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第6回ポプミ回報告(金悠進『越境する〈発火点〉――インドネシア・ミュージシャンの表現世界』風響社、2020年)

4月10日(土)15時~ポプミ会開催しました。講読文献は金悠進『越境する〈発火点〉――インドネシア・ミュージシャンの表現世界』(風響社、2020年)。自分でレジュメ切って2時間で駆け抜けた感じになりました。

この本はいろんな意味で面白くて、まずハリー・ルスリというインドネシアの伝説的なミュージシャンを柱にしている、という題材も面白いし、率直に綴られる「ハリー・ルスリについて書く」に至るモチベーションも面白い。アカデミシャンとして研究や個々の論文に求められる明快さや論旨の一貫性がおのずと排除してしまうある人物や出来事。それが、金さんにとってはハリー・ルスリだった、という。じっさい、60ページほどの短いブックレットで描き出されるハリー・ルスリの姿は、論文としてすっきり論じるにはどこかはみでてしまう多面性を兼ね備えている。しかし、だからこそこうしたかたちで日本語で読める文献が残っていることが貴重だと思う。かつ、ハリー・ルスリという特異な個人を語るのみならず、その姿がさまざまな問題意識に接続されていくのがはしばしに読み取れて、二重に面白い。つまり、ハリー・ルスリを知れる面白さと、ハリー・ルスリを論じるにあたってとられたアプローチの面白さと、そのふたつがある。

当日は金さんにもご出席いただいて、ところどころで出た質問についてコメントをいただくことができた。ありがとうございました。ちなみに金さんの最新論文「「シティポップ」なきポップス —ジャカルタ都会派音楽の実像—」はジャカルタにおける西洋のポップミュージックに影響を受けた音楽や近年の再評価を論じたもので、日本発とされる「シティポップ」ブームをめぐる言説を相対化しつつ新たな視座につなげる意欲的な論旨。一読に値するものです。

で、ポプミ会はここまでをファーストシーズンとしてしばらくお休みします。またの機会に。

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第5回ポプミ会報告

あやうく書き忘れるところだった。3月7日(日)、第5回ポプミ会やりました。わりとゆるい(なんであの日のおれはあんなにゆるかったんだ)感じになってしまいましたが、レジュメ&進行担当してくださったれみどりさんやコメントいただいた皆さんのおかげでまた興味深い会になりました。ありがとうございました。

特に動物豆知識botことykicさんが終盤にふっとあらわれて、読解の補助線になる文脈をふくめてまとめてくださって、非常に見通しがよくなったのが印象的でした。登場する個々の要素は興味深いものの、個人的にそこからいろいろ連想がふくらんでしまって全体の見通しが迷子になってしまっていたので、(もともとがレクチャーというのもふまえれば)精読していくよりは全体のマッピングとそこから主張されていることをピンポイントで抑えていったほうが良い、などのまなびが……。

次回は金悠進『越境する〈発火点〉 インドネシア・ミュージシャンの表現世界』(風響社、2020年)を読む予定です。ただ、どのくらいの分量をどういうペースで読むかはちょっと考え中。抜粋的に読むか、数回やるかになるか、どちらかになるかと思います。

取り急ぎ、以上!

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鈍さ

 いつからかほうれん草が苦手だった。給食にでてきたほうれん草のごまあえがとんでもなくきらいだったのは覚えてる。いまあらためて思い返してみると、ごまの独特なあまみとほうれん草のなにかごわごわするようなえぐさとかにがみとかそれ自体のあまみとかが互いに互いの欠点を増長させているみたいなところがあった。そののちほうれん草のいろんな食べかたを知るようになっていくとあのごまあえほどの嫌悪感はなくなっていき、ついぞおいしく食べられるくらいにはなっているのだけれど、はじめにうえつけられたほうれん草のえぐみの印象のおかげでいまだにうっすらと「ああ、ほうれん草か……」と思ってしまう。

