命が大事なのは感情に訴えかけて伝えることじゃなくて、むしろ真顔で言わなきゃいけない。音楽でうやむやにせず、言うべきことはあるというか……音楽の出番はもっと他にあるという感じがする。
1年半くらいかけて使っていた(たぶん)バルサミコ酢がそろそろなくなる。バルサミコならではのフレイバーとかはよくわからなくてむしろお酢の「お酢です!」という感じなくだばだば使えるのがいいみたいな感じでちまちま使っていた。いろんなお酢をきちんと試したい気持ちもあるが、正直お酢ってそんなに出番が多いわけじゃないからむずかしい。
鶏もも肉を皮目から重しをのせて両面焼き、焼き上がったらアルミホイルにつつんで余熱も利用し火を通す。皮から出た油に足りなさそうならバターなどを足してバルサミコ酢とはちみつ(などの甘味料)を加えてやや煮詰めソースにする。とてもおいしい。重しには鍋とかがあるとよい。
三日前、牛乳をゼライスで固めたら牛乳プリンじゃない? とおもって作ったらゼライスの量が多すぎてもちもちの牛乳ができあがってしまった。それがまずいわけじゃないのだがもとめてるものじゃなかったので、いっかい固めた牛乳をまた火にかけて溶かし、牛乳と砂糖を足し、だいたい倍量にして固めなおした。するとふるふるの牛乳プリンができてわたしは満足ですぞよ。あんな量でもいいんだな……。たぶん500mlで一袋くらいに相当すると思う。しかし都合5日間くらい冷蔵庫においといてることになるのだが大丈夫だろうか。おれの胃が。
そういえば以前、ひとから大前粟生『おもろい以外いらんねん』(河出書房新社、2021年。アフィリンク注意)をプレゼントしてもらって読んだのだが、面白かった。お笑いを題材にした青春小説であり、新型コロナ禍の記憶を刻み込んだ記録でもあり、大声をだして傑作だとひとにすすめる感じではないけど、これを読みたかったと思う人は少なくなさそうだ、という、絶妙な作品だった。一番おもしろいのは漫才の場面で、ネタがおもしろいとかじゃなくて、小説にでてくる言葉は果たして誰の言葉か――登場人物の語りなのか、神の視点なのか、それとも神に擬した作者の視点なのか――が融解するポイントとしてネタというのが機能しているように思えた。地の文と会話文、みたいな文の役割分担が小説をつくっているとすると(つまり戯曲のようにト書きがない)、ネタがどのような位置におかれているかに独特なところがあるというか。そもそもこの小説は語り手(主な視点)が何度か変わる。微妙な文彩の使い分けでその変化があらわされる。その微妙さがネタのグルーヴ感によって融解してひとつの勢いが生まれる。ときに加害的で自己破壊的でもある「おもろい」をめぐる葛藤や反省に対して、もっとも雄弁に「おもろい」の感覚をにじませているのは言葉が登場人物を離れてグルーヴしていくところであるのはなにか興味深い。知らんけど(読んだのがまあまあ前なので。半年くらい前?)。
こういう動画はなんとなく見ると楽しい。説明が明快な一方で変にがちゃがちゃしてないのもいい。
いいよねー。Jacob Collierはやっぱヤバいみたいな感想になってしまうが。
何者なんだかあんまりよくわかっていなかったHASAMI Groupにはまりそうになっている。
年末。確定申告の足音が聴こえてきます。まだぜんぜん早いだろって? おれの無能さを甘く見ないでほしい。といって別になにかやるわけじゃない。ただ戦々恐々とするだけなんだ。