以下は、文學界2020年8月号に掲載されたコラムの原稿である。校正前のデータから起こしたものであり、実際に掲載された誌面とは細かい差異がある。著作権の帰属は筆者にあるという認識のうえで、自己判断で転載する。
Author’s Eyesというこの欄に与えられた紙幅は一頁、千二百字ほど。多少とも文章を書き慣れた人だったら、あっさり書けるだろう分量だ。文芸誌という場に慣れた人なら、気の利いた「視点」を織り交ぜた含蓄あるエッセイにまで仕上げることも造作ないかもしれない。しかしそんな文章を書いてみようという気にはそうなれない。
「最近、文芸誌のリニューアルが続いてるし、なんかどさくさに紛れてエッセイの一本でもどこかに載らないかな」などと言っていたのはいつだったか。別に熱心な読者でもないくせに。冗談を装った驕りだ。しかしいざ「群像」から依頼があったときは笑ってしまった。世界自体が悪い冗談みたいだった。いや、依頼するほうも受けるほうも真剣ではあるのだが。「この自分が?」という居心地の悪さ。居心地が悪いなりに、書くべきと自分が思えることを書こう、と思って、自分が着ているTシャツに関するエッセイを寄せた。
つづいて本誌、「文學界」である。悪い冗談その二。いやこちらも依頼するほうは真面目なのだろうけども。「そんなこと言って、たかだか一、二頁のエッセイじゃないか」と思われるかもしれない。それはある程度正しい。しかし、その「たかだか一、二頁」さえ割り当てられることのない人のほうがよほど多いのだ。安直にそういうことを言いたくはないし言うべきではない。「そう、貴重な機会だからがんばろう!」と今後のキャリアを見据えたポジティブシンキングも無理だ。しかし引き受けた。次のことを言いたいがためだ。
書くことというのはそれ自体、力である。なんの力か、といえば権力にほかならない。間違っても能力ではない。上手/下手のような基準とは無関係だ。ある一定の領域を専有して自分の表現したいことを表現する。誰にも邪魔されずに。それが言葉である必要さえないと思う。その権力がどのように人びとへ配分されるか。権力の配分。これはまさに政治である。
たとえ世に出すことを前提とせずにひっそりと書いていたとしても、それは潜在的に権力に関わる実践である、と思う。しかしとりわけその政治性が問題になるのは、書かれたものをひろく流通させる出版においてである。ZINEや同人誌、ひとり出版社のような活動が重要性を持つ理由はこの文脈のなかにあるし、インターネットの普及期、あるいはブログの普及期に一部の人びとが抱いた期待もこの文脈のうちにある。
だからこの力をだらしなく行使しているとしか思えないような事例を見るとうんざりすることがある。特に、ベテランというか、書くことが習慣となった人特有の傲慢さを感じ取ったときに。もっと言えば、書けば読まれるとわかっている人の傲慢さ、か。手癖でちょちょいと、みたいな。お前もそうじゃないのか、と言われたら、そうかもしれない。とか考えれば考えるほど筆は鈍くなっていく。しかし筆なんか鈍いほうがずっといい。