 あれってようするにほうれん草がもっている特定の刺激にたいして過剰反応した、それがずーっと尾をひいているのだと思う。いらい、ちょっとでもその刺激を受けとるとほかのあらゆる刺激がマスキングされて「逃げろ!」と命令がくだされる。

 きらいなたべものがあるようなひとはよくわかると思うけれども、「いやな味」に対する敏感さというのはけっこうなものだ。きらいな野菜は細かく刻んでわからないようにしてしまいましょう、とか言うけれど、きらいなものにかぎってセンサーは敏感なものだから、食感ではなく味が問題になっているときにはそれも効かないんじゃないのか。むしろこれでもかと濃い味つけでうちけしたほうがよさそう。でもなんでそこまでして嫌いなものを食わんといかんのか。おれにはよう分からんが、すごい、それは、素晴らしいことだ、かもしれませんね(向井秀徳)。

 閑話休題。マスキングの話。

 「歳をとるとむかし食べられなかったものが食べられるようになる」ということを「老化現象に伴う感覚の衰え」と評してシニカルに捉えるひともすくなくない。自嘲のつもりなのか、他人に冷水をあびせているつもりなのか知らないけど。そもそも「感覚が鋭いほどよい」って錯誤だと思う。むしろその鋭さは往々にしてあまりにピーキーで、うまく付き合っていくのはむずかしい。

 鋭さというのは必ずしも豊かさではない。さっき書いたみたいに、ある突出した刺激によってほかの刺激がマスキングされてしまうとき、鋭さは鈍麻に急接近していく。そして拒絶に至る。一定の鈍さがなければそうした反応を度外視して分析することも判断することもできない。分析や判断というのは、あるいはそれらをひっくるめて批評的な営みと言ってもよいが、鈍さを土台にして成り立っている。たとえばテクストの読解とか対象のディスクリプション、あるいはアウトプットに際してのライティングスキルとかっていうものは鈍さを身につけるためにある。

 その鈍さのうえにあってはじめて対象がそれ自体にふくんでいるさまざまな面に注意を向けることができる。ただただ自分を刺すように思えた強い光のなかにじつは数え切れないほどの色味が含まれていることに気づいたりする。すくなくとも、鈍っていくことを喪失としてあわれむことはない。場合によっては、それは訓練してまで身に着けなければならないものでもある。

 しかし「一定の鈍さがなければ分析も判断もできない。」というのはなにか剣呑な響きがある。そのとおりで、分析や判断の俎上に載せるということは鈍さの行使であり、その鈍さは感性的なものからにじみだして倫理的・社会的なものへもはみだしていく。あまりに鋭く刺さりすぎてどうしようと鈍くなりようのないなにかを抱える人びとにとって、分析や判断というものはその鈍さゆえに、侵犯や暴力のように思えるだろう。というか、じじつ、侵犯であり暴力である。程度の差はあれ。

 とはいえ、だからといって鈍さの暴力をあえて言祝ぐつもりもなければ、逆に糾弾するつもりもない。ただ、鈍さはそれ自体重要な能力であることは認めてしかるべきだと思う。そして「これは鋭い!」と膝を打ちたくなる洞察の根底には往々にして鈍さやその暴力性が埋め込まれている、というのも、認めなければならない。それだけの話といえば、それまでだ。

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ポプミ会報告(西村紗知「椎名林檎における母性の問題」(すばる2021年2月号掲載、すばるクリティーク賞受賞作))

2月6日(土)、第4回ポプミ会を開催。西村紗知さんによるすばるクリティーク賞を受賞した論考「椎名林檎における母性の問題」を読んだ。批評同人LOCUSTの伏見瞬さんがつないでくださり、西村さんご本人にも参加いただいた。本人降臨回。

