうし、こうやってパッケージングされることで、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに対する敷居を下げることにもなるだろう。

 しかし、公式サイトなどに掲げられている、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」というウリ文句には、若干閉口してしまう。

https://gyazo.com/707ab4e90c663d0c21a590c176d2e6eb

 ミュージシャンになるだけだったらPCだけで十分だ。KAGURAを使うとなったら、PCとウェブカムを用意して、ソフトをインストールして、設定をこなし、そしてわざわざ身体を動かさなければならない。なんでそんなめんどくさいことをしなくてはならないのだろう? 細かい揚げ足とりかと思われるかもしれないが、これは真剣な話だ。それで提供される「演奏体験」は、「ミュージシャンになりたい」という人にとって満足いくものなのだろうか。いや、こればかりは実際に体験してみないとわからないけれど。

 それでも僕は、パーカッションのひとつでも買ったほうがいいんじゃないかと思う。PCを立ち上げる必要も、カメラのキャリブレーションも必要なく、ふと思ったときに手にとって、鳴らすことができる。マラカスひとつあるだけで、カウベルひとつあるだけで、じゅうぶんミュージシャンシップを楽しむことができる。そしてなにより、僕らにはこの身体があり、声がある。KAGURAを買ってまだるっこしい「演奏」をするくらいなら、マイクを買って歌声を録音したほうがいいだろう。

 これは極論であるとしても、たとえばテノリオンであったり、オタマトーンであったり、カオシレーターであったり、斬新なUIを通じて簡単でなおかつ優れた演奏体験を提供してくれるガジェットはたくさんある。電池駆動のカオシレーターを前にして、「PCとカメラさえあれば、アプリをインストールするだけで誰でもミュージシャンになれます」なんて胸を張って言えるだろうか?

 とはいえ、このソフトを単にくさしたいわけではない。マーケティングの方向として、それは違うんじゃない? と思うのだ。

 最初にも書いたように、可能性もたくさんある。複雑なプログラミングなしでモーションコントロールを導入できるということは、オーディオ・ヴィジュアルなパフォーマンスに興味はあるがプログラミングはどうもな、という人にひとつの選択肢を与えることになる。あるいは、教育の現場などではこういった身体を動かして演奏ができる仕組みというのはとても活用しがいがあると思う。しかしやはり、なにか楽器をやってみたいと漠然と思ってるけど、練習が大変で、といった人に対しては、このソフトはなかなかリーチしないと思う。なんでそんなウリ文句を選んだのかよくわからない。ただでさえPCなんてめんどくさいトラブルのかたまりなのに。

 個人的に、こういう「誰でもミュージシャン」系のガジェットやソフトでとても感心したのはPropellerheadsの出しているFigureというiPhone/iPadアプリだ。値段も無料らしい(以前数百円だった気がするけど)。

 細かい打ち込みはできない代わりに、ちょっといじって馴れてくると、とたんに多彩なビートパターンを直感的な操作でつくりだすことができるようになるし、カオシレーターふうにメロディも演奏できる。録音機能も充実しており、簡易的なミックスもできる。なにより、「演奏」と「プリセット」の配分具合が絶妙なのだ。デフォルトのまま鳴らしっぱなしにしてあちこちいじっているうちに、自然とそれっぽい音楽が出来上がってくる。これは他のどのアプリとも違う触感があって、楽しい。

 とりとめのない文章になってしまったけれども、やはりどうしても言いたいのは、PCとウェブカムなんか用意しなくても誰でもミュージシャンになれるだろ、ということだ。ソフトを売らんがためのそういうお為ごかしはひとのためにならないと思う。なんていうことを思うのは、DIY精神に神経をやられてしまっている人間の性なのだろうか。でも、音楽に親しむための第一の条件は、なんにもないところからでも音楽は生まれるし、音楽を楽しむことができる、という確信を抱くことにあると思う。

 ノンミュージシャンによるポップ・ミュージックの金字塔、フライング・リザーズ。あらゆるファンクネスを捨て去った果てに謎のポップネスだけが残ったSex Machineのカヴァーも秀逸だ。

