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imdkm.com 投稿

『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』を観た話

(スマホの音声入力を加筆修正したものです)

『アメイジング・グレイス/アレサ・フランクリン』見てきました。すごい映画で、何がすごいかっていうと、アレサ・フランクリンのパフォーマンスがすごいっていうよりは、まずこの映画がライブパフォーマンスの記録であると同時に制作過程のドキュメンタリーである。そもそもこのパフォーマンス自体が、オーディエンスを前にしたライブパフォーマンスであると同時に録音作品を作るためのセッションでもあり、さらに宗教的な儀式でもある。それがこの映画のユニークなポイントで、頭から最後までずっと凄いパフォーマンスが見れるって言うよりは、ものすごい緊張感が溢れてる時もあるし、アクシデントがあってもユーモラスに場を盛り上げたりとかみたいなやりとりもあるし、「ちょっともう一回テイクやり直させて」みたいなときもあったりして、完璧なパフォーマンスが奇跡的にその90分納められてるとかではなくて。むしろ、アレサ・フランクリンのパフォーマンスのレベルがすごく高いというのは前提ではあるんだけれども、いろんなレイヤー、さっき言ったみたいなドキュメンタリーでありライブでありレコーディングセッションであり宗教的儀式である、そのいろんな要素全部がその噛み合ってドライブする瞬間ってのがあって。それが訪れる時の迫力が一番印象的な映画でした。第1夜の最後の「アメイジング・グレイス」の絶唱であったりとか、第2夜最後の「ネヴァー・グロウ・オールド」であったりとかもそうなんですけど、ある瞬間にみんな極まっちゃってその場で立ち上がっちゃうみたいなのがこの画面越しに伝わってきて。アレサのパフォーマンスが、ある瞬間に、その場や時間が持ってるコンテクストを突き抜けて一つの「作品」になってしまうその瞬間っていうのが見所だったなという風に思いました。

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ブライアン・イーノ「作曲の道具としてのスタジオ」1979/1983

ブライアン・イーノ「作曲の道具としてのスタジオ」1979/1983

ブライアン・イーノの講演・エッセイ、The Studio as a Compositional Tool(1983)の訳。勝手訳なので予告なく削除することがあります。ノン・ミュージシャンーーつまり伝統的な音楽教育を受けてもいなければ、自ら楽器を演奏するのが仕事でもないーーなミュージシャンの存在を可能にした20世紀のテクノロジーの発展について自身の経験をもとに語ったもの。「録音」とはなにか、「多重録音」がもたらしたものとはなにか、が平易に語られる。40年以上前のレクチャーだから最先端のテクノロジーを説明しているわけでもないし、各テクノロジーが出現した正確な年代とか固有名詞を知れるタイプの文章ではないけど、知的好奇心をくすぐられるものではある。

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教室にいなかった人

中学のときに学校に行けなく/行かなくなって、結局全日制の高校にも行かなかった。試験は受けるだけ受けたけど落ちたのだった。それで親がいろいろと調べて通信制の高校に通うことになった。将来が不安すぎてあんまり楽しい生活ではなかったけど毎日教室に向かう必要もなかったし気楽ではあった。多分いまと生活はあまり変わっていない。

さっさと卒業してしまいたいと思っていたからちょっとタイトに単位をとって3年で出た。けれどふつうは4,5年くらいかけるし、10年くらいかける人だってざらにいる。たまたま環境の手助けもあって(たとえば学費や生活費のためにバイトをしなくてよかった、とか。勤めている人だって少なくないのだ)全日制の高校に通うのと遜色なく進級できたのだが、それがかなり例外的だったのはたしかだ。

中学2年から高校3年相当まで、実質、いわゆる「学校」には通っていなかった、と思う。まあ厳密には保健室に通っていたこともあるし、通信制の高校も立派な学校ではあるんだけど。世間に流通する「学校」のイメージや、当然のように語られる「学校」の姿に馴染みがなさすぎて、自分はそんなところにいなかったよな、と感じるからだ。

覚えているのは真新しいビルのなかにある会議室みたいな教室であり、窓からやたら殺風景な街の風景を見下ろすカフェテリアであり、あるいはNHKの高校講座の録画ビデオが置いてある図書室だった。駆けるような廊下はなかった。もっと言うと、そんなに学校にもいなかった。だいたいブックオフにいた。