これまでポプミ会で読んできた文章は論文だったりレクチャーを元にした書き起こしだったりして、比較的リーダビリティが高いものが多かった。けれども「椎名林檎における母性の問題」は冒頭からめちゃくちゃ圧縮されたレトリックで論旨が提示され展開していくもので、いわゆる批評らしい批評――まあざっくり言えば「論文」でも「解説」でもないなにか――という印象があった。それだけに、読書会でどのように読み込んでいけるのか? をなかなか掴みづらく感じていた。実際、自分がまったく頭がおいつかなくなって会の途中で機能停止してしまうトラブルまで生じてしまった(参加者のみなさんすみませんでした……)。

しかし、論中に登場する固有名詞(江藤淳、加藤典洋、河合隼雄、上野千鶴子……)が持つコンテクストを参加者、というか伏見さんから補足してもらえたり、熱心に読み込んだ方から疑問点や感想も提示されて、有意義な会になったように思う。

個人的にアツかったのはひととおり論考を駈け抜けたあとで西村さんに伺ったビハイド・ザ・シーン的なポイントで、いかにもキーとなるあの引用が実は偶然の出会いの産物だったとか、なんとか…… 構想から着手、完成までのひとつひとつのお話がとんでもなく面白く、かつものを書いたりする人にはとてつもないエンパワメントだった。どこかできちんとお話伺いたいところでもある(その場合どういうたてつけにするかが難しいけれど)。一言印象的だったのは、この論考が「生活実感から生まれた」ものだと断言されていたことか。

都合4時間という長丁場にも関わらず参加してくださったみなさん、ありがとうございました。いつもなら次回の予定なんかざっくり話すんですがもう余裕がなくなってしまったので、そこはまたサーバーのほうで連絡します。

ああ、ご本人の話が面白かった、ですますのもよくない。論考の魅力というのは大きく、この論考自体を読書会という場で議論を発展しつつ整理しつつ読むことで、論旨というよりも、書き方という点でめちゃくちゃ学びがあったのだった。

たとえばエッセイ的な導入からはじまって、論考全体をつらぬくモチーフが極度に圧縮されつつ提示される第1節から加藤典洋の直観から導かれた椎名林檎の作家性を、最低限の道具立てによる簡潔な作品分析によって肉付けしていく第2節の流れは凄いと思う。

以後、歌詞にあらわれるモチーフから作風の変化を読み解きつつ、江藤淳が突然参照されて議論がドライブし、「母性」の問題にフォーカスがあたっていくところも(その道具立てがどこまで有効たりうるかはひとまずおくとして)面白い。なんというか、印象批評からややアカデミックな分析、そして文芸批評までを貫通してしまう書き方自体が。

第8節においてはギアがもう1段入って一気に射程が社会論まで広がり、第1節以上の密度でさまざまな問題提起が矢継ぎ早に行われる。アジテーションに達しそうな言葉の連なりによって、椎名林檎に向けられていた批判的な眼差しが実はリスナーの側、読み手の側、社会の側にこそ向けられてしかるべきものであることがわかる。いい意味でドラマチックで、そのドラマによってこそ飛躍にも思えるギアチェンジが可能になっているように思う。

さっき、「批評らしい批評だけに読書会でどう読んでいけるのかわからなかった」ということを言ったけれど、それをもうちょっとくだくとこうなる。最初に問いがあり、仮説をおき、それを検証する……というような、いわばQ&Aに還元できるような文章ではない。むしろ、問題意識があり、それに自ら応答する、というダイナミズムによって駆動し、説得するよりもそうしたダイナミズムを読み手のなかに喚起しようともしている。そのとき、「こういう主張がこういうロジックで行われていますよね、その道具立てはこれですね、勉強になりますね」みたいなまとめ方って多分向かないよな、ってことだったのだと思う(終わって思い返してみての結論だけれど)。でもそういうのにこだわらないでやってみるぶんにはすごく面白いなと。

しかし相変わらず、場のオーガナイズというか、ファシリテートは難しい。参加者も増えてきたし、なるべく「喋る人、聴く人」みたいな垣根が低くできるようなバランスを目指したいが、やってみるといっぱいいっぱいだ。割り切って、気のおけないおしゃべり感覚でやっても別に困りゃしないんだろうけどもね。