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ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第二版 人間の人間的な利用』鎮目恭夫・池原止戈夫

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

人間機械論 ――人間の人間的な利用 第2版 【新装版】

 ノーバート・ウィーナーが1950年にサイバネティクスの概要について一般向けに書いた本で、技術的な話題よりもその思想的意義を説くものになっている。この邦訳は第二版、1954年に執筆されたものが底本だ。19世紀末から20世紀にかけて物理学に起こった大きな方向転換を端緒として、エントロピーという概念を鍵として情報工学や通信理論の発展を論じ、そこから人間の本性までをも考察するに至る。とはいえウィーナーが取り上げているのは比較的素朴な、20世紀なかばに既に充分実現していた技術にとどまっていて、極端な大風呂敷を広げているわけではない。たとえば、通信理論に基いて信号の伝送経路を最適化するように、社会制度もまた情報をどのように流通させるか、すなわちコミュニケーションの通路を良好に保つためにはどうすればよいかという観点から再設計可能である、といった発想には、むしろゼロ年代アーキテクチャ論にも通じる見通しの良さがある。

 興味深いのは、「コミュニケーション・機密・社会政策」と題された第七章で、機密主義に陥りがちな軍事研究が長期的に見て人類全体に有害であると論じている部分だ。要するに、開発した技術はどんどん公開するべきであって、利用を妨げてはならないのだという。本書が書かれたのが第二次大戦後冷戦体制が強化されつつあった1950年であったことを考えると、この主張はいま想像するよりもずっと大胆なものだったのではないだろうか。

繰り返すが、生きているということは、外界からの影響と外界に対する働きかけとの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中でわれわれは過渡的段階にあるにすぎない。いわば世界の有為転変に対して生きているということは、知識とその自由な交換の絶えざる発展の中に参加していることを意味する。多少とも正常な状況の下では、われわれにとっては、そのような適切な知識を確保してゆくことは、ある仮想敵国にそれを持たせないようにすることよりも、はるかに困難であるがはるかに重要なことである。軍事研究所というものの仕組み全体は情報をわれわれ自身が最も有効に使用し発展させることに相反する線に沿っている。(p.128)

 ある研究に軍事研究というレッテルがつけられると、とたんにその成果は部外者から閉ざされてしまう。それだけならまだしも、機密主義が徹底された結果として、別の部門で得られた成果を他の部門で応用するということもできなくなって、いわば「車輪の再発明」をせざるを得なくなることさえある。最近日本でも軍事研究予算が拡大され、大学がその獲得に躍起になるやら抵抗するやらと騒々しいけれど、根本的な問題として、軍事研究という制度がアカデミズムと相反するものである点に留意する必要があるだろう。暗号解読に関するアラン・チューリングの業績が、その内容の機密性ゆえにしばらく一般には知られていなかったことを思い起こすと、看過できない問題ではないだろうか。

 もう一点興味深かったのが、芸術に対する言及だ。第八章は「知識人と科学者との役割」という題が付されていて、その内容はというと、アカデミズムの世界が若い科学者に対して適切なキャリアパスを描けていないことに対する批判になっている。知的好奇心に突き動かされて然るべき若い科学者が、形式的な業績を積むためにルーチンワークのように論文を書いているのは嘆かわしいことだ、と。ただこれは科学にかぎったことではなく、芸術においても同様だとウィーナーは言う。ウィーナーは、なにか新しいことを言うためにではなく、既存の権威を強化したり、あるいは当面の需要をとりあえず満たすためだけに行われるような、おざなりなコミュニケーションには価値を認めない。なぜかといえば、芸術であれ科学であれ、それはエントロピーの増大という自然の傾向に抗って、新しいものを生み出すことを使命としているからだ。

何派であろうと美を独占することはできない。美は、秩序と同様に、現実世界の多くの場所に現れるが、エントロピーの増大の巨大な流れに抗する局地的で一時的な戦いとしてしか現れない。(p.142)

 この一節はどこか、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの最後の著作『哲学とは何か』を思い起こさせる。

