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imdkm.com 投稿

1.18-19

1月18日

 朝8時起き(2回くらい深夜に起きた、はず)。風邪は収まってきていると思う。寝たからね。温泉行こうかと思ったけど、くそ寒いのに外にでかけるのやだからやめた。おうちのおふろでよい。
 「人生損してる」って言う奴には「こちとら損得で人生やってねぇんだわ」って言う。
 ヒゲダンの新曲、イントロで出てくるスタッターにいなたさを覚える(スタッターがいなたい? いや、なんかこのプリミティヴさが……)。垢抜けきらない感じが憎めない、好き~。King Gnuは、まあ。
 結構体調が微妙でまた通院したほうがいいのか迷う。

 LAのデュオ、closegoodの新曲。ベースがぶんぶんなるなかでところどころコラージュ的なウワモノが漂い、パーカッションは加速したり減速したり。ヴォーカルの温度の低さも良い。

 ブルックリン拠点? のシンガーAudrey。ちょっと脱力系の発声にタイトなフロウの組み合わせが良い。ビートのフリーキーさが熱量を補って全体としてはかなりぶち上がり。HARVESTのブログでピックアップされてたり、i-dにインタビューが載ってたり。

1月19日

 朝8時起き。
 本の表紙が加水分解かなにかしてべとべとになる案件ごーくたまにありません? 洋書でなることがある(自分の経験では2例あり、どちらも洋書、アメリカで出版された本)。ポリウレタンコーティングみたいなのがあるのかな。こればかりは拭いても直らないんだよ。表紙のてざわりが気持ち悪くて、ソフトカバーだしもういっそのこと! とヒートガンで表紙取っちゃった。
 柴那典さんがMura Masa『R.Y.C.』についてnoteを書いていたが解釈になっとくいかず思わずツイートしてしまう。この作品が「政治的でない」というつもりは毛頭ないが、仮に政治性を読み取るとするならばもっと繊細な(こういうささくれだった空気感っていまの政治状況を反映してるよね~みたいなじゃなく)解釈が必要だろう。
 サウンドの面でもリリックの面でもノスタルジーを中心にすえた『R.Y.C.』は、むしろ逃避的や退行的のそしりを受けやすい作品のように思う。しかし、単調なのに意図せざる変化を被る生活/人生へのフラストレーション(deal wiv it!)もあれば、ノスタルジーがそもそも不可能なものへの憧憬であることを明かしてしまう残酷さもあったりするし、ノスタルジーには終わりがくることもほのめかす(teenage headache dreams)。
 きょう夜にQJWebで自分の新譜紹介記事が出るので直しをする。w-inds.の新曲を「K-POP的」と評するくだり、といってジャンルががらっと変わるような大胆な展開を得意とするKポは最近そこまで多くないのでどう表現するか迷う。かなりうんうん悩んで、公開バージョンになった。逃げっぽいか。

 BTSの新曲Black Swanの、エレガンスの極みと言いたくなるクオリティ。音数は少ないように感じられるが、意外と実際に鳴っている音のレイヤーはかなり厚くて、さらにボーカル同士の絡み合いもうっとりする。かつ、下品にならない高域の艶やかさ。これはハイレゾで聴いてもよさそう。素晴らしい。

 チェック漏らしていた昨年のKポをちょくちょく聴いてる。Mamamooのアルバム、良さげ。リード曲「HIP」のミニマルだが鳴りにラグジュアリーな味わいがあるこの感じ、BTSにも通じる、現行K-POPの魅力だと思う。ビートの魅力とヴォーカルの魅力がどっちも映える! アルバム全体としてはジャンルの幅も間口も広いと思う。ちゃんと聴こう~
 少し前、おなかさんというTwitterアカウントが、K-POP風をJ-POPがやろうとするとなぜかちょい前(というかかなり前)のKポっぽくなる現象についてつぶやいていて、それはほんとうに謎だ。

 そもそもRadiofishがPerfect Humanをやった時点で「なんで今さらFantastic Baby?」とツッコミがでた(夜電波の韓流最高会議で韓東賢さんらが言っていたと思う)のに、そこからもう4,5年とか経って未だに「一昔前のK-POP」が模倣される謎。
 なんとなく、昔の曲(2012年~2016年ごろ?)をミックスしなおしてbandcampにまとめて上げたいと思ってるんだけど、プロジェクトファイルを開くとサンプル差し替えたり曲の構成変えたりしたくなってぜんぜん進まない。でもやっぱ楽しいから、ちょくちょくやる。他人からどう思われてるかはわからないけれど、自分の曲けっこう好きなんだよね。確実に失敗はしてるんだけど、変な愛嬌があるような。親心?