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第1回 #裏ポプミ会 報告

1月16日(土)、ポプミ会(ポップミュージック読書会)の裏企画として、さきごろ最終回を迎えた近田春夫の長寿連載「考えるヒット」の読書会をやろうと思いたって、ポプミ会参加者有志と一緒にやりました。「考えるヒット」は文春文庫である程度まとめられているので、それを頭から読んでいくかたちで。

これが結構おもしろく、たとえば第1回からいきなり安室奈美恵とSMAPをあまり評価しない。つまんない、とか言って。でもここで取り上げられてるSMAPの曲って「shake」なんですよね。個人的に、わりとこのへん90年代SMAPの黄金期ってイメージ(「shake」、「Dynamite」~「夜空ノムコウ」とか? 96~99年かなあ)だったんでちょっと意外。一転、連載がはじまっておそらく筆がノッてきてる段階でリリースされた次作の「Dynamite」はものすごい高評価だったりして。ただ評価されている/されていないポイントを踏まえていくとまあ納得なんだよな。

全体的に、いかにもオジサン(当時近田春夫は40代なかば)が週刊誌で書くコラムだなぁ、下世話だなぁ、と思っちゃうような、いまから見ると手を余す表現もしばしばある。たまに楽曲の話を一切せずにゴシップ話で終わるときもある。苦笑。でも、はしばしに冴えた評が出てきてびっくりするほど面白い。よりあつまって「これはひどすぎ」「ここは凄い」とか言いながら読んだほうが距離感をうまくとれるかもしれない。

あと、毎回2曲とりあげるうち、1曲への言及はひとことで済ます、みたいな「考えるヒット」定番の構成というのがあるわけですが(参加者からも指摘があった)、それでいくとミスチルとスピッツが取り上げられたときにはもっぱら当時週刊誌をにぎわせたミスチル桜井の不倫報道に絡めた話を延々とした挙げ句、ミスチルの寸評を最後にさらっと書いて、締めに「スピッツも同様」みたいなことを言い出す。「スピッツへの言及、俳句より短い!」と参加者が仰天していた。この緩急も、ツッコミいれつつ読んだほうがいいかも。

結局、3時間弱くらいたらたらと読んで、ボーナス・トラックを除く1997.1.2・9号掲載分から1997.4.3号掲載分までをこなした(ちょうど初回がshakeの話で4.3号のがDynamiteだったの)。おもしろかった。またやります。

ちなみに、会もいよいよ終了、というタイミングになったときに、参加者のなかに衝撃のゲストがいらしていたことが判明し、びっくり。サーバーにログが残ってるんで、まあ見れる人は見ていただくと「ひょえー」となるかも。いや、ご本人じゃないですよもちろん。笑

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ポプミ会報告(大和田俊之編著『ポップ・ミュージックを語る10の視点』より渡辺志保「ヒップホップ・シーンの裏側」)

1月9日、第3回ポプミ会を開催。だんだん感じがつかめてきました。読んだのは渡辺志保「ヒップホップ・シーンの裏側」(大和田俊之編著『ポップ・ミュージックを語る10の視点』アルテスパブリッシング、2020年より)。インターネットやセレブカルチャーといったヒップホップをとりまく周辺の環境についてまとめた2つの節と、渡辺さんが偏愛するアトランタ現地の様子を紹介する1節からなるレクチャーで、かなり脱線しつつ盛り上がりました。また3時間超えてた……。

