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 6時くらいに起きる。体調は上々。朝イチですげぇ痰が絡んでいたが、お水飲んでうがいしたらすっきり。換気もする。
 現代思想2020年3月臨時増刊号 総特集=フェミニズムの現在をちらっと読む。
 関根麻理恵「「ギャル( 文化)」と「正義」と「エンパワメント」『GALS!』に憧れたすべての「ギャル」へ」興味深い。ここで論じられるのは女性のエンパワメントの象徴としての「ギャル」だが、もう一方で昨今の「ギャル」表象には興味深い点がほかにもある。おたくってなんでギャル好きなのか、ということ。前にも書いたような気がするけれど、それは、「教室」をひとつの単位とする社会に対する異物であるからだと思う。ある種のフィクションにおいてギャルは「スクールカースト」を超越した存在であり、それゆえに「カースト」間のヒエラルキーを無視して「カースト下位の私」にも平等に接してくれるのではないか、という期待が投影される。ギャルはストリートに生き、教室を縄張りとはしない。ヤンキーや不良にもおおよそ似たようなことが言えるだろうが、しかししばしば不良が学校をおのれの縄張りとすることから、ストリートという外部とは異質かもしれない。「教室」の外側にはこの閉塞を打ち破る世界が待っているのではないか(そこでは自分も「対等」に扱われるのではないか)という期待が「ギャル」を聖母にする。この観点からすると「不良が子犬に優しくする」のギャップのありかも単に「やさしい一面もある」に限らない展開ができそうな気がする。つまり、「教室」の外側では、人はまた別の役割を演じだす、ということだ。
 鈴木みのり「(トランス)女性の生活の中の音楽 ジャネット・ジャクソン再考」では、宇多田ヒカル、ジャネット・ジャクソン、アリーヤ、ケリスといったシンガーの歌声とリリックが自らの個人史と重ね合わせながら論じられる。論と呼んでしまうのは、それはそれで少し暴力的かもしれないが。というのは、テーゼとその立証を明晰に積み重ねるのではなく、むしろ、経験をたぐりよせて言葉として編み直すプロセス自体がこの文章の核になっていると思うからだ。トピックがずれながら少しずつ重なっていくことで浮かび上がるのは個人の生であり、「ジェンダーとセクシュアリティを含め、生活する身体そのものを通して編まれた言葉を、どう記録し、異なる誰かのために残していけるのだろう」という本文中の問いにそのまま答えるような文章になっている。一方で、ジャネットや宇多田の楽曲やサウンドに対する評はきわめて鮮やかでもある。ひとつのことを遂行しながら複数の種を蒔くような文章だと思う。

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