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 6時半ごろ起きる。うっすら頭痛。寝違えかも。きょうはパラサイトを観に行くぞというかたい決心。ただ、何時の回にしよう? 朝イチにしてしまおうか。9時過ぎの回。
 朝ごはんはイングリッシュマフィンにかんたんにつくったパティと目玉焼きを挟んで朝マック風。近所のマクドが朝マックをやめてしまったのでなんだか悲しい。ので自分でそれっぽいものにチャレンジしてみる。まあまあ。わざとらしいくらい塩気を出しても良さそう。
 パラサイト観る。良い映画だった。たしかにどこに行くのかはらはらはするけど因果論的にきちんと物語ができているので迷子にはならない。以後ネタバレあり。
 アメリカの影がいたるところにチラつく映画であることが気になった。アメリカンインディアン、英語教師、英語混じりの韓国語、アメリカから通販で買ったテント……。ではそこに果たして日本はどのように関与するだろうか? と思うと、米韓の関係性のなかにひっそりと、しかししっかりと浸透しているように思う。最後の惨劇はどのような出来事を模してセッティングされたか? という。このへんを知ろうとしたらやっぱり韓国と日本とアメリカの近現代史をがっつり知らなければなるまい……。
 もうひとつ、これだけあからさまな隠喩をちりばめたポン・ジュノがあるインタビューで「隠喩から逃れたい」と発言していたのはアイロニカルで面白い。しかしそのアティチュードは映画にも埋め込まれているかも。ギウは序盤にいろんなタイミングで「これは象徴的だ」と言って身の回りのものや出来事をなんらかの予兆のように解釈しようとするが、物語が軌道にのりだすと彼もまた隠喩を構築する画面のなかのひとつの駒になる。もはや解釈する側でなく、される側になってしまう。
 また、ギジョンは付け焼き刃の絵画療法で奥さんに取り入るわけだが、そこで施される「解釈」というものがいかに眉唾か、が一時的な痛快さに繋がっている。地上、半地下、地下というこの上なく精神分析的、心理学的な読解に向いた舞台を用意しておきながら、そうした「深層心理」や「トラウマ」的な解釈を拒むような出来事の配置があるわけだ。
 しかしまずもって地上、半地下、地下の関係性はリテラルな社会階層であり、そのあいだの交通がどのように起こっている(いない)のか…?というのが勘所だろう。そのとき、いくらか指摘されている「パラサイト」における「家族」の描写、「家父長制」への態度の問題がクリティカルになってくる。
 端的に言えば、「パラサイト」の男たちは、モールス信号というギミックによって、「家族」の外部でつながることが可能になっている。しかもそれは階級を超える。地下の男とダソンはモールス信号によって通信できているではないか。またそれは同時に、「家族」を再び結びつける(ただし男性の成員だけだが)役割も果たす。ギウがギテクのメッセージを受け取ったように。モールス信号による通信を行わないのは劇中パク社長だけだ。パク社長はモールス信号を通じた男たちの通信から疎外されている――それはまた、「愛」に基礎づけられた家族的紐帯に対する彼の距離ともパラレルだろう。ギテクから妻への愛について問われると明らかにおかしな反応を示すパク社長はおそらく他の男達と別のレベルにいる(それは家父長制の外というよりはまた別の家父長制だろう)。
 それに対して女たちはこの映画のなかでおおよそ「家族」を介さずに通じ合うことはなかったと思う。あまりにも見事に「家族」のなかにおさまりきってしまっている。この対比は「家父長制」が「家族」のあり方というよりも男性中心的に構築された社会の制度であり、「家族」の外部にこそ基礎づけられていることを示唆する。男は「家族」の外側においてもなお「家父長制」によって結びつけられうる。たとえ「家族」の紐帯を欠いたとしてもおそらく「家父長制」の内側には居続けられる――よかれあしかれだが。
 ギウが結局モールス信号によって父親とのつながりを(かろうじて)回復しつつ、「金持ちになる」という発想によってしか父親との再会を想像できないのはかなりヘヴィな描写だ。つまり新自由主義的なイデオロギーの外部へアクセスできないように、男たちは「家族」の外側には行けても、「家父長制」の外側には行けない。むしろ、「家族」の外で男たちにもたらされるホモソーシャルな紐帯こそが、「家族」をしばりつける「家父長制」のもっとも厄介な背骨である。「家族」のなかに都合よく収められた女たちと、その外部を持つようでいて、結局は「家父長制」のなかに閉じ込められた男たち。

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