ちなみに、ごく個人的な意味でこの本から得た最大の収穫は、アンフォルメルのキーパーソンであり、アール・ブリュットの名付け親であるJean Dubuffetがテープ音楽を手がけていたことを知れたという点にある。実際にその作品を聴いてみると、アンフォルメル期のDubuffetの絵画をそのまま音楽化したみたいな曲もあって、非常に面白かった。その音楽は徹底的にローファイで、緻密にプロセスされたミュジック・コンクレートやケージなんかのコラージュ的なテープ作品なんかとは違う、愛らしさがある。自身の展覧会にあわせて発表されたテープ作品《Music pour Coucou Bazar》はApple Music / iTunes StoreやSpotify上でも聴くことができる。
ASMR系というのは端的にいうと「音フェチ動画」のことで、その正式名称はAutonomous Sensory Meridian Responseだとかなんとか。この微妙にもっともらしい名前がもたらす胡散臭さも含めていい感じのヴァイブスを発しているジャンル。ロールプレイものも多くて、しばしばセクシャルな含みもあったりする(そのへんは邪道だと言う人もいそうだけど)。↩
果たしてミレニアル世代に広大なネットワークの海をサーフする筋力は残っているのだろうか? あるいは、そのネットワークはサーフするに値する「いい波」を僕たちに提供してくれるのだろうか? たしかに、TwitterやInstagram、Snapchatを操りながらタイムライン上の情報を華麗に編集し、我が物とするたくましさを人々はまだ失ってはいないし、この技巧はまさに情報をブリコラージュし生活を構築する「日常的実践 Art de Faire(ミシェル・ド・セルトー)」の現代版だと言える。しかしそれはSNS以前の人々がインターネットの向こう側に幻視した、あらゆるヒエラルキーの消失した「アーカイヴの海」を舞台とはしていない。わざわざ古めかしい海の上へと漕ぎ出す人々なんて、今更いるのだろうか?
しかしtofubeatsの「祈り」は僕たちリスナーに向けられたものではない。ましてや理解を求めてすらいないのかもしれない。たしかに彼は表現者である以上ある程度の理解を求めてはいるだろう。しかしいまそのプライオリティは格段に低いのではないか。そう思える。たとえばそれは、彼の「祈り」のそのささやかさに見て取れる。彼は誰ともしれない「君」やあるいは自分自身に対しての、小さな、しかしかけがえようのない望みを歌詞のなかに織り込んでゆく。身近な人に喜んで欲しい(Tr.2 SHOPPINGMALL)、だとか、君とうまくいきたい(Tr.8 What You Got)、だとか、ラヴ・ソングにも満たないようなささやかな望み。しかし彼はそれを、僕のこの耳で聞く限りにおいて、心から願い、祈っている。
それはまた、“post-truth”と名付けられたいまを生きる僕たちに個人として残されたほとんど唯一とも思えるサヴァイヴの方法だ。factの積み重ねと、そこからtruthを生起させる諸々の手続きがなし崩しになって、なにものも信じがたくなったあとに残されるのは、ただ自分の身の回り、手の届く範囲に起こるさまざまなよしなしごとに対して、真摯であろうとすることくらいだ。それはときに内省となり、虚無感とごっちゃになった激情をも生み出すかもしれない(What You Gotの暴れまわるような“夜から朝までparty/窓開けたらめちゃsunny/何を得たのかわからない/取り出して並べてみたい”というラインのように)。しかしそれであれ、フェイクに身を投じてわけがわからなくなってしまうよりもずいぶんマシだと僕は思う。