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1.17

 朝7時起き。ご飯食べてまた寝る。疲労感が凄い。
 12時ごろ起きだす。これは……風邪のような気がする。おうどん食べて風邪薬飲んで、なるべく安静にする。メンタルがやられているタイミングで、あんまりセルフケアできていなかったのが響いたのだろう。頭痛、軽い発熱、倦怠感。インフルではない。いつもの風邪のパターン。
 原稿を一本送る。キムタク評。明日には載るだろう。
 ちょっとひと目につきやすい仕事が重なっているだけ(トークとかね)で、ライターとしては仕事量も下の下といったところだと思うのだが、そう見えない人には見えないもんなのねぇ。そういやこないだ長谷川白紙の載ったMUSICA見返したら記事のクレジットがだいたい有泉さんで、月刊誌の編集長ってこんな仕事量をこなしてるんだな~と思ったら、その100分の1とか1000分の1くらいの仕事量でメンタルおかしくしている自分は脆弱すぎる。そういう職業人としてはやはり尊敬に値する(当たり前である)。基本的には音楽雑誌に対する不信感ってすごいんだけど。今度ドミューににでご一緒するときにお話してみよう。
 本を読んでいて気づいたけれど、おそらく自分にとってモチベーションを維持するのに大事なのはインプットなんだな。他のひとがこれだけのことをしているなら自分もしないと、と思える。同じことやってる仲間を得る以上に、作品=仕事にこそインスパイアされる(この意味で音楽も文章も垣根はない)。もちろん情報共有できたり、あるいは率直な意見や愚痴を言い合えるような相手がいたらいいなって思うこともあるけれど。
 最近姫乃たまさんの日記やラジオを読み、聞いている。姫乃さんもドミューににでご一緒する。けっこう緊張する。
 不調の正体は風邪だ、と断定できたからか、なにかものすごい心の平穏が訪れている。体調は悪いのだが、きょうは夕方から仕事したい。現在午後3時。
 この日記、だいたい起きたときにEvernoteにノートを立ち上げて、気が向いた時間に書いている。Twitterがわりだ。昔、一時期Twitterをやめいた時期に同じことをやっていた。当時もEvernoteにはいろんなメモが残っていた。一部はブログの日記にしている。Twitterでは流れてきたトピックに対して自分がなにかを言わなければならないという強迫観念が起こってしまってしんどくなる。頼まれてもいないのに誰かの目を気にしているようでひどく居心地が悪くなった。ブログの日記やInstagramのストーリーはそういうのが少なくていい。

 NNAMDÏことNnamdi Ogbonnayaの新曲「Wasted」とてもいい。すかすかのビートにのる白昼夢のようなメロディとヴォーカルが後半で一気にエモーショナルに膨れ上がる。ビデオも素晴らしいのだがこれディレクターにSen Morimotoの名前が。Nnamdi OgbonnayaのやっているSooper RecordsからSen Morimotoが出していて、このあたりの(KAINAとかも含め)ミュージシャンのコミュニティは絶えず面白い動きをしているように思う。Sen Morimotoのミクスチャー感覚(ポストロック、ジャズ、ヒップホップ……)はそのままSooper Recrodsのレーベルカラーであり、Nnamdi Ogbonnayaの作風でもある(彼、もともとマスロックのバンドやってんですよね )。

 人間椅子、EUツアーとSXSW出演を前に、YouTubeで海外から注目されているという話をツイッターで見た。上掲動画のコメント欄を見ると、YouTubeからリコメンドされたので来た、なんてコメントがたくさん。海外でのライブを控えて注目度が高まったことでアルゴリズムにひっかかった、とかそんなあたりだろうか。英題や英語詞を載せているあたり、完全に海外展開を視野に入れたつくりになっていて、下地はあったのだろう。そもそもハードロックやヘヴィメタルはグローバルニッチ最大手みたいな印象があり、もともと海外でも一定層にはリーチしてたのではないかな。

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1月16日

 朝6時ごろ起床。だったと思う。書きだした段階(15時くらい)でなにも覚えていない。なにしてたんだろう。23日のためのバスや宿の段取りしたり、漫然とYouTube見たり。お金がない、という不安に押しつぶされそうになって仕事が手に付かない。それなら働かないといけないのだが、力量や心身の状況をかんがみて仕事をいくつか断っている。どうしたらいいんだろう。そうやって仕事を選んでいるわりに、お金にならない仕事ばっかりしている気がする。選り好みしないで書いたほうがたぶん力もつくのだろうが……。「なんかしっくりこない」みたいな理由でなんぼかのお金を捨ててるようなもの、という気もする。考え出すと止まらない。将来に不安しかない。

 お金がないのだから宿も東京の知人の家なんかに泊まらせてもらえばいい、のだが、やはり気兼ねしてしまう。ご家族がいたりするとね。むずいよ。来週の滞在では、はじめてつかうドミトリーを試してみることにした。大浴場がないことだけ気がかりだけれど、それは銭湯を探して使えばいいか。。。

 つくりなおしたSIMカードが届く。Huawei P30 Lite、あたらしいSIMカードをさしたら無事に使えた。一安心。カメラの性能がけっこう良く(少なくとも前まで使ってたnova liteよりずっといい)、仕事がはかどりそう。というのは、読んでる本をメモるときによくEvernoteでページを撮影してしまうから、カメラが調子よいと自ずとその効率も上がる、はずなのだ。

