少し前わけあって昔の「ユリイカ」を開いて、細馬宏通が松本隆の詞とドラミングについて論じている文章(「金属の肺、のびあがる体 松本隆の詞とドラマーの生理」という)を読んだ。目を開かされたのは次のような一節だ。
もちろん、誰もがバディ・リッチのように叩けるわけではない。けれども、どんなドラマーも、ハイハットを叩こうと手を交差させ、あるいはライドに右手を伸ばそうとするとき、歴史上どんなドラマーもしたであろう身構えをなぞることになる。ドラムという伽藍に向かい、その立体的な構造に自分の身を添わせようとするとき、ドラマーの身体はおのずと閉じられ、あるいは開かれ、その身に応じた音が鳴る。あらゆるドラマーは、意識するにせよしないにせよ、ドラム「セット」の配置に残された、過去の演奏の痕跡を、自分の体を通してたどることになる。ドラムを叩くということは、そういうことなのだ。
ユリイカ 2004年9月号 特集*はっぴいえんど 35年目の夏なんです、p.70
ごく当たり前の事実が驚くべき発見をもたらす。そういう感じがここにはある。人間が身体的にとりうる動作のレパートリーはそう多くない。なにか楽器を演奏するために要請される動作のレパートリーとなればなおさらだ。そして、その動作のレパートリーには、ある楽器が現在のかたちに至るまでに積み重ねてきた歴史があらかじめ内在している。ある楽器を弾けるようになる、たとえばエイトビートをクロスハンドで叩けるようになる、ということは、できるようになったこの私にとっては発見であり未知なる未来への一歩だけれども、楽器の側から見ればすでに存在していた過去へ身をあずけるようなことでもある。いまの私が未来へ向けて歩みだすと同時に、過去にも滲み出していく。(注1)
同じ著者の『うたのしくみ 増補完全版』にも似たところがある。
本書に収録された文章はどれもとてつもなくミクロなレベルの分析が歴史の広大さに接続されるアクロバットな快感に満ちている。しかしそれが単なる曲芸にならないのは、「うた」というものもまた、そのなかにある歴史が埋め込まれた動作のレパートリーの集積である、という根本的な原則が貫かれているからだ。
たとえば、あるクセのある歌い方が時代や地域を超えてあらわれるとき、つまりたとえばロマンソニーの「トゥナイ…ッタ!」のなかにジェイムス・ブラウンの呼気を含んだ「ゲロッパ!」を聴き取るとき、この一連の微細な身体の運動に、ファンクの歴史が立ち上がってくる。
あるいは、「ロボット」にふくまれる「オ」の母音の連なりに耳を傾けると、「ロボット」をめぐる100年ほどにわたる想像力のありようがめくるめくある一曲に凝縮されてゆく。
2014年に出たオリジナルの『うたのしくみ』を読んだのはちょっと遅かったと思うのだけれどもしこたま衝撃を受けた。特に印象深かったのは「お正月」の分析と「虹の彼方に」の分析で、いまとりかかっている仕事でもしばしばふわっと思い出してしまうほどだ。2021年になって出版された「増補完全版」のほうはというと、これもまた凄まじい。先に上げた3曲の例はどれも「増補完全版」に出てくる。
まえがきによると、増補書き下ろしにはふたつの核となるテーマがあって、ひとつが「複数で歌う」こと、もうひとつが「わたしがわたし以外になって歌う」こと、だという。いきおい、うえで述べたような原則――つまり「うた」という動作に埋め込まれる歴史――がいっそうきわだつ文章がそろっている。そもそも、この原則に立つならば、歌を歌うということは私ならざるなにかの声をこの喉にひっそりとまとわせることなのだし、それゆえ私が私以外になってゆくことでもあるのだから、あらかじめ通底していた主題が顕在化したようにも思える。
こうしたテーマを新たに設けることで、テクノロジーの要素もよりはっきりと浮かび上がっているのが面白い。そのものずばり、「機械と人間のあいだ」という文章も2部構成で収められているのだけれども、ヴォコーダーとかオートチューンとかそういったいかにもなテクノロジーじゃなくて、現代のポップミュージックには欠かせない(多重)録音技術によるサウンドメイクが実は前提とされている。ジョン・レノン「イマジン」やテイラー・スウィフト「私たちは(以下略)」、シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム」の分析では、現代的なプロダクションが生み出す複数の声のあり方(なんならスタジオテクニックに限らずミュージックビデオまでが入ってくる)が描き出される。(注2)
しかし、そこにフォーカスしきってしまうのではなく、譜面に書き留められた「うた」も、レコードに刻み込まれた「うた」も、あるいは誰ともない誰かが口ずさむ「うた」をも連続的に扱っていることによって、あらゆるテクノロジー――書記、録音、編集、変調、合成等々……――を貫通する「うたのしくみ」が浮かび上がってくる。そして、この「しくみ」は常に、ここではないどこか、いまではないいつか、私ではない誰かへの通路なのだ。
注1 それゆえ、身体的な制限によって新しい動作のレパートリーが要請され、自ずと特異な歴史が立ち上がりだす、というような事態も起こりうる。「誤用」のうみだすクリエイティヴィティなんていうのもある。それらはある種の発明(invention)であり、また同時に歴史に対する介入(intervention)でもある。若尾裕『サステナブル・ミュージック これからの持続可能な音楽のあり方』(2017年)で論じられるデレク・ベイリーの例はこと興味深いので参照されたい。
注2 そもそも執拗にある声を、声色を論じ続けるということ自体が、録音技術以後だからこそ可能なことではある。また、テクノロジーの要素は『うたのしくみ』オリジナルでもマイクやラジオ、映画といったかたちで登場している。ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」をめぐる分析で触れられる冨田恵一の『ナイトフライ』論がまさしく、『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』(2014年、DU BOOKS)と題されていることも付記しておく。