中学のときに学校に行けなく/行かなくなって、結局全日制の高校にも行かなかった。試験は受けるだけ受けたけど落ちたのだった。それで親がいろいろと調べて通信制の高校に通うことになった。将来が不安すぎてあんまり楽しい生活ではなかったけど毎日教室に向かう必要もなかったし気楽ではあった。多分いまと生活はあまり変わっていない。
さっさと卒業してしまいたいと思っていたからちょっとタイトに単位をとって3年で出た。けれどふつうは4,5年くらいかけるし、10年くらいかける人だってざらにいる。たまたま環境の手助けもあって(たとえば学費や生活費のためにバイトをしなくてよかった、とか。勤めている人だって少なくないのだ)全日制の高校に通うのと遜色なく進級できたのだが、それがかなり例外的だったのはたしかだ。
中学2年から高校3年相当まで、実質、いわゆる「学校」には通っていなかった、と思う。まあ厳密には保健室に通っていたこともあるし、通信制の高校も立派な学校ではあるんだけど。世間に流通する「学校」のイメージや、当然のように語られる「学校」の姿に馴染みがなさすぎて、自分はそんなところにいなかったよな、と感じるからだ。
覚えているのは真新しいビルのなかにある会議室みたいな教室であり、窓からやたら殺風景な街の風景を見下ろすカフェテリアであり、あるいはNHKの高校講座の録画ビデオが置いてある図書室だった。駆けるような廊下はなかった。もっと言うと、そんなに学校にもいなかった。だいたいブックオフにいた。
しかし世の中には「学校」に関する語りや表象がうんざりするほどあふれている。それがいかに素晴らしかったか、あるいはそれがいかに抑圧的であったか。どっちでもさほど変わらない。「教室にいた人」の話だから。あまりにも「教室」という空間が特権化されすぎてると思う。高校生、特に女子高生という表象の濫用もどうかと思うが、その舞台となる「教室」の強固な存在感にもいやなものを感じる。
まあこれも日本に限ったことではなくて、外国でも同じだろうなと思う。TikTokでうんざりするほど流れてくる学校あるあるネタとか。あるいは「ブックスマート」はかなり楽しんだ映画だったけれど、「学園モノ」が持つ磁場の強烈さに若干うんざりした。あれがアメリカの話だったからまだフィクションとして距離がとれたけど、日本で同じことをされたら(その痛快さをさておいても)クソミソにけなしていたかもしれない。そういう意味で救いだったのは神出鬼没のトリックスター、ジジだった。あのキャラクターはよかった。
「教室にいなかった人」目線の話をもっと知りたいと思う。「学校」や「教室」をめぐる話を好き好んでしているのはだいたい「教室にいた人」だ。そうじゃない人が「学校」や「教室」について語ったらどうなるだろう。「教室」の外にどんな世界がありうるのか、そこに革命があるとか言って扇動するのでも、道を外すぞと脅すのでもなく、地に足ついた話がもっとあっていいよなぁ、とか。すげー単純に、通信制に通っていたという人と会ったときはなんか嬉しかったもんな。
そういえば空気階段が定時制高校を舞台にしたコントをやってるのを見たときはなんかすごいぐっとくるところがあった。鈴木もぐらのキャラクター造形(っていうか喋り方)に「これどうなんだろう」ってちょっとひやっとしたのだが、それがコントの世界の中では笑いの対象になっていないバランスもよかった。