すっかり見慣れているけれども、ドラムキットというのは考えてみれば奇妙な楽器だ。バス(キック)ドラム、スネア、タムタム、ハイハット、シンバルといったパーカッションからなるこの楽器は、他の多くの楽器と同様に、奏者の身体と強く結びついた統一された楽器のように思えるけれども、歴史的に見れば雑多な出自をもつ楽器たちの寄せ集めだ。音色の観点から見ても、ひとつひとつのパーカッションはテクスチャも音域も全然違っている。両手両足を駆使して演奏できるようにあしらわれたスタンドやペダルは、その機構的な精妙さ故にかえって不思議な印象を与える。さらにいえば、ドラムキットは不定形だ。ひとによってなにをキットに入れるか、どのように配置するかはだいぶ異なるし、新たなパーカッションの登場によってキットの可能性は拡張しつづけている。
そう思うようになったきっかけはいつごろかあまり覚えていない。ものすご~く辿ってみれば、大学時代に実物のキックペダルやハイハットスタンドにはじめて触れて、「なんでこんな妙なものをつくろうとしたんだろう」と思ったのがその原点だったかもしれない。もしくは。The Velvet Undergroundのモー・タッカーが立ってマレットで演奏していた、みたいな話を聞いて強く印象に刻まれたのもその前後だったか。そんなもとから思っていたことが、ケンドリック・スコットがインタビューで言及していたドラムキットのユニークな歴史に関する発言(Jazz the New Chapter 6(アフィリンク注意)やARBANのインタビューを参照)なんかで意識にのぼるようになった気がする。
さらに、デヴィッド・バーンが「アメリカン・ユートピア」でドラムキットを解体し、マーチングバンドを思わせる編成で自身の手になるロック/ポップミュージックを再構築したのを見聞きしたことで、改めてそんなことを考え出したのはたしかだ。
また、2022年6月にYCAMで行われた石若駿のパフォーマンス公演「Echoes for unknown egos――発現しあう響きたち」も、そうした関心に没頭させるきっかけになった(わたしによるレポートは以下)。
「Echoes for unknown egos」は「AIとの共演」という側面が特にフィーチャーされたパフォーマンスではあったのだけれど、しかしそれ以上に、「AIがドラムを叩く」ということが逆にドラマーの身体とドラムキットの関係性についてある種批評的な観点をもたらし、また「ドラムの演奏にもとづいてメロディやピッチを生成する」という試みは、リズム楽器としてのドラムから、豊かなテクスチャをまとい、ときにメロディックな響きを生み出す特異な存在としてのドラムへと視点を変えるものでもあった(そしてそれは石若駿にとってドラムという楽器がどのようなものかをあらわすものでもある)。
やはり、ドラムキットというのは奇妙な楽器だ。
Matt Brennan, Kick It: A Social History of the Drum Kit, Oxford University Press, 2020.(アフィリンク注意)は、こうしたキットとしてのドラムがいかにして誕生し、普及し、ついには現在のポップ・ミュージックの中心的楽器へと躍り出ていったかが描き出される。ミュージシャンの証言や新聞記事、特許関係の資料、メーカーの広報誌等々を渉猟しながら徐々にドラムキットが姿を表していくのを辿っていくだけでも興味がそそられるものだが、この本をいっそう読み応えあるものにしているのは、そうしたプロセスを単に物理的なオブジェクトのレベルだけではなく、テクノロジーと人間と社会的な通念がうずをまくように相互作用していくプロセス――つまり、まさに社会史――としてさまざまな観点で記述しているからだ。
第一章で詳述されるように、そもそもドラムキット(当初はトラップといわれ、現在でもこの用法は残っている)が発明されるにいたったきっかけ自体が、ひとりでいくつもの楽器を効率よく演奏し、運搬し、音楽的労働市場で競争力を強めるためのある種の戦略だった。パーカッションに何人も雇うよりも、ひとりでその全部をまかなえる人をひとり雇ったほうが効率がいい。そんなニーズを先読みしつつ、ドラマーたちは自分で楽器を改良して、ときにはペダルをつかったビーターのような発明も自ら行ってきた。