しかし世の中には「学校」に関する語りや表象がうんざりするほどあふれている。それがいかに素晴らしかったか、あるいはそれがいかに抑圧的であったか。どっちでもさほど変わらない。「教室にいた人」の話だから。あまりにも「教室」という空間が特権化されすぎてると思う。高校生、特に女子高生という表象の濫用もどうかと思うが、その舞台となる「教室」の強固な存在感にもいやなものを感じる。

まあこれも日本に限ったことではなくて、外国でも同じだろうなと思う。TikTokでうんざりするほど流れてくる学校あるあるネタとか。あるいは「ブックスマート」はかなり楽しんだ映画だったけれど、「学園モノ」が持つ磁場の強烈さに若干うんざりした。あれがアメリカの話だったからまだフィクションとして距離がとれたけど、日本で同じことをされたら(その痛快さをさておいても)クソミソにけなしていたかもしれない。そういう意味で救いだったのは神出鬼没のトリックスター、ジジだった。あのキャラクターはよかった。

「教室にいなかった人」目線の話をもっと知りたいと思う。「学校」や「教室」をめぐる話を好き好んでしているのはだいたい「教室にいた人」だ。そうじゃない人が「学校」や「教室」について語ったらどうなるだろう。「教室」の外にどんな世界がありうるのか、そこに革命があるとか言って扇動するのでも、道を外すぞと脅すのでもなく、地に足ついた話がもっとあっていいよなぁ、とか。すげー単純に、通信制に通っていたという人と会ったときはなんか嬉しかったもんな。

そういえば空気階段が定時制高校を舞台にしたコントをやってるのを見たときはなんかすごいぐっとくるところがあった。鈴木もぐらのキャラクター造形(っていうか喋り方)に「これどうなんだろう」ってちょっとひやっとしたのだが、それがコントの世界の中では笑いの対象になっていないバランスもよかった。

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細馬宏通『うたのしくみ 増補完全版』(2021、ぴあ株式会社)

少し前わけあって昔の「ユリイカ」を開いて、細馬宏通が松本隆の詞とドラミングについて論じている文章(「金属の肺、のびあがる体 松本隆の詞とドラマーの生理」という)を読んだ。目を開かされたのは次のような一節だ。

もちろん、誰もがバディ・リッチのように叩けるわけではない。けれども、どんなドラマーも、ハイハットを叩こうと手を交差させ、あるいはライドに右手を伸ばそうとするとき、歴史上どんなドラマーもしたであろう身構えをなぞることになる。ドラムという伽藍に向かい、その立体的な構造に自分の身を添わせようとするとき、ドラマーの身体はおのずと閉じられ、あるいは開かれ、その身に応じた音が鳴る。あらゆるドラマーは、意識するにせよしないにせよ、ドラム「セット」の配置に残された、過去の演奏の痕跡を、自分の体を通してたどることになる。ドラムを叩くということは、そういうことなのだ。

ユリイカ 2004年9月号 特集*はっぴいえんど 35年目の夏なんです、p.70

ごく当たり前の事実が驚くべき発見をもたらす。そういう感じがここにはある。人間が身体的にとりうる動作のレパートリーはそう多くない。なにか楽器を演奏するために要請される動作のレパートリーとなればなおさらだ。そして、その動作のレパートリーには、ある楽器が現在のかたちに至るまでに積み重ねてきた歴史があらかじめ内在している。ある楽器を弾けるようになる、たとえばエイトビートをクロスハンドで叩けるようになる、ということは、できるようになったこの私にとっては発見であり未知なる未来への一歩だけれども、楽器の側から見ればすでに存在していた過去へ身をあずけるようなことでもある。いまの私が未来へ向けて歩みだすと同時に、過去にも滲み出していく。(注1)

同じ著者の『うたのしくみ 増補完全版』にも似たところがある。

本書に収録された文章はどれもとてつもなくミクロなレベルの分析が歴史の広大さに接続されるアクロバットな快感に満ちている。しかしそれが単なる曲芸にならないのは、「うた」というものもまた、そのなかにある歴史が埋め込まれた動作のレパートリーの集積である、という根本的な原則が貫かれているからだ。