2000年代後半から2010年代初頭にかけて、インターネットのプラットフォームを通じたヒップホップのエコノミーが発展した、というのが第一の論旨で、このあたりはいわゆる「インターネット老人会」的な話題が参加者からどんどん出る結果に。ゴシップカルチャーについては、音盤至上主義的な音楽好きのアティチュードとは異なる視点でもあって、いろんな連想が浮かびました(個人的には、ヒップホップとゴシップカルチャーが特に結びついているというよりは、アメリカのポップスターがそもそもゴシップ的消費を巧みに使ってきた系譜もあるのでは、という感じも。それでも、ストリートからうまれたヒップホップがそうしたゴシップカルチャーと親和性を高めた理由について議論が出たりも)

アトランタの話では、日本におけるローカルなシーンの(不)可能性、みたいな議題になってったんですが、これはこれでひとつがっつり本なり論文なり読んで改めて議論してもいいかも、と思いました。

レジュメを担当していただいたのは吸い雲さん(https://suimoku1979.com/)。こちら(Google Docs)から確認できます(参考文献なども盛り込まれて読み応えがあります)。ありがとうございました。

次回は、文芸誌「すばる」の主催するすばるクリティーク賞を本年受賞した、西村紗知「椎名林檎における母性の問題」(すばる2021年2月号掲載)を読みます。日程は追ってTwitter等で告知します。

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ポプミ会報告(大和田俊之編著『ポップ・ミュージックを語る10の視点』より永冨真梨「カントリー・ミュージックの新潮流と多様性」)

先月からはじめた読書会(ポプミ会)、2回めをやった。大和田俊之編著『ポップ・ミュージックを語る10の視点』(アルテスパブリッシング、2020年)からいくつか章をピックアップしての開催。1時間・1時間で2本くらいやれたらいいかも? と思っていたけど蓋を開けてみれば3時間40分かけて1本(永冨真梨「カントリー・ミュージックの新潮流と多様性」)を読むことに。阪大の加藤さんがつないでくださって永冨さんにも参加していただけたため、いくらでも話が盛り上がってしまったのだった。前回よりもボイスチャット・テキストチャット双方の回転がよかったのも印象的だった。

具体的な内容についてはさまざまトピックが出てきたけれど、マスメディアやレコードの登場にともなって現代的な産業としてのポップ・ミュージックが確立していったその大きな流れと共にカントリーもあったということを再確認した。また、あるジャンルに対してなんらかの要請によってかたちづくられる「正史」や、メディアを通じて醸成される「ステレオタイプ」に関するケーススタディとしても興味深かった(ある意味輪島裕介さんの『創られた「日本の心」神話 ―― 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』なんかを思い出したりもしつつ……)。未読の方にはぜひ読んでいただきたい文章でした。

Discordでの読書会も、慣れてみるともしかしたらもうちょっとうまくファシリテートできるかも? という感じが出てきたので、やっぱり継続してみないとわからんもんですね。ボイスチャットとテキストチャットで話題が別々に盛り上がってたりしたのがくらくらして楽しかった。

レジュメ(こちらから参照可能→Google Docs)を担当してくださったのはブログ「👼と♨️のᎩuКꂅოuᏒᎥ լᕱც」主宰で、局所的に話題沸騰中のゲーム「#3000円ブックオフ」の発案者である♨さん。進行も担当していただきました。ありがとうございました。改めて著者の永冨真梨さんにもお礼申し上げます。

次回は年明けにやる予定です。日程は調整中。今回読めなかった、前掲書から渡辺志保「ヒップホップ・シーンの裏側」を読みます。よろしくです。ちなみに前回の報告は以下。

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ヨルシカ「創作」の販促のあれ

ヨルシカがニューEP「創作」が2021年1月27日(水)に発売される。Type AとType Bのふたつのバージョンがあって、前者が通常のもの、後者がパッケージもなにもかも同一だがCDだけが入っていないものだという。いわく、「サブスクリプションサービスなどで気軽に音楽を楽しめるデジタル時代となった今、“CD”の在り方をCDショップで問う、皮肉が込められた作品」とのこと。

しかし、これってたしかに「CD屋に並んでるのにCD入ってないんかい!」という程度の皮肉にはなるかもしれないが、ただそれだけだ。ちょっと気の利いた冗談、みたいな。n-bunaいわく、

