少し遠くの業務スーパーまで買い物に行った帰り、自動車を走らせていると、舞鶴山という天童市のランドマーク的な山が進行方向の真正面に見える。ランドマークといっても、さして標高の高くない、盆地の底にぽこっと湧いたような山なのだが、その表面にはいつもすこしめまいを覚える。植生がつくりだすさまざまなテクスチャがぎゅっとひとつの面に凝縮されていて、まるでまわりの風景から浮かび上がるように見える。そのまま吸い込まれてしまうような気がしてくる。
いったん山の中に自分が入ってしまえば、規則性のあるようなないような木々の連なりに奥行きを感じられる。しかしそれが山肌として外側から眺められるときには、表層のうごめくような質感に還元される。はたしてそれが遠いのか、近いのかも判然としない。遠さを示すのはただいま足をつけているこの地面からの連続性と、空気を通して霞んでいく色合いだけだ。うっすらとした方向感覚喪失の陶酔がもたらされる。遠さと近さが入り混じってしまうような空間の感覚は、整然と幾何学的にマッピングされたものとはぜんぜん違うような気がする。
わけいって体験される山ではなくて、視覚的なオブジェクトとしての山は、なにか独特な異物感がある。よく交通の都合で山寺駅を使うことがあるのだが、プラットフォームから見える山の風景にはいつもぞわっとする。あるいは仙台に向かって関山街道経由で車を飛ばすときにも、あたりを囲む山肌の質感にぞくぞくする。
最近は、そんな山が意外と好きなのかもしれないと思いはじめた。ロマン主義的な崇高(フリードリヒの絵画みたいな)の表象とか、あるいは富士山みたいにモニュメンタルな存在ではなくって。以前大分県にしばらく住んでいたとき、特に豊後高田市だったと思うが、山の風景が地元で慣れ親しんだ山となかなか違うのに驚いたものだが、思い返してみると、あれも自分が求める山だったかもしれない。いまとなっては、なかなか行くにも億劫な距離ではあるのだが……。