WordpressがChromeからうまくいじれないという現象が発生し、拡張機能を切ったりなんだり試したのだがどうもうまくいかない。シークレットモードやゲストモードを試すと一応動くのでなにかが悪さをしている。ちなみに、Edgeだとなんの問題もない。なんじゃらほい、なんじゃらほい……とやっていたら、クッキーが悪さをしていたようだった。クッキーの削除したら平気になった。灯台下暗し。
「筆者」という(疑似)一人称をめぐる問題。別に問題ではないのだが。そんなもん勝手に使ったらええやんと思う。ただ、この由来を考えると、一人称の「私」を使えない、使うべきではない場所や書き方のなかで、便宜的に三人称としての「筆者」を一人称の代用とする慣習、というのが説明になるんだろう。この理解が正しいなら、〈「筆者」が頻繁に出てくる=一人称を使うべきではない場所や書き方で一人称を使っている〉ことになるから、どこかに歪みが生じているのではなかろうかと思う。一人称を使う書き方を通してもらうか、一人称を出さないか、どちらかに整えたほうがいいような。ささいなことだけど。
「サンプルパック」が生み出すクリエイティブとは?【サンプルパックとヒップホップ 第1回】 | Soundmain Blog
サンプルパックの話、連載ということで今後にも期待。読んでいて思ったが、Ultimate Breaks & Beatsのような定番ネタのコンパイル&リイシューであったり、ロイヤリティフリーのサンプリングCDやそれに類するライブラリ、あるいはちょっと変わったところではターンテーブリスト用のバトルブレイクスといったものも、サンプルパック前史として考えられそうだな、と思った。あるいは放送・ステージ向けの音効ライブラリも。ざっくりわければ「DJやビートメーカーのあいだで共有されてきた知識をより開かれたものにする(=作り手コミュニティからの目線)」「煩雑であったり高コストであったりする権利処理を避ける(=経済的な目線)」の両側面がサンプルパックにはあって、Ultimate~とかああいうコンピは完全に前者オンリー、サンプリングCDは前者の要素がやや薄くて後者に寄っている、みたいに言えそう。そうすると、上の記事で問題とされているサンプルパックはこうしたふたつの観点が入り混じっている(読むとわかるが)。GarageBandに実用性が高いループが入っているのは楽曲制作に必要な知識やスキルの障壁を下げるためだ。アーティストが自らの名前を関してサンプルパックを制作するのは自分の「音」を他人も気軽に利用できる共有物としてひらくことでもある。サンプルパックをリリースするプラットフォームはいわずもがな。サンプルパックは「使い勝手がいい」とか「サンプリングという手法を低コスト・リスクで実践できる」というだけではなくて、そのサウンドひとつひとつにもさまざまな知識やスキルが埋め込まれているものだ、と考えるとおもしろいように思う。
フリーのVUメーターソフトを導入して、各プラットフォームやプレイヤー間のレベル調整をちゃんとやることにした。
なんとなくTennysonのちょっと前のEP聴き返して、マジですばらしい。「You」の5連使いすごいよね。
「議論」や「対話」は過大評価されている。「内省」や「反省」もそうかもしれない。それ以前のルールや場のつくり方がないがしろにされている。
Everyone Is a Genius: Apple Will Offer Parts and Tools for DIY Repairs | iFixit News
AppleがDIY修理のためのパーツや器具、マニュアルの提供をはじめるとのこと。Appleがそこにのりだすのはいいしらせだ。一番そういうの嫌がる印象だったし。ただし、公式にパーツの供給をすることの問題も指摘されていて(任意のパーツの販売をあっさり終了して買い替えを促したり、みたいなこともできてしまう)、「修理する権利」をめぐるいち企業の方針をこえた働きかけって必要なんだなと。日本ではあんまり意識されている印象はないけれども。
特定の企業にかぎった話ではないと思うのだけれども、完結したプロダクトとして洗練させようとすると、ユーザーが手をいれられる領域ってどんどん減っていく(拡張性やメンテの利便性が削られていく)。しかし、そうした方向性の洗練は今後見直されて、メンテナンスの容易さや拡張性といった要素が改めて「良いプロダクトデザイン」の条件になっていくんだろうなと思う。"[W]e’re thrilled to see Apple admit what we’ve always known: Everyone’s enough of a genius to fix an iPhone.“という記事の締めくくりが素晴らしい。
New York Bill Seeks to Prohibit Rap Lyrics as Criminal Evidence (consequence.net)
ニューヨーク州でラップの歌詞を捜査過程で証拠に用いることを制限する法案が提出されているそうで、つまりラップのなかでああしたこうしたというのは表現であって証言ではない、ということだそう。「そんなことあるの?」って思われるかもしれないが、白人男性アーティストが曲のなかで殺人の描写をしたところで「それはあくまで表現でしょ」と受け止められる一方で、ラッパーはしばしばそのリリックの内容が裁判において不利な証拠として使われてしまう例が紹介されている(最近やとテカシとか)。という話からわかるように、これは表現の自由をめぐる問題であるのと同様に、レイシズムの問題でもある(“The use of rap and hip-hop lyrics in particular is emblematic of the systemic racism that permeates our criminal justice system.“と法律の制定に動く議員は語っている)。
むちゃくちゃ長くて濃い記事で、本筋といえる流れの記述と同じくらいちらと挟まれる余談や見解も面白い。ジャンルというのはときに音楽的特徴の束(様式)として、ときにコミュニティにおける共通言語(あるいは歴史・系譜として受け継がれるもの、とも言える)として、あるいは商業的な要請によってはりつけられるラベルとして機能するものだけれども、そのせめぎあいが凝縮されている感もある。
「エモい」みたいな言葉を使うと、思考停止だ、もっときちんと言語化しろ、みたいな圧をおぼえるときがあるのだけれど、むしろ「エモい」で留める術をきちんと持っておくことのほうが大事なのではないか? もっと細かく言語化しよう、と思った結果、単にレトリックを弄んでいるだけになってるだけじゃないか、みたいなこともあるし、そもそも言語化というのは罠のようなもので、そう言ってしまえば自分がそもそもそのように考えていたかのように錯覚してしまう自縄自縛の装置であって、その装置をうまく使うことができれば「私」に対しても「他」に対しても重要な効果を生むことができる一方で、単に自己欺瞞を塗り重ねるだけに陥ってしまうこともある。
萌え絵がどうこう言われたときに「葛飾北斎が~」みたいなこと言うの安直な議論のすり替えと権威主義の発露という感じであまりのダサさにげんなりする(なにかみてしまった)。