思考の定義、あるいは思考の三つの大きな形態、すなわち芸術、科学、哲学の定義とは、つねに、カオスに立ち向かうこと、カオスのうえに或る平面を描くこと、或る平面を描くことである。(『哲学とは何か』財津理訳、河出文庫、p.332)

 もちろんウィーナーが秩序から無秩序へと至るエントロピーの増大という時間的な枠組みに準拠していて、それに対してドゥルーズガタリが相手どるカオスはそうした漸次的な変化も受け入れない絶対的なカオスなのだとは思うけれど、ドゥルーズガタリがウィーナーを知らなかったとは思わないし、なにかアイデアのきっかけにはなったのかもしれない(あるいはルーツが同じか。e.g.熱力学とか)。

哲学とは何か (河出文庫)

哲学とは何か (河出文庫)

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AIはプリペアド・ピアノの夢を見るか?――人工知能と自動作曲に関する覚書

この曲は、ソニーの研究所が開発したAI、「FlowMachines」を用いて作曲された、「ビートルズ風」のポップソングだ。イントロのコーラスワークやベルの音色はむしろペット・サウンズ期のビーチ・ボーイズではないのか、という気もするけれど、たしかにメロディにはどこかジョンやポールの面影が感じられる。2017年にはこの他にもAIを用いて作曲した楽曲を含むアルバムが発表されるという。なんとまあ、夢のある話ではないか。ただし、「AIがついに作曲を! シンギュラリティ!」と言うのは先走りすぎだろう。このAIがどのようなものかを糸口にしつつ、昨今盛んな人工知能による作曲や演奏について、考えてみたい。

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Jace Clayton, Pitch Perfect, 2009, frieze.com 和訳

以下は、2009年にFrieze.comに掲載されたJace Claytonによるエッセイ、“Pitch Perfect”の日本語訳です[さらに注、この訳は2016年に以前のブログに掲載したものの再掲です、訳の見直しはしていないのでおそらく問題はおおありです]。勝手訳なので、そう長い間公開しないかもしれないけれど、ご容赦ください。2000年代以降に隆盛を誇り、いまだに広く用いられているオートチューンというエフェクトをめぐるこのエッセイを知る切っ掛けになった、Jace Claytonのプレゼンテーションはこちら。本文中に挿入しているYouTubeの動画は訳者が付け足したものです。

ピッチ・パーフェクト

今日ほとんどすべてのポップ・ソングに使われているソフトウェア、「オートチューン」の功罪

Jace Clayton

この10年で最も重要な音楽機材は、楽器でもなければ物理的なオブジェクトでもない。それはオートチューンと呼ばれ、おおざっぱに言ってすべてのポップ・ソングのうち90%で用いられている。オートチューンはいわゆる「プラグイン」の一種で、他のより大きなオーディオ・ソフトウェアにインサートして使うために特別に設計されたソフトウェアだ。オートチューンは、キーから外れた音をぴったりの音程に直してくれる。当初オートチューンは間違った音をならすためにさりげなく使われていた。(修正というよりも)装飾的なオートチューンの使い方を最初に広く知らしめたのは、Cherの1998年のシングル《Believe》だといってよいだろう。繰り返された整形手術によって突っ張った肌とかその他の副作用が整形それ自体の美学をかたちづくるとしたら、オートチューンについても同じことを考えることができるだろう。《Believe》のいくらかのフレーズがロボティックに変化するのを聞き取れる箇所がある――オートチューンの仕事はまさにそれだ。数年ほどでこの制作秘話(そしてこの高価なソフトウェアの違法コピー)は世界中のスタジオに浸透した。その過程で、声と身体のあいだのつながりが問題化されることとなった。

ヴォーカル至上主義者はオートチューンをひどく嫌う。彼らはオートチューンのロボティックな変調のなかにこんなものを聞き取る。砂糖まみれの物珍しさ、ゴリ押しされたニュアンス、貧相な合成品、「魂(ソウル)」の欠如、天性の歌の才能というものに対する軽蔑、ティーン向けの芝居じみた演技、感情の貧血症、そして/あるいは広範に及ぶ音楽的な衰退といった諸々の複合体を。醜いものだ。アメリカのR&Bシンガー、T-Painのオートチューンの助けを借りた2007年のヒットについて論じた折、音楽評論家のJody Rosenはこんなふうに主張した。「T-Painは、アフリカン・アメリカンによる音楽の、その伝統的な感情主義からの象徴的な切断を代表している。[…]何十年もの間にわたって黒人の大衆による歌を力づけてきた熱烈なメリスマは、合成されたあえぎ声へと均されている」

