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Eclectic

Eclectic

 そういえば小沢健二の『Eclectic』とかとんと聴いてないと思いApple Musicで視聴。あー、今になって(リテラシーが上がって)聴くとたしかにこれは面白いアルバムだ。結局オザケンはこういう「ビート」の方向には進まなかったわけだけどceroまで連なるような日本流のネオソウルの流れを用意したんだと思うと偉大だ。

 ネオソウル的なグルーヴ(ここではざっくり『Voodoo』とか、J DillaThe Roots、Questloveらへんの流れを想定する)はサンプラーがもたらしたループミュージックの再身体化というふうにひとまずまとめることができると思うんだけど、『Eclectic』はそうした身体性への志向(演奏において、聴取においても)をいっぺん捨てておいて、リズムの構造を解体してコンポジションすることに重きを置いたのだ、というふうに思える。3 1/2小節単位(14拍)で進行する「あらし」や3小節単位で進行する「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」に見られる、ダンスミュージック一般の定型を崩すような楽曲構成にそれは明らかではないだろうか。また、バックビートを強調するのではなく、むしろパーカッションの絡み合いやそれによって暗示されるクラーベによってグルーヴを支配するビートの作り方(「∞(infinity)」とか「bassline」、「甘い旋律」に明確だ)は、実は『文化系のためのヒップホップ入門2』で提示されているような「南部化」、もしくはもっとマクロな観点でいうならば、「ラテン化」を先取りしているようでもある。

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

 菊地成孔が『Eclectic』について、「[…]このご時世に[…]こんな弾力の無い、要するに昔の歌謡曲みたいな緩いトラック作れる方がよっぽど稀少的才能」(『歌舞伎町のミッドナイトフットボール小学館文庫版、p.73)と言っているけれども、ヒップホップやR&Bのトラックとして見た場合には、不可欠のグルーヴが欠けているというのは事実だろうと思う。それは本人の適性もあるだろうし、そもそも狙いが違ったのかもしれない。一方で上の引用に菊地が続けて言う次のような指摘はかなり興味深い。

[…]野口五郎のNY期~フュージョン期とか、郷ひろみのNY期とか、松崎しげるとか元ラッツの鈴木雅之とかまで含めて、要するに「日本のAOR」「歌謡AOR」っていう物が過去にはあって、久保田利伸以降のNY入った音楽は田島貴男まで含めて総てそれの代替品、もしくは到達点に見えつつも実は別物だという事で、それの本流の方の系譜を小沢健二は現在一人で継いでいるとも言える。(pp.73-74)

 読む人によっては揶揄のように思えるかもしれないが、10年代というディケイドをかけてシティポップ再評価の波に価値観をまるごと書き換えられた僕のような人間には、ものすごくまっすぐに的を射た指摘であるように思える。

歌舞伎町のミッドナイト・フットボール -世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間- (小学館文庫)

歌舞伎町のミッドナイト・フットボール -世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間- (小学館文庫)

 いま「シティポップ」のレッテルのもとで受容されている音楽とここで言及されている「歌謡AOR」には細いが深い溝があるのかもしれないけれど、少なくともそういう布置において見た場合、小沢健二がビートの実験に勤しみながら日本流のAORを(無意識に?)引き継いだ『Eclectic』がいまになって重みを持っているのは自然な流れだろう。「流動体について」のリリースから本格化した日本での活動再開以降は『Eclectic』期を忘れたかのようにギターを鳴らしてポップスを歌いあげているオザケンだけれども、たとえば「フクロウの声が聞こえる」のカップリングである「シナモン(都市と家庭)」の打ち込みベースのファンキーなビートにその面影は浮かんでいる。

フクロウの声が聞こえる(完全生産限定盤)

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