だそうだ。やってるほうは「すげー! おもしろい!」ってな具合で気持ちいいのかもしれない。

歴史的に見れば、「この時代にCDを買うってどういうこと?」という問いかけは繰り返し行われてきたものだ。プリンスが新作を新聞の付録にしてしまったり、レディオヘッドが投げ銭でデジタルリリースしたり、ネットレーベルのMaltine Recordsが「コンピ収録曲はデジタルデータでダウンロードして、付属のCDRに焼く」というリリースをしたり、あるいはゴールデンボンバーが楽曲データをダウンロードできるQRコードを無料公開してしまったり……。これもほんの一部の例に過ぎない。

ヨルシカのやろうとしていることが、めちゃくちゃ新しい、ということはない。まあ別に新しかったら偉いわけじゃないからいいけど。それに、こういう突飛な企画を通せた、その点はすごいアーティストであり、チームだなーと思う。

しかし……それでも、あまり感心する企画ではない。

そもそも、仮に定額サブスクリプションサービスの普及したいまCDの意義を再考しようというのならば、サブスクとCDの性質をわける「使用」と「所有」の二種類の権利のありかたを考慮しなければならないはずだ。

つまり、サブスクの場合はプラットフォームが提供するカタログ内の音源を都度ストリーミングして再生する権利に金を払っている(サービスを「使用」することに金を払っている)のに対して、CDの場合はそのオブジェクトやそこに格納されたデジタルデータを法の許す範囲内で「所有」する権利に金を払っている。それゆえ、プラットフォームやそこに許諾を出している権利者の都合によってカタログのラインナップは随時変化し、「ある任意の作品をいつまでも聴ける」という保証はない。CDならばそれが手元にある限り、いつまでも聴けるし、私的利用の範囲内であれば複製もできる。

サブスクが普及してもなお「CDを買う」ことの意義のすくなくともひとつは、支払った金銭に対して与えられる権利のこのような差異にある。ここに切り込まずして、「CDを買う」ことを問うことはできないのではないか。

あるいは、ある種のファン向けグッズのようなかたちでフィジカルメディアを捉える、という行き方もあるだろう。握手券やなんらかのチケットを同封するいわゆる「AKB商法」をはじめ、凝ったパッケージデザインや付録で付加価値を付けることはすでに広く行われている。

ヨルシカの今回のケースをもうちょっと深く考察するならば、文脈としてはこちらに近い。つまり、CDショップに並ぶCDとはいまや音楽を記録したオブジェクトというよりもある種のグッズであり、そこに実際に音楽が記録されているかどうかはもはや関係ないのではないか? というような。

しかし、その前提にたつと、ちょっと意地悪な読みをすることもできる。

現在、CDはしばしば複数のバージョンが同時に発売される。収録曲が違うとか、ジャケットデザインが違うとか、付録が違うとか、やり方はさまざまだ。熱心なファンは、こうしたバージョン違いをなるべくコンプリートするために、自分の財布が許す範囲で複数買いするだろう。

すると、オリコンなんかの集計では、バージョン違いも統一してひとつの作品としてカウントされるから、売上枚数≠買った人数という状況がうまれる。それを鑑みて、ビルボードのような複合指標においては、そのCDを読み込んだり再生したりした人数(=ルックアップ)を指標のひとつとして設けて、売上と購買人数の不均衡にある程度対処していたりもする。

さて、ヨルシカ「創作」の場合はどうか。よくあることだが、この作品はType A/Bの二種類だけではなく、購入店舗ごとに異なる特典が用意されている。その数、9種類。さすがに全部コンプする猛者はごく少数で、ファンのなかには断腸の思いで「これは欲しい!」という特典を選び抜く者が多いだろう。しかし、今回はお求めやすい価格となったType Bがある。Type Aが1900円(外税)なのに対して、Type Bはなんと半値近い1000円(外税)。CDは入っていないが、もともと複数枚買ってもCDがダブって困るだけだからむしろ都合がいい。予算が5000円しかなかったら2枚しか買えなかったところが、これなら4枚(Type A×1、Type B×3)いける!

