わりと料理をつくるが好きだ。つくるのが一番好きな料理はスクランブルエッグ。頻繁につくるわけじゃないけれど、つくっているととても落ち着くし、楽しい。いわゆる炒り卵ではない。炒り卵はどちらかというと軽快なテンポの料理だと思うが、スクランブルエッグはゆっくりとした料理だ。
ミルクやクリーム、チーズのたぐいは入れずに、溶き卵とバター(マーガリン)だけのシンプルな材料に、ごく弱火で、じっくり、じっくりと火を入れる。小さめのフライパンで、しゃばしゃばの卵液がすこしずつもったりとして、固体に近づいていくのを手と目で感じていく。スクランブルエッグの火入れは繊細で、遅い。人によっては、湯煎で仕上げることもあるくらいだ。
熱によってたんぱく質が変成して固まる。ごくシンプルな化学反応をていねいにコントロールしていくだけで、魔法のような舌触りがうまれる。スクランブルエッグの遅さは、緩慢で冗長であるというよりも、むしろ濃密だ。ちょっと気が散っているとほんのりぼそぼそになってしまうから、へらを鍋底にはわすたびに、いまかいまかとタイミングを見計らわなければならない。火からおろして少し冷めると、それはそれで固さが変わるから、ちょっとだけゆるいかもしれない……くらいに留める。
と、長々と書いてきたが、いつも成功するわけではない。調理のテンポが遅いから焦がして大失敗になることこそないけれども、だいたい固すぎたり、やわらかすぎたり、ポイントを外してしまう。そういうブレもふくめて楽しい。
さっきも書いたけど、スクランブルエッグの調理中に起こっているのは、シンプルな化学反応にすぎない。それを観察し、よきところで手を止める。このことが実は、料理という営みの良さというか、なにか落ち着くところであるような気がする。スクランブルエッグだけではない。メレンゲを立てるのも、パンを焼くのも、鶏肉を蒸すのも同じことだ。時間の経過にしたがって不可逆的に生じていく変化と向き合って、そこに身を浸すのだ。
不可逆的な時間の流れに浸ること。それは五感をつかって感取するようなたぐいの経験とは少し違って、もうすこし抽象的で、しかしかなり直接的な経験だ。ある種の驚異がそこにはある。ベルクソンが一杯の砂糖水を引き合いに出し、宇宙全体に浸透する持続について論じる跳躍と同じような。過ぎ去った時間を惜しむのでもなく、来るべき未来へ想像力を羽ばたかせるのでもなく、生きられた時間=持続そのものにふれる瞬間が料理にはあり、あるいはほかの日常的な営みにもあるのかもしれない。