三宅唱監督作品「夜明けのすべて」を見てきた。三宅唱の作品は前作の「ケイコ 目を澄ませて」ではじめて見てほかに見てないのだけれど、「ケイコ」でなんとなくノイズに感じた部分が今回はすんなりと見られたように思う。たとえばモノローグやオフの声を使ったモンタージュで場面を一気に進めるのがなにか苦手だったのだけれど、今作ではむしろそれがしっくりきた。
というか、登場人物のコミュニケーションや身振り、そしてなにより表情の機微にものすごく豊かなものが詰まった映画だけれども、それをひとつのまとまりとして総括するような役割はモノローグにあるような気がする。藤沢が自らPMSを抱えるつらさを吐露するモノローグからはじまって、山添がパニック障害からの回復を語るラストのモノローグでこの映画は終わるわけだけれど、その内容、ある種の告白としての対称性が、ミクロなひとつひとつの出来事や身振りをひとつの感慨へとまとめあげているというか。
加えて、山添と藤沢がふたりで取り組むプラネタリウムの解説の台本を読み上げる声を土台に時間の経過を示すモンタージュが行われるくだりも印象的だった。あれは別に会話や対話ではないのだが、ひとつのテクストをわけあって読むということ自体が、ふたりのあいだで築かれてきた関係を象徴しているみたいで、涙腺がゆるみかけたのだった。映画のハイライトをなす移動式プラネタリウムの場面も、直接交わしてきた言葉以上に、そこで読み上げている藤沢の言葉を外で受付を担当する山添が耳にして顔をほころばせる、その瞬間にもっとも精神的な交通が起こってるように見えた。さらにそのテクストには数十年前から届いたテープやノートからの声が重なっているというのも味わい深い。
しかし、「ケイコ」もそうだったんだけれど、このひとの映画は空間がどれも変で、「ケイコ」のボクシングジムも、「夜明けのすべて」の栗田科学のオフィスも、狭い割には入り組んでいる。_栗田科学_のオフィスなんか、入ってすぐの事務室から数段階段をあがったところに窓のついた会議室があり、そのまま続く廊下を抜けると作業場がある……はず。なんかぱっと間取りが思い浮かばない。単に入れ子になっているというだけではなく、それによって複雑な光の効果がうまれていて、場面によって表情が変わり、見ていて飽きない。室内だけじゃなく、山添が藤沢の家に向かって自転車をこぐシーンでも、どのカットを見ても「この道路、まるでセットみたいだな」と思ってしまう。何度か出てくる高架(っていうほど高架じゃないか?)下のトンネルもそう。
というわけでどうも空間的には書き割り的(何度も挿入される夜景とか、あからさまなほど)なのだが、にもかかわらず狭苦しさや箱庭感に回収されないのは、やはりそうした奇妙な空間のなかで奥行きを強調した構図や演出、光のニュアンスを捉えた撮影が大きいのかなと思う。逆に、光を狭く使うことで広々としているはずの体育館をなかば密室のように見せていたグリーフケアの場面を見ても、意識的なんだろうと思う。その意味で移動式プラネタリウムはそうした空間と光をいかす象徴的な道具でもあるように思えた。暗いプラネタリウムから出ると、光が差し込むもののやや薄暗い体育館に出て、さらに外に出ると、夕暮れ近くの陽光が差している。このグラデーションがこの映画そのものという気がしてくる。これも「ケイコ」で思ったことと、似ているというか、やっぱ作家性なのかな。
なんだかんだと言ったものの、やはり最終的には、主演のふたりをはじめ、出演した役者陣の演技がどれも素晴らしく、マジで具合悪いときにはちょっと大丈夫かと思うくらい具合悪そうに見え、マジで元気になってきたときにはよかったね~って言いたくなるくらい元気に見える上白石萌音と松村北斗は本当によかった。あと結構くすっと笑える場面がたくさんあった(髪切る場面はじょきん!って行く段階で吹き出してしまった)のもよかった。よかったです。