ってのはさすがに冗談だけど、こう考えてみると、今回の企画は「皮肉」ではなく、むしろCDショップや小売店チェーンと組んだ販促キャンペーンのやり方としてきわめてよくできている、とさえ言える。ただそれだけだとエグい商売みたいに見えちゃうけど、「サブスク時代にCDを買うとは……」というそれっぽい問題提起をしているふうにも見えてごまかせる。

しかし、そこに本当に批評性が――特に「メディア・アート」というからには――あるだろうか?

とかいうとめちゃくちゃヨルシカをくさしてるみたいになったけど、曲はすごく好きです。エレクトロニカっぽいエディット感や空間づくりが好みなんですよね。こないだ出てた「風を食む」もめっちゃよかった。ただ今回の企画はちょっとげんなりって話。CDは……Type Aを1枚買うかな。

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読書会をやった

ポップ・ミュージック読書会(仮)、通称ポプミ会というのを始めた。単純に、文献とか読むときにひとりだと寂しいしモチベも持続しにくいので。といっても、「これを読みたい! いや読まねば!」みたいなそういう個人的な実利よりは、人と喋りながら読む機会をつくることに主眼をおいている。これで定期的に人前で読んだものについて話すリズムができたら、自分の勉強もサイクルができるのでは……と期待しつつ。

初回は11月22日(日)、専用につくったDiscordサーバーで行った。ボイスチャンネルを中心に、適宜テキストチャットも用いながら会話するかたちだ。読んだのは、SNSで軽くバズった、モーリッツ・ソメ「ポピュラー音楽のジャンル概念における間メディア性と言説的構築——「ジャパニーズ・シティ・ポップ」を事例に——」だ。これ、阪大音楽学研究室のジャーナルに掲載された翻訳論文なのだが、折からのシティ・ポップ・リバイバルもあり注目を集め、問い合わせが殺到。当初は予定になかったPDFでの配布が急遽実施されることになったほどだ(ダウンロードはこちらから)。

初回だし……と自分でレジュメを切り、当日はホスト的に進行。参加者は十数人ほどだったと思う。ボイスチャットでアクティヴに話していたのはわたしを含めて4,5人で、声では参加しないけれどテキストチャットでコメントを流してくれる人も数人おり、タイミングを見つけてテキストチャットの読み上げをして流れをフォロー、みたいな感じで進めた。

どのくらいの長さになるのか、読みきれるのか、まったくつかめないまま見切り発車で始めたこともあって、3時間ほどの長丁場になってしまった。ディスカッション自体はそんなに途切れなかったので密度は高かった。次回も3時間? やってもいいが、多少休憩などペースの調整はいる気がするな……。

講読文献の翻訳を担当した阪大の加藤さんが参加してくださったこともあり、論文のよってたつ文脈や細かい解釈などについてコメントいただきつつ進められた。これはよかった。あやうく五里霧中になるんじゃないかと思えたタイミングがあったので……。今後読む文献の性質にもよるが、著者や訳者を招くことができるのであれば、試みてみたい(とか言っていると、お前の本読んだらいいんじゃないのかみたいな提案があったりして、やぶ蛇なのだが……)。

終盤は、論文のむすびが近年の海外から逆輸入的にもたらされたシティ・ポップリバイバルのまとめだったこともあり、そこから派生して今後の展望みたいな話になり、自分からはネオシティポップの見直しとか地方文化との接続が大事なんじゃないかという提案をしたりした。そのへんは加藤さんによる書評論文(「〈書評論文〉「シティ」たらしめるものは何か?:シティ・ポップ研究の現状と展望」。ソメの論文と同じページからダウンロード可能。)でも軽く触れられているポイントだ。