 もうひとつ、Paperangというサーマルプリンターを買ったのが届いた。これはスマホから使えるプリンターで、レシートとかと同じような感熱紙をつかう。インク不要。ちょっとしたメモの印刷にも使えるし、個人的にはこれを宛名の印刷に使おうと思っている。ためしに印刷してみると、まあまあ使える感じ。ちょっと工夫が要って、ロール紙の幅が58mmしかないので、見やすい大きさとレイアウトで住所を印刷するためには、用紙をタテにではなくヨコに使う必要がある。できるかな、と思ったらスマホアプリでかんたんにできた。領収書や請求書を送るときに手書きだといつも不安で、これならコピペでさらっと宛名が印刷できる。ラベルシールになってるロールもあるらしいからそれもゆくゆく試そう(現状、のりで封筒に貼りゃいいでしょ、と思っている)。

 ようやくGEZANの新曲を聴く。

 2020年にこれを出してくれる人らがいる。具体的なあれやこれやのイシューを想起させつつも、それでもなお個が大事なんだと(「東京」ではなく!)言い続けることのシリアスさに賭ける。社会と個の対比、社会から個への逃避ではなく、社会と個の相互貫入に思い切って突っ込んでいく音楽だと思う。

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チルしながらNo Hope Generationを歌い、聴く

Mura Masaの新作と「もはやチルってる場合じゃない」という時代の空気について|柴 那典|note

 ライターの柴那典さんがMura Masaの新譜『R.Y.C.』を評しているnote。これがまったくよくない。なぜかというと、同作のサウンドが表面上パンクロックやポストパンクを参照している部分があるからといって、安直にUKの不安定な政治情勢への抵抗だと断じているからだ。特に象徴的に取り上げられている「No Hope Generation」のフックを「チルっている場合じゃない」という空気感の象徴として語っているのはまったく的を外している。

みんな「希望のない世代」をやってる
Everybody do the no hope generation
この新しくてヒップな感覚が国じゅうまきこんだ流行になってる
The new, hip sensation craze sweeping the nation
火炎瓶と銃をくれよ
Gimme a bottle and a gun
そしたらどうなるか、見せてやる
And I'll show you how it's done
そんでよくよく見てみることだ
And if you look real close
全部冗談でしかないってわかるよ
You'll see it's all a joke
全部冗談なんだ
It's all a joke

https://genius.com/Mura-masa-no-hope-generation-lyrics

 ここに読み取れるのは「希望のない世代」として暴力に走ること自体が「新しくてヒップ」だとある意味冷やかすような目線だろう。火炎瓶と銃? いいね、でもそんなのだって全部冗談なんだ。

 「チルってる場合じゃない」なんて言うけれど、この曲の主人公がセカンドヴァースでまさに「チル」しているーーウィードを吸って、ぼんやりとLCDスクリーンを眺め、リラックスしているーーことはどう考えるのだろう?

スクリーンを見つめてる、くもりひとつない
Staring at the screen, so serene
おれのこころをグリーンに浸らせてくれ
Let me bathe my mind in green
めちゃくちゃリラックスしてる
I feel so relaxed, I feel relaxed

 たしかに「チルってる場合じゃない」のだが、同時に「チルするほかない」のだ、主人公は。この閉塞感を読み取ることなく安直に「火炎瓶と銃」に結びつけてしまうのは、「助けてほしい、助けてほしい(I need help, I need help)」という主人公の言葉を踏みにじるようなものだろう。

 『R.Y.C.』はとても好きな作品で繰り返し聴いているが、これは「政治的」というにはあまりにノスタルジックすぎるし、私的すぎる(ノスタルジーがこのアルバムの主要なテーマであることは本人も述べている。パンク/ポストパンクのサウンドもまたノスタルジーの対象だ。いわく、「ノスタルジーについてのアルバムをやってみたかったんだ、過去を振り返りながら前を向くためのね(I wanted to do an album about nostalgia – looking backwards to look forwards)」)。

 とはいえ懐古してそこに耽溺して済ませるほどこのアルバムは鈍感ではない(思い切ってヴィジョンを示してくれるものでもないのだが)。そこに「政治的」ポテンシャルを読み取ろうとする試みもあっていいし、おそらく正当な読みも可能だろう。しかしその前に、このアルバムに描かれた不安や焦燥やモラトリアムが湛える瑞々しさにこそ、「いま、ここ」(いや、舞台はイギリスなわけで、日本の田舎に住んでるワタシが言うのも妙なんすけど……)の苦境が反映されていることを注視したほうがよいのではないか。それは同時に、イギリスのユースカルチャーが常に描いてきたものでもあると思う…… Mura Masaのノスタルジーと反復はそれ自体ある種の反復なのではないか。良いか悪いかは別として。

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1月15日

 7時くらいに起きる。きょうこそは仕事を……と思うが思うようにすっきりしない。気分がややふさがっている。請求書書いたり領収書の整理したり資料の整理したりして午前中をぼんやり潰し、お昼少し前に温泉に行く。サウナに入るといつもより早めにキマった。疲れてたのかな。

