R-1ぐらんぷり2022での寺田寛明「始まりの歴史」が好きだ。世の中のいろんなものごとに対して、「よく考えてみると奇妙だし、こんな奇妙なものを最初に考案したひとはまったく理解されなかっただろう」というスタンスで想像をふくらませる文字ベースのフリップ芸。身の回りの変なことにツッコむ、あるいはツッコむとまでは言わなくとも「なんか変だよね」と提示する。それ自体はわりとベタなスタイルだろう。けれども「始まりの歴史」は少しねじれていて、ツッコむのはいまを生きる私たちではなくて「始まり」に居合わせた同時代の人びとということになっている。その「始まり」を操作することでナンセンスがうまれている。
たとえばテニスのルールは特に印象的なくだりだが、誰か特定の個人が現在のテニス全体を一度に作り出したという「始まり」を設定することで、テニスというスポーツが持つ「なにこれ?」みたいな細部の異様さを強調されることになる。しかし現在のテニスは誰かがいきなり考案したものというよりも、長い歴史の中で用具やルールが洗練され、ある時期に制度化と産業化が進んだ結果だ。いろんな時代のいろんな人があれこれ試行錯誤してきたものを、あたかもひとつの「発明」のように描くことでうまれるナンセンスが「始まりの歴史」である。
前半はもっぱらそのように、長い複数のプロセスの産物を発明という出来事に置き換えることでネタが駆動していく。後半は少し事情が変わる。そこでは会議というシチュエーションが重要になってくる。いち社員が会議で(ちょっと奇妙なことを)提案するが、真面目に受け止められない(だって変だから)。これは個人による発明を企業組織のなかのプロジェクトに重ね合わせることでナンセンスがうまれている。重要なのは、会議は特定多数による協働の場であるということだ。たとえば回転寿司は、とある経営者がベルトコンベアに着想を得て自ら開発した仕組みが普及したもので、特定の個人による発明だが、それが会議というシチュエーションを通じて協働のプロセスへと還元されている。
だから、「始まりの歴史」には、不特定多数の人々が関わってきたプロセスを単一の発明という出来事に還元することと、単一の発明を組織による協働のなかにあえて位置づけること、ふたつのほとんど正反対の志向が含まれている。ふつーに既存のネタを再編成したネタだからそうなってんだという話だろうけれども、「始まり」をめぐる短絡の心地よさってあるなと思う。最後なげやりになってるのは「なんでこんなの書いてんだろう」って思いながらうまいオチだけはつけたいという気持ちがわいてきて、それもくだらんな、なんかもういろいろどうでもよくなってきた、となったからです。R-1で一番好きだったのは金の国の人のやつでした。なんであれが優勝しなかったんだ。