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正直祈りってどういうことなのかあんまりわからない。祈ったことがないという意味ではない。自分が祈っていると自ら思うときもそれがどんな行為なのか自分ではわからない。これといった信仰の習慣を欠きアドホックに(あるいは気まぐれに)行われる祈りってなんなのか。でもひとがなにかせずにはいられないのになにかすることがかえって悪夢のような現実へとひとを誘い込むようなときに祈りは大事な役割を果たすのかもしれないなと最近思うようになった。

漫画のセリフからとられた「祈るな 祈れば手が塞がる」という警句は「手を動かせ」というメッセージとしてひろく俗っぽく受容されている。けれども「手を塞ぐ」ためにこそ祈りはある。と反転させたときにみえてくるもののほうが重要だと思う。無為に留まることは思いの外難しい。たとえその手になんの頼りもなく立ち尽くすしかないときも。「なにかしなくては」という思いをしずめる。「なにもできない」という無力感に抗う。そのために(つまり無為を受け入れるために)アドホックな祈りがある。

実際にはほんとうの意味で「なにもできない」などということはほとんどない。微力であってもいかに迂遠でもなにかしらできることはある。しかし「なにかしなくては」という切迫感を自分にとっても世界にとっても満たしてくれる「なにか」とそううまく出会うことはない。そんなときに目についた「なにか」が人を踏みつけにする可能性もある。あるいは切迫感に押しつぶされて「なにか」に出会う前に「なにもできない」という無力感にこころをくじかれることもある。

アドホックな祈りは奇跡の到来や超越的なものとの交通を願うスピリチュアルな行為というよりプラクティカルなものだ。無力感にあらがって焦燥感を鎮める先送りの技術。場当たり的に祈ることによって第一に救われるのはほかならぬいま・ここの私だ。だからアドホックな祈りは利己的で孤独なものだ。しかしそんな祈りなしに生きていくことはあまりにも難しい。

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