 帰りにイオンモールに行ってさいふを探す。これ! というものがなかなかなくてどうしようか、もういいか、と思ったところでふと入った雑貨屋さんでぴったりのブツを発見した。MINIMのウォレットケース。真っ赤なのを選んで買う。ついでに、3coinsでソーイングセットを買う。ダイソーとかにあるんじゃないかと思ったら、意外といい感じのがなくって、ここでたまたま見つかってよかった。指ぬきやメジャー、まち針、リッパーなんかがついている。常に持ち運びするにはちょっとかさばるけれどデスクにおいとくにはいい感じだ。

 スーパーと酒屋に寄ってもろもろ食料品なども買って帰る。家に着くとおなかがぺこぺこで、カレーをつくることにする。鶏むね肉とトマトを中心にしたパキスタンカレー風。レシピは適当。オレガノ、クミン、コリアンダー、唐辛子、ガラムマサラに塩コショウ。最小限「これがあるとぎりカレーっぽい雰囲気は出る」くらいのスパイスだが、ひとりで食うぶんにはぜんぜんよい。

 調理中に急にまた買い物にでないといけなくなり、きりのいいところでいったん火をとめる。木村拓哉のアルバムレビューを書くことになりそうなのだ、しかも締め切りは明後日とか。キムタクだったらまあ八文字屋(もよりの本屋)のCDコーナーにもあるでしょう、とふんで車を飛ばす。

 しかし、ないのだ! 品切れなのだろうか。これは予想外の展開。しょうがないからイオンモールにまた向かう。天童には新譜を買えるCD屋はたしか八文字屋とイオンモールの書店しかない。ちなみにどちらも売り場面積は狭い。八文字屋は店舗リニューアル中のためCDコーナーが書籍エリアに間借りしていることもあってしょうがないが、イオンモールの書店についてるCDショップは棚が6面くらいしかない。うーん、その状況でも、キムタクだったらあるんじゃないか? とイオンモールで探してみると、こちらはきっちり書いてありましたね。品切れ、と……。がーん。なんのために決して近いということはないイオンモールまで来たんだよ、と落胆。紆余曲折あって入手はできたけど、なんなんだろうね。くたびれた。

 関係ない話。たとえばとあるグループのメンバーAのファンが、「Aにはこんなジャンルの曲を歌ってほしい!」と思ったとする。それだけだとファンの願望だが、しかしこの願望には少なくともふたつの判断が含まれている。「メンバーAのパフォーマンスやキャラクターはこういうものだ」という判断。それと、「このジャンルはこういうものだ」という判断。「AにR&Bっぽいバラードを歌ってほしい」ならば、「Aはこういう歌い方をする(こういうパフォーマンスをする)から、これこれこういう音楽であるR&Bがぴったりのはず(すくなくともわたしはうれしい)」とひらくことができるだろう。

 もし「Aのこういうところ」と「このジャンルのこういうところ」をそれぞれ知らない人にきちんと説明しようと言語化したならば、おのずとそこには「批評的」と言われうる主張が含まれるのではないか(それが斬新とか面白いかどうかは別かもしれないけれど)。別にこれは音楽ジャンルに限らなくて、「こういうメッセージを発してほしい」でも「こういうキャラクターを演じてほしい」でもいいし、あるいは「このメンバーとデュオでやってほしい」でもいい。現実にないなにかを妄想するとき、「なんでそれが現実だったらうれしいか」を細かく自己分析していくと、それは単なる妄想であるのをやめて、ある考え、意見になる。

 それ以外にも、たとえば運営への文句だってそれがある信念に基づくのならば適切に言語化(適切、というのは必ずしも「批評」っぽい言語でなくてよく、単に「誰かに伝えるための言葉」くらいの意味で)さえすれば読み物になりうる。読み物にしたらしたで変な消費のされ方するから別にそれがベターだって話でもないけどさ。

 で、これは「書くこと」に関するたらればであると同時に、「読むこと」に関するたらればでもある。読者がそのように読むこと、それだけで風通しよくなるものはあるのではないか(いや、変な風をふきこんでしまう可能性もおおいにあるのだが……)。

 そういうことをぼんやり考えていた。

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1月13、14日

1月13日

 深夜バスで京都から豊田へ。ネカフェに入ってぐったり。そこそこ(2,3時間)仮眠をとったあと、アニラジをチェックする。日曜正午にラジオ関西のアニたまどっとコム枠の各番組がニコ動で視聴可能になる(一週間限定)ので、だいたい週明けにはチェックしてる。桑原由気と本渡楓のパリパリパーリィ、いい番組。

 昼前に動き出して豊田市美術館にて岡崎乾二郎「視覚のカイソウ」展。1Fを三度まわってしまった。なぜならおれは岡崎さんのレリーフがほんとに大好きだから。限られた素材(いわゆるプラダンとかスチロールパネルとか)のかたち、厚み、色、色の乗せかたがつくる視覚・空間経験。ぐるぐる見れる。14時からは岡崎さんと斎藤環の対談。ほんとは岡崎さんの講演が聞きたかったが…。でも貴重な機会だし、と聞いてみると、対談というだけあってラフな構えではあったものの、ところどころ突き刺さる発言があり、よかった。

