読むことは難しい。そもそも文章を読み解く行為自体が一定のスキルの必要なものなんだけれど、もっと難しいのはそんな解釈の技法の外にある「どこまでをどのように読むか」の判断だと思う。たとえば、与えられた文章を書かれているままに読むべきか、それとも書かれていない「行間」を読むべきか。「行間」を読むとして、どこまで読み込むのか。最近、ずっともやもやと悩んでいる。
「まま」と「行間」だと、なんとなく後者のほうがより高度と思う向きもあるかもしれないが、かならずしもそうではない。「行間」はしばしば罠で、自分もふくめて少なくない人びと(それを定型発達の、と言ってもよいだろうが)は、書かれていないことを勝手に 文章 のなかに読み込んでしまう。そうするべきときもある。「行間」的な読みは、複数の文章をつきあわせた地道で実証的な作業を経なくても、ヒューリスティックにそこそこ妥当な解釈を導くことができる。日常的なコミュニケーションにおいては「行間」的な読みのエンジンのほうが優勢な場合が多く、字義通りであることはむしろイレギュラーとして捉えられがちだ。
そうした「行間」に慣れた人にとっては、与えられた文章をそのまま読むことのほうが、むしろ訓練が必要な特殊技能である場合も多い。書いてあることを、書いてある範囲に限って読み、解釈として再構築する。書かれていないことをみだりに引っ張ってこない。それには忍耐がいる。助詞のひとつも、接続詞のひとつも読み落とさないように読むこと。精読とは、「行間」へ深く潜り込むことではなくて、むしろ文という表面のうえに広がる迷路に身を投じるようなことだ。
しかし、世の中にあふれるテクストの多くが「まま」では正当に読めないようにできているのもまた事実だ。なんなら、「犬笛」などと表現される、ある予断に訴えかける言外のメッセージが埋め込まれたテクストを「まま」受け止めることは、もしかしたら倫理的に不適切かもしれない。一方で、「まま」読むべきテクストの背景を邪推してありもしない「行間」を読み取ることもまた、倫理的な過ちになってしまうかもしれない。「行間」に目を凝らさねばならないときもあれば、「まま」の領域に留まらなければならないときもある。その判断こそがもっとも困難であり、それゆえに避けがたい過ちを生み出し続ける。「行間」への危険な欲望と、「まま」のもたらす盲点のあいだで、最適な落とし所を都度ごとに探り当てるのは至難の業だ。
さしあたっては、「読む・解釈する」以外の方法をとりいれることがこうしたジレンマじみたシチュエーションに介入する方策となるだろう(たとえば、受け手やその集合としての社会に与える効果や、その内部での機能に着目する)。が、依然として、実践的なコミュニケーションの問題として、「まま」と「行間」のはざまの葛藤は、自分を捉えてはなさない。