こうしたドラムキットの歴史記述において強調されるのは、本書をつらぬくひとつの問題意識である、「愚かなドラマー」という差別的な偏見だ。ドラマーはしばしばメロディやハーモニーを担う楽器と比較して劣位におかれることが歴史的に多く、しばしば愚鈍で知性に欠く人びととしてジョークの対象となってきた。本書で描き出されるドラムキットの歴史は、それ自体、西洋音楽のヒエラルキーの下層に位置づけられたパーカッションの周縁性や、人種的ステレオタイプから生じたこうした偏見に抗うものとして肉付けされている。とりわけ、ラグタイムの流行からジャズの誕生あたりまでを追い、(楽音に対する)騒音としてのドラムスとクラシックの新たな関係にも言及する第二章「やかましいドラマー達、ラグタイム、ジャズ、そしてアヴァンギャルド」はその点で興味深いし、大戦間のジャズの受容を背景に世界的な影響力を放ちだすドラムキットの発展を描く第三章「勉強家のドラマーたち、ドラムキットを売り出す、規格化、そして名声」もおもしろい。
とはいえ、もちろん楽器と社会の話にかぎらず、音楽の姿をもドラムが変えていった(あるいは、音楽にあわせてドラムも変わっていった)ことを具体的な例を豊富に提示しながら論じているところも面白い。
その醍醐味にあふれているのが第四章の「創造的なドラマーたち、芸術的技巧、名人芸、そして時間を演奏すること」で、リズムをキープする役割がキックからシンバルへ移行することで、キックやスネアによるポリリズミックで複雑なドラミングが発展し、ドラマーによる表現の可能性が広がったビバップの時代を追った同章「ビバップとドラムキットのメロディ」や、あるいはR&Bやロックンロールの誕生へとつながるバックビートの発生を描いた「バックビートの隆盛」は読み物としてもおもしろい。特に後者では、三連のスウィング・フィールからストレートなエイトビートへの移行を描くなかで、「先んじてストレートなフィーリングが登場していた音楽、ありましたよね。そう、ラテンですよ……」とばかりに(さすがにこんな書き方はしていません)ティト・プエンテの話が出てくるあたりが見事だった。ちなみに第四章はリンゴ・スターの革新性をこれでもかと詳述した節があってそれもおもしろい。章のタイトルが示す通り、これらの議論はそのまま、ドラムにおけるクリエイティヴィティとはなにか? という問いへの応答となっていることを添えておこう。
現代(ざっくりといえばロック以降)のドラマーたちがおかれた状況に迫る第五章「働くドラマーたち、音楽的労働、ロールプレイ、そして著作権」も興味深い論点が多いが、ドラムマシーンやマルチトラックレコーディングなど、新しいテクノロジーとドラムキットがどのような関係を結ぶかを論じた最終章は自分の関心にも近く、おそらくいま音楽をつくっているような人には刺さる内容だとおもう。ここで一気にJディラからクエストラヴくらいまで話はぶっこまれるし、DAWを駆使したドラムトラックの構築に関する話は今日的な音楽における演奏の真正性についていろいろと考えさせられる(特に、その例がメタリカのようなメタルバンドからとられているのは興味深い。本文でも指摘されているが、超絶技巧と現代的な編集技術がコインの裏表のようになっているのだ)。
百数十年に及ぶドラムキットの歴史を追った本書が提示するのは、第一にドラムキットという楽器の重要性とそのユニークな歴史であり、そしていまだ根強くのこる西洋音楽のヒエラルキーに対する問いかけだ。しかし、結論で著者が言及しているように、そもそも楽器に注目してこのような歴史をつむぐということ自体が、様式や地域といった慣習的な境界をまたいだ歴史の可能性をひらくということもまた重要だと思う。それはかならずしもユートピア的なものではなく、痛々しい歴史や文化的侵略といった側面にも向き合わざるをえないものだが、というかむしろそれゆえにその重要性は高いのかもしれない。