 対談後にもっかい展示見て、名古屋に向かう。名古屋から仙台までバス、仙台からは仙山線…という算段。

 せっかく名古屋なんだから名古屋飯的なものを、と思ったけれど、実はそこまでの意欲がおこらず、無難中の無難、コメダ珈琲に入ってしまった。いつも渋谷で食っとるがな。山形にもあるよ。そのままネカフェに入ってバスまで時間をつぶす。しかしネカフェ滞在中すこんと記憶を失い、バスの時間ギリに……。おそろしや。

 バスに9時間ほどゆられて仙台まで戻る。

14日

 朝8時、仙台着。そのまま仙山線経由で帰宅。着くと荷物がもろもろ届いている。Huawei P30 LiteをセットアップしようとしたがSIMカードが読み込まれず、もしかしたらノーマルのSIMを無理やりnanoSIMにカットしているからだろうか……とSIMの再発行を申請する。すぐ届くと思うが数日ケータイが使えないかもしれない。

 荷解きして、4日分+αの洗濯を一気にする。出先で洗濯・乾燥してきたらよかったかなぁ。

 友人から結婚の報告が手紙で届く。実は風のうわさでは聞いていたのだが、人から聞いただけの話をこっちから確認するのもな~と思っていた。友人は昨年秋の京都でのトークイベントに来て吾妻ひでおの不条理日記完全版をプレゼントしてくれた(ショパンのポケットスコアといっしょに)。手紙もそえてあり、すごくいいプレゼントでおれは感激した。

 ワタシも販促コメントを寄せた(どこで使われるんだろ?[注:1月16日に後述の商品ページで公開されました])lightmellowbu渾身のディスクガイド『obscure city pop cd’s 1986-2006』をご恵投いただく。これはそうとうな奇書で、「この本が出たからこういう音楽が評価されるぞ!」というよりも、現代日本における「ディグ」の極北をセレクトと文章の双方から味わう、みたいな趣が強い。もちろんこれを片手にブックオフやハードオフに行って音楽に触れるのがまっとうな使い方ではあるが、畏怖の念が先に来てしまう!

 あと、P-VINEが精力的に出しているローファイヒップホップのフィジカル、ライナーを書きました(Mr.KÄFER『On the Rhodes』、1月22日発売)。それの見本も届く。ローファイヒップホップは作り手側から見るか流通・供給・消費のアーキテクチャから見るか受け手側から見るかでかなり論点の違う音楽だと思っていて、そのあたりを軽く整理するような内容になっている……はず。

 「楽理的(≒音楽的、内在的)な解説」がもてはやされるのはいわゆる「印象批評」や歌詞の読解重視の潮流に対する意趣返しだろうと思うのだが、あたかも楽理だけが唯一正しい道具だみたいな空気ができるのもおかしい。印象でも楽理でもない広大な領域がある。たとえば政治社会文化(史)。

 疲労困憊、寝不足で、コンディション的にどうしようもない感じだったこともあり、仕事しないで休み続行! 明日からがんばる! って思ってたけれど、猛烈な不安に襲われる。締め切りが迫った仕事もいまはない(ちょっと早めに送ったのだ)。のだが、ざわざわと。なんか続報なく流れちゃったんかな~という案件をある文章読んでふと思い出したり、まだリサーチが済んでないあれやこれやを思い出したり。ああ……。安息の日は訪れない。

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1月12日

 8時前に起床。もっと寝ようかと思ったが寝付けそうになく、シャワーを浴びて荷造りする。日記を公開するタイミングについて考える。最低でも翌日、できれば数日〜一週間ずらしていきたい。

 9時半ごろ、ちょっとはやめにチェックアウト。ロッカーの鍵の保証代を払う。無念の支払いながら、言うて宿泊代に保証代をプラスしてもビジホ程度の価格だろう。とてもいい宿だったしまた京都来る時は泊まりたい。

 熊野神社のところのからふね屋珈琲でちょっと仕事していたら近くの席に家族連れがやってきて、男の子の「なぜなぜ」の喋り方がかわいいけどなんか聞き覚えがあるなと思ったら、かまいたちの心理テストネタで山内がやる「それで、なにがわかるのん?」にそっくりなんだと気づいて「これにだけは気づきたくなかった」と後悔した。

 所用で梅田に向かう。が、まずは阪急の駅目指して四条へ。寝不足のせいか、昼になってちょっとした悪夢のなかにいるようで、新京極から寺町あたりを歩いていたら昔見た悪夢(知らない通になんとなぬ入っていくと入れ子状になった京都がそこにあって、入ってしまうと抜け出せなくなる)の風景と現実の風景が入り混じってバッドトリップしてしまった。阪急に揺られながら寝る。なんとかなった。

 梅田での用件を済ませて京都に戻る(これいつ告知できるんだろ)。夜はまた龍門。の前に、マクドに入って仕事する。お腹が減りすぎてふつうに食っちゃった。

 龍門DAY2は時空が曲がったかのような感覚。昨晩ステージにあがっていた白紙や砂(SNJO)がテーブルにいるので変な気がする。前日よりインターネット性が高まり、クソリプの応酬みたいな会話が繰り広げられていた。Twitterすぎるだろ。とか言ったら砂にお前が言うんかい的な反応をされてぐうの音も出なかった。

