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34番は書いてましたが欠番にしました。支離滅裂になっていた。

Little Simz『Sometimes I Might Be Introvert』を聴き返そうとするが、つかみどころがわからずやめてしまう。Little Simzのこの作品が悪いと言うよりもまた音楽が耳に入らないタイミングになってきて、いやしかし、難しい。

自分が死んだときには、とにかく誰であろうと、どんな関係であろうと、自分について語ることは、かたく禁じてほしい。ツイートやストーリーくらいならいいけど。

スマホから使える感熱プリンタのPaperang(アフィリンク注意)を愛用している。いまは2が出ている(アフィリンク注意)のだが、初代でも機能的にあんまり問題ない(比較してないからわからんけど)。具体的には、宛名プリンターとして使っている。請求書を紙で送付するときには、送付先の住所をPaperangでプリントして貼り付ける。わざわざレーザープリンターで出力するのも面倒だし……。ちなみに封筒は自分の住所を裏に印刷しておいたものをストックしているため、住所をPaperangでプリントして貼り付け、切手も貼って、必要なら「請求書在中」などと手書きしたら済む。ちょっと使い方に癖があって、封筒にぴったりのサイズで印刷しようとするとテキストボックスの配置を調整しないといけないとかいろいろあるのだが(基本縦長にしかつかえないのに無理矢理横長のボックスをつくる、みたいな)、でも手書きするよりは楽。その他、ちょっとしたメモを印刷するときもある。いいです。

どうしてもいかんともしがたくなって、耳をちっちゃな使い捨てカイロで温めながら無理矢理寝る。すると久しぶりに夢を見た。夢の話なので嫌なら次の段落へ。なにか大学(母校の京都造形芸大にやや似ているが、東北芸工大にも似ている気もする)のようなところで事務作業かなにかをすることになるのだが、そこのちょっと偉いポジションの少し年上くらいの女性(ぜんぜん知らない人、割とイケイケな感じだった)に気に入られて変なアピールをかけられる。どうしよう、と思っていたら、同僚(これは知っている[た?]人)に「あの人より自分のほうが」とアプローチされる。なんか気まずいな、臨時で入ったとはいえ職場で、と思っていると、自家用車を間違った駐車場に停めていたというので移動の要請があり、駐車場に向かう道中、ふるい知り合いとすれ違い、「あの雑誌に出ているのを見たよ、すごいね」と話しかけられる。雑誌、といってもスマホアプリみたいな奴で、テクストと画像と動画と音声で動的なコンテンツを配信していて、もちろん実在はしないのだが、「ああ、たしかにちょっと前に出たな、どんなんだっけ」とスマホを開くと、NCT 127「Sticker」みたいな曲を打ち込んでヴァイブしているおれの姿が公開されていた。ここで起きた。考えてみると「少し年上くらいの女性」は以前見た夢にも似たような人が出てきたような気がする。誰なんだ。誰なんだバリバリ仕事ができるちょい年上の女性。容姿はまったく思い出せないが……。身長がおれと同じとは言わないがかなり高かった気がする……。いわゆる「ハーレムもの」の冒頭のような、どろどろしたメロドラマのような感じの、言ってしまえばある種の紋切り型の夢、そういう欲望があるのだろうか、と思う一方で、夢としてそういう欲望が昇華されたような感覚はない。

香ばし玄どら(こし餡・くるみ) 6ヶ入 お茶の井ヶ田オンラインショップ (kikusuian.com)

たぶん仙台の親戚が手土産に買ってきたのだと思うが、「玄どら」というのを食べた。これがばりうまくて、生地に玄米が入っていて独特な香ばしい風味がするのと、たぶん少し塩味がきかせてあって、それが少し舌触りがあらめの餡と合わさってくせになる味だった。オーソドックスなどらやきを期待して食べると舌がびっくりしちゃうんだけど。

なんとか調子を持ち直したが、もうすっかり夜更けだ。午前中調子悪くて夕方~夜に調子を持ち直すというのは典型的なうつの日内変動なのでわかりきっていることなのではあるけれども……。

https://soundcloud.com/uami-645464179/qwwbkmtf7h1r?si=24cda84b58834e0ea6b317fe9b7950df&utm_source=clipboard&utm_medium=text&utm_campaign=social_sharing

uamiさんの新曲。こないだアルバムとEP出して続いてシングル出したと思ったらもう一曲出てきてこの人の創作意欲ってどうなってるんだ。『昼に睡る人』の流れを受けるようなポップさがあって、とてもいい。

「救い」についてうすぼんやり考える。「救い」というのはさまざまな条件の布置によって偶然に生じる唯一的な出来事であって、「○○によって」「○○のおかげで」というのは、そうした「救い」の根源的な偶然性に対する背信――あるいは宗教的な含意をはぎとって俗化する、みたいにも言えるような気もするが――じゃないだろうか、となんとなく思う。別に宗教学に通じているわけでも、特定の信仰を身に着けているわけでもないのだけれども。

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