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人がよく「物語」の話をしているのを見かける。さも現代をめぐる最大のプロブレマティックがそこにあるかのように「物語」とどう向き合うべきかを論じている人が多い。でも結局その「物語」がなんなのかはっきりしない。具体的な内容じゃなく、どのような対象を「物語」といってるのかよくわからない。自分が「物語」というときイメージするのは因果関係の連鎖である。フィクションの文脈になじむような言い方をすると「プロット」か。誰が何してどうなった。それがさらに連鎖することで「物語」は進行する。だからそうした因果関係が隠されていたり、破壊されていたりするものを「お、非-物語的だ」と思う。

でも人が「物語」と言ってるときって必ずしもそうした因果関係を意味していないように思う。むしろそうした因果関係を見出すための認知の枠組みが「物語」と言われているようなときが多いんじゃないか。たとえば「世の中はおしなべてあちらがわとこちらがわの闘争である」というような枠組みを持つ人は「あいつはあちらがわの人間だから、こういう報いを受けるのは当然である」みたいな「物語」=因果関係をひねりだす。それが実情とあっているかどうか、真に因果たりうるかに関わらず。言ってみればそれは「設定」であって「舞台」であり、「物語」はそこから演繹された説明に過ぎない。

自分の関心はそういう粗雑なつかい方をされる「物語」のほうではなく、「物語」の素材になる「設定」や「舞台」のほうだ。さらに言えば、そうした「設定」や「舞台」から一定の「物語」を取り出させるレトリック、文体も。そっちのほうが「物語」なんていう単に事後的に説明の便宜のために持ち出されるものよりもよほど問題として実際的だと思う。

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