たとえば、あるクセのある歌い方が時代や地域を超えてあらわれるとき、つまりたとえばロマンソニーの「トゥナイ…ッタ!」のなかにジェイムス・ブラウンの呼気を含んだ「ゲロッパ!」を聴き取るとき、この一連の微細な身体の運動に、ファンクの歴史が立ち上がってくる。

あるいは、「ロボット」にふくまれる「オ」の母音の連なりに耳を傾けると、「ロボット」をめぐる100年ほどにわたる想像力のありようがめくるめくある一曲に凝縮されてゆく。

2014年に出たオリジナルの『うたのしくみ』を読んだのはちょっと遅かったと思うのだけれどもしこたま衝撃を受けた。特に印象深かったのは「お正月」の分析と「虹の彼方に」の分析で、いまとりかかっている仕事でもしばしばふわっと思い出してしまうほどだ。2021年になって出版された「増補完全版」のほうはというと、これもまた凄まじい。先に上げた3曲の例はどれも「増補完全版」に出てくる。

まえがきによると、増補書き下ろしにはふたつの核となるテーマがあって、ひとつが「複数で歌う」こと、もうひとつが「わたしがわたし以外になって歌う」こと、だという。いきおい、うえで述べたような原則――つまり「うた」という動作に埋め込まれる歴史――がいっそうきわだつ文章がそろっている。そもそも、この原則に立つならば、歌を歌うということは私ならざるなにかの声をこの喉にひっそりとまとわせることなのだし、それゆえ私が私以外になってゆくことでもあるのだから、あらかじめ通底していた主題が顕在化したようにも思える。

こうしたテーマを新たに設けることで、テクノロジーの要素もよりはっきりと浮かび上がっているのが面白い。そのものずばり、「機械と人間のあいだ」という文章も2部構成で収められているのだけれども、ヴォコーダーとかオートチューンとかそういったいかにもなテクノロジーじゃなくて、現代のポップミュージックには欠かせない(多重)録音技術によるサウンドメイクが実は前提とされている。ジョン・レノン「イマジン」やテイラー・スウィフト「私たちは(以下略)」、シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム」の分析では、現代的なプロダクションが生み出す複数の声のあり方(なんならスタジオテクニックに限らずミュージックビデオまでが入ってくる)が描き出される。(注2)

しかし、そこにフォーカスしきってしまうのではなく、譜面に書き留められた「うた」も、レコードに刻み込まれた「うた」も、あるいは誰ともない誰かが口ずさむ「うた」をも連続的に扱っていることによって、あらゆるテクノロジー――書記、録音、編集、変調、合成等々……――を貫通する「うたのしくみ」が浮かび上がってくる。そして、この「しくみ」は常に、ここではないどこか、いまではないいつか、私ではない誰かへの通路なのだ。

注1 それゆえ、身体的な制限によって新しい動作のレパートリーが要請され、自ずと特異な歴史が立ち上がりだす、というような事態も起こりうる。「誤用」のうみだすクリエイティヴィティなんていうのもある。それらはある種の発明(invention)であり、また同時に歴史に対する介入(intervention)でもある。若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(2017年)で論じられるデレク・ベイリーの例はこと興味深いので参照されたい。

注2 そもそも執拗にある声を、声色を論じ続けるということ自体が、録音技術以後だからこそ可能なことではある。また、テクノロジーの要素は『うたのしくみ』オリジナルでもマイクやラジオ、映画といったかたちで登場している。ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」をめぐる分析で触れられる冨田恵一の『ナイトフライ』論がまさしく、『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』(2014年、DU BOOKS)と題されていることも付記しておく。

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「物語」

人がよく「物語」の話をしているのを見かける。さも現代をめぐる最大のプロブレマティックがそこにあるかのように「物語」とどう向き合うべきかを論じている人が多い。でも結局その「物語」がなんなのかはっきりしない。具体的な内容じゃなく、どのような対象を「物語」といってるのかよくわからない。自分が「物語」というときイメージするのは因果関係の連鎖である。フィクションの文脈になじむような言い方をすると「プロット」か。誰が何してどうなった。それがさらに連鎖することで「物語」は進行する。だからそうした因果関係が隠されていたり、破壊されていたりするものを「お、非-物語的だ」と思う。

