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ひさしく、情報をおうのが億劫になっていて、YouTubeの「後で見る」プレイリストは大量の動画であふれている。たまにやる気が出るとそれを消化することになる。それで、たまたま、きょうRegina SpektorのTiny Desk Concertを見た。

アップライトのピアノ一台と自分の声だけ、というシンプルなセットで、いかにもTiny Deskというパフォーマンスだ。そのなかの一曲、「Loveology」というのがいたく気に入った。この曲は6月に出た新譜『Home, before and after』に収録されていて、リードシングルにもなっている。

「ああ、どうしようもないヒューマニストだ、あなたは oh, an incurable humanist, you are」という皮肉っぽくもやさしい呼びかけではじまるこの曲は、「あなた you」と語り手の親密な関係を歌っているかのよう(映画に行こう、そしたらなんでもない歌をハミングしてあげよう)だけれども、ブリッジで唐突に「席について、みんな。教科書の42ページを開いて Sit down, class, open up your textbooks to page 42」と調子がかわる。

教室で、教科書を開いてなにを学ぶのだろう、と思っていると、歌はこんな調子でつづく。

ヤマアラシ学、鹿学 Porcupine-ology, antler-ology車学、バス学、列車学、飛行機学 Car-ology, bus-ology, train-ology, plane-ologyママ学、パパ学、あなた学、わたし学 Mama-ology, papa-ology, you-ology, me-ology愛学、キス学、このまま学、お願い学 Love-ology, kiss-ology, stay-ology, please-ology

なんてことない名詞や動詞が、~logyの接尾辞で「論」とか「学」を装いはじめる。まあ、よくある言葉遊びだ。それに、日本語にまんまうつしたときの間抜けさはちょっと見逃してもらうこととして……。しかしここで、ヤマアラシとか鹿とか列車とか飛行機とか、スケールもぜんぜん違うアトランダムな単語が連なることで、「学」を装うことのナンセンスさが強調されているのに注意したい。だっていきなり「愛学 Love-ology」とかうかつに言い出したら、なにか含蓄のある持論が展開されるものかと思ってしまうだろう。愛もまた、そこらにあふれる存在や行為と並列に扱われる。と同時に、「学」のよそおいは、具体的で特別な「あなた/わたし」の関係性というしめっぽさを離れて、そこに一種の一般化された体系がひそむことを想起させる。

とはいえ、一般名詞で整えられていた単語の品詞は、ママ・パパを経て、あなたあたりからあやしくなっていく。それは(代)名詞ととりうるかもしれないけれど、目的格かもしれないし(you, me)、あるいは動詞や副詞かもしれない(love, kiss, stay, please)。特に、「学」の装いをはずした"love, kiss, stay, please"という4つの単語は、親密さを(なんなら具体的な場面を)想起させずにはおれない。

「勉強しましょう Let’s study」という呼び掛けにつづいて、「愛学、愛学、ごめんなさい学、許して学 Love-ology, love-ology, I’m sorry-ology, forgive me-ology」と列挙される「学」を装う言葉たちには、思わず痛みを覚える。しかし、「学」を装ったこれらの言葉は、こうした痛みが、それなりに長く生きていれば程度の大小はあれど経験するであろう「あるある」のなかにつつみこまれてしまっていること、を示唆する。

だから「勉強」しなくてはいけないのだ。これは「勉強」することができるはずなのだ。ヤマアラシについて調べたり、車のことを論じたりするように。そう言い聞かせているかのようだ。

しかし、どんなに「学」の装いのなかにおしこめようとしても、言葉は(あるいは歌は)余計なものをどうしてもにじませてしまう。かくして、「学」を装う教室の言葉は、教室の外、あるは授業の前におかれた言葉と混じり合いだし(“oh, an incurable humanist, you are”)、そして誰かへの呼びかけでも、教室のまねごともやめた、むき出しの姿をあらわしはじめる。

ごめんなさい、許して、ごめんなさい学 I'm sorry, forgive me, I'm sorry-ology許して、ごめんなさい、許して学 Forgive me, I'm sorry, forgive me-ology許して、許して、許して学 Forgive me, forgive me, forgive me-ology

「学ぶことができるはず」という楽観的でヒューマニスティックな信念と、いかにも人間的な脆弱さのあいだを揺れ動いているかのようだ。forgive me と ology に引き裂かれる二重性を思うと、I も you も実はおなじひとりの人間なんじゃないかという気がしてくる。「どうしようもなくヒューマニスト」な「あなた」は、つまるところ、forgive me と ology のあいだに立ち尽くす「わたし」その人であって、独白、一人芝居のかたちをとった、痛みと向き合い抱きしめるための歌なんじゃないか。そういうふうに考えると腑に落ちるので、自分のなかではそういうことにしておく。

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