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西洋音楽史の本は硬軟さまざま出版されているけれども、本書『ミュージック・ヒストリオグラフィー どうしてこうなった?音楽の歴史』は「そもそも音楽の歴史はどのように編まれ、書かれてきたのか?」にフォーカスすることで、音楽史という分野のおもしろさと奇妙さを紹介するちょっと捻った一冊。なにを取り上げ、なにを割愛するか? といった出来事や人物、作品の取捨選択にとどまらず、音楽史においてさまざまな方法論が試みられ、乗り越えられ、更新され、いまなおダイナミックに変化をしつづけていることが伝わってくる。
扱われるトピックは多彩で、第一部では「肖像画」「伝記」「年表」というキーワードを軸に「どのような動機で、いかにして音楽史は書かれはじめたか」を解説。第二部では音楽史そのものが迎えた変遷や、いわゆる「名曲」群がどのように形成されてきたかを批判的に検証。第三部では音楽史が現代にはいってどのように変化してきたか、そしてどのような変化を目指しているかが語られる。
それぞれ興味深い話が多いけれど、第11・12章でのこれまでの音楽史の批判的乗り越え(音楽史が抱える西洋/東洋、ジェンダー、人種問題に関する課題にどのように向き合っていくか、グローバリゼーション以降の音楽史とは、等々)をめぐる話はやはり興味深いし、クラシックに興味ありません~みたいな人でも示唆を受ける記述は多いだろう。
とりわけ音楽について書く人にとって、「なんのために、どのように」歴史を書くのか、つまり音楽を語る方法をめぐる西洋音楽史の蓄積を知ることは非常に重要だろう。結局、ロック以降の音楽ジャーナリズムと根本的な課題はそこまで変わらんやん。と思ったり。「肖像」や「伝記的逸話」を専門的な記述の代替として音楽を勝ち付ける道具とするとか、まあポップ・ミュージックのジャーナリズムとさほど変わらんな、とか。
一方で、ポップ・ミュージックにおいてしばしば影響関係を示す「ファミリーツリー」が描かれるのを踏まえると、「はじめに」ほかで指摘される、西洋音楽史は「「鎖」として繋がっているかどうかもわからない事例を取り上げつつ、そこから「一貫した一つの物語」を編み出さなければならないという二律背反」を抱えているという点は、地味に重要な気がする。1
そうした共通点と差異を踏まえながら読むのが一番おもしろくて身になるんでなかろうか。と思うけれど、単純に読み物としても面白い。ただ、「親しみやすさ」をつくるためのささいなレトリックがちょっとノイズに感じられたりもして、内容の面白さで押し切ってもぜんぜんいいのに……と少し残念な気持ちにも。