 メトロに向かうおたくたちを見送ったのち、行き場所なくて川を眺めたり川端通りを眺めたり三条京阪の構内で公衆wi-fiを掴み仕事したりしていた。くたびれた。

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1月11日

 8時起き。寝たのは結構早くて、もしかしたら22時くらいなので、ひごろ6,7時間も寝れれば奇跡の一夜、みたいな身からすると、よほど疲れていたのだろう……。9時半くらいまでぼんやりしたあと下鴨神社へ。初詣。神社ってあんまり好きじゃないのだが下鴨神社は、なんか、どうしても好き。思い出がいろいろあるから。まあ、君が代の由来のさざれ石、とかいわれると、爆破したくなるが。御手洗祭はほんとにいい祭り、わくわくする。毎年行ってた。また行きたいな。

 学生時代、いまはカレー屋をやってる同期と久々に顔を合わせたら風邪かなにかで寝込んでおもゆくらいしか食ってないふらふらの状態で現れて、突き抜けて妙なテンションになった彼人と下鴨神社に行った…気がする。参道を歩いた記憶がある。違ったかな。いくつかの思い出が混じってるかもしれない。なんかFBによると入れ違いでおれが京都着いた日に関東に戻ってしまったらしい。京都でリユニオンしたら面白かったのに。

 おみくじをひいたら、小吉。しかしいいことばっかり書いてあるからがんばろうと思った。いわく、願い事は(努力と忍耐さえあれば)叶うし、事業も繁盛。学業もいい感じらしい。

 @KCUAでジョーン・ジョナスの個展。なかなか面白かった。初期作品はもちろん近年のパフォーマンスやインスタレーションも良い。以前RealTokyoにワコウでの個展レビューを書いたが、それ以来改めて好きになった作家。の、作品をまとめてみれたのも、やはり創作上の一貫性の太さに畏れ入る。

 河原町の丸善に鍵の落とし物がないか聞きに行く。なかったそうだ。まあしょうがない。

 宿に戻ってラウンジでちょっと仕事していたらフォロワーの方が現れる。ビビるが、疲労が勝つ。よく考えたらこの宿を知ったのはその人がツイートしていたからだった。都合の良い頭だなぁと自分で思う……。少し話す。

 晩はメトロでスクリューパイルドライバー。の、前に、遠征組ふくめたおたく一同で前飲み的に食事会。龍門の本店に集う。実際に会ったことあるのはひとりだけであとはインターネッツおたくピープル。おたくはすごい。面白い。某氏のトークスキルが活かされる場がないのか真剣に考えてしまう。余計なお世話だが…。

 メトロでは入場早々に荷物を入れたロッカーが壊れてる(金だけ吸い込まれて鍵がしまらない)というトラブルに見舞われて軽く気持ちがヤラれるが、受付に言ったら対応してもらえた。しかしずいぶんひさびさに来たら、メトロのロッカー、潰れまくってるな〜…

 ピアノ男、ニッチなようでいてサウンドのつくりは大箱映えもしそう…という謎のバランスでとても面白い。というか、マイナーな音楽と思ってるのはこっちだけで、本質的にガバもなんでもでけーところに映えるもんか。大ネタもでっけーところのほうがかえってあがる。

 長谷川白紙は全編感涙というほかなく、踊り狂った。見たのは二度目。実はあんまり見たことないんだ。前はUNITのCHOICEで見たんだったかな。そこでみたよりも変化してた…というか今回は新譜からの楽曲中心なので当たり前か。『エアにに』収録曲のポテンシャルは凄いな。もちろん「毒」や「草木」といった前作からのレパートリーも、もはやアンセミックですらある。

 油断するとこういう場所でも仕事の挨拶みたいな事態になる。クラブやライブハウスに名刺持って来るはずもなく。まあ名刺交換なんて儀礼だからね、とは思えどいざそういう場面だとあたふたしてしまう。

 keshigomuさん、マスター航太さんも良い、ビートミュージックから低音ブリブリのドラムンまでをフロアで鳴らして白紙のユーフォリックな雰囲気をリセットしてからのチップチューン。

 SNJOはビートと歌のバランスがすごく良くて、いかにも歌って盛り上げまっせではない、あえて言えばSSW的なシリアスさもありつつ、しかしサウンドはエッジのたったばきばきに踊らせるフロア仕様。それは音源でも感じられたことではあるけれど。たとえば自分の知ってるものにひきつけるとFantasy Club期のトーフを彷彿とさせるな…とか思った。といって内省とかでもないんだよな。当日おなじくMETROにいらしていたs.h.i.さんはOPN的という形容を使っていたが、音色から漂うシリアスさ(しかし息苦しさはない)はたしかにそんな気がする。

 Tomggg、大ネタを使っても余裕で自分のカラーにひきつけられるビートメイカーとしてのキャラクターとスキルがばきばきで、星野源から舌足らずなロリータウィスパー、ラッパーまでを全部並列させられると底しれない恐ろしさが出てくる。あと、音が異様にいい。おもちゃ感のあるがちゃがちゃしたサウンドを多用するのにあれだけ整然とクラブで鳴るの凄い。

