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アンドリュー・シャルトマン著/樋口武志訳『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命 近藤浩治の音楽的冒険の技法と背景』(DU BOOKS、2023年)
原著はBloomsburyの名物シリーズ《33 1/3》から2015年に刊行された_Koji Kondo’s Super Mario Bros. Soundtrack_で、その全訳となる。
数々の「名盤」を一枚ずつ取り上げる《33 1/3》はちょくちょく(その適度な短さとフォーマットのキャッチーさゆえに)翻訳され紹介されてきた。日本への紹介がもっとも成功した例のひとつが、ジム・フジーリによる『ペット・サウンズ』だろう。村上春樹が訳し、新潮文庫入りもしている。ほかにも、近年ではフェイス・A・ペニック著/押野素子訳『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』が2021年に出ているし、カニエ・ウェストのMBDTFとかJディラのDonutsの本が出ていたりする。
《33 1/3》のラインナップを眺めると、「こ、ここにスーパーマリオブラザーズが!?」という気持ちになってくる。じっさい、この本は、このシリーズに8bitのゲーム音楽が含まれることに対する疑念への応答から始まっている。シャルトマンいわく、「私の主張はただひとつ。近藤の「スーパーマリオブラザーズ」の楽曲は、名作アルバムの数々と同じように、知的な分析対象として充分に値するということだ」(p.vi)。それを示すためにこの小さな本は書かれているわけだ。
ニック・ドワイヤーのドキュメンタリーシリーズ_Diggin’ in the Carts_が公開されたのは2014年。だいたい2010年代なかばから、ビデオゲームのサウンドトラック=ゲーム音楽を「ゲーム」や「音楽」の下位概念というよりもそれ自体を豊かな文化として評価していく言説が増えていく。1日本でもゲーム音楽にフォーカスした書籍が増えていくのがこのくらいのタイミングだと思う。『「スーパーマリオブラザーズ」の音楽革命』が書かれたのは、そうした過渡期といえるだろう。
この本が面白いのは、執筆しているのがクラシックを専門とする音楽学者で、ゲームとかエレクトロニクスの専門家というわけではないということだ。
もちろんテクニカルな解説もしっかり抑えてあり、ゲームのサウンドトラックという表現の特性がどのようなユニークさにつながっているかも詳しく解説されている。レコードや楽譜に刻み込まれた静的な「作品」ではなく、プレイヤーとの相互作用によって体験されるサウンドの面白さに着目するゆえに、作中でマリオの動きに添えられる効果音にも分析は及ぶ。そこでジョージ・レイコフの認知言語学の知見を援用していることも、ゲーム音楽の身体性を論じるための道具立ての工夫として興味深い。
しかし、ハードウェア的な制限をふまえたうえで、オーソドックスな楽理分析によって近藤浩治の作家性を浮き彫りにしていくところが本書のおもしろいところのように思う。その点では、ゲーム作曲家のニール・ボールドウィンとの対談が印象的だ。そこでは、「西洋」の技術的トリックを駆使したスタイルと対比されるかたちで、近藤の、クラシカルな対位法やハーモニーの手法に裏付けられた洗練が評価される(pp.50-51)。この対談を通じて、シャルトマンは「スーパーマリオブラザーズ」の音楽に「転用可能性」――特定のハードウェアにとどまらず、さまざまなメディアに転用 transfer されていくポテンシャル――を見出す。
この「転用可能性」は、マリオのBGMがメディアや時代を超えて、視覚的な要素と同じくらいアイコニックに受け入れられていることを考えればかなり重要な指摘に思える。まあ、構造やメロディがしっかりしていると編曲や翻案に対して強いよねっていうくらいの話ではあるのだけれど。
ゲーム音楽は、特に初期のコンピューターゲームやコンシューマーゲームにおいては、使えるチャンネル数や音源の種類が少ない故に「制限の美学」と結び付けられやすいし、またハードウェアの進化がそのまま音楽的な変化と結び付けられやすい。しかし、ゲーム音楽に耳を傾け、それがうまれる現場や、受容される現場をしっかりと検討していくと、そうした「制限」は単にいまの観点から遡及的に押し付けられている限界にすぎないのではないか? という気がしてくる。それは言い過ぎか?