でも人が「物語」と言ってるときって必ずしもそうした因果関係を意味していないように思う。むしろそうした因果関係を見出すための認知の枠組みが「物語」と言われているようなときが多いんじゃないか。たとえば「世の中はおしなべてあちらがわとこちらがわの闘争である」というような枠組みを持つ人は「あいつはあちらがわの人間だから、こういう報いを受けるのは当然である」みたいな「物語」=因果関係をひねりだす。それが実情とあっているかどうか、真に因果たりうるかに関わらず。言ってみればそれは「設定」であって「舞台」であり、「物語」はそこから演繹された説明に過ぎない。

自分の関心はそういう粗雑なつかい方をされる「物語」のほうではなく、「物語」の素材になる「設定」や「舞台」のほうだ。さらに言えば、そうした「設定」や「舞台」から一定の「物語」を取り出させるレトリック、文体も。そっちのほうが「物語」なんていう単に事後的に説明の便宜のために持ち出されるものよりもよほど問題として実際的だと思う。

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「退屈な革命」とNEUTRINOについて

「退屈な革命」という3曲入りのEPをリリースした。毎年ひとつはなんかしらリリースしようと思っているのでそのタイミングかと思い。

[bandcamp width=100% height=120 album=766158542 size=large bgcol=ffffff linkcol=0687f5 tracklist=false artwork=small]

内容について。あまりやっていなかった4つ打ちで、しかもうち2曲は歌が入っている。最近わけあってNEUTRINOというフリーの歌声シンセサイザーを使いだしていたのをなにか活用したいと思っていたのだった。

NEUTRINOは高品質な歌声を合成できるものの、たとえばボカロみたいに専用のエディタがあるわけじゃない。とっつきづらそうに思っていたのだけれども、蓋を開けてみればそうでもなかった。自分の使い慣れたMuseScoreを活用すればよかったからだ。

MuseScoreはフリーの楽譜作成ソフトで、基本的に自分がこれまで書き物の図版にしてきた五線譜やリズム譜はぜんぶこれでつくってきた。このソフトで歌詞の入った歌メロの譜面をつくり、musicXML形式にエクスポート。それをNEUTRINOに投げると、まるで人が歌ったようなヴォーカルが合成される(ただー、という効果音)。

くわしいつかい方は以下の記事なんか読むとよいと思う。歌声を出力するまでだったらだいたいそれでわかる。

つよすぎるAIシンガーAIきりたんの基本的な使い方。【無料】|赤坂まさか|note

最初につくったのはこれだ。

ちなみにデフォルトで同梱されている東北きりたんのライブラリを使っている。茜屋日海夏さんのデータが元になってるんだって。マジかよ。東北イタコは木戸衣吹さん。わお。東北出身だからね(茜屋さんは秋田、木戸さんは青森。山形いないの?

声質等々を鑑みて、「退屈な革命」で使っているのはめろうというNEUTRINOオリジナルのライブラリだ。歌い上げるよりはさらっと歌ってくれるニュアンスがよい。かつ、商用・非商用問わず利用は自由。報告義務もない(Bandcampのリリースページには明記した。すごいので)。

もともと歌メロはシンセリードをぴろぴろ弾きながら考えていたのだけれども、実際言葉をのせてみると歌っぽい歌にならず、ヴォーカリーズっぽく聴こえてしまってしばらく悩んだ。こういう4つ打ちにのっかってて、言葉を詰め込むんじゃなくて母音をうまく伸ばしたような……と思って、XTALさんのA Leap feat. Achico(名曲である)をちょっとリファレンスにした。

鍵盤で弾いた単音リードは鍵盤で弾いた単音リードっぽくなる! あたり前田の…… なのでループさせつつドゥビドゥバるらるら歌ってピッチ感と譜割りのあてをつけ、打ち込んだ。

DAW(Studio One 4)で打ち込んだシーケンスをMIDIにエクスポートして、MuseScoreにインポートする。するとキーやアウフタクトを判別して五線譜に起こしてくれるので、あとは歌詞を打ち込んで、さらにmusicXMLファイルにエクスポート。NEUTRINOに投げる。

