いろいろあってYCAMこと山口情報芸術センターで開催される石若駿「Echoes of unknown egos」をみにいくことになった。しかし山形から山口までがあまりにも遠い! いろいろ検討してみたけどもうよくわからなくなり、時間はかかるが堅実な新幹線での移動となった。
そいで、この日朝8時の新幹線で東京へ向かう。美術館をまわるつもりでお昼にはつく行程にしていたのだが、みたい展示が微妙になく、結局アーティゾン美術館だけになった。
ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴崎敏雄×鈴木理策 写真と絵画ーセザンヌより | アーティゾン美術館 (artizon.museum)
アーティゾン美術館では柴田敏雄と鈴木理策の二人展(さらに、ふたりがセレクトした絵画や彫刻作品も展示される)がやっていて、かなり対照的なふたりの作品を比較しながら見てけっこう楽しんだ。風景を平面に還元したうえで、平面上の分割(線、テクスチャの差異、要素の粗密……等々)によって(いわゆるフェノメナルな)空間をつくりだす柴田と、写真の機構的・光学的特性を活かして空間や時間を描き出す鈴木。どちらも「モダン」といいうる作風だが、前者が近代絵画の問題系を引き継いでいる意味でのモダンさ、後者はむしろ写真の媒体固有性への問いを常にふくませているという意味でのモダンさ、みたいな感じだなあと思った。
それは写真の画面のなかでどのような造形的な操作が行われているかにやはり如実にあらわれているし、モチーフの選び方もそうだと思う。たとえば水を扱うときに柴田はその運動を消し去る(露光時間を長くしてぼかしてしまうとか、あるいは運動の痕跡を造形に還元してしまう)ところがあるが、鈴木は波の扱いに特徴的なように、その運動をうまく写真のレイヤー構造(前景、中景、後景)と重ね合わせる。もちろんモネの睡蓮を参照した作品では水面が不動ではあるのだが、それは問題となっているのが「水」ではなく「水面」であることを考えれば、まあわかりやすい(その限りであれはハーフミラーをつかったミラーポートレイトと並べて見れる)。海において波は奥行きの運動を連想させる(浜辺から撮る限りにおいて)。それが写真に封じ込められる、その媒体に固有な空間性のアナロジーになっている。ような気がする。
雪舟の作品をはさんでふたりの作品が展示される最後のパートは、プリントのくろぐろとしたニュアンスを強調する柴田と、印画紙の白さへとぎりぎりまで接近してゆく鈴木の対比がはっきりでていて、おもしろいがそこまでバイナリでよいのだろうかという気にもなった。
Transformationとかも見ましたが……クレーかっけ~とかそういう感じで見てしまった。寝不足だったのと、柴田+鈴木で頭つかいすぎたのもあり……。
じゃっかんぐったりしつつ、アーティゾン美術館めのまえのすき家で昼飯を食べ、適当に時間を潰しながら新橋の宿に向かう。入り口の階段も寝床までの通路もめちゃ狭いドミトリーだったが一泊するだけなら居心地はよかった。晩ごはんを食べにふらっと駅前まで出たほかは、寝床でつぶれていた。