上記の記事から続いて、2018年のベスト作品25選。10位から1位までです!
10. 長谷川白紙『草木萌動』
現役音大生SSW、という手垢にまみれた惹句をあえて用いたくなるのもわかる特異なアプローチが光る新鋭。Maltine Recordsからリリースした『アイフォーン・シックス・プラス』ではポスト・インターネット的なイメージをまとっていたが、個人的には草木が芽吹き出すような有機体のうごめきのほうがしっくりくる。「ソング」と「サウンド」の二項対立のどちらにも属しがたい、緩急の感覚を狂わせるポリリズムや調性を薄れさせる和声の複雑なコンポジションによって浮かび上がってくるテクスチャを、シルキーな歌声がたゆたう楽曲は中毒性が高い。定型的な構成と和声進行に基づいた歌謡曲の原理やサウンドのダイナミクスによって展開を演出するEDMポップスの流儀とも異なるカタルシスがめっちゃ新しい。
9. 崎山蒼志『いつかみた国』
インターネット番組に出演して一躍注目を浴びた若き天才SSWが、大きな期待を背負って発表したデビューアルバム。アルバムのほとんどがギター一本の弾き語りにもかかわらず、グルーヴをがらりと変えてしまう複雑な展開や伸縮していくメロディ、テクニカルながらロック的な荒々しさも湛えたギタープレイで聴き通させてしまう。一曲だけさしはさまれた打ち込みの楽曲も興味深い。技術的な不足が感じられるものの、歪んだリードとトラップ風のビート、ぼやけたヴォーカルなど、ただならぬセンス。フェイヴァリットに挙げていたYves Tumorとたしかに共振するものがある。既存のレパートリーをプロフェッショナルな録音でまとめるだけでも成立するところ、こうした発展途上の様子も収録することで、自然と「次」をリスナーに期待させるディレクションもナイスワークやで。
8. altopalo『frozenthere』
ふとしたきっかけで聴いた「mono」の冒頭に現れる、にわかには受け入れがたいほどの無音は今年一番の衝撃だった。頼りない歌声に不安定なピッチのエレクトロニクス、ビート・ミュージックを極限まで弛緩させたかのような音の配置、そして徐々にクライマックスに向かって刻まれていくグルーヴ。ビートメイカーか、あるいは風変わりなSSWかと思いきや、もともとはバカテクのジャズをベースにしたジャムバンドみたいな感じだったらしく、なぜ本作のような音楽に行き着いたのか見えてこないのも謎めいている。ゆるやかに反復するヒプノティックな展開はGang Gang Danceとかああいったインディアクトを思い起こさないでもないけれど、忘我や恍惚とは無縁なひえびえとしたサウンドに、「チル」を超えた「frozen」の世界を見るかのよう。
7. Isagen『c.b.a.g. EP』
20代のエレクトロニック・ミュージックのプロデューサーが次から次へと素晴らしい作品をリリースしつづけているこのごろ、IsagenのこのEPはトラップやベース・ミュージック、ビート・ミュージックの質感を保ちながらも「遅さ」や「緩慢さ」でグルーヴを紡ぐ特異なアプローチが光る。スクリューの技法も思わせるこの「遅さ」と近年のニューエイジ再評価に通じるサウンドはきわめて現代的ながら、かといってあらわれるグルーヴ感は他の誰にも似ていない。トラップの伸縮するグルーヴとも、Future Bassのタメとキメの美学とも違う、静謐な高揚感。ひとりで時代を体現してる、みたいな特異性と普遍性を両立していると思う。なかでも「girl」でエモーショナルに暴れるドラムブレイクやリードシンセは何度聴いても心動かされる。
6. Dirty Projectors『Lamp Lit Prose』
極端な内省に振り切ってエレクトロニック・ミュージックに急接近した前作を経た今作は、たとえばキャリア初期の『Bitte Orca』への回帰みたいな言われ方をしてるみたいだけれども、実際にはサウンドの組み立て方が根本的に異なる。DAW以降のエディット感覚を彼らが取り入れてきたアフロ・ポップのリズム構造と巧みに組み合わせることで、限られた音数からリッチな音像を獲得した作品。『Off the wall』期のマイケル・ジャクソンをアフロ・ビート風のシンコペーションやハーモニーで再解釈したような「I Feel Energy」が白眉。上から下までしっかり出る環境で浴びるように楽しむと、インディ・ロックの文脈や、あるいはファンクとかソウルといった歴史の蓄積をも逸脱したリズムの快楽に酔いしれることができる。プロダクションのひとつの参照点に今後なっていってもおかしくないのでは?