反省点としては、もうちょっとアクティヴに話す人が増えるようにファシリテートできないかなというところ。あと、録音なりなんなり、ある程度記録を残しておいたほうがよさそう、ということ(院生のときは読書会では議事録とったりしてましたな……)。これは次回にいかしたい。とはいえ、あくまで自分が言い出しっぺで他の人には参加していただいているという立場なので、むずかしいなあ。

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ルールをつくってコミュニケーションを撚りなおす(「自慢をたのしく言いたいし聞きたい」へのコメント)

デイリーポータルZで「自慢をたのしく言いたいし聞きたい」という記事を読んだ。與座ひかるさんによる記事だ。かいつまんで言えば、「自慢話をしてOK」な場をつくってみんなで自慢話しあおう、というだけの話なのだが、そこから見えてくるコミュニケーションの機微がおもしろい。

自慢話は、他人から聞くのもおっくうだし、自分で話し出すのもなんだか気恥ずかしい(イキって自慢話しちゃった後の後悔よ……)、じゃっかん厄介なトピックだ。しかし、あえてルールをつくって自慢話に挑んでみると、思いの外楽しいし見えてくるものがある。

この点、非常に重要で、日ごろなんとなく「嫌だなぁ、めんどくさいなぁ」と思っているコミュニケーションのあれこれは、実はその行為そのものというより、そのやり取りのなかに潜んでいる暗黙のルールだったり、あるいは相手との関係のあり方、ヒエラルキーなんかに強く依存していたりする(もちろん、個人の経験や信念から「こういう話題は嫌だ」というのも当然あるんだけど)。

「自慢をたのしく言いたいし聞きたい」は、暗黙的なルールにのっとって行われているコミュニケーションに明示的なルールを設け、改めてその性格を発見しなおして確認する、という実験になっている。そのプロセスをじっくり観察すると、いつものコミュニケーションに含まれるヤダ味が陰画のように浮かび上がることになる。また、意識せずにのっかっているルールを自覚することで、よりローコンテクストな、開かれたルール作りを考える土台になるかもしれない。

與座さんがデイリーで書いている記事は数多いが、同じようにルールの力でなにげないコミュニケーションの仕組みをあぶり出すものが結構ある。たとえば「斜にかまえる、かまえないを1分ごとに切り替えるとどうなるか」とか、「「主語の大きさ」をくじ引きで決めるとどうなるか」とか。「同窓会で昔話を禁止するとどうなるか」もいい。どれも、「あえてやってみる」の契機をつくる(というのがまさにルールなのだが)ことでうまれるコミュニケーションの機微とそこからの発見がふんだんに含まれている。

おもしろい。のみならず、なにより思うのは、これらがいろんな可能性を持っているということだ。

記事で行われている実験は、知り合いなどを募っているから、その関係によって成果が担保されている部分も多いだろう。しかし、ある程度ルールの設計を見直せば、誰でもその実験の成果を追体験することができるはず。だし、それは「追体験」に限らずまた別の発見が人によってうまれてくるだろう。適切にオーガナイズ&ファシリテートさえすれば、コミュニケーションに関するワークショップとして有意義なものができるように思う(それが一番むずかしいんだけど)。

コミュニケーションの専門家(心理学者なり社会学者なりなんなり)を監修とかコメントに迎えて単行本や新書の一冊でも編めそうだなと思う。ワークショップ集みたいにできるように。それを読んだからって「聞き上手になる」とか「話し上手になる」、「プレゼンがうまくなる」みたいなことはない、だろうけど。見かけはそんな感じで。ビジネス書のふりしたライトな人文書みたいな。

ともあれ、単にコミュニケーションを円滑に、効率的に行えるだけじゃなくて、どのようにしてコミュニケーションが成立しているかを思考する。それこそが一番重要で、必要なんじゃないのかと思う。それを考える人が増えれば、理不尽さや暗黙のルールに押しつぶされる人が少なくなるんじゃないのか……と。

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