その結果、こう(↑)なった。実際には調声支援ツールで諸々調整してるんだけど、まあmusicXMLを投げるとほぼこのくらいのは出てきます。

NEUTRINO、譜例みたいな感覚で「実際に歌っている声」が使えたら楽しいのでは? と思っている。表現力という意味では不足でも、例えばリズムやピッチを外すことは基本ないので、安直に打ち込んでは歌ってもらうといいのではないかと。思ってるだけでその成果を世に出すことがあるかはあんまわかんなけど。

ちなみに「男声のライブラリがないな~」と思っていたらナクモ(NAKUMO)という男声ライブラリが発表されていた。うーんこれは使ってみたいかもしれない。

歌ものはこれからいろいろつくると思います。昔つくった歌ものをつくりなおすのをやりたい。自分で歌ってるのがはずかしい(いや、歌詞もはずかしい……)がサンクラにおいてある。上手くないのに自分でつくったメロというか譜割りがちょっとむずくて歌えてないんだよ。

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第6回ポプミ回報告(金悠進『越境する〈発火点〉――インドネシア・ミュージシャンの表現世界』風響社、2020年)

4月10日(土)15時~ポプミ会開催しました。講読文献は金悠進『越境する〈発火点〉――インドネシア・ミュージシャンの表現世界』(風響社、2020年)。自分でレジュメ切って2時間で駆け抜けた感じになりました。

この本はいろんな意味で面白くて、まずハリー・ルスリというインドネシアの伝説的なミュージシャンを柱にしている、という題材も面白いし、率直に綴られる「ハリー・ルスリについて書く」に至るモチベーションも面白い。アカデミシャンとして研究や個々の論文に求められる明快さや論旨の一貫性がおのずと排除してしまうある人物や出来事。それが、金さんにとってはハリー・ルスリだった、という。じっさい、60ページほどの短いブックレットで描き出されるハリー・ルスリの姿は、論文としてすっきり論じるにはどこかはみでてしまう多面性を兼ね備えている。しかし、だからこそこうしたかたちで日本語で読める文献が残っていることが貴重だと思う。かつ、ハリー・ルスリという特異な個人を語るのみならず、その姿がさまざまな問題意識に接続されていくのがはしばしに読み取れて、二重に面白い。つまり、ハリー・ルスリを知れる面白さと、ハリー・ルスリを論じるにあたってとられたアプローチの面白さと、そのふたつがある。

当日は金さんにもご出席いただいて、ところどころで出た質問についてコメントをいただくことができた。ありがとうございました。ちなみに金さんの最新論文「「シティポップ」なきポップス —ジャカルタ都会派音楽の実像—」はジャカルタにおける西洋のポップミュージックに影響を受けた音楽や近年の再評価を論じたもので、日本発とされる「シティポップ」ブームをめぐる言説を相対化しつつ新たな視座につなげる意欲的な論旨。一読に値するものです。

で、ポプミ会はここまでをファーストシーズンとしてしばらくお休みします。またの機会に。

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第5回ポプミ会報告

あやうく書き忘れるところだった。3月7日(日)、第5回ポプミ会やりました。わりとゆるい(なんであの日のおれはあんなにゆるかったんだ)感じになってしまいましたが、レジュメ&進行担当してくださったれみどりさんやコメントいただいた皆さんのおかげでまた興味深い会になりました。ありがとうございました。

特に動物豆知識botことykicさんが終盤にふっとあらわれて、読解の補助線になる文脈をふくめてまとめてくださって、非常に見通しがよくなったのが印象的でした。登場する個々の要素は興味深いものの、個人的にそこからいろいろ連想がふくらんでしまって全体の見通しが迷子になってしまっていたので、(もともとがレクチャーというのもふまえれば)精読していくよりは全体のマッピングとそこから主張されていることをピンポイントで抑えていったほうが良い、などのまなびが……。

次回は金悠進『越境する〈発火点〉 インドネシア・ミュージシャンの表現世界』(風響社、2020年)を読む予定です。ただ、どのくらいの分量をどういうペースで読むかはちょっと考え中。抜粋的に読むか、数回やるかになるか、どちらかになるかと思います。

取り急ぎ、以上!

