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 いつからかほうれん草が苦手だった。給食にでてきたほうれん草のごまあえがとんでもなくきらいだったのは覚えてる。いまあらためて思い返してみると、ごまの独特なあまみとほうれん草のなにかごわごわするようなえぐさとかにがみとかそれ自体のあまみとかが互いに互いの欠点を増長させているみたいなところがあった。そののちほうれん草のいろんな食べかたを知るようになっていくとあのごまあえほどの嫌悪感はなくなっていき、ついぞおいしく食べられるくらいにはなっているのだけれど、はじめにうえつけられたほうれん草のえぐみの印象のおかげでいまだにうっすらと「ああ、ほうれん草か……」と思ってしまう。

 あれってようするにほうれん草がもっている特定の刺激にたいして過剰反応した、それがずーっと尾をひいているのだと思う。いらい、ちょっとでもその刺激を受けとるとほかのあらゆる刺激がマスキングされて「逃げろ!」と命令がくだされる。

 きらいなたべものがあるようなひとはよくわかると思うけれども、「いやな味」に対する敏感さというのはけっこうなものだ。きらいな野菜は細かく刻んでわからないようにしてしまいましょう、とか言うけれど、きらいなものにかぎってセンサーは敏感なものだから、食感ではなく味が問題になっているときにはそれも効かないんじゃないのか。むしろこれでもかと濃い味つけでうちけしたほうがよさそう。でもなんでそこまでして嫌いなものを食わんといかんのか。おれにはよう分からんが、すごい、それは、素晴らしいことだ、かもしれませんね(向井秀徳)。

 閑話休題。マスキングの話。

 「歳をとるとむかし食べられなかったものが食べられるようになる」ということを「老化現象に伴う感覚の衰え」と評してシニカルに捉えるひともすくなくない。自嘲のつもりなのか、他人に冷水をあびせているつもりなのか知らないけど。そもそも「感覚が鋭いほどよい」って錯誤だと思う。むしろその鋭さは往々にしてあまりにピーキーで、うまく付き合っていくのはむずかしい。

 鋭さというのは必ずしも豊かさではない。さっき書いたみたいに、ある突出した刺激によってほかの刺激がマスキングされてしまうとき、鋭さは鈍麻に急接近していく。そして拒絶に至る。一定の鈍さがなければそうした反応を度外視して分析することも判断することもできない。分析や判断というのは、あるいはそれらをひっくるめて批評的な営みと言ってもよいが、鈍さを土台にして成り立っている。たとえばテクストの読解とか対象のディスクリプション、あるいはアウトプットに際してのライティングスキルとかっていうものは鈍さを身につけるためにある。

 その鈍さのうえにあってはじめて対象がそれ自体にふくんでいるさまざまな面に注意を向けることができる。ただただ自分を刺すように思えた強い光のなかにじつは数え切れないほどの色味が含まれていることに気づいたりする。すくなくとも、鈍っていくことを喪失としてあわれむことはない。場合によっては、それは訓練してまで身に着けなければならないものでもある。

 しかし「一定の鈍さがなければ分析も判断もできない。」というのはなにか剣呑な響きがある。そのとおりで、分析や判断の俎上に載せるということは鈍さの行使であり、その鈍さは感性的なものからにじみだして倫理的・社会的なものへもはみだしていく。あまりに鋭く刺さりすぎてどうしようと鈍くなりようのないなにかを抱える人びとにとって、分析や判断というものはその鈍さゆえに、侵犯や暴力のように思えるだろう。というか、じじつ、侵犯であり暴力である。程度の差はあれ。

 とはいえ、だからといって鈍さの暴力をあえて言祝ぐつもりもなければ、逆に糾弾するつもりもない。ただ、鈍さはそれ自体重要な能力であることは認めてしかるべきだと思う。そして「これは鋭い!」と膝を打ちたくなる洞察の根底には往々にして鈍さやその暴力性が埋め込まれている、というのも、認めなければならない。それだけの話といえば、それまでだ。

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