Lil Wayneのようなパフォーマーたちは、オートチューンを通じて非-音楽的な声の音――あえぎ、ラップ、笑い声――さえも送り届けるが、広く模倣されているT-Painのスタイルは、注意深く歌われたコーラスをくどく飾り立てるところに特徴がある。それによって、まさにサイバネティックな光沢のためにコーラスはより目立つようになるのだ。Rosenはそこに断絶と喪失を聴き、そして真実、オートチューンはソウルフルに歌うとはどういうことかを再定義し、私たちが明白な達人技(ヴァーチュオシティ)を使うことをできなくしてしまう。そのうえこのプラグインは、魂(ソウル)や技術の場としての声を脱自然化しながら、才能というものを別の場所へとおしやる。オートチューンを効果的に使うためには、そのデジタル・アルゴリズムと協力しなくてはいけない。「ロボットっぽい声にしてほしい」と頼んでくるヴォーカリストたちについて冗談を言ったあと、モロッコ人プロデューサーのWaryはこんなことを言った。「ときどき、凄い歌手だけどオートチューンの使い方をわかっていない人というのがいてね、その音といったらひどいものだよ」伝統的な歌の才能はオートチューンの世界ではそう使い物にならない。重要なのはテクノロジーとの戦いでもなければ、テクノロジーへの愛好とも違う、愛想の良い共存みたいなもの、すなわちギブ・アンド・テイクの奇妙で新しいダンスなのだ。

Rosenが言う、オートチューンがすべてを台無しにする前に「黒人の大衆による歌を力づけてきた」ような「熱烈なメリスマ」に光を当てる例は、T-PainのR&Bだけに限らない。メリスマは、マグレブの音楽にも、より広くとは言わないまでも、同じくらい広くみられるものだ。オートチューンが北アフリカで信じられないほどの成功を収めている理由はこれだ。現代のライー(raï)やベルベル人の音楽はオートチューンを心から受け入れている。という理由はまさしく、グリッサンドがヴォーカル・パフォーマンスの中心部分だからだ(音のまわりを飛び交うような声を持っていないと、良いシンガーだとは言えないのだ)。オートチューンを通すと、スライドしていく音程ははっとさせる響きを持つ。奇妙な電気的な歌声が、喉を震わせるグリッサンドのなかにはまりこむ。人間らしいニュアンスとデジタルな修正との拮抗が聞き取られるようになり、劇的なものになる。まったく字義通りに、これこそ声と機械が互いに変調しあっているサウンドなのだ――これは、T-Painがこの技術を「コンピューターを真似る」ために使っているという、Rosenの結論からはかけはなれたものだ。

リヴァーブやエコーといった伝統的なエフェクトと違って、オートチューンはヒューマン・エラーや音程の機微に能動的に反応する。それは平坦化したり均したりするのではない。まして普遍化するものでもないのだ。マンハッタンのハイエンドなレコーディングスタジオであるチャン・キングでチーフ・エンジニアを務めるAli Ruskinはこう説明する。「本当に(キーに)ぴったりに歌うなら、エフェクトの強烈さは薄まるんだ」このソフトウェアは間違った音を正しくするためによく働くのだから、正しい音程の音は相対的に自然に聴こえるのだ。けれども、優れた歌い手が音をスライドさせると、ソフトウェアは混乱してしまう。相互作用は複雑になる。

