通販で買った古本を開いてみるとものすごい量のマーカー線がひいてあって、たしかに「ほとんど全ページにマーカーついてます」って説明にはあったけど、これはもう「全行」みたいなもんだ。それは言い過ぎかもしれないにせよ、1/3~1/2はマーカーで埋まっている。こんなに線引いたらわかんなくないか? と一瞬思うものの、読書において線を引くことは「あとから見返すときのための目印」ってだけじゃなくて、「読みすすめるための補助」であったりもするよな、と思う。
固有名詞をマークすることで目が滑らないようにする、ここまで読んだという記憶の目印にする、読むのにすこし手間取ったところを整理しておく、等々。「あとから役に立てる」ためにアンダーラインがあるのではなく、アンダーラインを引くことそのものが、このように読書の行為を助けている。識字や認知に困難があるひと向けに任意の行をハイライトして読みやすくするリーディングトラッカーという補助具(アフィリンク注意)があって、たまに自分も使うのだけれど、そうした補助具のように、「線を引く」行為が機能している、みたいなこともあるのかもしれない。
本を読む、文章を書く、言葉を話す、などのさまざまな行為は、特に日常的に言葉に触れたり、物書くような人にとっては呼吸をするようなものに思えるかもしれないけれども、やっぱりしんどいことだと思う。それは扱っている主題がどうこうという話ではなく、行為としてのハードルだ。それを緩和するための方法はいろいろあっていい(し、できるかぎり広くアクセスできるほうがよい)。
「電子書籍より紙の本のほうが読みやすい」みたいなことがよく言われるけれども、自分は電子書籍のほうがずっと読みやすい。これはちょっと前書いた気もする。大きさも変えられるし、リフロー型なら行間もマージンもある程度調整できる。ページを抑える必要もない(ので、集中力が切れてパッと置きっぱなしにしても大丈夫)。リーディングトラッカーもそうだ(使ってみると、「めっちゃ読みやすい!」となる。同じ行を繰り返し読むことけっこうあるんですよ……)。もちろん人によっては紙の本のほうが読みやすいってこともあるだろう。そもそもガジェットの扱いが苦手、インターフェイスが好みでない、とか。人間の認知のかたちはいろいろあるから。でもそのカスタマイズ性ゆえに、すくなくとも自分は電子書籍がいい。
本は一定の内容を保管し残すための記録メディアであるばかりではなくて、読むための(あるいは考えるための、想像するための?)道具でもある。というふうに考えると、「こんな線の引き方って読みづらくないか?」っていうのもなかなか傲慢な感じがする。そのように線を引くことがまさに読書である可能性もじゅうぶんある。一方で、他人が引いた線は、それが誰か他の人の読書する身体をテクストの上に重ね書きしているゆえに、これから読もうとするわたしにとっては、まるで知らないクセのついた道具を使うみたいな、バリアにも感じられてしまう。しかしそのバリアは、あらゆるかたちの「本」が持つバリアと実はそこまで変わっちゃいないのではないか。