原稿仕上げないとと思ってこんつめたら日課のステッパーや体重計測がおろそかになってしまいよくない。日常のペースをもっとちゃんとつくらないと。仕事の資料読みもゾーン入ったときにまとめるんじゃなくてコンスタントに積み重ねたい。でもそれには体調がむらなく元気な必要もあり…… とか考えてたら泥沼だ。とりあえず食生活からなんとかしよう。米化オートミールをよく食べています。
愚かさをめぐる話。ある能力が低いという意味で誰かを「愚か」であるということは多くの場合不適切だが、「人間の判断力は時と場合によって大きなむらがあり、いくらでも愚かな行為をしうる」という意味で、自分をふくめてたいていの人は愚かだ、ということはおよそ間違いない、と思う。常に愚かである人はさほどいない。同じように、常に聡明である人なんてそうそういない。ある判断や行為の愚かさを属人的な能力と簡単に短絡してはいけない。それはたとえば「知性」というような言葉を使うときにも同じで、それが能力として語られる限りでしばしば差別的なニュアンスを帯びるが、もし「知性」がある制度によって保障されるもの、あるいはある技術によって身につけられるもの、として語られるならば、また別のニュアンスが生まれる。なんにせよ、こうした注意深い取り扱いが必要な言葉を振り回してはいけない。
Twitter Pro、あれは「Twitter Business」とかにしたほうがいいんじゃないのか? Amazonの法人・個人事業主向けのサービスがBusinessってなるみたいな。そしてその流れで「Twitter Student」「Twitter Scholar」「Twitter Artist」などが爆誕する。
吉本隆明の『マス・イメージ論』をなかばアトランダムに読んでいるのだが、「解体論」に出てくる「システム」という語がのみこめない。冒頭から、
わたしたちが意識的に対応できるものが制度、秩序、体系的なものだとすれば、その陰の領域にあって無意識が対応しているのは、システム価値的なものだ。構造が明晰で稠密でしかも眼に視えなければ、視えないほどシステム価値は高いとみなすことができる。
吉本隆明『マス・イメージ論』福武書店、1984年、146頁
と言い出すのだが、制度や秩序や体系ではない「システム」ってなんなんだろう。その次の段落で「システム的な、不可視の価値体」とも表現しているので、前の引用とあわせればこの「不可視」性が「システム」なるものの規定なんだろうと思う(でも可視的な制度や秩序や体系があるだろうか?)。明晰な構造を持つがその内部を把握不能なブラックボックス、みたいな感じなのかな。しかしそれがなぜ「システム」という一語に集約されて執拗に論じられるのがなんかよくわからない。80年代になにかリファレンスがあるのか……他の本もあわせて読んだらわかるんすかね。
「システム」といえば、お笑いの話で「システム」って言葉が出てくることがある。たとえば「システム漫才」という言い回しもあるし、ネタについて「システムをつくる」みたいな表現も見聞きする。けれどもそれがなんで「システム」と呼ばれるのかしっくり来たことがあまりない。「システム」と呼ばれているものはどちらかというと「アイデア」とか「コンセプト」だし、それを展開する手際だってもっとレトリカルというか、実はもっとディテイルに富んだもののように思う。
エッジが無限に鋭くなっていくYunomiさんだけれども、このあたりでどちゃくそイケボな声優ソングやってほしい。少し高めの、っていうよりは低い人の。あれよ、武内駿輔さんくらい低いの。
「文化の盗用」を考えるにあたっては、他者の文化=アイデンティティに対してどのように参与・介入するかという実践における倫理の問題と、植民地主義などの歴史や経済的・社会的な権力関係がもたらす構造的な問題というふたつののレベルを認識しておくことが大事だと思うのだが、ざっくりと「文化の盗用」と言うとき前者にフォーカスがあたりがちな印象がある。もちろんそれ自体が悪いことではなく、個人の生活――つまり実践――においてその議論が重要であることは言を俟たない。それに、このふたつのレベルは互いにきっぱりとわかれているわけではない。けれども、後者があまりに軽視されてしまうと、権力関係が隠蔽されて、「対等な他者同士のあいだでおこるいざこざ」のような不適切な認識のフレームができあがりかねないし、ひとつひとつの事例に対する解釈もずれてしまう。