オートチューンなしでは風変わりに聴こえるようなヴォーカル・ラインが、いまやお馴染みの効果を生み出すのに必要になってきた。オートチューンは人間と機械によるデュエットに似たなにかを促進している。Ruskinは数えきれないほどのメジャーなヴォーカリストたちとレコーディングしてきたが、そこには最も売れているラッパー、Lil Wayneも含まれている。Ruskinによれば、「すべてのポップミュージックのうち99%は、オートチューンで修正されている」という。けれども、アーティストたちが大胆にこのプラグインの使用を前景化する際には、彼らは歌うと同時に加工されている自分の声も同時に聴くことになる。Lil Wayneはオートチューンを通したままでレコーディングする――処理されていないヴァージョンのヴォーカルは存在しないのだ。パワフルなコンピューターのおかげで、レコーディング・セッションのあとであらゆる種類のエフェクトをヴォーカルに試してみることができるような時代に、直接オートチューンをとおしてレコーディングするということは、オートチューンに完全に身を捧げるということだ。もはや、「裸の(naked)」オリジナル・ヴァージョンは存在しない。これは、サイボーグ的な受容だ。『サイボーグ・マニフェスト』(1991年)に、Donna Harawayは、「器官と機械との関係は国境紛争と化した」と記している。オートチューンの創造的な援用は、彼女の「境界を曖昧にする快楽と、境界を構築する責任のための議論」と完全に一致するものだ。

数カ月前、私はコート・ジボワールからの曲を耳にした。12分間にわたるChampion DJの《Baako》は、オートチューンを通した赤ちゃんの泣き声を中心としてつくられている。オートチューンは赤ちゃんの苦悶をうす気味の悪い音楽へと屈折させる。耳ではいいなと思う。けれどもこころではそう確信できないのだ。

https://youtu.be/i20acgIPcoU

《Baako》はこころをかきみだす。美学化された泣き声はもはやどんなふつうの感情にも対応しない。オートチューン以前には、メロディアスな叫びというものを私たちは知らなかった。《Baako》は、オートチューンの多様な使用法――そして多様な歴史――を際立たせるものだ。パリ郊外のホーム・スタジオでウェイリーはこう説明してくれた。2000年にアルジェリアのChaba Djenetがリリースしたシングルによって、オートチューンはアラブ世界のなかで大流行した。2000年代の初頭以来、北アフリカのベルベル人によるポップス・アルバムのなかで、タマージク語のヴォーカルに完全にシンセ化したオートチューンがかかっていないようなものを見つけるほうが難しいのだ、と(こうした録音物において女性の声がヴァイオリンのように響いているのには驚かされる)。再びマンハッタンに戻ると、Ruskinは「2001年ごろから、男性アイドルグループの仕事にともなって、オートチューンを定番のエフェクトとして捉えるようになった」。Kanye Westは最新作の《808s and Heardbreak》(2008年)で、自らの声をオートチューン(とディストーション)に浸しきった。その特異な使用法において、ウェストのオートチューンは彼の肥大したエゴを鎮めて、自らの悲嘆の物語をより共感できるものへと変えている。

アメリカからメキシコ、ジャマイカ、アフリカ、さらに向こうへ――オートチューンの使用法は、シーンごとに、またアーティストごとに異なるアプローチをともなって、ばらばらに散らばっていった(ただし、最もサウンド的に過激なのはモロッコのベルベル人によるもののままだ)。オートチューンはこれまでとは違う声の機械に対する関係を作り出す。コンピューターに対する新奇な、あるいはいくらかふざけた模倣的な反応というよりは、オートチューンはデジタルとの親密な関係のための現代的な戦略なのだ。正確に言えば、オートチューンはとても人間味を帯びてきている。オートチューンは、電子機器と個人とのあいだのデュエットとして作用する。つまり、テクノロジーとの調和だ。この発展は、齢60代のポップ・スターをきっかけに爆発し、まるで野火のようにジャンルを、言語を、そして地域を越えて広がった。私たちは電子機器で飽和した世界に生きていて、そしてこうした状況に歌声を与える方法を見つけつつあるのだ。T-Painとオートチューンの制作会社アンタレスは、現在オートチューンを携帯電話で使えるようにしようとしている。この親密さ――いや、これは侵略なのだろうか?――は深まっていく。

Jace Claytonは、ブルックリン在住の著作家でミュージシャン。彼のオンライン上の著作はwww.negrophonic.comで読むことができる。

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