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鈍さ

 いつからかほうれん草が苦手だった。給食にでてきたほうれん草のごまあえがとんでもなくきらいだったのは覚えてる。いまあらためて思い返してみると、ごまの独特なあまみとほうれん草のなにかごわごわするようなえぐさとかにがみとかそれ自体のあまみとかが互いに互いの欠点を増長させているみたいなところがあった。そののちほうれん草のいろんな食べかたを知るようになっていくとあのごまあえほどの嫌悪感はなくなっていき、ついぞおいしく食べられるくらいにはなっているのだけれど、はじめにうえつけられたほうれん草のえぐみの印象のおかげでいまだにうっすらと「ああ、ほうれん草か……」と思ってしまう。

 あれってようするにほうれん草がもっている特定の刺激にたいして過剰反応した、それがずーっと尾をひいているのだと思う。いらい、ちょっとでもその刺激を受けとるとほかのあらゆる刺激がマスキングされて「逃げろ!」と命令がくだされる。

 きらいなたべものがあるようなひとはよくわかると思うけれども、「いやな味」に対する敏感さというのはけっこうなものだ。きらいな野菜は細かく刻んでわからないようにしてしまいましょう、とか言うけれど、きらいなものにかぎってセンサーは敏感なものだから、食感ではなく味が問題になっているときにはそれも効かないんじゃないのか。むしろこれでもかと濃い味つけでうちけしたほうがよさそう。でもなんでそこまでして嫌いなものを食わんといかんのか。おれにはよう分からんが、すごい、それは、素晴らしいことだ、かもしれませんね(向井秀徳)。

 閑話休題。マスキングの話。

 「歳をとるとむかし食べられなかったものが食べられるようになる」ということを「老化現象に伴う感覚の衰え」と評してシニカルに捉えるひともすくなくない。自嘲のつもりなのか、他人に冷水をあびせているつもりなのか知らないけど。そもそも「感覚が鋭いほどよい」って錯誤だと思う。むしろその鋭さは往々にしてあまりにピーキーで、うまく付き合っていくのはむずかしい。

 鋭さというのは必ずしも豊かさではない。さっき書いたみたいに、ある突出した刺激によってほかの刺激がマスキングされてしまうとき、鋭さは鈍麻に急接近していく。そして拒絶に至る。一定の鈍さがなければそうした反応を度外視して分析することも判断することもできない。分析や判断というのは、あるいはそれらをひっくるめて批評的な営みと言ってもよいが、鈍さを土台にして成り立っている。たとえばテクストの読解とか対象のディスクリプション、あるいはアウトプットに際してのライティングスキルとかっていうものは鈍さを身につけるためにある。

 その鈍さのうえにあってはじめて対象がそれ自体にふくんでいるさまざまな面に注意を向けることができる。ただただ自分を刺すように思えた強い光のなかにじつは数え切れないほどの色味が含まれていることに気づいたりする。すくなくとも、鈍っていくことを喪失としてあわれむことはない。場合によっては、それは訓練してまで身に着けなければならないものでもある。

 しかし「一定の鈍さがなければ分析も判断もできない。」というのはなにか剣呑な響きがある。そのとおりで、分析や判断の俎上に載せるということは鈍さの行使であり、その鈍さは感性的なものからにじみだして倫理的・社会的なものへもはみだしていく。あまりに鋭く刺さりすぎてどうしようと鈍くなりようのないなにかを抱える人びとにとって、分析や判断というものはその鈍さゆえに、侵犯や暴力のように思えるだろう。というか、じじつ、侵犯であり暴力である。程度の差はあれ。

 とはいえ、だからといって鈍さの暴力をあえて言祝ぐつもりもなければ、逆に糾弾するつもりもない。ただ、鈍さはそれ自体重要な能力であることは認めてしかるべきだと思う。そして「これは鋭い!」と膝を打ちたくなる洞察の根底には往々にして鈍さやその暴力性が埋め込まれている、というのも、認めなければならない。それだけの話といえば、それまでだ。

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ポプミ会報告(西村紗知「椎名林檎における母性の問題」(すばる2021年2月号掲載、すばるクリティーク賞受賞作))

2月6日(土)、第4回ポプミ会を開催。西村紗知さんによるすばるクリティーク賞を受賞した論考「椎名林檎における母性の問題」を読んだ。批評同人LOCUSTの伏見瞬さんがつないでくださり、西村さんご本人にも参加いただいた。本人降臨回。