 翌日の予定もあり、ぐぐさん終わりにさらっと宿に戻る。寝間着に着替えて、即寝。

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1月10日

 6時半に起きる。昼の飛行機で仙台から関空に向かう。関空からそのまま京都へ、って旅程は考えてみるとじゃっかんかったるいが、深夜バスで12時間ゆられるのとどちらがいいかというと。うーん。どっちもどっちなんだよな(深夜バス意外と苦じゃない派)。

 自民党の改憲広報ポスターがノリタケさんの画風パクりと話題の件、パクりかどうかよりも(みんな言ってるほど自明じゃないと思う、ちゃんと見たら別にそこまで似てはいない……この「ちゃんと見たら」のあたりにいろいろある)、「パクりだと言われないよう」配慮しただろう痕跡、たとえばノリタケさんなら描かないだろう顔のシワの追加など、のあたりに、現代的なやだみを感じた。いや、それこそ配慮の結果なのかはわからないけれどさ。

 鼻うがいをこの冬からはじめたのはいいけど出先で気軽に出来ない。これ、なんか方法あるのかな。鼻うがいのスキルを高めると塩と適当なカップさえあればできそうだけど、水道水はなんかやなんだよね。いつもは生理食塩水と専用の洗浄器でやってる。

 荷物は最小限で済ませるし。と思ってLCCの一番安いプランで預ける荷物はないつもりでいたのに、急遽増やした荷物が結構な重さになっていたために持ち込みできないことに。3000円弱払う。いいけど…なんか悲しい。本って重いんだねぇ… まあ本がなくても重量超過してたと思うけど。

 東浩紀の新潮に載った文章(ウェブに再録)を読む。実感として理解はできる。

 我田引水にパフォーマンスの話にひきつけると、マスメディアの発達によるあらゆる出来事の(潜在的な)スペクタクル化とハプニングやパフォーマンスの隆盛がなかば共犯関係にあったことはわりとオーソドックスな議論だろうと思う。東野芳明がニューヨークでみたハプニングをきわめてフォトジェニックであると看破したのは印象深いし、もっともラディカルにハプニングの可能性を追求したカプローの活動は次第にそうしたスペクタクル化への抵抗の色を強める。他方マスメディアに目を向けると、「ハプニング」は予定調和を破壊する偶然の導入としてテレビを中心としたメディアにもてはやされ、ほぼ日常語にまで浸透した。こうした「パフォーマンス≒アクション≒政治」とゆるく等号でつながる時代におけるマスメディアと前衛の結託をSNS時代に悪い形で再演してしまうことに対する抵抗はあるし、あってしかるべきだろう。

 ただそのとき、対立項として活動の見直しを制作にかける、というのがどこまで有効なのかは正直疑わしい。いまやSNSこそが活動であり、ならばそこから距離を置くためには制作だ、というのはシンプルすぎるのではないか。あと、そもそもいいねやRTで計量された活動とは果たしてなんなのだろう。なにを計量化しなにを評価しているのか。わからん。とりあえずアーレント読み返すか。アーレントは活動をなんらかのかたちで評価することについてなにか言ってるっけ。学生のときに読んだきりだや。とかいって、忘却の彼方にいってしまいそう。

 関空から京都まで電車。リムジンバスにするべきだった…ひどく疲れた。電車のなかにあったイーオンこども英会話の広告、キャッチコピーが「この教室が、セカイの入り口。」とのこと。セカイ系か?! と思った。天下茶屋で乗り換えるときに疲労と空腹で辛抱たまらずマクドナルドに入る。マクドナルドの店員が大阪弁だ。なんか変に安心する。

 京都ついて宿にチェックイン。神宮丸太町駅ちかくのホステル。写真の印象ままのいい宿だ。一休みしてから河原町の丸善まで歩く。やはり京都を歩くのは楽しい。本を2冊買う。

 帰りは出町柳まで京阪で向かい、ファラフェル・ガーデンへ。ケバブサンドとファラフェルを食べる。うまいもん食うのはほんといいことだ。

 しかし、宿に戻ると貴重品を入れるロッカーの鍵がない! ファラフェル・ガーデンに戻って問い合わせ、出町柳駅でも問い合わせ、それでも見つからず、さすがに河原町までまた行く時間でもなく… 受付に話すと苦笑気味ながら丁寧に応対していてだいて泣きそうになる。なんで泣きそうになるんだよ。自分でもよくわからない。

 スマホでアニラジ聞いて、寝る。

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1月9日

 6時くらいに起きる。暗い。バゲットにカット野菜とスモークサーモンを挟んでドレッシングをまぶして食べる。いっしょにのむヨーグルトも摂る。お腹の調子がよくなることを祈る(食物繊維と乳酸菌とタンパク質、いかがか)。

 グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』が届いていたので読む。わりと没頭してしまう。いろいろ微妙な書き方のところがあるような気もする(ぽろっと出てくる男性的、女性的、という言葉づかいとか。でも、本文中でペリー自身がこうした性差が社会的に構築されたものだという立場をはっきり示しているので、不整合ってわけでもなかろう。原文ではどうなのだろう?)が、男性(グレイソン・ペリーはトランスヴェスタイトだが男性である)が男性性の有害さについてユーモラスにエッセイとして記述するさまはやはり面白く、勇気が出る。このまま読み進めていく。

 男性性を批判して、解体していこう、と思うのはそうなんだけど、しかしそれは自分が(シス・ヘテロの)男性として生きてきた来歴からすれば、たとえいかに「そんな社会居心地が悪かったのだ」「そんな自分は自分じゃなかったのだ」と思っていたとしても、自分のアイデンティティの一部を否定することでもある。どんなに自分の(有害な)男性性に嫌気が差していてもそれもまた紛れもなく自分なのだ。ということを考える。自分を否定するってそれがどんな意図や意義や効能を持っていたとしてもなにかしらの痛みは伴う。それをどう乗り越えるか? を考える必要がある。

 夕方少し前、図書館に本を返しに行き、帰りにいきなりステーキに行く。炭水化物食べたらだるくなるし、肉をしっかり食べたら気合入らないかなとわらをもすがる思いで…。郊外型のいきなりステーキは都会のそれのもつ忙しなさとは違うまったり感があった。悪くないけど、通うほどではやっぱりないな。

 ついでにブックオフに行ったらいい感じに探してる本が見つかってほくほく。あと、もひとつ寄ったスーパーで修二と彰の「青春アミーゴ」が流れていて、「地元じゃ負け知らず」というくだりに「このひとら、なんで戦ってるんだ?」と考える。不良みたいなのだっけ。ぜんぜん思い出せない。思い出す必要さえないが。

 夜、酒を飲む。ビールをトマトジュースで割る、レッドアイ。基本的に酒は飲まないようにしているのだけれど、ふとレッドアイが飲みたくなった。度数が低めのカクテルをかぱかぱ飲むのはきらいじゃない。ビールとトマトジュースは体積で言うと50/50だが質量で言えば4:6とか3:7くらいあると思う。すると度数は2%台くらいか。ちんたら飲むから、ビールひとかんぶん(とおなじくらいのトマトジュース)を飲み終えても酔っ払ってるのか酔っ払ってないのか微妙な感じでよい。

 ところで男性性について考えていて思い出した、どうでもいいパーソナルヒストリーをここに書いておこう。人前に出している日記なので一応読み手にも配慮しておくが、シモの話なので飛ばしたい人は飛ばすこと。具体的に言うとちんこの話です。

 自分は20代の前半までながらく、皮がかぶっている、つまり「包茎」であるのがコンプレックスだった。これがやっかいなのが、いわゆる「仮性包茎」ではなくて、いっさい皮が剥けずちょっとちんこのかたちもいびつな真性の「包茎」だったのだ。

 いや、真性の「包茎」でなにがやっかいかというと、ちんこそれ自体もさることながら、世の中に出回っている「包茎」に関する情報は多くは「仮性包茎」に関するもので、整形外科の過剰宣伝かそれに反対する「仮性包茎は問題ない」とかいう話のどちらかばかりだってことだ。「仮性でない包茎なら保険が効く」といいつつ、じゃあ真性包茎ならいくらで治療できるんだよ、という確かな情報はなかなか見つからなかった。

 また、お金はいいとして、果たしてどこのクリニックに行けば(あこぎな商売に巻き込まれずに)治療できるかもわからない。ダメ元でコンタクトをとった泌尿器科からは断られ(「包茎治療したいんですが」って言ってむげもなく「ああ、うちはやってないんで…」って言われる恥ずかしさたるや!)、馬鹿高い金を取られて治療するかずっと放置するかの二択か? みたいになっていた。運良く大阪の梅田にあるクリニックで「これは保険で治療できます」と診断を受け、前後の通院や薬代含め総額2万円くらいで治療できたと思う。もうちょっとしたかな?

 誰かと付き合ったことがほとんどなく(まあこれは自分の人間性の問題だが)、学生時分にできた恋人ともセックスしなかった原因は、もっぱらちんこが妙だからだった(それがわかれた原因ではない、一応)。かといって、じゃあ包茎を手術して治したからそういう自信ができたかというとそうでもない。ただかんたんに清潔にできてとても暮らしは楽になった。勃起時に皮に抑え込まれて不快感や痛みもあったので、それがないのも良い。変な生え方をして痛んでいた親知らずを抜いた、みたいな気分というか。

 そういうわけでいまだに(30をこえてなお)童貞なのだが、これを書くのは非常に迷うところである。人と話していると「ある」前提で話がすすんだりして気まずかったりするから言ったほうが楽な気もする。でも「バンジージャンプしたことない」とか「草津温泉に行ったことがない」のとさして変わらんくらいの気持ちでいるので、それを過剰になんか言われるのも嫌だ。そもそも本題は「包茎」なのでね。「本題が『包茎』」ってのもなんなんだって話だけど……。

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