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Saku Yanagawa『スタンダップコメディ入門 「笑い」で読み解くアメリカ文化史』(フィルムアート社、2023年)を読んだ。発売当初に縁あって献本いただいていて、そんで読んでからもちょっと時間が経っているのだが感想を書いておく。
Saku Yanagawaは日本から単身アメリカに渡ってスタンダップコメディアンとしてのキャリアを築いている人物で、日本ではフジロックなどのMCをつとめたり、アトロクなんかのラジオ番組に出演しているのを通じて知っている人も多いかもしれない。
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また阪大出身という縁でラッパーのMoment Joonとも交流があり、楽曲に客演もしている(『Passport & Garcon』収録の「KIMUCHI DE BINTA (feat. Yanagawa Saku)」)。
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しかしそもそも日本に住む人のあいだでは、「そもそもそのスタンダップコメディっていうのはなんなんだ」という人のほうがずっと多いだろう。自分だってそうだ。この本はまさにそうした人たちにむけて、スタンダップコメディとはなにか、スタンダップコメディアンであるとはどういうことかをリアルな実体験を交えながら丁寧かつシビアに説明したうえで、スタンダップコメディの歴史をわかりやすく解説していく。
本書の副題には「アメリカ文化史」と掲げられているが、まさにスタンダップコメディの歴史とその精神をたどることでアメリカ文化の一側面を切り取ろうという野心のある一冊で、ヴォードヴィルからNetflixをはじめとした現代のメディア環境におけるスタンダップコメディの現在までを貫くアメリカ芸能史を描きつつ、そこに文化――アートや音楽みたいな創作というよりは、共同体のなかに共有される理念、の意味で――を読み取ろうとする。
そういう意味で個人的にぐっときたのは、大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社、2011年)で提示される「擬装」のアメリカ文化論を批判的に継承しているところだ。アメリカの芸能史は、文化的・社会的他者を装う行為、ないし装おうとする欲望で駆動してきた、というのが超ざっくりとした同書の中心的なテーゼ。『スタンダップコメディ入門』は擬装・擬態の演芸としてのミンストレル・ショーからはじまり、百年単位の芸能・文化史を論じた上で、「いま」のスタンダップコメディ(アン)がおかれた状況についてこんなふうにコメントしている。
きっと、誰かに「擬態」しなければいけない時代は終わった。多様性が認められる世の中は、マイノリティであることが「弱み」にもなりえない。今、われわれスタンダップコメディアンは、私たち自身として舞台に経ち、自らの視点を述べることのできる時代を生きている。そしてそれは言い換えれば、どんな人種でも、どんな国籍でも、そしてどんな体型でも、自分自身として語ることが求められている時代なのである。
『スタンダップコメディ入門 「笑い」で読み解くアメリカ文化史』p.275
少なくともスタンダップコメディにおいては、他者を装うこと――そこには自らの人種的ステレオタイプさえも含まれる――が芸として説得力を持つ状況ではなくなってしまった。だからこそ、「自分自身として」ステージに立つことが求められる。これは、ミンストレル・ショーから脈々と続く、問題含みでアンビバレントで、しかしだからこそパワーを持つに至った「擬装」のアメリカ文化という見立てを乗り越えようとする現代的な見立てのひとつと言えよう。
この言葉は(というかこれが登場する第4章全体に言えることだが)単にいろんな事件や作品を見て「時代は変わりましたね」とまとめるのとは違う説得力がある。ステージに立ってジョークを放ち、観客の反応を一身に受け止めるなかで「なにを笑いにすべきか」ということを深く考え抜いたからこその言葉だからだ。そのあたりは、熱っぽく愛のあふれるYanagawaの筆致もふくめて実際に読んで体感してほしい。
しかしなにより、音楽であれ映画であれドラマであれ、アメリカのエンタメを楽しむにあたって知っておきたい社会的背景や重要人物について豊富な知識が詰まっているというのが本書の美点だろう。やはり「「笑い」で読み解くアメリカ文化史」という副題は伊達ではない。