これまでポプミ会で読んできた文章は論文だったりレクチャーを元にした書き起こしだったりして、比較的リーダビリティが高いものが多かった。けれども「椎名林檎における母性の問題」は冒頭からめちゃくちゃ圧縮されたレトリックで論旨が提示され展開していくもので、いわゆる批評らしい批評――まあざっくり言えば「論文」でも「解説」でもないなにか――という印象があった。それだけに、読書会でどのように読み込んでいけるのか? をなかなか掴みづらく感じていた。実際、自分がまったく頭がおいつかなくなって会の途中で機能停止してしまうトラブルまで生じてしまった(参加者のみなさんすみませんでした……)。

しかし、論中に登場する固有名詞(江藤淳、加藤典洋、河合隼雄、上野千鶴子……)が持つコンテクストを参加者、というか伏見さんから補足してもらえたり、熱心に読み込んだ方から疑問点や感想も提示されて、有意義な会になったように思う。

個人的にアツかったのはひととおり論考を駈け抜けたあとで西村さんに伺ったビハイド・ザ・シーン的なポイントで、いかにもキーとなるあの引用が実は偶然の出会いの産物だったとか、なんとか…… 構想から着手、完成までのひとつひとつのお話がとんでもなく面白く、かつものを書いたりする人にはとてつもないエンパワメントだった。どこかできちんとお話伺いたいところでもある(その場合どういうたてつけにするかが難しいけれど)。一言印象的だったのは、この論考が「生活実感から生まれた」ものだと断言されていたことか。

都合4時間という長丁場にも関わらず参加してくださったみなさん、ありがとうございました。いつもなら次回の予定なんかざっくり話すんですがもう余裕がなくなってしまったので、そこはまたサーバーのほうで連絡します。

ああ、ご本人の話が面白かった、ですますのもよくない。論考の魅力というのは大きく、この論考自体を読書会という場で議論を発展しつつ整理しつつ読むことで、論旨というよりも、書き方という点でめちゃくちゃ学びがあったのだった。

たとえばエッセイ的な導入からはじまって、論考全体をつらぬくモチーフが極度に圧縮されつつ提示される第1節から加藤典洋の直観から導かれた椎名林檎の作家性を、最低限の道具立てによる簡潔な作品分析によって肉付けしていく第2節の流れは凄いと思う。

以後、歌詞にあらわれるモチーフから作風の変化を読み解きつつ、江藤淳が突然参照されて議論がドライブし、「母性」の問題にフォーカスがあたっていくところも(その道具立てがどこまで有効たりうるかはひとまずおくとして)面白い。なんというか、印象批評からややアカデミックな分析、そして文芸批評までを貫通してしまう書き方自体が。

第8節においてはギアがもう1段入って一気に射程が社会論まで広がり、第1節以上の密度でさまざまな問題提起が矢継ぎ早に行われる。アジテーションに達しそうな言葉の連なりによって、椎名林檎に向けられていた批判的な眼差しが実はリスナーの側、読み手の側、社会の側にこそ向けられてしかるべきものであることがわかる。いい意味でドラマチックで、そのドラマによってこそ飛躍にも思えるギアチェンジが可能になっているように思う。

さっき、「批評らしい批評だけに読書会でどう読んでいけるのかわからなかった」ということを言ったけれど、それをもうちょっとくだくとこうなる。最初に問いがあり、仮説をおき、それを検証する……というような、いわばQ&Aに還元できるような文章ではない。むしろ、問題意識があり、それに自ら応答する、というダイナミズムによって駆動し、説得するよりもそうしたダイナミズムを読み手のなかに喚起しようともしている。そのとき、「こういう主張がこういうロジックで行われていますよね、その道具立てはこれですね、勉強になりますね」みたいなまとめ方って多分向かないよな、ってことだったのだと思う(終わって思い返してみての結論だけれど)。でもそういうのにこだわらないでやってみるぶんにはすごく面白いなと。

しかし相変わらず、場のオーガナイズというか、ファシリテートは難しい。参加者も増えてきたし、なるべく「喋る人、聴く人」みたいな垣根が低くできるようなバランスを目指したいが、やってみるといっぱいいっぱいだ。割り切って、気のおけないおしゃべり感覚でやっても別に困りゃしないんだろうけどもね。

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