5. 中村佳穂『AINOU』
京都を拠点とするSSWで知る人ぞ知る才能であった中村佳穂が、James Blakeのようなポスト・ダブステップのアクトのパフォーマンスを見て得た衝撃から、「ソング」のみならず「サウンド」へのアプローチを深めたセカンドアルバム。しゃべりと歌の境界をやすやすと往還し、さらにハスキーでソウルフルな歌唱からウィスパー・ヴォイスに至るまで豊かな表現の幅をさりげなく使い分けるヴォーカルが驚異的。和声、メロディ、リズムのどれをとっても鮮烈な印象を残す楽曲を、名うてのミュージシャンと共に磨き上げたプロダクションは、モダンなSSWの理想形に近いかも。一見すると歌に生きる天真爛漫なパフォーマンスなのだが、その実、アルバムから垣間見える表現に対するストイックさ、突き放し方は類を見ない。
4. 折坂悠太『平成』
ロックンロール以前――ジャズ、ラテン、カントリー、民謡が渾然一体となった歌謡の世界――の風景を幻視させるような演奏に、多様な歌唱法とシアトリカルな語り、そしてポエトリー・リーディングまでを自在に繰り出す特異なヴォーカルが絡み合う。それはまるで、「歌謡曲~J-POP」の系譜をすっ飛ばして、100年前と現在をつないだワームホールのようでさえある。未だ知ることのなかったノスタルジアに満ちたこんなアルバムに『平成』と名付けるアイロニーは、しかし折坂悠太の声の存在感によって乗り越えられる。名古屋のビートメーカーRAMZAの参加や、ポリリズムの導入など、現代的なエッセンスも多く散りばめられ、平成の終わりに出るべくして出た「ありえたかもしれない日本歌謡史の語り直し」のような一枚。
3. Mitski『Be the Cowboy』
2016年、堂々たるインディロック・アンセム「Your Best American Girl」で鮮烈な印象を残し、『Puberty 2』が大きな評価を得たMitskiだが、本作では巧みなソングライティングのスキルを存分に披露した。収録曲のほとんどはほんの2分台ながら、ポップスの定形を逸脱したひとひねりある構成や進行が散りばめられた、一曲として無駄のないアルバムに仕上がっている。もとより情景の描写や比喩に卓越したセンスを見せていた彼女が、ともすれば「アジア系アメリカ人女性」というパーソナル・ヒストリーと安易に結び付けられるようなディテイルを避け、言葉にならない微妙な感情を削ぎ落とされた表現で淡々と繰り出していくあたりに、ソングライターとしての矜持を感じる。もちろんその端々には、男性中心的な音楽産業への批評的な眼差しと、その闘いに挑む自らへの内省も根付いているのだけれども。ワンヴァースで言いたいことを言い切って終わるラップソングのような潔さと、噛み砕いてしまうにはあまりにも繊細な感情の機微を切り取るセンス、そして技巧を凝らしたアレンジが屹立する傑作。
2. 三浦大知『球体』
メインストリームのR&Bからアンダーグラウンドなダンスミュージックまで多彩なプロデューサーを起用し、高度なプロダクションとパフォーマンスのスキルを誇って日本の芸能界で独自の位置を築く三浦大知。『球体』では、華々しいシングル・ヒットはあえて視野に入れず、盟友nao’ymtとの緊密なコラボレーションを通じて、ひとつの壮大な物語を描ききったコンセプトアルバムだ。EDM、R&B、エクスペリメンタル、ポップス、あらゆる領域を三浦大知のパフォーマンスが貫通していく様は圧巻で、ヴォーカルによる表現の巧みさと卓越したリズム感がnao’ymtのサウンドと対等に渡り合っているのが生々しく伝わってくる。後のシングル「Be Myself」では一転きらびやかなエレポップとダンスサウンドでエンターテインメントの王道に突き進んだが、そこには『球体』で見せた彼らの表現への真摯さがもちろん反映されていた。「先鋭的なサウンド」とか「スキルの高さ」といったいわゆる「音楽好き」ウケする要素だけにとどまらず、そもそもJ-POPに対するアティチュードを再考させられるようなポテンシャルを持った作品。
1. SOPHIE『OIL OF EVERY PEARL’S UN-INSIDES』
サディスティックなビートとむせかえるほどチージーなポップを溶かして一体成型したような異形のポップスをやっていたSOPHIEが、突然内省に向かった2018年。インダストリアルはインダストリアルでも重工業ではなく、むしろラバーとプラスティックでできたような質感は、BDSM(「Ponyboy」)や身体改造(「Faceshopping」)といったモチーフと密接に結びついている。こうしたクイア的なモチーフを通じてSOPHIEは既存のセクシュアリティやアイデンティティから解放された「理想の『私』」と邂逅を果たし、恍惚に浸る。その一方で、解放と背中合わせの実存的な不安や、理想と現実の落差に苦悩する姿もいたるところに現れる。ポップミュージックの慣習を軽々と乗り越え、エレクトロニック・ミュージックにしかたどり着きえない新しいエクスペリメンタルなポップスの地平を開きつつ、SOPHIE自身のキャリアにおいても、ポップのグロテスクさを過度に誇張するかのようなシニカルな身振りから、我が身をさらけ出したシリアスなナラティヴへの転換も示した一作。2018年のベストにふさわしい。