濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」を見た。いきつけの映画館のスタンプカードを見ると、どうやら劇場で映画を鑑賞したのは昨年10月以来のようだった。それもドキュメンタリーかなにかだったような気がする。3時間ほどの上映時間を耐えきれる気がしない、と思っていたのが、じっさいに見ると体感100分だった。あっという間ってこういうことなんだな。
以下、ネタバレといえばネタバレだと思います。原作とかチェーホフ読んでからなんか書こうかなと思ったけど、やめた。
どういう物語なのかさっぱり予習せず、なんなら予告編も観ていなかったので、道具立てがひとつひとつ明かされていくたびに、へぇ、これはすごいな、と感心していた。登場人物たちがある出来事(あるいは過程)を通じて変化する、ような物語かと思っていたのはまるで違っていた。ある人物が時間の経過や出来事の経験に伴って被る変質よりも印象的なのは、「テキスト」や「声」や「身振り」をめぐって人物たちが重なったりすれ違ったりしていくさまで、誰がその声を所有しているのか、その声は誰に向けられたものなのか……といった主/客の関係が常にスリリングに(ときに時系列を混濁させながら)流動していく。誰もが言葉に憑依されてしまっているかのような不気味さと、だからこそ生じている情動の交通の、暴力と融和がずっと背中合わせに共存している感じがよかった。
そのような映画のなかで、終盤のクライマックスと呼べるポイントで「僕は正しく傷つくべきだった」と言って慟哭する家福の姿の無防備さと陳腐さは著しく浮いている、ように思えた。それをけなしているのではなく、むしろ、あの陳腐さこそがこの映画の巧みさの表出なんじゃないかと思う。流れとしては、渡利の問いかけに対するリアクションのように見える……のだが、それまでは成立していたダイアログがここで破綻している。渡利の問いへの答えよりも先に、モノローグがはじまってしまう。それこそが家福という人にこの経験がもたらした決定的な変化なのだ、と言ってしまうこともできるだろうし、そのように捉えれば「陳腐である」というのはあまりに突き放した評価と思われるかもしれない。けれども、唐突に「感情的」になり、「弱さ」を表出させたかのようなこの場面に漂う白々しさは、つづく「ワーニャ伯父さん」の上演のシーケンスがうわがきされることで強められるとともにその意義が腑に落ちてくる。
舞台上、ソーニャがワーニャに語りかける一言一句が、ついさっき見た家福の独白とゆるやかにつながっていく(ように思った、もっかい見たらそうでもないかもしれない)。あの独白でさえも、家福のなかに浸透したチェーホフの、あるいはソーニャの言葉の影にすぎないかもしれない。しかし、渡利がその直前に言うように、演技なのかどうかはどうでもいいし、演技だとしてもその演技にはなんらかの真正さがあり、たとえそれが一貫性を欠いた不審で不自然なものだったとしても、その全体をありのままに受け取ることが、必要なのではないか。「本当の言葉」への回帰ではなく、演じてしまうことまでを含めた全体そのものの受容。
さて、家福が演じるのはもちろんソーニャではなくワーニャ(しかも、もともとは高槻が演じるはずだったワーニャ)でソーニャを演じているのは韓国手話を使うイ・ユナである。しかし、じっさい、多言語演劇という手法の都合上、自分の役だけではなく他の役のテクストも覚え込まねばならず、それがもたらす特殊ななにかこそを追い求めているのだ、というのは劇中での家福自身の言動が伝えるところだ。かつ、韓国手話で演じられるソーニャから二人羽織のようにして相手の身体を借りながら放たれる呼びかけは、「ソーニャからワーニャへと伝えられる」というよりもむしろ、視覚的に言えば、「ソーニャとワーニャが『私たち』として発する」もののように、もっと言えば「ソーニャとワーニャの区別がないまぜになって漂う」言葉のようにも思えてくる。といってもそれは自他の境界がなくなった幸福な統一であるというよりも、浮遊する言葉を前にからっぽの身体へと還元されていくそら恐ろしさにも近い。
同じ韓国手話がフックになったシーンで言えば、夕食に招かれたコーディネーターの家でのシーケンスは、「通訳」を通じて発話の主体、言葉の所有者が不明瞭になることがもたらす危うさを常に漂わせながらぎりぎり成立しているような鋭さがみなぎっていて、統一の裏面にぴったりとはりついた不穏さを感じながら、そのバランスになにか感じ入るところがあった。
いずれも、言葉に対する特異な認識というよりは、むしろ直感的には言葉がひとに働きかけるやり方と非常によく一致しているように思う。私の言葉は私の言葉にとどまることができないし、他人の言葉は容易に私のなかに侵入して支配してしまう。言葉を使っているのか、言葉に憑かれているのか、いま発している言葉が私のものなのか、しかしそうじゃないとしてなんだっていうんだろう。みたいな。言葉がそもそも持つ他者性、ポストモダン的などうこうとかじゃなくて、もっと根本的な身体感覚や直感に属するものとしての。
そもそも、「私の my」という所有格の代名詞は、「私」という揺るぎない主体への所属を意味しているかのよう(それゆえに「drive my car」というフレーズに独特の親密さや信頼のニュアンスが生じる)だが、しかし「私」という言葉は、指示対象をいくらでも変える。発話した主体を指していることもあるだろうし、発話した主体が演じるキャラクターを指していることもあるだろうし、もっとややこしくするならば、私が記した「私はimdkmです」という文章を誰かが読み上げた場合、その文章が指示する「私」とその声を発した主体は一致しない。「私」はいろんな身体、声、主体に憑依して実体をもたない。文脈に依存する代名詞なら当たり前だろ、と思うかもしれないが、その当たり前を貫いた先にあるのは言葉と声の不穏な世界であり、「ドライブ・マイ・カー」はそこに触れている。
「私の車」、しかしその車を所有する「私」はいったい誰でありうるのだろう。などと思いながら見届けた最後のシーケンスは、ほんのりと混乱を残しながら、浮遊する「私」という代名詞のつかみどころない存在をいっそう強調していたように思う。
(ちなみに、ジェスチャーの観点から見ても誰かと誰かが一致し、重なりつつ離れる、そうした印象的なシーンがいくつかあったようにも思うが、まあ、めんどくさいので、書かない。)