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AmPmは、巧みな戦略でストリーミングプラットフォームを「ハック」して、異例の成功を達成した音楽ユニットとしてしばしば紹介される。上掲の記事もまあ、そんな感じの紹介をしていて、別に間違っちゃいない。実際数字が出てるんだから。そして、AmPmのアティチュードはまったく正しいと思う。しかし僕が不満なのは、この記事がAmPmのマーケター的な側面をあまりにも強調して、あたかも旧態依然とした日本の音楽業界にはマーケティングが存在しないかのように書いてしまっていることだ。

だが、ビジネスライクに映るマーケティングという言葉自体、日本の音楽シーンでは避けられがちだった。J-POPシーンでは、市場の攻略よりも自己表現が価値を持つという「信仰」があるからだ。そんなJ-POPシーンから見れば、AmPmは「仏作って魂入れず」に見えるのかもしれない。

これを読むと、ある人はAmPmを慣習にとらわれないイノベーターと捉え、またある人は音楽の「魂」を踏みにじる悪人に思ってしまうかもしれない。あるいは次の箇所。

J-POPシーンには別の「信仰」もある。音楽を制作するなかで自分のパーソナルな部分を出すことに価値があるという考え方だ。「右」はそれを真っ向から否定する。[……]自分自身の感情もエゴも殺す――。すべてはマーケットを分析して得た答えだ。

エゴを排して「冷静」な「分析」に従って音楽を制作し、配信する。それで実際に成功を収めている。「良かれ悪しかれこれが新時代の音楽のあり方だ」と問題提起をしている、かのように見える。

しかしちょっと考えればわかることだが、ここで取り上げられているふたつの「信仰」――マーケティングよりも自己表現、作り手はエゴイスティックであれ――が実際のJ-POPシーンにどれだけ根付いているかは疑問だ。たしかに音楽ジャーナリズムはミュージシャンのパーソナリティを重視して、テクニカルな話題やビジネスの話題を避ける傾向にある。作品にこめた思いとか産みの苦しみとか作り手としての信念をミュージシャン自身に語らせるインタヴュー記事はうんざりするほど世の中に溢れかえっている。けれどもそれはあくまで音楽ジャーナリズムの問題でしかない。レコード会社がまさか、マーケティングをしていないとでも思っているのだろうか。バンドやミュージシャンがまさか、自分の作品をどう売るべきかつゆほども考えていないとでも思っているのだろうか。

そもそも、自分たちで曲を書き、自分たちで演奏する、というかたちのミュージシャン自体そこまで多いわけじゃないだろう。バンドブームやSSWブームのころならともかく、とりわけプロデューサーを戴いたヴォーカルグループやアイドルユニットがこれほどチャートを席巻している時代に、だ。ごく一部のロックバンドやシンガーソングライターにしか、その「信仰」は通用しない。

「信仰」にマーケティングを対置する書き手は重要な部分を見落としている。ちょっと誇張した表現になるが、そうした「信仰」を広めること自体が一種のマーケティング戦略なのだ。ミュージシャンとしてのオーセンティシティを保証して、彼こそは金を払う価値のある人間だと思わせること、それこそが重要な市場戦略だったのだ。ロックバンドであれシンガーソングライターであれアイドルであれ、「ホンモノ」のストーリーを背負っていることが、売るための必要条件だとされてきた。それが、マーケティングの詳細な方法論や技術上の条件が大きく変化したことによって通用しなくなった、というだけの話だ。「信仰」からマーケティングへ、ではなく、ある種のマーケティングからまた別種のマーケティングへと時代が移り変わったにすぎない。

実際、「2017年3月に「Best Part of Us」が配信されたのも、曲調と季節の関係性を意識して春を選んだからだ」というくだりが前掲の記事には登場するけれど、「春に春っぽい曲をリリースする」なんて、数ある「さくら」ソングがやってきたこととどれだけ違いがあるというのだろうか? TUBEが夏らしいイメージで売り、広瀬香美が冬の女王であった時代となにが違うのか? 季節感にあった曲を適切なタイミングでリリースするくらいのことを見事なマーケティングって呼んでいいのか?

「信仰」とはマーケティングのヴァリエーションでしかない。さらに言えば、マーケティングもまた「信仰」のヴァリエーションでしかない、のかもしれない。マーケティング的である、というプレゼンをされたら、「春には春っぽい曲を出す」程度のことさえ「新しい!」と勘違いしてしまうほどなのだから。

もうマーケター的な振る舞いがもてはやされるのなんか見飽きている。「自己表現という古臭い観念から自由である」というアピールは、「ありのままの自分を率直に表現している」というアピールと同じくらい、「スター」や「カリスマ」の条件だと言っていいだろう。ゴールデンボンバーの鬼龍院翔によるヴィジュアル系の流儀を汲んだ毎度毎度の趣向を凝らした仕掛けや、ポルカドットスティングレイの雫の「リスナーのニーズにあわせたマーケティング的な作曲」というアティチュード、あるいは西野カナ「トリセツ」をめぐる「マーケティングをして書いた実は戦略的な曲」なる評価、などなど……。こういう話題を聞くと人は現実には誰も信じていないような「信仰」とやらを突然信じだし、あるいは批判しだす。でも気づいて欲しいのだが、「ナイーヴな音楽業界」なんてそもそも存在しない(ナイーヴさ故に業界に押しつぶされるミュージシャンは山程いるだろうが)。

それゆえAmPmの革新性は見誤られる。凡百のマーケター的振る舞いの一部に回収されてしまう。問題なのは音楽業界が旧来のマーケティングの方法を捨てて新しいプラットフォームへとモデルを転換できないことであって、「信仰」などではないのだ。「信仰」のガワをはがせばそこにあるのは保身と既得権益と怠惰。それを批判して乗り越えることこそAmPmがやってみせていることであって、彼らはもはや弱者などではない。むしろ、既存のしがらみがないからこそ新しいマーケティングの方法を実践でき、トライアンドエラーができる逆説的な強者なのだ。

「信仰」とマーケティングという二項対立で物語をつくろうとして結局上掲の記事が陥っているのは、それこそ冷静で切実な現状認識に従って行動しているにすぎないだろうAmPmを、ゼロ年代的なネオリベのハッタリみたいに描いてしまうという事態だ。記事タイトルに使われている「想定内」という言葉に既視感のある人は、一定世代より上には多いだろう。堀江貴文がフジテレビ買収騒動のときに繰り返し口にしていた言葉だ。彼が慣習にとらわれない資本と市場の論理を武器に新しい世代としてゼロ年代のアイコンになった時代から、一歩も進んでいない。まったくくだらないと思う。

「信仰」とやらにとらわれているのは果たして誰なのか。その「信仰」をかたちを変え延命させてしまっているのは誰なのか。賢しらな顔をし、あるいはしかつめらしい顔をしているくせに、大した批判精神を持ち合わせていないのはどこのどいつだ?

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