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耳に使い捨てカイロをあてるやつやってみたらものすごく気持ちよかったけど、就寝時にやると低温やけどしそうなので塩梅が難しい。バンドが頭一周するアイマスク使ってて、それに小さな布ケースに入れたカイロを挟んでみたのだけれども。

フレームが一定でない(入れ子になったりする)のがいい。vlogあるあるなのだろうか。スーザン・フィリップスいいなー……。「温泉マークさんがオートチューン実況をする日だったので見て寝た」のヤバさ、ニューアカオでのエレベーターを使った誘導のわかりづらさを淡々と語るくだりの漠然としたイメージアニメーションがかわいい、などのことを思う。エレベーターの図解かと思ったら別に細かく説明するんじゃなくて単に動いてる感じなのがよかった。

しんどくて仕事が手につかず、短いコメント原稿だけがんばってかたづけて(ほんの400字程度だが……)、気分転換に、radikoのタイムフリーでeelicaさんとDJ DJ機器さんのK-POP総まとめを聴きながらチキンハンバーグを大量につくる。大葉の量をケチったらおもんない味になったのでソースでも塩でもまぶして食べるか、というような感じに(追い大葉してもいいけど)。KWANGYAとかSMCUに関する語り口がおもしろかった。でも自分がおもしろがれるかというとなんかそうでもないな……と思った。

想像力の搾取……と不穏なフレーズを思い浮かべる。

沢山遼|Felix Feneon『Félix Fénéon: The Anarchist and the Avant-Garde』 (artresearchonline.com)

フェリックス・フェネオン、院生時代にゼミで指導教官がぽろっと「おもしろいよね」とか何度か言ってたような気がする。その仕事をまとめた展覧会カタログに関する評がおもしろかった。本題の新印象主義におけるアナキズムの諸相(そしてその後への影響。ここがおもしろいのだが)にいたるまでの交通整理にこういう文章が出てくる。

スーラ、シニャックらの点描絵画に大きな影響を与えたのは、近代的な色彩、光学理論である。彼らの友人でもあったアマチュアの科学者チャールズ・ヘンリーは1885年に『科学的美学へのイントロダクション』を著し、それはフェネオンを含めた新印象主義 のサークルにおいて、複数の特定の色彩が互いの影響関係によって、いかに関係=連動するかについての大きな示唆を与えた。具体的には、新印象主義の画家たちは、パレット上での色彩の混色を行うことなく、画布の上に小さな色彩の斑点を併置するプロセスを通じて絵画をつくりあげた。彼らが理論的基盤にした光学理論においては、観者の視覚の活動のなかで、複数の色彩が混色され新たな像を結ぶ(=視覚混合)ことになるからである。

ゆえに、新印象主義の絵画は、必然的に、観者の生理学的な知覚の参加を要請することになる。そこにあるのは、市民社会の台頭とともに新たに浮上した「観者=市民」という新たな主体の経験を、絵画の構造的な函数として加算することであったのかもしれない。つまり、新印象主義の絵画は、観者と呼ばれる市民の能動的な参与(アンガージュ)、そしてその身体的駆動がもたらす知覚の「労働」を、その絵画面の組成において要請するものなのである。

沢山遼|Felix Feneon『Félix Fénéon: The Anarchist and the Avant-Garde』 (artresearchonline.com)

特定の様式というか形式、新印象主義の場合は方法と言うべきなのかもしれないが、そうした作品の成り立ちが作品を受ける側に暗に求める参与のあり方と、その参与がどのように位置づけ語られるか。そうした分析や批判的思考の必要性。というのは近代の美術をちらとでもかじるとどうしても気になる問題である。

伏見瞬『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』(イースト・プレス、2021年)をご恵投いただく。読むのは少し先になるかもしれないが、ネットでも公開されていた巻頭言をちらと読み、参考文献一覧がきっちりついていたのでぼんやり眺める。これすごいな。スピッツのおもしろさというか勘所を掴むことのできないままにいる自分もスピッツを楽しめるようになるのだろうか……。また読んだらなんか書くだろう。

間が空いても言葉の“淀み”をこわがらない | 大手小町 (yomiuri.co.jp)

しゃべる仕事がちょくちょくあるので、ああ、そうだな、としみじみ思いながら読んだ。前半のインタビューや対話をめぐる意思表明が、後半の「うまい演説」へのささやかな違和感(の話をしたのはタクシー運転手のほうだが)とゆるやかにつながっている感じがよかった。大手小町で連載してる生湯葉さんのエッセイはどれも良い。

「間ができる」ことへの恐怖や、これはある一定の属性にありがちな(つまりマジョリティなシス男性、とか)ことかもしれないが、「うまいことをいう」ことへの欲望というのは、「誰かとしゃべる」という営みに対して余計な負荷をかける障害なんだろうなと思う。

批評というものに対する、あるいは、ライターたるもの……と語られることに対する不信、がしばしばある(大半は納得なものだけれども)。

怒りや反発や復讐心や功名心で生き延びるにはあまりにも自分は疲弊しすぎた。怒りはなにより自分の健康を蝕むもので、「なにくそ」などと言っていられるものではもはやない。

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