朝、7時位に起きるが、すぐ寝る。寝て、また起きる。何時だか記憶がさだかではない。ここ数日の疲労からか、うっすらここちよいような倦怠感につつまれていて、しかしここで仕事にとりかかるといつも体調が悪いのと良いのとのびみょうな境目にいつづけるはめになるから、きょうも一日いっそ寝込んでしまうことにした。そう決めてしまうと楽なものでいまはもう16時。なにも覚えていやしない。眠るのに疲れたらTwitterしたりメールチェックしたりする。適切な休息はとても気疲れするものだ。
筋トレについて考える。自分は筋トレをするつもりはあんまりない。健康のためにやったほうがいいかなと思うけれど。筋トレで気になるのはその健康にまつわる側面ではなくて、ここ数年自己啓発的なニュアンスとともに流行していることだ。その理由は、特に男性について言えば、自分の身体を意識するための、自分の身体をまなざすための、自分の身体を気遣うための口実なのではないか、と思う。
男性ホモソーシャルにおける男性の身体はしばしば透明化される。他人の身体をことさらまなざすこともなければおのれもおのれをまなざすことはない。たとえあるとしてもコンペティティヴなまなざしであり、身体を身体として、「より強い」や「よりデカい」の意識なしにまなざすことはないのではないか。
セルフケアの口実としての筋トレ。男性においていわば「合法的」に自分を気にかけるための法の抜け穴として筋トレはある。その枠内であれば他の男の身体について語ることもできるしなんなら褒め称えることもできる。
サウナもそういう面が若干ありそうだ。「整う」快楽に男女差があるのかどうかは知らないが、少なくとも自分の身体に起こっている現象に注意を払う機会がサウナのなかにはある。別にサウナのなかでなくったって自分になにが起こっているかケアしてもいいはずなのだが、それを「道」とすることによってまた「脱法」の操作が行われる。
糖質制限もそうだろう。抽象的な「栄養バランスに気を配る」とは違うなにかを糖質制限は持っている。ある目標(望ましい均整の取れた身体、という)への求道的なアティチュード。
まあ、どれもべつに悪だとは思わない。しかし筋トレやサウナや糖質制限という脱法的ルートによってではなく自己へのまなざしを抑圧する規範その自体への拒絶として自分の身体を気にかけることはできないものだろうかと思う。
こうしたメソッド化されたセルフケアはネオリベ的良い生活(RadioheadのFitter, Happierが風刺したような)にも近接する。そこもなんかやだ。しかしセルフネグレクトを選ぶのもまた違う。そうではない方法で自分の身体と向き合う術がほしい。気がする。なんだかまとまらない。
「新潮」2020年3月号が届く。磯部涼「令和元年のテロリズム」、これが磯部さんのしごとのなかでどのように位置づけられるのか(未来からかえりみて)と思う。つづていくうちにカルチャー的含意が深まっていくのではないかという気がする。鈴木みのり「わたしの声の複数――トランスジェンダー女性の生/性の可能性を探って」、これを読みたくて買ったようなものである。こういう読まれ方は好まれない気もするが、制作と実践(上演)が不可分になる演劇が「生/性の可能性」の探求のキーになっている点が興味深かった。
「わたしの声の複数」では最後に「遅さ」というキーワードが出てくる。「遅さ」とは反物語的なものだと自分は思う。物語とは出来事に秩序を与えるあらゆる原理であるとしておこう。序破急も起承転結もつまり出来事を系列化し秩序を与えるものだ。ロジカルな展開というのもこの意味では物語である。AしたらBした、という因果関係は、最小の物語である。
物語は早い。どれほど長大で込み入った物語であろうと、それが物語である限りは早い。一方で反物語的なものは、秩序付けられず、複数のベクトルが同時に動き出す故に互いにその速度が相殺され、潜在的な運動量はきわめて大きいにもかかわらず、総体としての速度はきわめて遅い。そういう漠然とした図を頭のなかに浮かべる。仮に「私」のなかにそうした複数の異なるベクトルを見出すのであれば自ずとそれは「遅く」なる。というか、速度を問題化すること自体に懐疑がつきつけられる。